「久しぶりね」
アスカにとっては数カ月学窓を共にしたクラスメイトの一人に過ぎず、思い出と言えばせいぜい一緒に海洋研究所という名の水族館に遊びに行った程度だ。
「相田ケン…スケ…、だったかしら?」
アスカの中では数日前の、でも実際には数年前の記憶をほじくり返しながら、その名を口にした。
「え? え? 式…、波…?」
一方の相田ケンスケは、車椅子に座るアスカを見て目を丸くしていた。
「え? あれ? う、うん…。ひ…、久し…ぶり…、だね…」
意外な人物の登場に、ケンスケはひたすら戸惑いながら、細切れの挨拶を口にする。
アスカはケンスケのつま先から頭のてっぺんまで、ゆっくりと視線を動かしながら言う。
「随分、背、高くなったのね。最後に会った時は、私とそれほど変わらなかったはずなのに」
見ているうちに、少しずつ母校の教室に立つ「3バカ」の一人の姿をぼんやりとした頭の中でも思い浮かべることができるようになってきた。同時に、世界は本当に多くの時を刻んでいたことを思い知らされる。
アスカの視線を受け、ケンスケは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「う、うん…。今、せ、成長期で…。骨の節々がい、痛いんだよ…」
「そうなんだ」
「し、式波は…、変わらない…、ね…」
「え? そう?」
指摘されたアスカは自分の両手を見て、そしてその両手で自分の両頬を触ってみる。そう言えば、目覚めてからまだ一度も鏡を見ていない。
「う、うん。ほんと。中学生のこ、頃と…、ぜ、全然、変わってない…。髪は伸びちゃっ…てるけ…ど」
「そうなのよ。気が付いたら髪の毛こんな風になっちゃってたの。鬱陶しいったら、ありゃしない」
櫛すらろくに通してないボサボサの赤毛を指で玩んでみる。
「え? なに? あたしって、髪以外はあまり変わってないの?」
「う、うん…。まったく…。あ…、なんだったら、俺のカメラに中学時代のアスカの写真のデータが残ってると思うけど。それと比べてみる?」
「え? あんた、そんなもの、残してんの?」
「うん。アスカの写真には、かなり稼がせてもらったから…」
「うわ、キッショ。ちょっと。ちょっとくらいはあたしにもマージン寄越しなさいよ」
「一枚につき30パーセントでいいかな?」
「何言ってんの。80よ、80」
「そりゃ暴利だよ」
「何言ってんの。当然でしょ。ふふ…」
「ははは…」
2人の虚ろな笑い声は、すぐに闇夜の中へと消えていく。
その笑い声を最後に、2人とも地べたに視線を落とし、黙ってしまう。
1分ほどの沈黙の後、ケンスケは喉の奥から声を絞り出すようにして、話を切り出した。
「悪い…、式波…」
「なに?」
「一人にしてくれないかな?」
「どうして?」
ケンスケが一人にしてほしい理由をアスカは知っていたが、あえて知らない風を装った。
「親父が死んだんだ…」
ケンスケの両手が、背後のフェンスを強く握った。
「今は、そっとしといてほしい」
アスカはあえて問う。
「お父さん…、どうしたの?」
質問をやめないアスカに、ケンスケは溜息を一つ交えながら、ほんの少しだけ苛立ちの籠った声で言った。
「ミサトさんたちの作戦に参加して…。途中事故に遭って死んじゃったらしいんだ。遺体もないらしい…」
「そうなんだ…」
「ああ…。だからさ…。察してくれよ…」
そこまで言って、ケンスケは再び視線を地べたに落とし、再び押し黙る。
再び長い沈黙。
一瞬だけ、視線を上げた。
そこに居るのは、車いすに座る少女。
すぐに視線を地べたへと戻す。
何故、車いすの少女はこの場に留まっているのだろう。
何故、立ち去らないのだろう。
何故、一人にしてくれないのだろう。
「ねえ、相田」
アスカからの問い掛け。
「なに? 慰めの言葉とかは要らないよ」
明らかに苛立ちの籠ったケンスケの声。
「ごめん。相田」
「なんで式波が謝るの?」
ケンスケは地べたに落としていた視線を、車いすの上の少女に向ける。「ごめん」と言いながらも、その表情はいつもと変わらない彼女の表情。
