(35)
黒いプラグスーツを身に纏った空色髪の少女は、布製のパーテーションで囲われただけの屋根すらない、部屋にもなっていない部屋の中でぼんやりと佇んでいた。
少女の赤い瞳に映るのは殺風景な部屋の風景。人一人に宛がわれた部屋としても決して広いとは言えないこの部屋を、その少女はそれでも広すぎると感じていた。
この部屋は少女一人のために用意された部屋ではなかった。過去には、もう一人の「自分」がここには居た。同じ空色の髪、同じ赤い瞳、同じ白い肌の顔をした少女。それでいて幾分か年上にみえる少女が、ここには居た。
ずっと前には、別の「自分」はあと2人くらい居たような気がするが、昔のことはもう思い出せない。
もう一人の「自分」と訓練をし、実験をし、メンテナンスをし。
時々エヴァンゲリオンに乗って敵対組織との戦闘をこなし。
この部屋と、実験房を兼ねたエヴァンゲリオン格納庫との行き来を繰り返すだけ。
単調なルーティンを繰り返す日々。
ナンバー5と呼ばれる、もう一人の「自分」と。
少し歳が違うだけで、姿顔立ちはまるで一緒のもう一人の「自分」は、与えられた命令やスケジュールは同じはずなのに、それでも時々この部屋から一人で姿を消すことがあった。そして何時間も経過した後に、何処かしら満ち足りた表情で帰ってくる。
自分とは違う、もう一人の「自分」。
「何処に行っているの?」とは訊ねなかった。
誰が何処で何をしていようと、興味が持てなかったから。
時々もう一人の「自分」は、「あなたも一緒に来る?」と誘ってくるけど、そんな命令は受けていないため断った。
時々もう一人の「自分」は、「抱っこしてあげようか?」と言ってくるけれど、やはりそんな命令は受けていないので断ると、もう一人の「自分」はどこか寂しそうな顔をする。
何故寂しそうな顔をするのか、少女には分からなかった。
そして何故姿顔立ちは全く一緒のもう一人の「自分」が、自分には決してできない感情の表出というものができるのかも分からなかった。
命令を待つための部屋。
この部屋を訪れるのは、命令を伝えるためにやってくるこの組織の副司令だけ。
あれは何時だっただろうか。
そんな場所に、とある人物がやって来たのは。
顔は見えなかった。出入り口のカーテンの隙間から見える、収まりの悪い白銀の髪だけが見えた。
その人物はもう一人の「自分」を迎えに来たらしい。出入り口のカーテンの隙間から声を掛けられたもう一人の「自分」はいそいそと立ち上がると、出入り口まで駆け寄っていく。そしてこちらには一度も振り向かないまま、カーテンの隙間から差し伸べられた真っ白な手を握り、そのまま部屋の外へと出ていった。
それ以来、もう一人の「自分」とは会っていない。
もう一人の「自分」が、この部屋に帰ってくることはない。
一人になった少女。
それでも訓練と実験とメンテナンスと、時々の戦闘を繰り返す日々は変わらない。
少女も何事もなかったかのように、日々のルーティンを繰り返した。
もう一人の「自分」とここで過ごしていた時も、それほど狭いとは感じていなかった部屋。寝て、起きて、命令を待つだけの部屋であれば、ほかに何人かの「自分」が居ても十分な広さだった。
もう一人の「自分」が消え、とても広く感じてしまう部屋。
いずれ「私」も、消えるのだろうか。
そうしたら、また何処からか新しい「自分」がやって来て、この部屋で寝泊まりすることになるのだろうか。
そうしたら、今度はその新しい「自分」が、「アヤナミレイ」を名乗るのだろうか。
「私」が消えてしまっても、この世界には変わらず「アヤナミレイ」が存在し続けるのだろうか。
「…私は…、アヤナミレイ…」
床の上で朧げな光を放つランタンを見つめながら、ぼそりと呟く。
「何か言ったかね?」
突如、粗末な部屋の中に響いた男性の低い声。
少女は特段驚いた様子もなく、一度だけ瞬きを挟んで声がした方へと瞳を動かした。
部屋の出入り口に、冬月コウゾウが立っている。
