村を見渡せる丘へと続く未舗装の坂道。
その上を、2人の少女を乗せた原付バイクが、トコトコとエンジンを響かせ、ボコボコと黒い排気ガスを吐き出しながら走っている。
運転席に座る緋色髪の少女は凸凹道の路面を見つめながらバイクを走らせ、後部座席に乗る空色髪の少女は緋色髪の少女の胴に抱き着きながら、その背中に額を預けている。
背中に感じる体温の持ち主。
彼女を、この村に連れてきた張本人である式波アスカ・ラングレー。その行為に何か思惑があったわけではない。勿論、彼女が所属する武装闘争組織ヴィレの捕虜にするつもりだったわけでもない。
単に、「あいつ」のついでに付いてきたおまけでしかないこいつの処遇を、あの村に押し付けてやっただけだ。
ネルフという閉ざされた世界のことしか知らないこいつのことだ。早々に自分の居場所はここにはないことに気付き、勝手にネルフに帰ってゆくだろう。
そう思っていた。
ところが、空色の髪に赤い瞳、肌にぴったりとくっつく黒いスーツの奇妙な出で立ちの少女は、アスカの予想に反して瞬く間に村へと溶け込んでいった。
みんなと挨拶を交し、みんなと肩を並べて歩き、みんなと汗を流しながら働き、みんなと裸になりながらお風呂に入り。
彼らの中に、違和感なく収まってしまった少女。
まるで人間のように、日々を過ごしてしまっている少女。
忘れてしまったのではないだろうか。
穏やかな日々を送る中で、勘違いしていまったのではないだろうか
あんたは。
いや。
わたしたちは、彼らとは違うということを。
元来、黙っておくということが苦手なアスカは、ついつい口を滑らせてしまう。
「どう? 全てを失った気分は?」
どんなに丁寧に積み上げたものも、崩れてしまうのは一瞬。
「あの街」にやってきてから少しずつ積み重ね、築き上げてきた、新しい自分。
やっと笑えるようになった自分。
もしかしたらこれこそが本当の自分なのでは思えた「私」の姿は、「あの日」、一瞬にして崩れ去った。
今、背中の少女は、自分が「あの日」に感じた。正確には数年のタイムラグを挟んで突き付けられた喪失感を味わっているはずだ。
少女も分かっていることだろう。彼女が「自分の居場所」、「生きていける場所」と信じていたあの村には帰ることは、2度とないということに。
背中の少女は何も答えない。
アスカもそれ以上は何も言わず、黙って原付きバイクを走らせた。
相田ケンスケの住まいに到着をする頃には、すっかり日は陰っていた。アスカは原付きバイクの荷台から少女を降ろすと、バイクをガレージの中に停める。少女はぼんやりと突っ立ったまま丘の上から見える、夜の帳の下でポツポツと灯りが点いている村の風景を見つめている。アスカはそんな少女の手を引いて、小屋の入口へと向かった。
入口の扉を開けたところで、アスカの足が止まる。
「あ~あ~、それにしても酷いナリね、まったく」
アスカの言う通り、村人たちに囲まれ、地面の上を引き摺り回された少女の体は泥だらけになっている。アスカは少女の体をはたいて落とせるだけの泥を落としら、その手を引いて小屋の中に入り、小屋の奥へと向かった。
脱衣所へと入った2人。
アスカが少女が着るプラグスーツの左の手首にあるコントロールパネルのボタンの1つを押すと、空気が膨らむ音と共に少女の肌に密着していたプラグスーツが大きく弛んだ。アスカはプラグスーツの襟元を大きく広げて、さらに押し下げ、少女の体からプラグスーツを脱がしていく。
少女の真っ白な首が現れ、鎖骨が現れ、肩が現れ。
右腕を袖から引っこ抜き、続けて左腕も袖から引っこ抜き。
さらにスーツを押し下げると胸が現れ、おへそが現れ、腰が現れ。
少女の外見を特徴づける、シルクのような真っ白な肌。
しかし、黒のプラグスーツが胸まで下ろされたところから、少女のシルクのような肌に変化が生じ始める。
右の胸に浮かぶ、火傷のような濁った赤褐色の痣。左脇腹にも同様の痣が広がり、さらにお臍の周辺、左の腸骨部、臀部、太腿や脹脛、踵や爪先と、体のありとあらゆる箇所に、醜く、そして仄かに光を発する痣が浮き上がっている。
