リツコは防護服のヘルメット内に仕込まれている通信用のマイクに話しかける。
「第3の少年を発見したわ。隔離対策班を寄こして」
『わ、分かりました』
通信相手の声に明らかな緊張が生まれたのを無視して、リツコは続ける。
「それと」
『はい』
「バケツのようなものはあるかしら?」
『バケツ…、ですか?』
「ええ。液体を掬えるものだったら何でも構わないわ」
『分かりました』
やがて簡易型のアイソレーターを乗せた担架を抱えた一団がやってきた。
彼らを呼んだリツコのもとまであと10メートルの位置で、全員が足を止める。
固唾を飲む彼らの視線の先にあるもの。
運んできたアイソレーターの中に収めるべき対象。
地面に寝かされた人物。
写真で見たものとは違い髪の毛は伸び放題になっているが、そこに横たわっていたのは紛れもなく。
「何をしてるの。滞在可能時間はあと10分よ。急ぎなさい」
リツコの厳しい声に弾かれるように、彼らは慌てて対象、すなわち第3の少年の回収作業に動き出す。
一人がリツコのもとまで歩み寄った。
「副長。すみません。こんなものしか」
「構わないわ。十分よ」
リツコは部下が差し出したビニール袋を受け取ると、少年の側に膝を付いた。
部下たちが少年の姿を見た瞬間、硬直してしまったのは、その少年が世界を破滅の淵へと追いやった元凶という理由だけではなかった。
少年を護るかのように、包み込むかのように。少年の周囲に広がる、青白く光る液体。
満天の星々が浮かぶ夜空の下、赤く爛れた大地の上。
青白く光る水溜まりの上に横たわる髪の伸びた少年の姿は、酷く幻想的に見えた。
リツコはそんな少年の周囲を浸す青白く光る液体を、両手で掬ってビニール袋の中に流し込む。リツコにビニール袋を渡した部下は、リツコの作業を手伝うためビニール袋の口を大きく広げてやった。
「なんですか? これ」
リツコは作業を続けながら一度だけ部下の顔を見て、そして足もとの青白光る液体に視線を戻す。
「生霊の成れの果て…よ」
「は?」
訊き返してくる部下に対し、リツコはそれ以上何も言わず、地面に広がる青白く光る液体を手で掬ってはビニール袋の中に流し込む作業を続けた。
回収作業を進める上で、やたらと伸びた髪の毛が纏わりついて邪魔だった。上官からは切っても構わないと許可を得ているため、鞄からハサミを取り出し、分厚いグローブをはめた手で、黒い髪を梳き、束ねる。すると、髪の毛に隠れていた少年の華奢な首が露わになった。
殆ど、無意識のうちに、少年の首に両手を添えていた。
未発達の喉ぼとけに、2本の親指を押し付けていた。
残りの8本の指は少年の首の後ろへと回し。
全ての指に、ぐっと力を込め…。
耳のすぐ側で、カチャッと金属音がする。
「あなたがその指に力を込めるのならば、私はこの人差し指に力を込めなければならなくなるわ」
声がする方へ視線を向けた。
自分のこめかみに、拳銃の銃口を押し付けた副長が立っている。
拳銃を突き付けられたことで、初めて自分の行為を自覚したらしいその若い部下は、跳ねるように少年の体から離れた。
「すっ、すみません! そんなつもりじゃっ!」
しどろもどろに言い訳をする部下を見てリツコは鼻から溜息を漏らしながら、拳銃を腰のホルスターにしまった。14年前に立て続けに起きた大厄災によってその部下の家族が辿った末路を知っているリツコは、彼が犯そうとしていた内規に著しく反する行為について責め立てる気にはなれなかった。同時に、14年程度では癒えることのない人々の心の傷の深さと、衰えることのない少年に対する殺意を目の当たりにし、自身の見識の甘さを恥じるのだった。
「あなたは初号機回収を手伝いなさい」
リツコに命じられ、その部下は逃げるようにコンテナの方へと走っていく。
部下の背中を見送ったリツコは、左手に持っていた青白く光る液体がたっぷりと入ったビニール袋の口を縛った。
「それは何ですか?」
部下の一人が、リツコが脇に挟んでいるものを見て訊ねる。
「ああ、これ?」
訊ねられたリツコは、脇に挟んでいたものを手に取った。
手のひらサイズの、黒い筐体。筐体には、イヤフォンのコードが巻き付けられている。
かつて少女の形をしていた淡い光。
それが完全に崩壊する直前にリツコに差し出してきたものが、これだった。
「少年」がこれと同じような携帯型音楽プレイヤーを所持していたような気がしないでもないけれど、もう14年も前のことなのでそんな些細なことの記憶は不確かだ。
「さあ」
部下の質問に対し、リツコは曖昧な返事しかできなかった。