少女は腰を下ろしていた丸椅子から腰を上げ、冬月へ向き直る。冬月は出入り口のカーテンを大きく開けると、低い梁に頭をぶつけないように身を屈めつつ、粗末な部屋の中に入り、少女の前に立った。
「体の調子は?」
そう訊ねる冬月の声は、どこか不愉快そうだった。
「問題ありません…」
声音で相手の機微を判断する力も、相手の気分に合わせて態度を変化させる能力もない少女は、いつも通りの涼やかな声で答えた。
冬月の不機嫌の理由。
1年以上の準備期間を経て行われた作戦。想定以上の犠牲を払った上で掴みかけていた成果という名の果実は、あらぬ方向から伸ばされた「ヴィレ」という名の手によって掠め取られてしまい、彼が払った多大な労力は一瞬のうちに水泡と化して消えてしまっていた。作戦の失敗を知った時、冬月は柄にもなく腰掛けていた椅子の肘掛けを殴ってしまい、そんな冬月の痛々しく腫れた右手首には湿布が貼付されている。
「碇が呼んでいる。出撃だ」
自分の失敗の尻拭いを目の前に立つか細い少女に押し付けてしまうことを深く恥じ入る冬月の声は、珍しく沈んでいる。
「はい」
少女の返事の声は相変わらず涼やか。すでに少女には作戦の概要は伝えられているが、これから敵対組織の総本山にたった一人で乗り込むことになる者とは思えない態度だった。
冬月は出入り口の前に立つとカーテンを開け、少女を待った。
少女はまっすぐに出入り口へと向かい、冬月が開けたカーテンの下をくぐる。
部屋の外に出ると、出入り口の側の床に段ボール箱が置かれており、その中には無造作に放り投げられた衣類が入っている。
山吹色のベストに白いブラウス、膝丈のスカート、緋色のネクタイ。
自分が持つ「最後の記憶」よりもずっと前から、この段ボール箱の中に入っている衣類。この衣類の持ち主を、自分は知っているような気がするし、知らないような気もする。
昔の記憶は「ある日」を境に曖昧になってしまっている。
自分の中に在るはっきりと思い出させる「最後の記憶」は、隣に立つ老人が自分の口に流し込んだペースト食の生ぬるさだ。
そして「ある日」以降に続くのは、空虚な毎日。平坦な日々。
破壊された天井から覗く満天の星空を見上げても。
時折どこからか響いてくるピアノの音色に耳を傾けても。
この心は響かない。
自分を取り巻く全てのことに、この体に放り込まれた魂が共鳴することはない。
アヤナミレイ。
自分の中にある、アヤナミレイという名の魂。
これが「アヤナミレイ」の生き方なのだろうか。
これが、自分のなりたかった「アヤナミレイ」なのだろうか。
「こんな時…、綾波レイなら…、どうするの…」
段ボール箱を見下ろしたまま佇んでいる少女が、ポツリと何かを呟いた。
「何か言ったかね?」
冬月の問い掛けに、少女はゆっくりと首を横に振っている。
冬月は少女を先導するように歩き始めた。少女は冬月の後を付いていく。
「マーク9の準備は出来ている。第5ケージに向かいたまえ」
「はい。第5ケージに向かいます」
「襲撃目標はインド洋上空の敵旗艦だ」
「はい。敵旗艦を襲撃します」
「作戦の第一目標は第3の少年。碇シンジの身柄の確保である」
「……」
「復唱は?」
「はい。第3の少年の身柄を確保します」
碇シンジ。
この作戦の概要の説明を受けた時、初めて聴いた名前。
この組織の最高司令官の息子。エヴァンゲリオン初号機の元パイロット。
世界と引き換えに、ワタシ「たち」の前任者を救い出そうとした少年の名前。
ワタシ「たち」の前任者がこの組織を裏切ってまで、護ろうとした少年の名前。
そしてこれからワタシが迎えに行く少年の名前。
「碇…くん…」
試しに、その名前を呟いてみた。
きっと。おそらく。「綾波レイ」ならばこう呼ぶだろうと、自分の中の枯渇した想像力を最大限に膨らませて思い浮かべた声音で、呟いてみた。
「碇…くん…」
もう一度。
「碇…くん…」
さらにもう一度。
それでも。
やっぱり。
この心が響くことはない。