アスカはそれらの痣を気に留めた様子もなく、プラグスーツを少女の足もとまで下ろすと、少女は右足左足とスーツから足を順々に出していく。
「これ、まだ着るの?」
アスカの問いに、少女はこくりと頷く。
一糸まとわぬ姿となった少女。ふと見ると、少女の右前腕部に、1分前まではなかったはずの鈍く光る痣が広がり始めている。
少女の体に残った白い部分を埋めるかのように新しく出現する痣を目撃してもアスカは何も言わず、少女が脱いだプラグスーツを前時代的な二層式洗濯機の中に放り投げ、自身もパーカーとハーフパンツ、パンツを脱いで洗濯機の中に入れると、少女の手を引いて浴室の中に入った。
「ここのシャワー。殆ど熱くなんないから」
そう言いながら、少女の空色の髪にシャワーヘッドから流し出されるお湯なのか水なのか微妙な温度のシャワーを掛けてやる。この頃すっかり大浴場の熱いお湯に慣れていた少女の口から「ひっ」と短い悲鳴が漏れ、少女の肩もびくっと波打って硬くなったが、アスカは構わず少女の体にまんべんなくシャワーを掛け回し、体に付いていた泥や砂、汗を洗い流していく。
お湯なのか水なのか微妙な温度のシャワーに慣れてきたのか、少女の体から少しずつ緊張が抜けていくのがアスカにも感じられた。
一度シャワーを止め、固形石鹸を少女の頭に塗りたくって泡立て、両手でワシャワシャと髪の毛を引っ掻き回す。ついでに石鹸が付いた手で少女の顔も撫で回す。顔をもみくちゃにされる少女の口から、うーうーと呻き声が漏れた。
再びお湯なのか水なのか微妙な温度のシャワーを少女の頭上から掛け流す。少女の髪を梳き、少女の顔を撫で、残った石鹸の泡を洗い流していきながら、アスカは言う。
「体までは洗わないから」
少女は石鹸が染み込まにように目をぎゅっと瞑りながら、こくりと頷いている。
シャワーを壁のフックに掛け、扉を開き、少女の手を引いて脱衣所へと出る。
脱衣所のタンスの上に重ねられたタオルの一枚を取り、それで少女の頭をワシャワシャと引っ掻き回して髪に残った水分を拭き取ると、今度は顔をゴシゴシと拭いてやる。再び顔をもみくちゃにされる少女の口からは、うーうーと呻き声が漏れている。
首を拭いて、肩を拭いて。
そこまでやって、アスカはふと気づいた。
「なんであたしがこんな事までしてやんないといけないのよ」
そう言うと、アスカはタオルを少女の顔に向かって投げ付ける。
目の前が白のタオル生地に覆われてしまった少女。タオルが床に落ち始める前に両手で受け止め、顔から剥がすと、目の前に居たはずの緋色髪の少女はすでに浴室へと戻っており、閉じた扉の向こうからはシャワーの流れる音がし始めた。
曇りガラスに映るアスカのシルエットをぼんやりと見つめている少女。
「着替え、そこら辺にあるもの、テキトーに着ていいから」
扉越しのアスカの声に頷いて答えた少女は、与えられたタオルで体を拭き始めた。
固形石鹸で髪を洗うと乾いた後にゴワゴワになってしまうので好きではないのだが、ここではシャンプーやリンスなどという贅沢品は望んではならない。そもそもこのシャワー自体、ここの家主に強請って造ってもらったものだ。この村でシャワーがある家は、ここだけなのだ。
背中まで伸びた髪に付着する石鹸の泡を、シャワーで丹念に洗い流す。一度シャワーを止め、洗身用と同じ石鹸で顔を洗う。頭も顔も、体も、使う石鹸はこの固形石鹸一つ。幸いと言うべきか、特異体質であるアスカの顔はこれといったスキンケアをしなくても染み一つないピチピチ肌だ。
浴室の中にある鏡に映る、ツヤツヤ肌の顔を見つめる。
まるで赤ん坊のような卵肌の顔を、忌々しく、見つめる。
アスカの顔の4分の1を占める黒の眼帯。
入浴中であっても、取ることが許されない、黒の眼帯。
つい先ほど目撃したばかりの、全身に鈍く光る痣を浮かせた少女の姿を思い出す。
「まったく…、エヴァのパイロットって奴は…」
忌々しくそう呟きながら、シャワーヘッドを手に取り、栓を勢いよく捻って、お湯なのか水なのか微妙な温度である人工の雨を顔に浴びた。
脱衣所への扉を開く。
タンスの上のタオルを一枚取り、頭と体を拭いていく。使ったタオルは洗濯機の中に投げ込み、洗濯機のスタートボタンを押す。ゴトゴトと、見ているこっちが不安になるような激しい物音と横揺れを出しながら、動き出す洗濯機。
