何処からか轟く物騒な物音に耳を傾け、漂う煙草の煙に鼻を擽られながら、無言で床に座っている少年と男性。少年は物騒な物音がする天上を見上げ、男性は床と腕時計を交互に見つめている。
2人の間の静寂を破ったもの。
それは2人の間に置かれた、小さな通信端末機だった。
通信機から、ノイズ交じりに漏れる音声。
『…こちらチームアルファ』
床と腕時計を行き来していた男性の視線が、通信機へと向けられる。
『こちらチームアルファ。第2発令所制圧に成功。繰り返す。チームアルファは第2発令所を制圧した』
男性は静かに目を閉じた。
通信機からの音声が途切れるまで止めていた呼吸を再開させ、盛大に鼻から紫煙を吐き出した。強張っていた両肩から力を抜いた。左手を、密かに強く握り締した。
通信機には、最初の音声を皮切りに次々と別の音声が流れ込んできていた。
『こちらチームチャーリー。第5ケージを確保。ただちに硬化ベークライト注入開始します』
『本部中枢コントロール室、占拠完了』
『エヴァ・パイロットを拘束しました』
男性は煙草を口に咥えると、両手を組み、天に突き上げて大きく伸びをする。首をコキコキと鳴らし、腕を下ろすと、煙草の灰がズボンの上に落ちるのも構わず一度くてんと顎を下げた。
ゆっくりと顔を上げ、天井の隅を見つめ続ける少年に、静かに声を掛けた。
「渚司令…」
少年は目を閉じ、小さくため息を吐いた。
「僕のことはカヲルと呼んでって、言ってるよね?」
咎めるよな少年の声を無視して、男性は続ける。
「私のささやかな願いを、一つだけ叶えていただけますか?」
「僕にできることなら…」
男性は先ほどポケットにしまったばかりの青い布を取り出し、少年に差し出す。
「これを、あなたの腕に巻かせて下さい」
少年は閉じていた瞼を開くと、顔は天井に向けたまま赤い瞳だけを動かして、男性の手の上にある青い布をじっと見つめた。
「それだけです。それが今、私があなたに叶えてほしい、唯一の願いです」
少年は無言で青い布を見つめている。
「…渚司令…」
名前を呼ばれ、少年は視線を青い布から男性の顔へと移す。
男性は、瞬きもせずに少年の顔を見つめている。
少年の返事を、息もせずに待っている。
たっぷりとした沈黙の間の後。少年は天井に向けたままだった顔をようやく下ろし、前髪を掻き上げつつ男性を正面から見つめる。
「リョウちゃん…」
「はい。渚司令…」
「一つだけ聞いておきたいことがある」
「はい。なんなりと」
「エヴァはどうするつもりだい?」
「ゼーレから支給されたエヴァは全て凍結した後、処分します」
「そっか。でもいいかのかい? 使徒との戦いは、まだ終わってはいないのではなかったかな?」
「ええ。ですからユーロネルフ純正の弐号機だけは維持し、対使徒戦に備えようと思います」
「パイロットは?」
「あのユーロネルフの子を充てようと思います。これで少なくとも、あのちびっ子たちを戦場に駆り立てなくて済む」
「ふふっ。思いやりだね。でも弐号機だけで十分なのかな?」
「ご心配なく。我々人類は日々、己が存在を担保するための研究には余念がないのです」
「そうなんだ…」
少年は男性から視線を離し、虚空へと向ける。
「初号機は…、どうするつもりだい?」
少年が見つめる、暗闇の虚空。
しかし、よく目を凝らしてみれば、そこには聳えるように立つ巨人の巨大な顔が浮かび上がってくる。
男性も少年と同じように薄闇に浮かぶ巨人の顔を見つめた。咥えていた煙草を右手で摘まみ、まるで巨人の顔に吹き掛けるように口の先から細い紫煙を吐き出す。
「…破壊します」
男性がぼそりと呟いたその一言に重ねる様に、少年は深くため息を吐く。
「それは…、君の意思かな?」
「我々の…、ヴィレの総意です」
「その総意とやらには、君の奥方の意思も含まれているのかな?」
「妻はまだ我が組織に参加していません。ですから、妻の意思は関係ありません」
「初号機には君の奥方の被保護者が居る。それでも関係ないと言えるのかな?」
「はい…」
少年は目を閉じ、やれやれとばかりに収まりの悪い髪をワシワシと掻いた。
「せっかく穏やかな新婚生活を送ってるというのに。わざわざ自ら波風起こさなくてもいいんじゃないかな?」
「妻は我々の決断を分かってくれるでしょう。許してはくれないでしょうが…」
「…その総意を君の一存で覆すわけにはいかないのかな?」
「できません。ニアサードを引き起こしたという事実に、我々は目を瞑るわけにはいかないのです」
一歩たりとも譲歩の姿勢を見せようとしない男性。
「そっか…」
まるで溜息を吐くように、短く呟く少年。かくんと首を垂れ、足の間の床を見つめる。
