この広い六面体の空間は、本来はここの主を整備・格納する場所として用意されたものだが、今はその主を封印・凍結する場所として用いられている。
対象を封じ、凍結するための場所であるため入り口には立ち入り禁止の札が掲げれており、また立ち入る者が居なければ照明で照らす必要もない。
にも関わらずこの空間から照明が消える時間は稀であり、またこの場所から人影が消えるのもまた稀である。
「まったく…。司令官室の表札はこちらに付けた方がいいんじゃないですかね?」
背後から近寄るコツコツと床を踏む革靴の足音に、床に腰を下ろしていた少年は振り返る。そこには彼の部下の呆れたような顔があり、少年は苦笑いしながら収まりの悪い銀髪の髪を掻いた。
「ここが一番落ち着くんだ」
そう呟きながら、視線を宙へと放り投げる。
「リョウちゃんに言われた通りになってしまったようだね」
「私が何か言いましたかね?」
「ここの総司令はこの場所に入り浸るようになるって言わなかったかな?」
「ははっ。私の本業は予言者なんですよ。それにても…」
少年と一緒に宙を見上げていた男性は、その視線を少年へと落とす。
「随分と懐かれてしまいましたな」
少年を取り巻く状況に、呆れたような声を出した。
胡坐を掻いて床に座る少年の組んだ足の上にちょこんと身を乗せているのは、少年の体に抱き着きながらすやすやと寝息を立てている幼女。
幼女だけではない。
幼女の姉2人。四姉妹(男性はそう認識している)である彼女らの二女と三女も床に直に横になって、それぞれの頭を少年の腿や膝に乗せてすやすや寝息を立てている。
「彼女たちの兄になったつもりはないんだけどな。ねえ、リョウちゃん」
「なんです? 渚司令」
「身動き取れなくて正直困ってるんだ」
3人の眠り姫の枕代わりにされて固まってしまっている少年に、男性ははははと笑いながら、膝を付いて女の子たちの肩を揺さぶった。
「ほら。キャトル、サンク、シス。起きなさい」
3人の眠り姫たちは目を擦りながら、睡眠を妨害した男性を寝ぼけまなこで見上げる。その顔は明らかに不満顔。「初登場時のあの鉄仮面ぶりは何処に行ったんだ」と心の中で毒付きながら、3人娘たちに告げる。
「一四〇〇時より接続テストだ。第5ケージに向かいなさい。君たちのお姉さんも先に行って待ってるよ」
3人のうち2人は「ふあい」と舌足らずな返事をしながらのそのそと立ち上がる。そして少年の胸に抱き着き、ぐずついている幼女を引っ張って無理やり立たせ、ずるずると引き摺りながら出口へと歩いていった。
「接続テストなんて、今日の予定にあったっけ?」
3人の後ろ姿を見送りながら少年は言う。
「ええ。臨時ですることになりまして。ここ、いいですか?」
男性は上官の返事を聞く前に、少年から3歩ほど離れた場所で腰を下ろし、胡坐を掻いた。
「いててて…」
床に腰を下ろすと同時に表情を歪め、腰を擦る男性。3人の後ろ姿が出口へと吸い込まれていったことを確認した少年は、近くに座った男性へと視線を向ける。
「痛むのかい?」
男性は「情けない」とでも言いたげに苦笑いしている。
「いやぁ、一昨日の頑張りが今頃来ましてね。渚司令はどうですか?」
「僕?」
男性に訊ねられ、腰や肩を擦って痛みがないかを確認する少年。
「今のところは大丈夫かな」
「お若いですね」
「君たちよりも少しだけ自分の体の使い方を心得ているだけさ」
「それにしても暫くほったらかしにしてしまっていたので、渚司令が手伝ってくれて助かりましたよ。申し訳なかったですね。せっかくの休みの日に、あんな土仕事に付き合わせてしまって」
「僕が勝手に付いていったんじゃないか。いい暇つぶしになったよ。ここでの生活は退屈で何もすることがないからね」
少年のその発言に、男性は不満そうに目を細めた。
「…お暇ならしっかり仕事して下さいよ」
「ふふっ。リョウちゃんが何もかもやってくれるから、僕はずいぶんと楽をさせてもらっているよ」
ニッコリと笑う少年に、男性はやはり不満げに鼻を鳴らす。
「まったく。あなたの下で働く身にもなって下さい。私は本来、ぐーたら人間なのですから」
「その割には君の仕事ぶりは実に楽しそうじゃないか」
「ええ。まあ確かにここでの3カ月は毎日が充実してましたよ」
