ぼんやりとした視界。
四角に縁取られた窓ガラスの向こうに、朝日に照らされた庭が見える。
夜露に濡れた木の葉が爽やかな陽光できらきらと光り、物干し竿の上では羽を休めに訪れた朝の使者たちがちゅんちゅんと鳴いている。
一度目を閉じ、両手で枕を突き上げ、両足でブランケットを蹴とばし、全身で大きく伸びをした。
右手で瞼をぐりぐりしながら口を大きく広げて欠伸。
左手で枕もとに置かれた目覚まし時計を手に取り、顔の近くに持ってきて薄く開いた目で針が差す数字を確認する。
起床にはまだ早い時間。
時計を元の位置に戻し、はだけたブランケットを胸元まで手繰り寄せた。
心地よい温もりに包まれながら、二度寝へと突入。
する前に。
「シンジ~」
ぼやけた声で、同居人の名を呼ぶ。
「朝ごはんはエッグベネディクトね。卵は2個。ベーコンはミサトのおつまみの奴があったでしょ。飲み物はトマトジュースでいいわ」
ブランケットを頭まで被る。
「できたら起こして~」
体を横に倒し、膝を曲げ、背中を曲げ、胎児のように体を丸めて、今度こそ二度寝へ向けて旅立つ。
スー、スー、と布団の中から規則正しい、小さな呼吸。
窓の外から聴こえる雀たちの軽やかな鳴き声。
目覚まし時計が微かに鳴らすチクタク音。
ブランケットを跳ね除け、弾かれたように上半身を起こした。
かっと開いた目の中の青い瞳から放たれた視線が、ベッドの上を彷徨う。
飾りっ気のないシーツ。少し視線を上げれば、トタン板を張っただけの簡素な壁。
そっと、口もとに手をやる。
唇の端から頬に掛けて残る、涎の痕。
「あたし…、寝てた…?」
ふと、視線を左隣へ向けた。
ベッドの左半分にある空白。
シーツの上に残る、人が寝ていた痕跡。
「初期ロット…!」
空色の髪を求めて、今度は視線を右へ投げる。
そこにはベッドの近くに置かれた椅子。
その上に、何かが置かれている。
それは丁寧に畳まれた、紺色のジャージ。
ベッドの上で跳ね起きた姿勢のまま、椅子の上のジャージを見つめる。
そして視線をベッドがある位置とは反対側の壁へ。
壁のフックに掛けられた、3つのハンガー。そこに干されていたのは、右端から順に男物のパーカー、ハーフパンツ。
そして左端のハンガーは空っぽ。
すらりとした2本の足を、ゆっくりと床へと下ろした。
少しずつ体重を、2本の足へと乗せてゆく。
ベッドから腰を浮かせると、膝の上にあった飾りっけのない無地のブランケットが、ベッドから床へとはらりと落ちる。
、寝ぐせの付いた髪を掻き上げた。
ギシギシと、薄い床を踏みながら、椅子へと向かって歩いていく。
椅子の上には、丁寧に畳まれた紺色のジャージ。
ジャージの上には、一枚の紙。
その紙を、拾い上げる。
紙の上には、拙い筆跡で綴られた文字。
おはよう
しきなみ あすか らんぐれえ
三方を囲む壁によって縁取られた青い空。
その青い空に浮かぶ、肥大化した白い月。
背中に感じるコンクリートの冷たい感触。
前髪を揺らすのは湖から吹く朝の冷たい風。
起きたら体調は少しだけ回復していて。
それでもあの小屋に留まっていたら、これからこの身に起こることでベッドや床をとても汚してしまいそうだったから。
そしたら式波・アスカ・ラングレーをまた怒らせてしまいそうだから。
すやすやと寝息を立てている式波・アスカ・ラングレーを起こしてしまわないよう、そっとベッドから抜け出して。
3つ並んだハンガーの左端に干されていた黒のプラグスーツに袖を通して。
そっとあの小屋から抜け出して。
一度だけ、高台から見える目覚める前の村を見下ろして。
そしててくてくと、一人で朝露で濡れる道を歩いて。
気が付けば、この場所に来ていた。
あの一家の家に戻りたい気持ちもあったし、皆で汗水垂らしながら過ごした畑や、雨の日に子供たちと過ごしたあの図書館でもいいけれど。
村の人たちに見つかってまた騒動になってもいけないし。
だから、この村にやってきて、あの家とあの田畑に次いで3番目に多くの時間を過ごしたこの場所に、自然と足は向いていた。
朝靄が立ち込める湖畔に立つ廃墟。
壁は崩れ、床もあちこちが陥没した鉄筋コンクリート製の遺構。
コンクリートの床に横たわる、細い影。
空色髪の少女は、床に仰向けになって、屋根のない天井を見上げていた。
身に纏うのは彼女の半生の中で最も多くの時間、その身を包んできた黒のプラグスーツ。
その胸に抱き締めるのは、彼女の手もとに残った唯一の持ち物。
それすらも、彼女の所持品ではないのだけれど。
結局、「彼」に返すタイミングに巡り合えなかったのだけれど。
