夜も更けて、ようやくこの家の主と「あいつ」が帰ってきた。友人の仕事の手伝いによほど疲れたのか、軽自動車から降りた「あいつ」は夕飯も摂らずにふらふらと夢遊病者のような足取りで小屋の裏部屋にある寝床へと直行。空色髪の「こいつ」が来ていることを告げる暇もなく、そのままバタンキューしたようだ。何故か家の主は軽自動車から降りず、そのまま夜の道を引き返していった。
村の夜は早い。貴重な電力を浪費しないようにするため、早めの就寝が推奨されており、夜遅くまで電灯を点けている家は周りから白い目で見られてしまう。
家の主に迷惑を掛けるわけにもいかないため、アスカも消灯することにした。
空には異常に肥大化した月が浮かんでおり、窓から差し込む月明りのおかげで部屋の中は思いのほか明るいものの、暗がりの中で何かをするつもりにもなれず、さすがにゲーム機にも飽きてしまったため、仕方なく、アスカもベッドに横になることにした。
とは言え、彼女専用のベッドは(本来はこの家の主用のベッド)「こいつ」が占拠してしまっている。軽自動車で何処かへ行ってしまったこの家の主の寝床(寝袋)で横になるという手もあるが、疲れて帰ってくるだろう彼のためにその寝床は空けておきたい。だったら「あいつ」を足蹴にして無理やり寝床を奪うという手もあるが、横になりたいだけで睡眠をとるわけでもないので、乱暴狼藉を働いてまで寝床を確保したいわけでもなかった。
結局、アスカはこの場所で横になることにした。
「ちょっと」
家の主と「あいつ」が帰ってくる少し前から、アスカ(家の主)専用のベッドですやすやと小さな寝息を立てながら眠っている空色髪の少女の頬を、ぺしぺしと軽く叩く。
「も少し端に寄んなさいよ。あたしが入れないでしょうが」
安眠を妨げられた少女はいかにも不服そうに顔をしわくちゃにし、両拳で目もとをぐりぐりしながらも、命じられた通り体をベッドの端へと寄せる。右半分が空いたベッドの上に、アスカはその身を横たえた。
時計の針が0時を回った。
ベッドに横になって以来、20回目の寝返りを打つ。シングルのベッドに2人が寝ているので、寝返りを打つのも一苦労だ。
眠ることができない。
睡眠というものを、必要としない。
自分のこの特異な体質のことは、誰にも知らせていない。おそらくヴンダーの副長やあの耐爆隔離室の同居人あたりは気付いているのだろうし、その上で知らない振りをしているのだろうが、少なくともアスカ自身はこの数年間一睡もしていないこの体のことを誰かに、この家の主にも報告したことはなかった。
左目が「別のもの」になって。
次に自分の体に現れた異変は、味覚の消失だった。
何を食べても、どんなものを口に入れても味がしない。
体が、味覚というものを必要としなくなっていた。
味を感じたくて。
味覚というものを思い出したくて。
自分がまだ人間であると信じたくて。
だから手あたり次第、あるものを食べた。
胃が膨れ切って、もうこれ以上入らないと情けないことを言い始めたら、口の中に指を突っ込んで胃の中のものを全て吐き出し、そしてまた食べた。
吐いては食べ、吐いては食べを繰り返し。
口に入れていいものは何でも全て口の中に押し込んで。
気が付けば滞在していた、正確に言えば軟禁されていたヴィレのとある小さな後方基地の倉庫にある全ての食糧を喰い尽くしていた。
食い散らかしたものが散乱している倉庫の隅っこで、火も通していない生の人造肉に泣きながら齧り付いている自分の姿を見つめる、仲間たちのあの眼差し。
あんな眼差しを向けられるのは二度とご免だから。
だからアスカは、その後も現れ続ける体の異変を誰にも報告することなく、自分の心の内に留め置いた。
「眠れない、の…?」
ふと、すぐ側から声。閉じていた瞼を開けると、少女の顔が視界一杯に広がる。
アスカはすぐ瞼を閉じ、21回目の寝返りを打って、自分の顔を覗き込んでいた空色髪の少女に背中を向けた。
「いつもよりベッドが狭いからよ…」
不愉快そうに言う。
「ごめんな……」
謝罪の言葉を言いかけて、咳き込んでしまう少女。
「ベッド、汚さないでよ…」
「うん…」
そう言う少女は、口を閉じながら小さく咳を繰り返している。
少女の咳が落ち着いて。
「一つ…、訊きたいこと…、ある…」
背中から少女のか細い声。
