「ニアサーを生き延びた親父が、まさか事故で死ぬとは、その時はまるで思わなかったな」
「こんなことになるんならちゃんと話をして、酒でも飲んで愚痴の一つでも聴いときゃよかったよ」
「お前の親父は生きてるんだろ。無駄とは思っても、一度は会って、きちんと話せよ。後悔するぞ」
「そんなのコイツには重いわよ。あの碇ゲンドウじゃ」
「それでも親子だ。…縁は残る…」
村の高台にある共同墓地。友人の父親の墓参りを終えた少年は、村へと戻る坂道を下り始めている。
少年のその後ろ姿を見送り、そして隣に立つ青年の横顔を見上げた。
相田ケンスケは目の前にある、墓地の片隅に置かれた人の膝の高さくらいの大きさの丸い石をじっと見つめている。
アスカもケンスケに倣って、「相田家」と彫られた丸い石を見つめる。
丸い岩を見つめて。
そして隣のケンスケの横顔を見上げて。
あの難民キャンプで再会して多くの歳月が流れた。
こいつも随分とデッカくなったもんだ、と感心しながらケンスケの横顔を見上げて。
メガネの向こうの、まるで睨むように細められたケンスケの目を見つめて。
「よっと」
いきなりアスカが相田家の墓石に飛び乗ったものだから、ケンスケは仰天してしまう。
「ちょ、ちょっと式波!」
「いいじゃん、別に。どうせこの下には誰も埋まってないんだから」
「そ、そりゃそうだけど…」
そしてアスカは目線の高さが一緒になったケンスケの顔を正面から見つめる。
「えらいえらい。ケンケンもようやく自分の親父のことを人に話せるようになったか」
そう言ってアスカは手を伸ばし、ケンスケの頭をよしよしと撫でた。
途端に真っ赤になってしまうケンスケの顔。
指で頬をぽりぽりと掻きながらケンスケは言う。
「碇くらいさ。こんなこと話せる相手。むしろ碇に言ったことは10年前の俺にそのまま言ってやりたいことだよ。それに…」
メガネの奥の目を細め、アスカが乗る墓石に掘られた「相田家」の文字を見つめる。
「結局本当のことは誰にも言えずじまいさ…」
そんな態度のケンスケに、アスカはやれやれと溜息を吐く。
「それでも君にとっては大きな前進であ~る。よし。今日は特別にご褒美を与えてしんぜよう」
おどけた口調でそう言うアスカは、ケンスケの前で両腕を広げてみせた。
「え?」
首を傾げるケンスケ。
「んん」
唸るアスカは両腕を広げたまま、顎を手前に向かってちょいちょいと2度振る。どうやら「来い」と言っているらしい。
「え、えっと…」
「まいったな」と頭を掻くしかないケンスケ。
「ほ~ら~」
見れば、彼女も両頬をほんのりと赤く染めている。
女の子?に恥をかかせてはいけないと覚悟を決めたケンスケは、一歩二歩と墓石の前へと歩み寄り、そして少女の姿をした彼女の開いた両脇の下に、自身の両腕を滑り込ませた。
自分の胸の中におずおずと入ってきた青年の体。
この10年で随分と逞しくなってしまった背中。
両腕をその背中に回すと、手と手が何とかぎりぎり届いた。
そんな彼の背中を、そっと抱き締める。
体全体で彼の温もりを感じながら。
少女は耳を傾ける。
青年の息遣いに。
青年の胸の中の小さな鼓動に。
青年の生命の息吹を、全身で受け止める。
アスカはケンスケの肩に顎を乗せ、腕の中の相手に体重を預ける。
彼の息遣いに寄り添って。
彼の胸の中の小さな鼓動に身を委ねて。
彼から感じる生命の息吹に包まれて。
「 Do vist ayn shirt 」
耳もとで、彼がぽつりと呟いた。
「え?」
アスカの頬だけでなく、顔全体が真っ赤になった。
アスカの顔が見えていないケンスケは、そのまま続ける。
「最近村の子供たちの間で流行ってるんだ」
「む、村で…?」
「うん。こんな風にハグしあいっこするのが。その時、今のおまじないを言うんだ」
「ふーん…」
「どんな意味なんだろうね?」
「さあ…」
* * * * *
「うん。村重さんの心臓は今日もえー感じにぴょこぴょこ動いとるで。お薬がよう効いとるわ。おんなじお薬出しとくから、忘れんと飲みなや」
「先生、いつもありがとうね」
ぎゅっ
「ほな、また1週間後なぁ」
長屋の玄関から部屋の奥の布団で寝ている老婦人に挨拶を済ませ、外へと出る。
ガラガラと自分で閉じた玄関の引き戸を、ぼーっと見つめる。
