電話が鳴っている。
相田ケンスケ宅の、固定電話が鳴っている。
村の「何でも屋」であるケンスケは、すぐに連絡が取れるようこの村では数少ない携帯電話の所有者であり、彼に連絡を取るための電話はほぼ全て彼が持つ携帯電話に掛かる。だから、家の固定電話が鳴ることは、滅多にない。
その固定電話が鳴っている。
どうしたものか。
黒電話の側に立ち、じっと黒電話を見つめる。
でもこの家への電話なんて、間違いなくこの家の主への電話だ。
そしてこの家の主は、今は居ない。彼の中学時代の友人と共に、朝早くから山の奥へと出かけてしまった。
無視しよう。
自分が出ても意味ないし。
相手が諦めて、電話を切るまで放っておこう。
そう決めて電話から離れ、ベッドに寝っ転がり、携帯ゲーム機を再開させる。
鳴り止まない電話。
ゲーム機に集中する。
鳴り止まない電話。
ゲーム機に集中する。
鳴り止まない電話。
「ああもう!」
アスカは唸り声を上げながらベッドから飛び起き、ドタドタと盛大に足音を立てて黒電話の側まで歩み寄ると、その受話器を乱暴に取り上げた。
「何よ! しつこいわね!」
相手の声も聞かずに初っ端から怒鳴りつけてやったら。
『お、おう、式波か! よかった! 通じて!』
相手は、この家の主のもう一人の中学校時代の友人。
どこか焦りを感じさせる、上擦った声。
「な、何よ。あたしに用事?」
『おう、式波。自分、なんでゆーてくれんかったんや』
「何のことよ」
『そっくりさんのことや』
「初期ロットがどうしたってーのよ」
『わいはてっきりあの子もお前らの。ヴィレの仲間や思うとったのに』
通話相手のその言葉に、アスカの顔から表情というものが消えていく。
「なに? もしかして初期ロットの正体、バレちゃったわけ? だから言わんこっちゃない」
そう気だるげに言いながら、アスカは右のつま先で左の脹脛をぽりぽりと掻く。
『病院の患者の中にヴィレのもんがおったんや。そいつがそっくりさんの髪の色見て、急に騒ぎ始めよって…』
「あ~あ~、だからあのバンダナは絶対に取るなっつったのに。で? どうしたの? ちゃんとあたしの名前は出した?」
『おう、ゆーたで。式波少佐の保護下にあるゆーた。そんでその場は何とか収まったんや』
「ふーん。だったら良かったじゃない」
『あかんのはその後や。そっくりさんがネルフの人間ちゅーことが村の連中にも伝わってしもーて。今、村の青年団の連中がいきり立ってわいん所に押しかけてるんや。もう収集がつかへん』
「そう…」
『なあ、式波。なんでゆーてくれんかったんや。あん時全部ゆーてくれとったら、わいも無理に病院には連れていかんかったのに…、なんでや…』
アスカは、近くにあった丸椅子にドカっと腰を下ろす。
木製の床の木目を見つめながら低い声で言った。
「もしそんなこと言ったらあんたたち、あの子のこと、もうまともに見ることできないでしょ」
次の言葉は、アスカは言うつもりはなかった。言うつもりはなかったのに、その口は勝手にその言葉を呟いていた。
「あたしみたいに…」
5秒ほどの沈黙の後。
『なんや…、そら…』
通話相手の、呻くような声。
『わいらを舐めるのも大概にせーよ…』
通話相手の声音が明らかに変わり、アスカは押し黙る。
『まともに見ようにも…、お前はわいらがまともに見ることもさせてくれへんやないか!』
アスカの呼吸と瞬きが止まる。
下唇を、噛み締める。
『もうええ…! ケンスケは! ケンスケはおらんか! 携帯にも繋がらん!』
「け、ケンケンなら…」
もはや通話相手の意識はこの家の主の方へと向き始めている。アスカは自分から離れつつある通話相手の意識を繋ぎ留めようとでもするかのように、慌てて口を開いた。しかし、
『なんや…! おまえら…!』
通話相手の声が遠くなる。自分ではない、電話機の向こう側の誰かに向かって怒鳴りつけているらしい。
『ここはわいの家や…! 勝手に入るもんは承知せんぞ…!』
激しい物音に混じって、老齢の男性の怒鳴り声が聴こえてくる。
『帰りたまえ! 良い若いもんが寄ってたかって恥ずかしくないのか!』
それはおそらく通話相手の義父の声。その声の傍らで。
『ツバメ…。お願い…。泣かないで…』
啜り泣きのように聴こえるのは、おそらくアスカの中学時代の同級生の声。
激しい物音、飛び交う怒鳴り声に混じって、赤ん坊の泣き喚く声が聴こえてくる。
『とにかくや…!』