「なによ…」
わざとらしい欠伸を交えながらアスカは答える。
「あなたは…、どうしてみんなと…、暮らさないの…?」
くだらない質問を、と思ったアスカは無視しようかとも思ったが、そう言えばこいつが初めてこの小屋にやって来た時も、同じ質問をされたことを思い出す。
ベッドから見える窓ガラス。そのガラスの向こうに浮かぶ肥大化した月を睨みながら、アスカは口を開いた。
「あんたも見たでしょ? あたしを見た時のあの村の連中の反応…」
原付バイクであの村に駆け付け、鈴原家を囲む群衆の後ろで拳銃を空に向けて2発放った。
その発砲音に驚き、振り返った彼ら。
彼らの顔から一斉に怒気が消え、代わって彼らの顔に浮かび上がった感情。
あれは嫌忌。
そして恐怖。
「あいつら見てたのよ。あたしがリリン…、人じゃなくなる瞬間を。もう10年も前の話だけどね」
4年ぶりに目覚めたあの日の夜。あの難民キャンプでの夜の出来事。人ならざる咆哮を放つ口。不可解な閃光を放つ左目。人ではない何かへと変容する体。
異変に気付き、駆け寄ってきたヴィレの屈強な兵士たちを紙切れのように次々と突き飛ばしていく少女の姿をした怪物。
暴れる少女の姿をした怪物を、人力で抑え込むことは不可能と判断したヴィレの最高司令官は自ら運転するトラックで少女の姿をした怪物を撥ね飛ばし、少女の姿をした怪物の暴走を辛うじて食い止める。
あの難民キャンプを住処としていたこの村の住人たちは、その一部始終を見ていた。
いつの間にかベッドのシーツを握り締めていた左手を、そっと緩ませる。
「そりゃあいつらもご免でしょ。こんな人か使徒かも分かんないような奴と一緒に暮らすなんてさ」
体から意識的に力を抜くために、無理に口角を上げ、鼻から短い息を吐いた。
背後で動く気配。どうやら、少女が上半身を起こしたらしい。
「あなたは、人、じゃないの?」
背後からか細い声で投げ掛けられたその問いに、緩んでいた左手が再びベッドのシーツを握り締める。
体中の筋肉が緊張したが、それでも、少なくとも声音だけはいつもと変わらない、ちょっとだけの不機嫌を乗せた声で。
「さあ」
とだけ答えた。
「あなたは、使徒、なの?」
アスカは握り締めていたシーツを離すとその手でベッドを押し、体を起こして身を翻した。
上半身を少しだけ起こしていた少女。
その少女の両肩に両手を伸ばし、少女をベッドに無理やり押し倒す。さらには右足で少女の腹を跨ぎ、少女の体に馬乗りになった。
瞳孔の開いた青い瞳で、赤い瞳を睨み付ける。
「あたしはあたしよ! 人だろうと、使徒だろうと関係ない!」
急に押し倒されたかと思えば、怒鳴り付けられてしまった空色髪の少女は、目をまん丸にしてアスカを見上げている。
そんな少女に対して、アスカは言い放つ。
「あたしはエヴァンゲリオン弐号機専属パイロット! 式波・アスカ・ラングレーよ!」
ベッドのシーツに広がる空色の短い髪。
シルクのような白い肌。
控えめに主張する鼻と小さな口。
そんな少女の顔の、一番目立つところに収まった2つの赤い瞳。
まん丸に見開かれていた少女の目が、2度の瞬きを挟んで、普段のサイズへと戻る。
色素の薄い上唇と下唇に小さな隙間が生じる。
「そう…」
少女の口から漏れる、掠れた声。
「あなたは、しきなみ、あすか、らんぐれえ、というのね…」
「そうよ!」
「素敵な…、おまじない…」
紺色のジャージの袖に包まれた少女の2本の腕が、ゆっくりと上がった。
ブカブカの袖の先端から覗く白い手が、ゆっくりとアスカの顔へと近付く。
少女の両手が、アスカの顔を柔らかく包み込んだ。
「これが、しきなみ、あすか、らんぐれえ…」
まるで顔の形を確かめているかのように、少女の手はアスカの肌の上をゆっくりと上下しながら、アスカの顔を撫でている。
その手は少しずつアスカの頭の後ろへと回される。緋色の長い髪を掻き分け、後頭部に達した少女の右手と左手は、互いの指を軽く絡ませて、そしてその手に包んだものを、優しく手前へと引き寄せる。
気が付けば、睨み付けていた少女の顔は視界から消えていて。
気が付けば、ベッドのシーツが目前に迫っていて。
気が付けば、自分の頭は誰かの腕の中に収まっていて。
気が付けば、自分の胸やお腹は誰かの胸やお腹と密着していて。