「先生、どうかされました?」
往診に訪れた長屋の玄関の前で突っ立ているトウジに、同行した鈴原診療所の看護師を勤めている女性が声を掛けてきた。
トウジは女性に目を向けて。
「なんや、今日だけでこれで3人目や。みんな別れ際に抱き着いてくるんやで。近いうち「お迎え」でも来るんかと心配になるやん」
女性は口許に手を当ててクスクスと笑う。
「先生知らないんですか?」
「え? 何がや」
「今、村で流行ってるんですよ。挨拶代わりのハグが」
「ハグ?」
「ええ。ほら」
女性が指差す先。
往来で、シルバーカーをゆるゆると押しているおばあちゃん。
反対方向からも、やはりシルバーカーをゆるゆると押すおばあちゃん。
すれ違った2人は道端で軽く世間話をし、そして。
「あ」
「ほらね」
おばあちゃん2人は道端で軽くハグして、そしてゆるゆるとシルバーカーを押しながら去っていった。
「そういやうちのそっくりさんも仕事に出掛けるときいっつも抱き着いてきよるんやわ。年頃の娘がそんなはしたないことするんやない、言うとるんやがな。けったいなもんが流行っとるのぉ」
「でもこれが流行り始めて何だか村人同士の距離が近くなったような気がするんですよね」
「そりゃええことやけど、医者の身としてはせっかくインフルが収まったっちゅーのに、人同士の接触が多くなるのはあまり感心せんなぁ」
「まあまあ、いいじゃないですか。そうそう、なんでもハグする時の特別なおまじないがあるみたいで。ええっと、なんだったかな。そうそう。「 Do vist ayn shirt 」って言うといいらしいですよ」
「なんやて?」
「 「 Do vist ayn shirt 」。どんな意味なんでしょうね?」
トウジは首を傾けながら、口もとで女性が言った言葉を何度か反芻して。
「それ。ドイツ語ちゃうんか?」
「え? ドイツ語? 先生、ドイツ語分かるんですか?」
「医者の勉強しとった時にちょい齧っただけやけどな」
「どういう意味なんです?」
「多分、「 Du bist ein Schatz 」やな。Schatz は「宝物」の意味。「あなたは私の宝物」ってことやな」
「へー」
「つまり、「あんたんことが好き」っちゅーこっちゃ」
* * * * *
この村での滞在を始めてそれなりの月日が経過した。今や日課となってしまった、夕暮れ前の散歩。今日も拾った枝で道端の雑草をビシバシ叩きながらふらふらと歩いていたら、足は自然とあの廃墟へ。
何故か忍び足で近づいてしまう廃墟の入り口。そっと廃墟の中を覗き見ると、廃墟の前の湖に体の正面を向けて胡坐をかいて座っている「あいつ」の背中。その手には1本の釣り竿。釣り竿の先端から伸びる釣り糸は、湖の水面へ。少年の傍らにはバケツが1個。ここからではよく見えないが、「あいつ」があの小屋の主から「釣り」という仕事を与えられて以来、釣果はゼロが続いているので、あの肩の下がり具合から見たら今日もあのバケツの中身は空っぽなのだろう。
水面に顔を覗かせる釣り糸の浮きをただぼんやりと見ているだけの「あいつ」。釣りの経験がないアスカであっても、あの様子じゃ今日も一匹も釣れず終いで終わるだろうことは、容易に想像がつく。
そして、そんな「あいつ」の左隣では、やはり水面の浮きを見つめたまま、微動だにしない少女が一人。
畑仕事の帰りなのだろう。背中に下げた麦わら帽子。泥に汚れた黒いプラグスーツに農作業用の腕カバー、長靴というアンバランスな格好。少女の傍らに置かれた背嚢からは、鎌や根さばきといった農耕具の先端が顔を覗かせている。
空色髪の少女は、少年から人2人分程度の隙間を置いて、床に腰を下ろし、膝を抱えて座っている。
少年と少女2人に見つめられる水面の浮き。沈むことも浮き上がることも、左右にゆらゆら揺れることもない浮き。それを見つめる2人もやはり身じろぎ一つしない。
夕暮れ前の湖畔。風はなく、水鳥の姿もなく、水面には波紋一つ広がらない。空にぽつぽつと浮かぶ雲は地上に錨でも下ろしているかのように流れていくことはない。
変化に乏しい風景。そんな風景を背景に、微動だにしない2人。
「眠る」ことを忘れてしまったアスカでさえ、ついつい欠伸を漏らしてしまいそうなほどの極めて退屈な光景。