急に通話相手の声が近くなった。
『そっくりさん助けんとあかんから、ケンスケの力も借りたいんや! ケンスケにわいんとこに連絡するようゆーてくれ!』
ブツっと音が鳴り、そこで電話は切れた。
ツーツーと電子音を鳴らす受話器を、眉間に皺のよった顔で見つめる。
「なんで…、みんな…、あいつのことばっか…」
受話器を本体のフックに戻さず、放り投げる。
丸椅子から立ち上がり、そのままベッドの上に飛び込んだ。
ベッドの上にうつ伏せになり、頭に枕を被る。
「誰もあたしのことは…、助けてくれないくせに…」
* * * * *
鈴原家の家の前では村中から押し寄せた若い男たちを中心に人だかりができていた。
玄関の前では仁王立ちにしている鈴原トウジと、彼の義父。
玄関の奥の部屋では、ツバメを抱いた鈴原ヒカリが今にも泣きそうに顔を顰めながら、夫と父親の背中を見つめている。
押し寄せた男たちの一人が、トウジの胸に突き当たる距離までにじり寄った。
「なあ先生! いい加減あいつを! ネルフの犬をこっちに引き渡してくれんかな!」
村の青年団兼消防団兼自警団の団長である大柄な男の恫喝にも、トウジは少しも怯まない。
「何度ゆーても同じや! 渡さへんもんは渡さへん! うちはこれから晩飯なんや! わいの世界一カワイイ嫁さんが作ってくれた世界一の晩飯やで! 貴様はさっさと帰ってぶっさいくな嫁さんがつくるくっそ不味い飯でも食っとれや!」
「貴様!」
トウジの挑発に激昂した団長の両手がトウジの胸の胸倉を掴もうとしたところで、隣のヒカリの父親が口を開く。
「水口くん! 君に空手を教えてやったのは誰だったかね!」
「し、師範…!?」
その一喝に、団長の両手が恐縮したようにトウジの胸倉から離れた。
今度は青年団の副団長がトウジらに詰め寄る。
「先生がた! あんたらがあの子を匿いたい気持ちも分かるけどさ! 俺たちの心情も察してくれよ! ここにはな! ネルフとの戦いで身内を失ったものも大勢いるんだ! あの子がネルフの兵隊だってんなら、俺たちにはあの子と話しをする権利があるはずだ!」
副団長の言葉に、あちこちから「そうだそうだ」と同調する声が上がった。
「先生! これがこの村の総意だ! 分かったら早くあの子をここに連れてきてくれ!」
トウジは詰め掛けた連中の顔を見渡しながら大袈裟に笑う。
「話をするだぁ? 話をするためだけに、なしてそんな鎌や鍬が必要なんや。おのれら、百姓一揆でも起こす気か。生きるために生活様式を100年前に戻すんはしゃーないことやが、頭ん中まで300年前に戻せとは誰もゆーとらんぞ」
「相手は敵性人物だ! 万が一の用心は必要だろう!」
「お前らアホか! あんなひょろっひょろの女の子相手に万が一て何や、しょーもない! 肝っ玉の小さいやつばっかやのう!」
「先生。まあそうカッカしないで」
村の若い医師と青年団幹部たちの言い争いの間に、年配の男性の落ち着いた声が割って入る。
「先生。わしらはこの村が出来た頃からの顔馴染みじゃないか。もうちっと落ち着いて話すことはできんかね?」
「おう安永さん。最近、診療所に顔見せんのう。痔は治ったんかいな?」
「ま、まあ先生。この村は全体が家族のようなもんだ。みんなで手を取り合いながら助け合ってきたじゃないか。大事に大事に築いてきたこの仲を、こんなことで崩してしまうなんて、あまりにも勿体ないことじゃないかね?」
「そやったらあの子もすっかりこの村の一員や。わいらの家族やからのう」
「違う。あれはネルフの人間。わしらの敵だ」
「ほう、そうか! でも生憎やったの! あの子はおのれらの家族やのうても、鈴原家の家族や! 貴様ら、わいの家族にちいとでも手ぇ出してみぃ! ドタマかち割ったるぞ!」
「先生はわしらよりもあの子の方が大事なのか? わしらが長年掛けて培った絆を、まだここに来て間もないあの子のために壊してしまうのか?」
「わいはいつかて自分の家族が大事や! わいは自分の家族守るためやったら、いつでも何だってしたる覚悟や! こちとらお天道様に顔向けできんことも仰山してきた身ぃやけえのぉ! 今更ええ人ぶるつもりもない! 貴様ら全員敵に回したってかまへんのや!」
「先生!」
「ええ加減帰らんとしばき回したるど!」
道ですれ違えば気さくに挨拶をしてくれるあの人が。
いつも嫌な顔一つせず、力仕事を手伝ってくれるあの人が。