「公私ともに…だろ?」
少年からの指摘に、男性は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべた。そして「敵わないな」とばかりに頭を掻く。
「渚司令には感謝してもし切れません。こんな状況下でも妻が子供を産む決意をしてくれたのは、司令が色々と便宜を図ってくれたおかげですから」
「君たちの結婚の保証人になったんだから、それくらいはさせておくれよ。奥方さんも元気そうで、何よりだったね」
「ええ。ようやく安定期に入ったのは良かったんですがね。食欲が回復すると同時にアルコールに対する執着も蘇ってしまったようで、酒から遠ざけるのに四苦八苦してるところです」
「ふふっ。楽しそうな新婚生活だ」
「ああそうだ。妻がこれを持たせてくれたんだった」
男性は肩に下げていた鞄から魔法瓶とプラスチック製のコップを取り出す。魔法瓶の蓋を開け、中身を2つのコップに注ぐと、片方を少年に差し出した。
コップを受け取った少年は中身を見つめ、そして男性を見つめる。
「なんだい? これ」
少年の眉根に、皺が寄っている。
「加持家特製のベジタブルスムージーです」
「すんごい色してるよ…」
「まあ色んなものをぶち込んでますので…」
「これは君の奥方が作ったのかい?」
「ええ」
「確か君の奥方の料理の腕って…」
少年にしては珍しく、その顔に一抹の不安を湛えている。
「ええ。だからこれは家内がよそ様に出せる唯一の料理です」
「スムージーって、料理って言えるのかな?」
「先日司令が採ってくださったほうれん草や人参も入れてるそうですよ?」
「え? あれも?」
「はい。このご時世、生野菜なんて貴重ですよ。おまけに自分で大地から直に採ったものを召し上がる。これ以上の贅沢はありません」
「ふーん」
コップの中の、ドギツイ色の液体を見つめる少年。5秒ほど逡巡した上で、意を決してコップに口を付ける。
一口だけ口に含み、喉仏を上下に動かして口に含んだものを胃の中へと落とした。
「まずっ…」
少年が微かに呟いたその言葉を、男性は聞き逃さなかった。
「今不味いっておっしゃいましたね! 今不味いっておっしゃった! 人の妻が作ったものを不味いっておっしゃいましたよね!」
「し、しかたがないじゃないか! そう思ってしまったのだから! 僕はこの国の大人たちみたいに本音と建て前を器用に使い分ける事なんてできやしないよ!」
男性の厳しい追及に、慌てふためきながら釈明に追われる少年である。男性は震える手でコップの中身を睨んだ。
「私はコレを…。妻の愛情たっぷりのこのスムージーを毎朝血の涙を流しながら飲んでいるというのに…」
少年は心底申し訳なさそうな顔で男性の横顔を見つめた。
「す、すまなかった。初めて口にする刺激に満ち満ちた味に、ついつい口が滑ってしまったんだよ…」
「本当にすまなかったと思ってます?」
険しい顔だった男性の顔が、急にニヤリと笑う。その顔を見て少年は「謀られた」と悟った。
「じゃあ私の願いを、一つだけ叶えてくれますかね?」
顔をぐぐっと寄せてくる男性に対し、思わず身を引いてしまう少年である。
「悪魔に対して交渉を仕掛ける君は魔王かな?」
珍しく不機嫌顔の少年。
「ははっ。別に世界を手に入れたいとか、汚染された大地を浄化してほしいとか、妻の料理の腕を何とかしてほしいとか、そんな大それたことをお願いしたいわけじゃないんです。前にも言ったでしょ。私が抱く願いなんて、ささやかなものですよ」
少年は「本当に?」と、男性を見つめる目を細めつつ、口を開く。
「2つめの願いは、君自身の手で叶えられそうじゃないか」
「汚染された大地の浄化…、ですか?」
「うん。リョウちゃんが持ち込んでたアレ。ゼーレの技術者たちも驚いてるよ。コア化した大地を人工的に復元する技術をすでに確立させていたなんてね」
「まだ試作段階ですが、海洋研究機構の連中が海水の浄化目的で開発した装置を陸上用に転用させたものです。おかげで、私のスイカ畑もあの通り」
「ふふっ。今からスイカの収穫が楽しみだ」
「ぜひ、また手伝って下さいね」
「それがリョウちゃんの言うお願いかな?」