「本当は黙ってた方がいいってのは分かってるんだけどさ。あたし、こんな性格だから。嘘とか苦手なのよ」
「うそ?」
「それに、「あいつ」みたいに自分の責任から逃げたくないもの。まっ。つまりは、これはあたしの利己的動機に基づく身勝手な行動、我儘よ。だからごめん」
一方的に喋り続けるアスカに、ひたすら困惑するしかないケンスケ。
「式波。何を言ってるの?」
説明を求められたアスカは、簡潔に答えた。
「あんたのお父さんを殺したのはあたし」
「え?」
メガネ越しのケンスケの目が、点になる。
「あんたのお父さんはミサトたちを裏切った。だからあたしが殺した」
もう一度。今度は補足情報を添付した上で、やはり簡潔に伝える。
「え?」
ケンスケの目は、相変わらず点になっている。
「あたしがあんたのお父さんを殺した」
「え? え?」
ケンスケは意味を成さない短い声を上げ続けながら、アスカに向けていた視線を、虚空へと這わす。何もない空間に、まるで歪な円を描く様に視線をぐるっと一周させた後、再びアスカを見つめた。
「嘘…、だよね…」
ようやく口から出た形を成した言葉がそれだった。
アスカは間を置かずに言う。
「言ったよね。あたしは嘘が苦手だって」
「ああ…、うん…、そうだったね…」
アスカからの返答を素直に納得したケンスケは、視線を再び地面へと落とした。
虚ろげな視線を放つその目は相変わらず点になったまま。
その目が、瞬時に細くなる。
握り締めた指の爪が手のひらに食い込む。
噛み締めた口の端から涎の泡が噴き出る。
止めたはずの涙が、大量に溢れ出した。
「あぁぁぁぁぁぁ……!」
地面に向かって唸った。
「あぁぁぁぁぁぁ……!」
1度では足りず2度。
「あぁぁぁぁぁぁ……!」
2度でも足りず、3度。
自分の肚の中で渦巻くどす黒い何かを吐き出そうと、懸命に唸った。
でも駄目だった。
吐き出しきれなかった。
「あぁぁぁぁぁぁ……!」
ケンスケは唸りながら腰に巻いていたウェストポーチに手を伸ばす。
ポーチのファスナーを開け、隙間に手を滑り込ませ、中に入れていた玩具のような小さな拳銃を握り締める。
「あぁぁぁぁぁぁ……!」
目の前の彼が拳銃をウェストポーチから取り出し、唸りながらその銃口をこちらに向けてきた。
そりゃこんな治安の悪そうなところだもの。護身用にピストルの1個や2個くらいは必要でしょうね。確かこいつの父親はネルフの保安部だったらしいし。
などとぼんやりと考えながら、アスカはまるで他人事のようにその銃口を見つめていた。
薄く笑う。
「いいわ。あんたにその引き金を引く権利なんてないけれど。あたしはあんたに撃たれる資格があるから」
車椅子の背もたれに背を預け、無防備に胸を曝け出した。
耳障りな息遣い。彼女に狙いを定める銃口が激しく揺れる。
震える手を懸命に制御しながら、ケンスケは口を開く。
「本当に…」
「ええ。あたしが殺したの」
もう一度、一分の隙もなく、念入りに答えたアスカに対し、ケンスケは小刻みに頭を横に振った。
「本当に…、親父は…、ミサトさんを裏切ったのか…」
ケンスケのその言葉に、アスカの顔から笑みを消えた。
「昨日、ミサトさんから…、聴かされていたんだ…。今日…、親父が…、ネルフ本部から帰ってくるって…。あなたのお父さんは…、英雄よ…って」
アスカの眉間を真っすぐに狙っていた銃口が、少しだけ下を向いた。
「ミサトさんたちがネルフから離反しても、親父はネルフに残ってたから。だから俺、ずっと周りから疎まれてたんだけど…。明日からはもう…、そんな思いしなくて…いいって…、昨日からずっと思ってた…」
両手で構えていた拳銃を、ぶらりと下ろす。
双眸から大粒の涙をボロボロと流し、鼻の孔から鼻汁を滴らせ、口の端から涎を垂れ流し。
そんな酷く汚れた顔で、アスカを見つめる。
「俺、今朝からずっと待ってたんだ…。親父が帰ってくるのを…。でも戻ってきたトラックやVTOLから降りてくるのは、怪我人や死体ばかりでさ…。なあ、式波…」