自分の夫と激しい剣幕で怒鳴り合い、罵り合っている。
ヒカリは、泣き止まない我が子の両耳を、大人たちの怒鳴り声が届かないように塞ぎながら、その小さな体をひしと抱き締め、ぎゅっと両目を閉じ、外の騒ぎに背を向けるように畳の上に蹲っていた。
突然、腕の中にあった、赤ん坊一人分の重みが消えた。
閉じていた瞼を開く。自分の腕の中に居たはずのツバメの姿がない。代わりに在ったのは、畳の上に立つ2本の黒い足。その黒い足の持ち主の顔を視界に収めるため、ヒカリは顔を上げる。
ツバメの小さな体は、空色髪の少女の腕の中に収まっていた。
少女はツバメを抱っこしたまま、ヒカリの側に両膝を折る。ヒカリは、我が子を見つめている少女の横顔を見つめた。
今も飛び交う怒号。そんなものはまるで別世界の出来事とでも言うかのように、少女はいつもと変わらない涼やかな顔で。いや、この頃少しずつ見せるようになった、花の蕾がほころぶような控えめ笑みを浮かべながら、腕の中のツバメを見つめていた。
そんな少女の表情に釣られるように、ヒカリも小さく笑う。そして。
「もう。そっくりさんに抱っこされると、すぐに泣き止んじゃうんだから」
つい20秒前まで顔中をしわくちゃにして大口を開けて泣き喚ていたはずのツバメが、今は泣き止むどころか口の両端を上げ、目を細め、足をじたばたさせながら自分の顔を覗き込む空色髪の少女の顔に手を伸ばしている。
ツバメの小さな手のひらが少女の真っ白な肌に触れ。そしてツバメの母親は、ツバメのぷにぷにした頬を人差し指でちょんちょんとつついている。ツバメはくすぐったそうに、声を出して笑っている。
「まったく。妬いちゃうなぁ…」
そう呟きながら、ヒカリはクスクスと笑う。少女もヒカリに釣られ、ふふふと小さく声を上げながら笑った。
少女は言う。
「ツバメ…、凄い…」
「何が…?」
「ツバメの笑顔は、みんなを幸せにする…」
いつの間にか笑っていた自分に気付いたヒカリ。その笑顔を、我が子を抱く少女へと向ける。
「それはそっくりさんもよ」
「え?」
少女はきょとんとした顔で、ヒカリを見返した。
「そっくりさんの笑顔も、みんなを幸せにしてる」
少女は心底驚いた様子で、目を丸くしている。
「本当に…?」
「ええ。笑顔は…」
「人を幸せにするおまじない」
ヒカリの言葉を途中で引き継いだ少女。
言葉を途中で奪われてしまったヒカリは一瞬目を点にし。
見つめ合った2人はどちからともなく吹き出し、そして再び小さく声を上げながら笑い合った。
少女はヒカリに向けてツバメを差し出す。
ヒカリは我が子を両腕で迎え入れる。
我が子を抱く母親の姿を、目を細めて見つめる少女。
そして。
ツバメを抱っこしたら、そのツバメごと、目の前の少女に抱き締められた。
「そっくりさん…」
少女はその真っ白な左頬を、雀斑の浮くヒカリの左頬へと当てる。
少女の色素の薄い唇が、ヒカリの左耳に近付いた。
その薄い唇が、小さく開閉した。
何事かを短く呟いた少女。
ヒカリとツバメの体の形を、2人の温もりを、2人の息吹をその全身で感じようとでもするかのように、ひしと母子を抱き締める。
やがて少女はヒカリとツバメから体を離した。
穏やかな笑みをヒカリに向け。
そしてゆっくりと畳から立ち上がり、2人に背を向ける。
玄関に向かう少女の背中を、ぼんやりと見つめていたヒカリ。
「「ありがとう」って…」
少女が耳もとで呟いた5文字を口にする。
「そっくりさん…」
少女の、特殊素材でできた黒い布で覆われた背中。
そこでようやく気付く。
この頃は農作業用のつなぎ服や中学校の制服を中心に着ていた少女が、1週間ぶりにあの奇妙な体の肌にぴったりとくっつく黒いスーツを着ていることに。
そして彼女が向かう先には、大人の男たちが激しく言い争いしている場所であるということに。
「そっくりさん…!」
慌てて少女の背中を追おうとして。
しかしその大声でびっくりしてしまったのか、腕の中のツバメがわんわん泣き始めてしまい、彼女の足は止まってしまった。
「先生! いい加減にしないと、俺たちにも考えがあるぞ!」
「ほー、そりゃ聴きたいのう! 去年はお前んとこのババア看取って、今年はお前んとこのガキ取り上げてやったわいに聴かせてくれる考えとやらなはんじゃい!」
「と、トウジくん…!」
いきり立つトウジの肩を、彼の義父が手が揺さぶった。
「なんやね、お義父さ……」
振り返ったトウジの言葉が詰まる。