それでいて、朴訥とした、穏やかな雰囲気を纏う、2人の背中。
人型決戦兵器に乗り、戦うことを宿命づけられたはずの子ども2人が、水面の浮きをただぼんやりと眺めながら、言葉も交わすことなくおそらく何時間も過ごしている。そしてそんな彼らの背中をただぼんやりと眺めている自分が居る。
彼らに。
私たちに。
こんな時間の過ごし方が許される日が訪れるなんて。
ふと、自分の口もとに浮かんでいた笑みに気付いてしまったアスカは、口を意識的に「へ」の字に曲げると、足もとの石っころを音を立てないように蹴っ飛ばし、パーカーのフードを被り直して廃墟に背を向けた。
自分にこんな時間の過ごし方は似合わない。
こんな時間の過ごし方は許されない。
そう心の中で思いながら、そのままスタスタと歩き、廃墟を離れ、散歩を再開。
カーカーと鳴くカラスが2羽、空を横切っていった。気が付けば陽は本格的に傾き、空全体が茜色に染まり始めている。
テキトーにぶらぶらと歩いていたはずなのに、足はいつの間にか例の廃墟の前へ。一度は廃墟の前を通り過ぎたが、数歩歩いたところで立ち止まり、やはり忍び足で廃墟の入口へと近付く。
そっと中を覗き見て、アスカは呆れてしまった。
1時間前に覗いた時と、寸分違わず同じ格好でいる2人。
床に胡坐を掻いて、釣竿を構えている少年。その隣で、人一人分の隙間を置いて膝を抱えてちんまりと座っている少女。
ん?
一人分?
アスカは気付いてしまった。
1時間前に見た時は、人2人分の距離は空いていたはずの、2人の隙間。それが、今は一人分にまで縮まっているではないか。
そしてアスカは見てしまった。
身じろぎ一つしていないはずだった2人。
しかし、よくよく見てみれば、左側に座る彼女。
空色髪の少女が、ちらちらと隣に座る少年を見ているではないか。
少年は水面の浮きに集中しているようで、少女の視線に気付いた様子はない。
そしてまたもやアスカは見てしまった。
床にちょこんと座っていた少女の小ぶりなお尻が、僅かばかり浮いたのだ。少女の浮いたお尻は右側へと移動し、そのままちょこんと床へ着地。右隣の少年との隙間が、人一人分から、人半人分までに縮まる。
腰を落ち着けた少女は、ちらりと隣の少年を見るが、少年が少女の接近に気付いた様子はない。
人一人分から、人半人分まで縮まった2人の距離。
それから何があるという訳でもなく、再び静止画と化した2人は、水面の浮きに視線を注いだまま、動かなくなる。
いつの間にか、アスカは廃墟の入り口の前に転がる大きな瓦礫の上に腰掛け、廃墟の中の2人の背中を眺めていた。
空の半分が濃紺色に侵食された頃。
少女の顔が、ゆっくりと隣の少年へと向く。
ようやく隣の少女の視線に気付いたのか、少年も少女の方へと顔を向けるが、少女はすぐに正面に向いてしまったため、2人の視線が交差することはなかった。少女の横顔を見ていた少年は気の所為かなと首を傾げ、やがて視線を水面の浮きへと戻す。
それから3分後。少女は再び少年に顔を向ける。少年の視線は浮きに注がれたまま。少女は、少年の横顔を、じっと見つめている。そして今一度、視線を正面に戻す。
それから3分後。またもや少女の顔が、少年へと向けられる。
少年の横顔を見つめ。
少女の右手が、少年と少女の間の床にそっと置かれる。その手に、少しずつ体重を乗せ。傾いていく少女の体。少年の近くへと、寄せられる少女の体。
少女の顔が少年の肩に触れるほどに近付き。
そして少女の左手が、そっと少年へと伸ばされる。
右手も床から離れ、少年の背中へと伸びる。
少女の小枝のような細い両腕は、そっと少年の体を包みこもうとして。
何処からか馬の嘶きが聴こえた。
いや、でもこの村には馬を飼っている家はないし、もちろん野生の馬も存在しない。
その馬の嘶きのような声が、少年の悲鳴であるとアスカが気付いた時、もう少しで少女に抱き締められそうになっていた少年は、まるで肉食動物に襲われた小動物のように身を縮ませながら、少女から距離を取っていた。
あともう少しでハグできるところだったのに。
少女は残念そうに、両腕の中の空虚な空間を見つめている。