髪はまだ生乾きだが、もちろんドライヤーなどという代物もないため、タンスの引き出しからパンツを一枚取り出して履き、そのままリビングへと出た。
リビングに出て飛び込んできた光景に、アスカはうんざりしたように鼻から盛大に溜息を漏らすことになる。
リビングの床の真ん中で、空色髪の少女が寝ている。
床で体を横に伏せて寝ている少女の足もとまで歩み寄る。
少女が床の上で、ただ「寝ている」だけではないことは、少女のその姿を一目見た時からすぐに分かっていた。
乱れた少女の髪。
乱れた少女の衣類。
横たわる少女の近くに投げられたタオル。
少女の周囲に散乱する文具類。倒れた椅子。
空色の髪の隙間から覗く小さな鼻の頭は赤く腫れ、その孔からは鮮血が滴っている。
転倒し、そのまま意識が混濁してしまっているらしい少女。
薄く開いた瞼の隙間からは瞳孔が開き掛けた瞳が覗き、そこから放たれる弱々しい視線が、床の上をぎこちなく這っている。
そんな少女の姿にも、アスカは特段慌てた様子もなく、少女の顔の近くで跪く。
少女の頬を、ぺしぺしと叩いた。
「ほら、起きなさい」
アスカに頬を叩かれ、少女の瞼か何度か開閉する。
それでも少女の両腕両足は力なく床に投げ出され、動き出そうとはしない。
「ほら。早く。こんなとこで倒れられても、こっちが迷惑なのよ」
アスカは引き続き少女の頬をぺしぺしと叩いている。
何度か開閉が繰り返された少女の目が、すっとアスカの方へと向いた。どうやら、意識を取り戻したらしい。
それでも、少女の両腕両足は床に投げ出されたまま。
「もう。あんたが自分で決めたことでしょうが」
少女の頬を叩くことを止めたアスカは、右手の指で狐さんを作ると、少女の顔の前に翳す。
「いずれはこうなるって分かってた上で、ここに残るって決めたんでしょ?」
そして少女の額に目掛けて、右手の中指を勢いよく弾いた。
所謂、デコピンを喰らった少女。
額を襲った鈍痛に思わず顔を顰め、口をへの字に歪ませている。
「それとも誰かが助けてくれるとでも思ってた?」
少女の両腕両足がようやく動き出す。
両腕を自身の体の下に潜り込ませ、床を押すようにして上半身を起こし始める。
上半身が床から離れたら、今度は両膝を床につけて腰を床から浮かせる。右膝を立て、左の足底を床に付け、ゆっくりと腰を上げ始めた。
まるで生まれたての小鹿のように両膝を戦慄かせながら立ち上がろうとする少女。
その姿にアスカは「ちっとは根性あるようね」とばかりに、少しだけ感心した表情を浮かべる。
しかし。
「あうっ」
短い呻き声と共に少女の腰が砕け、少女の体は床に片膝を付いてしまった。
崩れた拍子に少女が着る服が乱れ、はだけた襟の陰から見える少女のうなじ。
鈍く光る痣に染まった、少女のうなじ。
さらに。
「うぅ…」
少女は咄嗟に口を押さえようとしたが間に合わず、少女の口から呻き声と共に漏れ出た液体が床を汚した。
少女の口から吐き出された吐瀉物。
鈍く光る、赤褐色の吐瀉物。
少女の全身を覆いつつある痣と同じ色の、少女の体の中から吐き出された吐瀉物。
それはつまり、あの痣は少女の体の表層部だけでなく…。
アスカは咳き込む少女の背中を、不快そうに顰めた顔で見つめながら言う。
「あ~も~汚さないでよ、まったく。誰がここ掃除してると思ってんのよ」
この小屋における自分の数少ない仕事の成果を殊更主張するアスカの声に、少女は慌てた様子で着ていた服のポケットに手を突っ込んだ。
村人に囲まれた鈴原家の家。
そこから着の身着のままで逃げ出した少女が持ち出すことができたものは、たったの2つ。
そのうちの1つをポケットから取り出した少女は、それを使って床の上の吐瀉物を拭き取り始めた。
少女が、彼女自身が吐き出したものの後始末をしている。
布を使って、床の上の吐瀉物を拭き取っている。
青い布。
青いバンダナを使って。
床の上の汚物を拭いている。
いや…、それって…。
「ちょっ、それって…」
戸惑いの混じった声が頭上から降ってきたので、少女は顔を上げる。