「……そっか」
膝の上に組んでいた両の手に、わずかばかり力がこもった。
「…もしかしたらシンジ君」
薄闇の中の巨人の顔を見上げる。
「君のお父さんが君を初号機に残したのは、この時のためだったのかもしれないね…」
少年は側に置いていたコップを手に取り、中身をぐいっと一気に飲み干す。
一口目と変化なく、この世のものとは思えない、刺激に満ち満ちた味。
しかし常に柔和な笑みを浮かべている少年の表情が苦々しく歪んでいるのは、決して口に含んだ液体の味の所為だけではないだろう。
少年は手の中のコップをくしゃりと潰すと、ぽいっと遠くに投げた。床の上をカラカラと、プラスチック製のコップの転がる音が響く。
少年は床に手を付き、ゆっくりと腰を上げる。膝を伸ばし、床から手を離し、腰も伸ばす。
こちらを見下ろすように聳え立つ巨人。その巨人の顔を、微笑みながら見つめ、そして振り返る。
床から立ち上がった少年。
男性の方に振り返った少年。
男性と、背後の暗闇の中に聳え立つ巨人との間に立つ少年。
いや。
立ちはだかる少年。
士官服のズボンの両ポケットに、無造作に両手を突っ込んで立っている少年。
まだ顔にあどけなさを残す、男性の肩ほどの背丈しかない少年。
そして背後に聳える巨人に比べれば、遥かに小さい少年。
しかし少年から男性に向けられる眼差し、そして彼が纏う空気は雄弁に物語っている。
この場における、絶対的な強者は誰であるか、を。
男性の頬を、一筋の汗が伝う。
発達した喉仏が大きく上下に動き、咽頭の中を生唾が通り抜ける。
男性は逃げるように少年から視線を逸らして床に落とした。意識的に、大きく深呼吸する。1度。2度目は目を閉じて。高鳴る心臓が落ち着いたこと確認すると、最後にもう一度タバコを咥え、深く息を吸った。息を止め、吸い掛けのタバコを遠くへ放り投げると、鼻から紫煙を少しずつ漏らしながらゆっくりと立ち上がる。
2回ほど両頬をパンパンと叩いた後、右手をベルトの腰の辺りに忍ばせた。羽織っていたジャケットの裏に隠していたものを握り、引き抜く。
少年は男性が握ったものを見て冷笑する。
「そんなものを持ち出してどうするつもりだい? 僕の正体は君も薄々気付いているのだろう?」
紫煙を周囲に纏わせる男性は握った自動拳銃のスライドを引くと、一旦右腕をだらんと下げて銃口を床へと向け、ジャケットのポケットに左手を突っ込む。
「言ったでしょう。我々人類は日々、己が存在を担保するための研究には余念がない、と。ましてや使徒という人類の天敵を駆逐するという喫緊の課題に対する研究には、労力を惜しみません」
「ここに君らが頼れるエヴァは存在しないよ?」
「確かに使徒を倒してきたのはエヴァです。ですが我々人類がいつまでもエヴァという得体の知れないものに頼るか弱い存在だとは考えない方が身のためですよ」
男性はポケットから取り出したものを床に投げた。
2人の間の床に転がる小さな黒い立方体。ピピっと小さな電子音が響き、上面がうっすらと淡い光を灯す。
立方体が淡い光を灯し始めた途端、肌に微かな痺れのようなものを感じた少年。立方体を見つめる少年の目が僅かに細まった。
「アンチATシステム。こんなものまで造っていたんだね」
「ゼーレとネルフと海洋研究機構の技術を集めれば、案外簡単に作ることができましてね」
男性は、ぶらんと下げていた右腕をすっと水平に伸ばした。
右手に握られた拳銃の銃口が、まっすぐに少年の顔へと向けられた。
男性の顔が、苦々しく歪む。
「こんなもの…。あなたには向けたくなかった…」
少年の顔からは、笑みが消えることはない。
「仕方がないことだね。この世界で一番大切にしたいもの。決して譲れないもの。それが君と僕とでは違っただけだ」
「たった一つの違いだけで、血を流し合う必要はないでしょう。…渚司令」
男性は改めて青い布を少年へと差し出す。
「これをあなたの腕に巻いてください」
「僅かな違いが生む破局を、君たち人類は何度も目の当たりにしてきたはずじゃなかったのかな?」
「私たちなら先人が犯した愚を回避することができるはずです。あなたと過ごしたこの3カ月で、私はそう確信しています。ですから渚司令」
右手には拳銃を持って。左手には青い布を持って。
「これを巻いてください」
少年は静かに頭を横に振る。
「…君には悪いけど、僕はその愚を犯し続けている先人とやらさ」
自嘲気味に、そして諦念さえ漂わせる少年の笑み。
「渚司令…」
男性は人差し指を拳銃の引き金に掛けた。
「すまないね…。リョウちゃん…」
少年は終始笑みを絶やすことはなかったが、そのやや大き目の口から放たれた声は、今にも泣いてしまいそうだった。