一方の少年は顔を真っ赤にさせながら大きな声を上げている。少女の「不意打ち」に、抗議しているのだろう。
「あんのヘタレが」
たかがハグくらいで何をあーもどぎまぎしてるんだろうか、あのガキんちょが。
心の中でそう毒づいたアスカは、いい加減付き合ってられないとばかりに、2人に背を向け、家路に付こうとしたら。
急に廃墟の方が騒がしくなり、アスカは足を止めた。スタスタと歩いて戻り、廃墟の中を覗いた。
見れば、少年が腰を浮かし、両腕で釣り竿を握り締めている。釣り竿の先端は大きくしなり、水面に顔を覗かせていたはずの浮きもない。
おそらく釣りを始めて以来、初めてのアタリなのだろう。慌てふためく少年はわーわー喚きながら、必死にリールを回し、釣り糸を巻いている。そんな少年の隣にいる少女も、急に慌ただしくなった少年の姿に狼狽えており、ただオロオロするばかり。
余程の大物なのか、ピンと伸びた釣り糸に、少年の腕が引き負けている。危うく釣り竿ごと湖の中に引き込まれそうになり、隣に居た少女は咄嗟に釣り竿を掴んだ。
少年と少女の4本の腕によって掴まれた釣り竿は、ようやく釣り針に食いついた獲物に引き負けないようになり、竿を立てては倒し、立てては倒しを繰り返しながら、その間に少年の右手はぐるぐると猛烈な勢いでリールを回し続ける。
少年の悲鳴のようだった声が、歓声に変わる。どうやら、水面から獲物が顔を出したようだ。
水飛沫を上げながら水中から空中へと引き揚げられる大きな影。
釣り糸で吊り上げられた大きな魚は、尾ひれを右に左に揺らしながら、宙で激しく踊る。
少年の歓声が一際大きくなって。
少女からも小さな驚きの声が上がって。
アスカも思わず「うわっ」と感嘆の声を漏らしそうになって。
ポテっと釣り針から外れる、魚の口。
釣り針から外れた大きな魚は、真っ逆さまに水面へ。
少年の歓声は、一転して悲鳴へ。
ぼしゃんと魚が水面に落ちる音。
少年の悲鳴は、やがて落胆の声へ。
今日半日粘って、最後の最後で大物を逃してしまい、その場にしなしなと崩れ落ちてしまう少年。
その隣では。
落胆している少年の隣では、少女が湖に向かって前屈みになり。
両手を水面に向かって伸ばし。
そして少女の両足は、廃墟の床を蹴っていた。
「あ」
アスカのその短い声と共に、ばしゃんと、大きな水飛沫の音。
逃した魚を追って湖に飛び込んでしまった少女に、慌てふためく少年。座り込んでいた床から跳び上がり、そして床にしゃがみ込み、湖を覗き込みながら、水面に向かって大声で呼びかける。
何度か呼び掛けるうちに、無事、少女が水面から顔を出したらしい。少年がほっと胸を撫で下ろしている。
少年は床に両手を付きながら湖を覗き込み。
そして。
そして少年の背中が小刻みに揺れ始めた。
そして。
そして少年の口から漏れる笑い声。
くっくっく、と、心の中の衝動を抑え込んでいるような笑い声。
そして。
そして湖の中からも微かに聴こえる、小さな笑い声。
ふふふ、とまるで小鳥の囀りのような笑い声。
その小さな笑い声に誘われるように、少年の声量を押し殺した笑い声は、次第に大きくなっていき、やがて大爆笑へと変化する。
ぺたんと尻餅を付き、額に手を当てながら、両肩を大きく揺らして、大声で笑っている少年。
少年のそんな後ろ姿を見つめていたアスカは。
「なんだ…、あいつ。もう笑えるんじゃん…」
そう呟くアスカの口もとも、柔らかな曲線を描いていた。
少年は今も笑いながら、床から腰を上げる。
そして廃墟の床の淵に左手を付き、そして右手を水面に向けて伸ばした。どうやら、湖の中の少女に手を伸ばしているらしい。
差し伸べられた手に少女は戸惑っているらしく、少年は早く手を掴むよう、何度か催促する。
ようやく少女が少年の手を掴んだらしい。
少女一人分の体重に引っ張られ、少年の右肩が大きく下がる。
そして。
わっ、わっ、と少年の悲鳴。
消える少年の姿。
ざぶんと、大きな水飛沫と音。
あまりにもお約束な展開に、溜息を吐くことしかできないアスカ。
少年の背中も少女の背中も消えてしまった廃墟の向こうから、少年と少女の笑い声が聴こえてくる。
「あほらし」
アスカはそう独り言ちながら、パーカーのポケットに両手を突っ込んで瓦礫から腰を上げ、廃墟を後にするのだった。