アスカが、目をまん丸にして少女を見下ろしている。
いや、正確に言えば、少女が手に持つ青いバンダナを見つめている。
「それって…」
同じ言葉を繰り返し呟くアスカ。
少女はアスカの顔を見つめ、そして自身の手の中にある青いバンダナを見つめ。
アスカの顔を見つめ。
青いバンダナを見つめ。
目を、激しくぱちくりとさせる少女。
アスカの顔を見上げ。
そして再び目を激しくぱちくりとさせる少女。
その後も何度かアスカの顔と青いバンダナとの間を、交互に視線を行き来させていた少女。
最後にゆっくりと顔を上げてアスカの顔を見上げ。
そしておずおずと、吐瀉物塗れの青いバンダナをアスカに差し出した。
「そのまま返すんかい!」
少女の額に、アスカの渾身のデコピンが炸裂した。
「ああもう…!」
仕方なく少女の手からバンダナを毟り取ったアスカは、そのまま脱衣所の洗面所に直行。バンダナに付いた光る液体どもを蛇口の水で洗い流すと、ガタゴトと激しい物音を響かせながら回っている洗濯機の中に放り込む。
リビングに戻ると、少女が側の机を支えにしながら、震える膝に鞭打って何とか立ち上がろうとしている。
ようやく両膝が伸びた少女。そのまま食事用テーブルの椅子に向かって歩き出そうとして。
「ああもう…!」
再び倒れてしまいそうになった少女のもとへアスカは慌てて駆け寄り、少女の脇に腕を滑り込ませてその細い体を支える。
自分の体を支えてくれるアスカの横顔を、驚いたような表情で見つめる少女。
そんな少女の視線を無視して、アスカは少女に肩を貸しながら、ベッドに向かって歩き始めるのだった。
空色髪の少女の体を、ベッドの上に寝かせる。
「それにしても…」
ベッドの上に横になった少女を、呆れ気味に見下ろすアスカ。
「テキトーに着ていいっつったけどさ。よりによって男物選ぶかね、まったく」
少女が着ている服。
アスカから「その辺にあるものを着ていい」と言われたので、リビングのテーブルの上に畳んで置いたあったものを拝借して着た服。
両肩に白の線が入った、紺色のジャージ。
少女の体躯にはちょっと大きい、ダボダボのジャージ。
少女はアスカが被せてくれたブランケットを鼻の近くまで手繰り寄せながら言う。
「碇くんと…、お揃い…」
アスカは口を「へ」の字に曲げながら、「はいはい」と超テキトーに相槌を打つ。
自分用のベッド(正確にはこの小屋の持ち主用)を空色髪の少女に占拠されてしまったアスカは、食事用テーブルの椅子に腰かけながら、携帯ゲーム機でピコピコと遊んでいた。
奇妙な音がした。
アスカは奇妙な音の音源であるベッドに顔を向ける。
ベッドのシーツの上に空色の髪を広げて横になっている少女。
目は閉じておらず、瞼を薄っすらと開いた目で天井をぼんやりと見つめている。
再び、奇妙な音。
ぐ~~、と。
アスカが自分自身の体から聴くことは当の昔になくなった、お腹の虫の音。
「なに? あんた、腹減ってんの?」
ベッドの上では少女がこくこくと頷いている。あの一家ならとっくにお夕飯を済ませている時間。
「あなたは、お腹、空かないの?」
「あたしはあんたみたいに食い意地張ってないのよ」
アスカの皮肉めいた言葉を無視して、少女は天井を見つめ続けながら言う。
「昨日は午前中は畑仕事。午後は病院の手伝い。そのまま病院で夜勤」
そこまで言って、アスカに目を向ける。
「労働者は、お腹が減るの…」
「言っとくけどあたしがお腹減らないのはあたしがニートだからじゃなくて…、って、誰がニートじゃ!」
芸人も真っ青の見事な一人ボケツッコミをかましたアスカを、きょとんと見つめている少女のお腹からは、相変わらずぐーぐーと腹の虫が鳴っている。
「ああもう…!」
アスカは立ち上がると、台所に向かった。
「何かあったかしら…。レーションはあいつが全部食べてもう無かったし…」
アスカにとってはこの家で一番用事のない場所である。どこに、何が置いてあるのかも分からない。
ふと、ガスコンロの上の鍋に目が行った。蓋を開け、中身を覗いてみる。
お盆の上にお椀とお箸を乗せ、ベッドのあるリビングへと戻る。ベッドと同じくらいの高さの椅子を引っ張り出し、その上にお盆を乗せ、ベッドの側に置いてやった。
