ビニールハウスでの作業の帰り道。夜明け前から降り続ける雨は、今も差した傘の表面をぽとぽとと濡らしている。白の傘を差し、雨具を羽織る空色髪の少女は、本日の支給品であるジャガイモが入った桶を手に、雨でぬかるんだ未舗装の道をてくてくと歩いていた。
古い駅舎と車両基地を中心に作られたこの村は、その名残であちこちに古びた電車の車両が安置されている。もう2度と線路の上を走ることのないそれらは貴重な住宅資源として活用されており、各々の車両の乗降口の横には「第3村駐在所」や「第3村簡易郵便局」、「第3村隣保館」といった立て看板が設置されている。
その内の1つの前で、少女の足は止まった。
車両の乗降口に上がるための急な昇降台を、母親と小さな女の子が手を繋ぎながら上っている。乗降口に吸い込まれていく親子連れの背中を見送り、乗降口の上にぶら下がっている看板に目をやった。
看板には、『図書館』の文字。
閉じた傘を上下に振り、水滴を落としいたら、桶からジャガイモが1個、ゴロンと床に落ちた。窓際の縦座席に座っていた小さな女の子はひょいっと立ち上がると、床を転がるジャガイモを拾い上げ、少女の前へとてとてと歩いてくる。
「ひろったからかえすね」
女の子から差し出されたジャガイモを受け取った少女。
「ありが、とう」
最近覚えたばかりの挨拶を、たどたどしく口にした。
濡れた傘を傘立てに挿し、女の子の隣が空いていたのでその席に座る。
車両の真ん中には来館者が座る縦座席と向かい合うように本棚が並べられており、その棚には様々な書籍がぎゅーぎゅー詰めにされていた。
色とりどりの背表紙を、ぼんやりと見つめる。
膝の上に乗せた大きな絵本のページを捲る。現れたページ一杯の絵とひらがなで綴られた文章に目を通すと、目が細まり、口もとが綻んだ。笑い声を漏らしてしまいそうな口を、懸命に噤む。大好きな絵本。図書館に来るたびに読んでいて内容はほぼ覚えてしまっているが、何度読んでも、いつも同じページで笑ってしまう。顔に満面の笑みを浮かべながら、次のページを捲った。
図書館では静かに本を読むのがマナー。だから、いくら可笑しくても、笑い声を上げてはいけない。
今日も何とか笑い声を我慢することができたと、自分を褒めながらページを捲っていたら。
「わっ!?」
自分の顔のすぐ側に人の顔があったので、びっくりして大きな声を上げてしまった。
自分の顔を覗き込むように見つめる赤い瞳。
「な、なに?」
小さな女の子は膝の上で開いていた絵本を閉じ、身を竦めながら、隣の席から身を屈めてこちらを覗き込んでいる空色髪の少女を怪訝そうに見つめた。
空色髪の少女はさらにぐぐっと顔を近づけ、女の子の顔を観察するように見入る。
「いま」
「え?」
「今、笑ってた…。どうして、笑ってたの?」
「え、えと…。このえほん、よんで、たのしかったから…」
「楽しいから笑う…」
「うん…」
ぎこちなく頷く女の子。そんな女の子に対して、少女は逸る様に言う。
「それ、知ってる。人は、楽しかったら、笑う。笑顔は、人を幸せにするための、おまじない」
そりゃ楽しいかったら笑うのは当たり前だし、そんなことは子供も大人も誰でも知ってることだ。それを、さも大発見したのは自分だとでも言わんばかりの空色髪の少女の顔に、ただでさえびっくりさせられた女の子は不満顔で言う。
「もう。ここではしー、しなくちゃいけないんだよ」
女の子は自分の口もとに縦に伸ばした人差し指を当てる。そんな女の子に対し、少女は首を傾げる。
「しー、ってなに?」
「しずかにしてなくちゃいけないってゆーいみのしー」
少女も女の子を真似て口もとに人差し指を当ててみる。