気が付けば、自分の体は空色髪の少女の腕の中にすっかり収まっていて。
少女は左手でアスカの頭を包み込み、右手でアスカの背中を抱き寄せる。
腕と胸とお腹、足。全身で感じる、ヒトの象形。
「これが…、あなたの…、形…」
少女はその頭を窮屈そうに動かしながら、空色髪の隙間から覗く小さな耳をアスカの胸元に押し付ける。
その耳に届く、力強い生命の鼓動。
「これが…、あなたの…、音…」
少女は耳をアスカの胸から離すと、今度は鼻をアスカの首もとへと近づけた。
小さな鼻の孔を少し膨らませ、大きく深呼吸する。
「これが…、あなたの…、匂い…」
瞳を少し動かすと、そこには緋色髪の隙間から形の良い耳たぶがひょっこりと顔を出している。
少女は口を少し開け、その耳たぶをぱくっと上唇と下唇の間に挟んでみた。
「ちょ、ちょっと何すんのよ…!」
アスカの口から悲鳴のような声が上がり、その体が一気に強張る。
少女はそんなアスカの反応も気にせず、耳たぶから口を離すと少しだけ舌を出して、唇をそっと舐める。
「これが…、あなたの…、味…」
「いい加減にし…」
アスカは少女を突き放そうとするが、その前に少女の腕が2本とも背中に回り、アスカの体をぎゅっと抱き締めてしまう。
まともに立つこともできやしないこの体の、どこにこんな力が残っているのだろう。
力強く、それでいて柔らかくアスカの体を抱き締める、少女の両腕。
「これが…、あなたの…、温もり…」
少女の両腕の中に包み込んだアスカの強張った体が、まるで温かいお湯の中に浸かった時のようにゆっくりと、じんわりとほぐれていく。
「覚えておく…わ」
少女は瞼を閉じた。
「あなたの形…。あなたの音…。あなたの匂い…。あなたの味…。あなたの温もり…」
それはあと数日か。
それとも数時間か。
覚えていられる時間は、あとどれくらい自分に残されているのか、少女には分からないけれど。
「これが…、しきなみ…、あすか…、らんぐれえ…」
気が付けば、その体からはすっかり力が抜け切っていて。
気が付けば、その体を、自分を包み込む腕の主にすっかり預けてしまっていて。
気が付けば、自分の腕も自分の体を包み込む腕の主の背中に回されていて。
気が付けば、アスカも少女の体を抱き締めていて。
暫くの間、空色の髪の少女と緋色髪の少女は無言のまま互いの体を抱き締め合っていて。
耳もとで、少女の咳き込む音。
少女の体に覆い被さり、その胸を圧迫する形となっていたアスカは、少女を抱き締めたままゴロンと横になる。自分の重みから少女を解放してやると、少女の痩せた背中を優しく摩ってやった。
咳が収まった少女は、ぽつりと言った。
「みっちゃんの、お母さんが、言ってた」
その言葉に、アスカはくすりと笑う。だからみっちゃんのお母さんって誰よ。
少女は小屋の薄汚れた天井を見つめながら言う。
「赤ちゃんを抱っこするのは、守るためだって」
アスカは視界の半分を占拠する空色の髪を見つめながら、素っ気なく呟く。
「そっ」
「だから私、試してみた…」
「何を?」
「私が消える時まで、村の人全員、抱っこすること」
「バカなことやっちゃって…」
「でも全然ダメ、だった…。全然足りなか、った…」
「そう…」
「だから、あなたは凄い…」
「へ?」
「あなたは、凄い人…」
「どうしてそうなんのよ…」
「あなた言った。あなたはこの村を、守る所だって…」
「……」
「あなたは、この村の人、全員を、守ってる…」
「……」
「この村の人、全員を、抱っこしてる…」
「……」
「私が何日掛けても、出来なかったこと。あなたは、毎日してる」
「……」
「お願い…、しきなみ、あすか、らんぐれえ」
「……」
「これからも、この村を、守ってあげて…」
「……」
「これからも、村のみんなを、抱き締め続けてあげて…」
「……」
「私の分、まで…」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「あったりまえじゃないの…」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「そんなこと…、あんたにお願いされるまでもないわ…」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「くぅ…」
「寝ちゃってるし…」