少女はいかにも気だるそうに体を起こして、ベッドの端に座る。
身を乗り出して、お椀の中身を覗き込んだ。
「今朝の残り物だから。痛んでても知らないわよ」
お椀の中身に目を輝かせている少女はアスカのその声に黙ったまま頷くと、ゆっくりとお椀を手に取り、ゆっくりと顔に近付ける。とんがらせた唇をお椀の淵にくっ付け、お椀を傾け、中身の味噌汁を口の中へと流し込んだ。
少女の細い首に浮く控えめな喉仏が上下に動き、一口、二口と、味噌汁を飲み込んでいく。
お椀を水平に戻し、唇をお椀から離し、お椀を持つ手を膝の上に置く。
「ふ~…」
幸せそうな吐息を吐く少女。
そんな少女の顔を、椅子の上から眺めていたアスカ。人の幸せを素直に喜べない困ったちゃんな彼女の心の中に、意地悪な考えが浮かんでしまう。
「ねえ、あんた」
三口目を頂こうとお椀を口に近付けようとしていた少女は、その手を止めてアスカに視線を向ける。
「その味噌汁と、ヒカリが作る味噌汁と、どっちが美味しい?」
突然の質問に、きょとんとした表情を浮かべてしまう少女。
暫くアスカの顔を見つめ。
そして膝の上の味噌汁が入ったお椀を見つめ。
そして天井を見つめ。
部屋の中をぐるっと一周した少女の視線は、再びアスカの顔へと戻った。
少女はぽつりと言う。
「選べない…。どっちも…、美味しい…」
「うわっ。ずるっ」
少女の答えにアスカはそう漏らしつつも、心の中では。
―――つまりあんたにとっては、ヒカリが作った味噌汁も、「あいつ」が作った味噌汁も、どっちも一緒ってことか。
心の中で密かにほくそ笑むアスカを他所に、少女は虚空を見つめながら続ける。
「あのおうちで食べる味噌汁は、ほくほくして、体が何か、温かいものに包まれていくような、そんな感じ…する…」
そして膝の上のお椀の中身に視線を落とす。
「この味噌汁は、胸の中から、心の奥からじわじわと温かいものが、体中に広がっていく、そんな感じ…、する…」
そこまで言って、少女はお椀を顔に近付け、三口目を口にする。
控えめに喉を鳴らし終え、お椀を顔から離す少女。
ふー、と短い吐息をし。
そしてアスカを見つめ。
「ポカポカ…、する…」
そうぼんやりと呟いた少女の左目から、一筋の涙が零れ落ちた。
左頬に走る感触。
少女は左手を上げ、左頬に残る涙の足跡に触れる。
「涙…」
微かに濡れている左手の指を見つめる少女。
「涙…、知ってる…。悲しい時…、寂しい時に…、人は泣く…」
少女は小さく口を開き、その隙間からピンク色の舌を少しだけ出す。
指に付いた涙の痕跡を、そっと舌先で舐めてみた。
指の先に付着していたのはお椀の味噌汁と同じ、ちょっとばかりしょっぱい液体。
「初めて…、知った…」
アスカの顔を見つめる。
「嬉しい時も…、人は、泣くのね…」
そう呟く少女の両目から、大粒の涙がぼたぼたと零れ始めた。
少女はお椀を顔に近付け、四口目、五口目を啜っている。
「泣きながら味噌汁飲むやつとか、初めて見たわ…」
呆れつつも、何処か羨まし気にそう呟くアスカ。気が付けば、生唾を呑み込む喉がごくりと鳴っていた。
立ち上がり、台所へ向かう。棚からお椀を一つ取り出し、ガスコンロの前に立ってその上に乗る鍋の蓋を取り、中身の味噌汁をお椀へと注いだ。
リビングへと戻り、椅子にどかりと乱暴に座る。
ベッドの上の少女は、相変わらず涙を流しながらも幸せそうに味噌汁を啜っている。
「ふん…」
アスカは鼻を鳴らしながらお椀に口を付けた。
中身の3分の1を、一気に呷ってみる。
口の中に広がるのは、無味無臭の液体。
酸味も甘味も旨味も、温かさも冷たさも、何も感じない舌。
液体を口に含む感触すらもなく、まるで砂でも飲み込んでいるような舌触り。
すぐにでも吐き出してやりたかった。
お椀の中の残り3分の2を、床にぶちまけてやりたかった。
それでも。
「美味しい…」
お椀を見つめながらそう漏らす少女が目の前に居て。
少女の視線はアスカへと向けられ。
「美味しいね…」
同意を求められてしまって。
「ふん。まあまあなんじゃないの…」
アスカはそう答えながらそっぽを向き、残り3分の2を口の中へと流し込むのだった。