コンテナの回収現場に戻ると、4機のVTOL機から伸びるワイヤーの先端をコンテナに打ち込まれたフックに固定しているところだった。コンテナの破損している箇所からは、顎がだらんと下がった巨人の顔が覗いている。
リツコの後を、少年の体を収めたアイソレーターを乗せた担架が続く。担架はそのままコンテナの横を通り過ぎ、1機のVTOL機へと向かった。担架が運ばれる間、その場に居る全員が手を止めて、担架を、担架の上に乗せられたアイソレーターを、その中に収まる少年の姿を見つめていた。ある者は化け物でも見るかのように恐怖で歪ませた表情で。ある者は持ちうる全ての憎悪を浮かべた表情で。ある者は当の昔に感情など捨てたかのような表情で。
そんな部下たちの様子に、リツコはヘルメットのバイザーが曇る程の勢いで大きな溜息を吐き、拳銃の銃床でコンテナの壁を2度ほどガンガンと殴り、彼らに作業の継続を促した。
部下たちが作業を進める間、リツコは少し離れた場所で腰を下ろし、タブレットタイプの端末機をコンテナの端末に繋げ、初号機の状態確認を進めていた。
ヘルメットのスピーカーから、部下の声。
「別動隊より入電。弐号機の回収は無事完了したようです」
「分かったわ。滞在可能時間はあと5分よ。こちらも急いで」
部下との交信を終え、端末機での作業に注意を戻す。
「両下肢、左下肢欠損。胸部、腰部に著しい損傷あり。損傷率は80%以上。よくこんな状態で10年も逃げ回ってこれたものね」
呆れたような表情の後に浮かんだのは小さな笑み。
「でもこれで、初号機をヴンダーの主機に使う算段はついた…」
この作戦の成果を確認したリツコはタブレット端末機の電源を落とし、コンテナの側面にあるソケットからケーブルを引っこ抜いた。
「さてと…」
立ち上がろうとして。
「あれ?」
あることに気付き、リツコは自分の周囲をきょろきょろと見渡す。
自分の側に置いていたものがない。
地面に下ろした腰のすぐ側に置いていたものがない。
生霊の残骸。
その液体を収めたビニール袋がなかった。
周囲をきょろきょろと見渡していたリツコ。
背後に気配を感じた。
リツコの動きが止まる。
部下?
いや、部下などではない。
リツコはそう直感した。
全身を寒気が襲う。
気配を感じるのに、実態を感じさせないもの。
この世ならざるモノ。
そんな気配を背中に感じたリツコは、慌てて拳銃を構え、後ろを振り返った。
振り返った瞬間、リツコは息を呑む。
彼女の背後に立っていたもの。
それは光。
人の形をした、光。
しかしそれは10分前に形象崩壊を起こした少女の形をしていた淡く青白い光ではない。
真っ白な光を放つ人の形をした光。
強烈な光を前に、リツコは思わず両目を細める。
女性を思わせる丸みを帯びた肩、腰、膨らんだ胸。
少女の形をした淡い光よりも背は高く、髪の毛も短い。
形状は違うが、あの少女の形をした淡い光とどこか同じ空気を纏った、女性の形をした真っ白な光。
その真っ白な光の手には、あのビニール袋。
真っ白な光は、青白く光る液体が入ったビニール袋を、大切そうに両手で持っている。
リツコは突然現れた真っ白な光に、呆然として固まってしまった。構えていた拳銃も、いつの間にか下ろしてしまっている。
そんなリツコを見下ろしていた真っ白な光。
やがて光は踵を返し、歩き始めた。
少女の形をした淡い光と違い、女性の形をした真っ白な光はしっかりとその形状を維持している。真っ白な光が歩いた跡には、光る足跡は残らない。
リツコが呆然と見つめる先で、真っ白な光はコンテナの角を曲がり、反対側へと姿を消してしまった。
真っ白な光が消えて。
その間息をすることも忘れていたリツコは、慌てて呼吸を再開。ヘルメットの中に、リツコ自身の荒い呼吸音が響き渡る。
5回ほど肺から空気を出し入れしたリツコは、未だに震えている膝に鞭打って立ち上がり、真っ白な光が消えたコンテナの角に向かって走った。
コンテナの角を曲がると、そこには女性の形をした真っ白な光の背中。
真っ白な光は、悠然とした足取りで、歩みを続けている。
部下たちは皆コンテナの反対側で作業をしているらしく、この真っ白な光を目撃しているのはリツコただ一人だった。
真っ白な光が足を進めている先。
そこはコンテナの裂け目。裂け目から覗くのは、紫色の巨人の腕。そして紫色の巨人の顔。
その巨人の顔を見て、リツコは再び息を呑むことになる。
下顎を失い、大きく開いた巨人の口。だらんと垂れ下がる大きな舌。その舌の奥。
巨人の喉の奥に、人影が2つ。
その2つの人影もまた、真っ白に光り輝いている。
2つの人影は、ビニール袋を持って歩いている女性の形をした真っ白な光よりもは、背は低く、また幼く見える。
そう。まるで女性の形をした真っ白な光を、そのまま少女期まで若返られせたような。