「しー」
「そっ。しー。わかった?」
少女は返事をする代わりに、うんうん、と2度頷いた。
「わかればよろしい」
そうお姉さんぶる女の子は、つんとすまし顔をしながら、膝の上で絵本を開き直し、読書を再開する。
その女の子の隣では、2人のやり取りを見ていた女の子の母親が口もとに手を当てながら、クスクスと笑っていた。
物語はいよいよ佳境。長年、すれ違い続きだった若い男女がようやく結ばれ、幸せな日々が始まると思った矢先の、女性の不治の病の発覚。病室のベッドの上で、愛を語り合う2人。
目から涙がボロボロ溢れ、文字が霞んでしまう。
その滲んだ視界の隅っこ。
気の所為だろうか。
空色の何かがチラつくのだが、まあ今はどうでもいい。今は早く、この物語を読み進めないと。
雨の影響でこの日の土木作業が全て中止となった作業着姿の中年男性。手に持った文庫本のページを捲ろうとして。
「わっ!?」
ページを捲るために少しだけ閉じた文庫本の陰から現れた顔。
自分の足もとで膝を抱えてしゃがみ込み、こちらを見上げている空色髪の少女。
驚いた拍子に大声を上げてしまい、館内の全員の視線が中年男性に集まる。
空色髪の少女は、人差し指を口もとに当てて「しーっ」と言った。
車両の手前では、その様子を見ていた女の子が「またやってるよ」とばかりに頭を抱えている。
「涙…」
「へ?」
「涙、出てる…」
「へ? あ、ああ、これ?」
指摘され、男性は慌てて作業着の袖でずぶずぶに濡れた目もとを拭いた。
男性の前でしゃがみ込んでいた少女はぴょんと跳ねるように立ち上がると、男性の隣の席に座り、男性の赤くなった目もとを興味深そうに見つめる。
彼女居ない歴=年齢の彼。若い女の顔の急接近に、どぎまぎしている。
「な、何ですかね?」
「どーして…」
「へ?」
「どーして、泣いてた、の…?」
「どうしてって…、その。悲しかった、から…?」
「悲しい…?」
「う、うん。読んでる小説が、悲しいお話しなんだ」
「悲しい…」
「うん…」
「悲しかったら、人は、泣く…」
「そうだよ…」
「悲しい思い…」
「え?」
「悲しい思い、するために、わざわざ、本、読んでるの?」
「え、ええっと…」
「はっはっはっ」
車両の中に朗らかな笑い声が響く。
いつの間にか2人の側に立っていた老婦人が、肩を揺らしながら笑い声を上げている。そんな老婦人に対して、遠くに座っている女の子がわざわざ身を乗り出し、口もとに人差し指を当てながら「しー」。空色髪の少女も老婦人に向けて「しー」。
「おっとっと」
この図書館の司書である老婦人は、館内の風紀を正すべき立場でありながら、自らその風紀を乱してしまっていたことに気付き、慌てて口を噤む。
「お嬢ちゃん、ここは初めてだね」
小声で話し掛ける老婦人に、少女はこくりと頷く。
「本は読まないのかい?」
手ぶらの少女はふるふると頭を横に振った。
「どーして、みんな、本、読んでるの?」
図書館という施設、ひいては司書という職業の存在意義そのものを問う質問に、老婦人は一瞬たじろいでしまうが、すぐに笑顔を取り戻した。
「本はいいよ。本は心を潤してくれる。人類が生み出した文化の極みだよ」
老婦人のちょっと大袈裟な表現に、いまいち要領を得ないとばかりに首を傾げている少女。老婦人は笑いながら続ける。
「本はね。その人が持つ世界をうんと広げてくれるんだ。知らないことを教えてくれたり。知らない場所に連れていってくれたり。知らない経験をさせてくれたり知らない感情を呼び覚ましてくれたり。本を開けば、そこには知らない世界への扉が鍵を開けて読者を待ってるんだよ」
「世界への…、扉…?」