名前を呼ばれたアスカは、唇を噛みしめながらケンスケの顔を正面から見つめる。
「あれ…。俺の親父の…、所為なのか…?」
アスカの眉間に、皺が寄った。
ここまで何を問われてもすぐに、そして明瞭に相手の質問に答えてきたアスカの口。
そのアスカの口が、開かない。
アスカの口は、ケンスケの問いに答えなかった。
答えることができなかった。
その沈黙が答えだった。
ケンスケは笑った。
「ありがとう…、式波…」
「え?」
「親父を…、裏切り者を殺してくれて…」
両手で握っていた拳銃を、右手に持ち替える。
そしてそのまま、その銃口を自身の喉元に押し付けた。
引き金に掛けた人差し指に、力を籠める。
アスカは車椅子の肘掛けに両手を付いて押すと、その反動を利用して一気に腰を上げた。本当はそのまま相手の上半身なり右腕なりに飛びついて抱き着こうと思っていたが、足に体重を掛けた瞬間に膝が折れてしまい、相手の腰に向かって突っ込む形となってしまった。それでも相手の発砲のタイミングは外せたようで、腰に抱き着かれたことで体を「く」の字に折られた相手は両腕を万歳してしまい、右手に握られた拳銃の射線も空を向いてしまう。
ケンスケは押し倒される形で背中から地面に倒れ、アスカもケンスケの体に覆い被さる様に倒れた。
アスカはそのまま自分よりも遥かに大きくなってしまったケンスケの体をよじ登り、右手で拳銃を握ったケンスケの手首を掴み、左手で拳銃そのものを掴む。そのままケンスケの手から拳銃を毟り取ろうとしたが。
「あああああああ!」
ケンスケは激しく抗った。拳銃を奪われまいと、空いていた左手も使って、両手で拳銃を握り締める。
腕力だけならケンスケの方が遥かに勝っていた。アスカの手によって伸ばされていた右肘を、少しずつ畳み始める。銃身の先が、少しずつケンスケの側頭部へと向き始めた。
アスカも負けてられない。体に残った全ての力と全体重を使って、ケンスケの右腕をねじ伏せに掛かる。
アスカの左手と、ケンスケの両手とで。
死を願う手と、それを阻止しようとする手で、揉みくちゃにされてしまう拳銃。
乾いた発砲音が、しんと静まり返った難民キャンプの中に轟いた。
とにもかくにも銃口を自分の側頭部に向けようとしていたケンスケの動きが、その発砲音でピタリと止まる。銃口は、まだ彼の側頭部には向いていない。にも拘らず、ケンスケの右人差し指は、拳銃の引き金を引き絞ってしまっていた。
ケンスケは自身が握る拳銃の銃口が睨む先を追った。
銃口の先にあるもの。
それは、アスカの顔。
ケンスケは、目の前に広がる光景に、驚愕していた。
そしてアスカ自身も、目の前に広がる光景に、驚愕している。
2人の視線の先にあるもの。
2人で握り締めた拳銃の銃口の先にあるもの。
銃口と、アスカとの顔の間にあるもの。
それは銃弾。
銃弾が、アスカの顔と、銃口との間の虚空で、制止している。
その銃弾を中心に広がる、八角形の、光の輪。
「AT…フィールド…」
その現象の名称をアスカが呟いた、その瞬間。
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
アスカの口から、女性の、人間の、生き物のものとは思えないような叫び声が放たれた。
アスカの両手が拳銃から、ケンスケの手首から離れ、その手は彼女自身の左目に押し当てられる。額に立てられた爪が皮膚を破り、鮮血が滴る。さらにその手の隙間から、強烈な青白い閃光が漏れ、夜の帳を引き裂いた。
時に背骨が折れそうになるほどに背を弓なりに反らし、時に腹に食いつきそうになるほどに身を屈曲させ、両足の踵で何度も地面を削りながら、地面の上をのた打ち回る。両手は光る左目を押さえ付ながら。口からは舌を突き出し、絶叫を迸らせながら。
「式波…! 式波…!」
すぐ側にいるはずのケンスケの声が、遠くに聴こえた。
ケンスケの声に混じって、複数の駆け寄る足音が聴こえた。