むしろ、その雰囲気は形象崩壊した少女の形をした青白い淡い光の方に似ていた。
女性の形をした真っ白な光は、2つの人影が待つ巨人の口まで、ゆっくりと歩いていく。
やがて口まで辿り着いた真っ白な光は、地面までだらりと垂れ下がった大きな舌をゆっくりと登っていく。
舌の上を登り切ると、待っていた2つの人影が、真っ白な光に向けて手を伸ばす。真っ白な光から青白く光る液体で満たされたビニール袋を受け取った2つの人影は、そのまま滑る落ちるように巨人の喉の奥へと姿を消した。
喉の奥へと消えた2つの人影を見送った女性の形をした真っ白な光。
それが、ゆっくりと振り返った。
そして真っ白な光は、右手を顔に近付けていく。
その手の人差し指がピンと伸び、真っ白な光の口の部分に当てられた。
振り返り、口もとに人差し指を当てる真っ白な光の視線の先には、ゴツゴツとした分厚い防護服に身を固めて立っている人間の女性。
真っ白な光に見つめられたリツコ。
何故だか分からないが、リツコはその真っ白な光が、自分に向けて微笑み掛けているように感じた。
手を下ろし、リツコから視線を外した真っ白な光は、巨人の喉の奥へと見つめる。
やがて真っ白な光もまた、滑り落ちるようにして巨人の喉の奥へと姿を消した。
人は理解の範疇を超えた現象を目の当たりにすると、むしろ可笑しくなってしまうらしい。
喉の奥へと消えていく真っ白な光の背中。背中が消えてからも、巨人の喉の奥は薄く光っていて、しかしその光もやがて消えて。
全てが終わった後になって、リツコは一人で吹き出していた。
声に出して笑ってしまいそうなっていたところに。
「副長! 副長!」
呼び掛けられ、後ろを振り返ると、すぐ後ろに部下が立っていた。
「大丈夫ですか? 副長」
心配そうにヘルメットの中を覗き込んでくる相手に、リツコは軽く頷きながら「大丈夫」と応じた。
「作業完了しました。いつでも発てます」
「ご苦労さま。長居は無用よ。さっそく出発しましょう」
「はっ」
部下はリツコに向けて敬礼をすると、他の部下たちに向けて頭上に掲げた右腕を大きく回し、撤収の合図を送った。
「副長も早く」
そう言い残して、部下はVTOL機へと走っていく。
リツコはコンテナを振り返った。
コンテナの裂け目から覗く、エヴァンゲリオン初号機の顔。その口。その喉の奥。
リツコは口許だけで小さく笑うと、部下たちを追ってすでにエンジンの起動を済ませているVTOL機へと向かって走り出す。
* * * * *
『副長先輩』
自室の端末機で報告書の作成をしていたら、端末機のモニター画面の隅にリツコの腹心の部下の顔が現れ、話し掛けてきた。
「なに? マヤ」
『検体・BM-03のテスト結果が出ました。今、先輩の端末にデータを送ります』
「ありがとう」
2秒後、モニター上に伊吹マヤから送られたてきたファイルのアイコンが表示される。そのアイコンを開き、表示されるデータを確認する。
『副長先輩、もう一つ報告が』
「なに?」
可愛い部下の問い掛けに、リツコはデータを読みながら返事をする。
『医療部からです。検体・BM-03ですが、この6時間で意識レベルの明らかな向上がみられるそうです。あと1日もすれば、目覚めるだろうと』
「そう」
『その…』
「なに?」
『医療部から検体に対する再鎮静の許可申請が出てます。私の周りも大半が医療部の意見に賛同してて…』
「艦長は何と言ってるの?」
『このテストの結果次第だと…』
「だったらもう結論は出てるじゃない」
『そう…、何です…、けど…』
歯切れの悪い部下の声。彼女が抱える不安はよく分かるため、努めて声を柔らかくして言う。
「大丈夫よ。彼が今目覚めたからといって、それがすぐに世界の破局に繋がるわけではないわ。彼がネルフの手に渡らない限りね」
『分かりました。艦長にテスト結果を提出します』
マヤの顔を映し出しいていた枠が消える。
リツコは、改めてテスト結果の数値を見た。
ヴィレの旗艦に検体・BM-03を収容した直後、直ちに行った一つの検査。
それはエヴァンゲリオン初号機と、元エヴァンゲリオン初号機専属パイロット・碇シンジとの深層シンクロテスト。
リツコが他の検査を後回しにしてまで、真っ先にこの検査を行った理由。
それは碇シンジが抱えるリスク確認のため。
そしてもう一つ。
形象崩壊を起こした彼女の生存を確認するため。
マヤから送られていた検査結果を、リツコは満足そうに見つめる。
「何が何でもシンジくんをエヴァに乗せないつもりね…。レイ…」
『 Deep Synchronization Test : 00.000% 』
モニター上に見事に並ぶ、