「あなたに貸しを作るという100年に一度あるかないかの幸運を、そんなことで使うはずありませんよ」
再びニヤリと笑う男性に、少年は「まいったな」と頭を掻いた。
少年はまだ一口しか口を付けていないコップを、男性から見えない位置にそっと置く。
「そう言えば、その海洋研究なんたら?」
「正式名称は海洋生態系保存研究機構です」
「その研究機構とネルフの技術開発部門との研究交流会は今日じゃなかったかな?」
男性はまるで劇薬でも服用しているかのように、コップの中身を一口一口慎重に慎重に含みながら答える。
「おや。よくご存じで」
「一応、君たちから提出される書類は全て目を通してるんだよ。ただハンコを押してるだけじゃないんだ」
「これはこれは。失礼致しました」
男性はおどけた態度で謝りながらコップを床に置き、ズボンの後ろポケットから2枚の布を取り出した。
「もちろん、予算書や決算書にも全て目を通してある。随分と矢継ぎ早に補正予算を組んでくれたものだね。おまけに建造中の1番艦なんて、当初の予定とは全く別物の仕様になっているようだし」
「仕様の変更なんてこの世界にはよくあることです」
2枚の布のうち1枚をパンパンと払って広げる。
「この組織を好きに使っていいとは言ったけど、本当に好きに使ってくれてるようだね」
「ええ。おかげで今日、この日に向けて、周到に事を進めることができました」
その一枚を折り畳んでひも状にし、自身の右腕に縛り付けようとしたが、片手で腕に布を巻き付け、結び目を作るのは容易ではない。
「むっ…、渚司令。恐れ入りますが、ちょっと手をお借りしてもいいですか?」
「これを結べばいいのかい?」
「ええ、お願いします」
少年は男性の手に代わって、男性の右の二の腕に青い布切れを縛り付けてやった。
「なんだい? これ」
「我々の絆の証です。ちなみにほら、渚司令用にも一枚用意してあるんです」
床に置いていたもう一枚を手に取って、少年に見せた。
「どうですか?」
「うーん…」
差し出された青い布を、じっと見つめる少年。
「私と同じように」
そして男性の右腕に縛られた青い布をじっと見つめる。
「いや、やめておくよ」
少年はゆっくりと頭を横に振った。
「僕が必要としている絆は一つしかないからね」
「そうですか。そりゃ残念だな」
男性は無理強いすることなく、手に残った青い布を素直にポケットの中に収めた。
少年は男性から目を離し、高い高い天井の隅を見上げる。
「それにしても研究交流会とやらはずいぶん賑やかなんだね。ここまで音が聴こえてくるよ」
「ふむ。あまり騒がしくしないようにとは言ったんだがな」
厚い岩盤やコンクリートの壁を通り抜けて、ここまで聴こえてくるどこか物騒な物音。
少年が天井の隅を見上げている間に、男性は鞄の中から取り出したものを2人の間にそっと置いた。少年は横目でちらりと床の上に置かれたものを見たが、すぐに視線を天井の隅へと戻す。
男性は続けてズボンの後ろポケットから取り出した煙草の箱から一本を取り出し、口に咥えた。ライターに火を点け、咥えた煙草の先端に近付けようとして。
「あっ。いいですか?」
上官に喫煙の許可を請う。
少年は再び横目でちらりと男性が咥えている煙草を一瞥。無言で頷いた後、やはり視線を天井の隅へと戻す。
男性の鼻から盛大に吐き出された紫煙が、2人の間をゆらゆらと揺蕩う。
少年は無言で天井の隅を見つめ。
そして男性は煙草を摘まんだ右手で膝に頬杖を付きながら、床と、そして左手首の腕時計とを交互に見つめる。頬杖を付く男性の右手の人差し指が、男性の無精髭が浮く頬を忙しなくコツコツと叩いており、上下に揺れる人差し指と中指に挟まれた煙草の先端からはらはらと灰が零れ落ちた。
「…落ち着かない様子だね」
少年は天井の隅を見つめながら言う。
「ええ。待つのは苦手なんです」
少年の口角が、少しばかり上がった。
「ただひたすら待つ、というのも悪くないものだよ。僕なんて、いつも待ってばかりだ」
男性は表情を崩さずに言う。
「待ってばかりでは得られないものもありますから…」
「ふふっ。そうだね…」
少年の小さな笑い声を最後に、2人の口は噤まれた。
しばしの間、宙を揺蕩う紫煙と静寂とが、2人だけの空間を包み込む。