「そう。ここの連中にとっては、この村だけが世界の全てなんだ。世界はずっとずっと広いのに。村の外に一歩も出ることができないまま、日々の食を得るために、毎日朝から晩まで肉体と精神をすり減らしながら働き、そして死んでいく」
老婦人の頭の中には、「毎日朝から晩まで働いて死んでいった」具体的な人物の顔が浮かんでいるのだろう。笑っていた顔に、一瞬だけ影が差した。しかしすぐに一筋の影を顔から追い出し、空色髪の少女の顔を観察する。
「あんた。見たところ10代半ばくらいだね」
その問いに少女は答えなかったが、老婦人は構わず続けた。
「あんた。海って知ってるかい?」
「うみ…」
唐突な質問に、首を傾げる少女。
「そう。海」
「大きくて…、しょっぱい…、水溜まり…」
少女の何とも大雑把な海の定義に、老婦人はふふふと笑う。
「まあ正解だね。じゃあ、海はどんな色、してるかな?」
その問いに、少女は目をぱちくりとさせる。その目を、窓ガラスの外へと向けた。窓の外は雨。地面には、透明の水溜まりが広がっている。
老婦人に視線を戻し。
「透明…?」
首を傾げながら答えた。
期待通りの答えが返ってきた老婦人。内心でにひひと意地悪っぽく笑いながら、その顔を手前の座席に座る小さな女の子のお母さんに向ける。
「あんたは知ってる?」
急に話を振られ、ちょっと驚いた様子のお母さんは、開いていた本を閉じながらおずおずと答えた。
「赤、だったと思うけど…」
これまた期待通りの答えが返ってきた老婦人は、内心ではははと会心の笑い声を漏らしながら、得意げに言う。
「それもまあ正解なんだけど。本当の海はね。実は青かったんだよ」
そう言いながら、老婦人は本棚に収容されている一冊の古びた写真集を持ち出した。多数の風景写真が収められた大きな写真集。広げたページの見開きに大きく載せられたのは、下半分が白、上半分はどこまでも透き通った青。白い砂浜に穏やかな波が打ち寄せる、誰も居ない海岸を写した写真だった。
「わあ、綺麗…」
それを見たお母さんは小さく感嘆の声を漏らす。
「わあ、懐かしいな…」
それは一緒に写真集を覗き込んでいた中年男性が漏らした言葉。
「おや。あんたはセカンドインパクト前の世代かい?」
「ええ。子供の頃、親に連れて行ってもらった記憶があります」
「ねえ、これ、なーにー?」
いつの間にか小さな女の子もお母さんの肩から身を乗り出して、写真集を覗き込んでいる。
「これが海よ」
「うみってなーにー?」
無邪気に問う女の子の顔を、老婦人は寂し気に見ていた。
写真集を囲んでのやり取りを、ポカンとした表情で見ている少女。そんな少女に、老婦人は言う。
「あんたは海っていうのを大きな水溜まり、って思ってた。このお母さんは、海の色を赤いと思っていた。この子にいたっちゃ、海ってもの自体を知らない。でも、本は本当の海の色を教えてくれる。本当の海の姿をみんなに見せてくれる。何処にも行けないあたしたちに、世界中の色んなことを教えてくれるんだ」
少女は、老婦人の言葉をぼんやりとした眼差しで聴いている。
「何も外の世界のことだけじゃないんだよ。本には愉快なことも悲しいことも為になることも、色んなことが載ってる。本はあたしたちに知らないことを教えてくれる。知らない場所に連れて行ってくれる。知らない経験をさせてくれる。そしてあたしたちは本を読んで、時に笑って、時に悲しんで、時に考えさせられて。明日がどうなるかも分からない、こんな毎日の中で、心の中に疼く、ほんの些細な心の機微が、人々の生活をほんの少しだけだけど変えてくれるんだ」
色々と長ったらしく纏まりに欠ける説明となってしまった。老婦人は、自分が少女に伝えたかったことを、簡潔にまとめることにした。
「本はね。人の心を豊かにしてくれるおまじないなんだよ」
女の子は読んでいた絵本を元の位置に戻し、代わりに風景写真集を熱心に見始めている。
女の子のお母さんは、読んでいた実用書に視線を戻している。
中年男性は、せっかく気分が高揚してたところで水を刺されてしまったため、文庫本のページを少し戻して読書を再開している。
老婦人はカートに乗せていた返却された本を本棚にしまい始める。
少女は。
そして少女は、目の前に並ぶ本棚に詰められた本の背表紙を、じっと見つめていた。
縦座席に腰を掛けて、本を見つめていた。
いや、その目は背表紙を見ていなかった。
焦点の合ってない視線を、本棚に並ぶ本に這わせていた。
布のパーテーションで囲われただけの、部屋にもなっていない部屋。
自分の住処。
命令を待つ場所。
ランタンに寝袋、簡素なラックに載せれたた幾つかの機材。必要最低限のものしか置かれていない部屋。
物が増えることも減ることもなく、とても長い間、ランタンの位置、寝袋の位置、チェストの位置すらも変わることがなかった部屋。
流れる時から、そこだけが置き去りにされたような部屋。
その部屋。
正確に言えば、部屋の出入り口の外。
部屋に変化がもたらされたのは、「彼」がやってきてからだった。
日々、積み重ねられていく本。
知らないうちに、増えていく本。
「彼」が何処からか探して持ってくる本。
―――本とか、読んでないの?
―――そうだ、ここの図書室で探して持ってくるよ。
―――いつも持ってて、好きみたいだったし。
「碇…くん…」
知らないことを教えてくれる本。
知らない場所に連れて行ってくれる本。
知らない経験をさせてくれる本。
知らない感情を呼び起こしてくれる本。
「碇…くん…」
「彼」は、本を通じて、知らない世界のことを教えてくれようとしていたのだろうか。
知らない場所へ連れて行ってくれようとしたのだろうか。
閉じていたこの心の扉を、開けようとしてくれたのだろうか。
視線は本棚から外れ、天井へ。
首が傾き、後頭部が結露したガラス窓に当たった。
目を閉じる。
視覚からの情報を断つことで、鋭敏になる聴覚。
左隣で写真集を読んでいる女の子の口から微かに漏れる笑い声が聴こえる。
その隣で実用書を呼んでいるお母さんの咳払いが聴こえる。
右隣で小説を読む男性のページを捲る音が聴こえる。
近くで、老婦人が本棚を整理している音が聴こえる。
図書館の中に居る、全ての人々の息遣いが聴こえる。
ガラスを通じて、しとしとと降る雨の音が聴こえる。
今までは気に留めることすらなかったそれらの音。雑音。
それらの音に耳を傾けているだけで。
何故だろう。
この前初めて入った温かいお風呂に浸かっているような。
穏やかな流れの中に身を委ねているような。
どこからか聴こえてくるピアノの音にも、夜空を埋め尽くす満天の星々を見上げた時も、揺れ動くことのなかったこの心。
それが今は、雑音に身を委ねているだけで。
その雑音が、心の中を埋めていく。
満たしていく。
ただの雑音。
どこにでもある、何気ない音のはずなのに。
雑音で埋め尽くされていく心が、とても心地よい。
雑音を。
周囲の世界を引き入れていたこの心。
いつの間にか開いていた、心の扉。
そして瞼の裏に思い浮かぶもの。
本。
積み上げられた本。
そして「彼」。
心を閉ざしてしまった、「彼」の姿。
少女の周囲を満たしていた雑音が遠くなる。
目も閉じて。
光が消えて。
音も消えて。
暗闇の。
静寂の世界。
その世界の中に、ぽつんと佇んでいる、あの少年の背中が見えたような気がした。