赤い瞳で、青い空を見つめる。
雲一つない空。
肥大化した月が浮かぶだけの、変化のない空。
瞼を閉じて、耳を澄ます。
夜明けを迎えたばかりの湖畔。
水面には波紋一つなく、ここを住処としている南方原産の水鳥たちは、まだ夢の中らしい。
空色の髪を揺らしていた風もいつの間にか止んでいて。
静寂に包まれた湖。
何も響かない廃墟。
その耳に届くのは。
少女自身の吐息と。
少女自身の心音だけ。
夜明け前にいつも起こされる羽目になるあの赤ん坊の泣き声も。
赤ん坊の母親が台所に立って包丁でまな板を叩く音も。
赤ん坊の父親が鳴らすおならの音も。
赤ん坊の祖父が鳴らす乾布摩擦の音も。
電車の下に住み着いた猫の鳴き声も。
大きな水溜まりの中に苗を一束ずつ植える音も。
小川でカブを洗う音も。
鍬で畑を耕す音も。
彼に投げ付けられた音楽プレイヤーがコンクリートの床の上を転がる音も。
仕事仲間と啜るお茶の音も。
長靴を履いた子供たちと一緒に水溜まりの上を駆ける音も。
彼と手を繋ぎながら歩いた帰り道に聴いた蛙の鳴き声も。
図書館でお喋りに興じるお母さんたちの話し声も。
大衆浴場で響く桶が床を叩く音も。
彼が回す釣竿のリールの音も。
プラグスーツが鳴らす警告音も。
お母さん猫の後を付いていく子猫たちの鳴き声も。
包帯でぐるぐる巻きにされた人の呻き声も。
村の人たちの怒号も。
抱き締めた相手の息遣いも。
抱き締めた相手の生命の鼓動も。
彼の笑い声も。
今は何も聴こえない。
ずっと自分を包み込んでくれていた豊かな音たちはどこかに消え。
自分とこの世界とを繋げてくれた色鮮やかな音たちはどこかに消え。
聴こえるのは、自分の中で奏でられる小さな音たちだけ。
あの村で見た、2つの「結末」。
働けなくなり、皆に食べられることで、その生の全てをこの村に捧げたあの合鴨。
全身を焼かれ、生きたままで地獄を味わいながら、最期を穏やかに迎えたあの患者。
人に、生きているものに、命を与えられたものに与えられる、その生き方に見合った「結末」。
ずっと一人だった。
この村にやってくるまで、一日の大半を一人で過ごしてきた。
生涯の大半を、沈黙の中で過ごしてきた。
そして今。
自分は独り、空を見上げている。
自分は独り、静寂の中に包まれている。
相応しい。
こんな自分に、実に相応しい「結末」だ。
波紋一つなかった湖の水面。
その水面に、小さな波が立ち始めた。
鉄筋コンクリート製の廃墟。
その床の上の砂が、小刻みに踊り始める。
湖畔を包み込む静寂を塗りつぶすように響き始めた、地響きのような低い音。
崩れかけの壁に囲われた青い空。
肥大化した月が浮かぶだけの、変化のない空。
そこに突如、大きな黒い影が入り込む。
それはまるで空を泳ぐ巨大な鯨のよう。
地上に巨大な陰を作る艦影。
空を跨ぐ、超大型空中戦艦。
少女はその戦艦を知っていた。
彼女が、黄色に塗装されたエヴァンゲリオンに乗って、愛しい彼を攫いに行った場所だから。
そして少女は、その戦艦の中で眠っている「何か」の存在も知っていた。
彼女は本来、その「何か」になるはずだったから。
彼女は本来、その「何か」になりたかったのだから。
恐ろしく長大な艦。
壁に囲われた空に蓋をし、少女が横になる廃墟の中に陰を落とす。
あの艦の中で眠っている「何か」。
ワタシがなりたかった「何か」。
なりたいと願い、ついに手の届かなかった「何か」。
でももう構わない。
「あなた」になれなかった代わりに、ワタシはこの世界の全てを手に入れたのだから。
ねえ。
あなたは知ってる?
あなたは知ってる?
犬の呼気の匂いを。
口の中に含んだ雑炊の舌触りを。
赤ちゃんはちっちゃいということを。
ツバメはカワイイということを。
あなたと違ってもいいことを。
今日を一緒に生きていくためのおまじないを。
お日様の下で流す汗水の冷たさを。
泥濘んだ地面の踏み心地を。
稲の苗の植え方を。
尻餅を付いて見上げた空の青さを。雲の高さを。
カブを貰ったら、ありがとうっていうことを。
お風呂に入るときは、みんなで裸ん坊になることを。
命令がなくても生きていいってことを。
また会うためのおまじないを。
仲良くなるためのおまじないを。
人を幸せにするおまじないを。
拾ったものは返さなくちゃいけないことを。
図書館ではしー、しなくちゃいけないことを。
人を抱っこした時の温かさを。
聴こえる息吹を。
感じる生命の鼓動を。
人は何時まで経っても、抱っこされたいってことを。
子供たちと長靴で水溜まりの上を跳ねた時の音を。
雨上がりの匂いを。
トーコンチューニューの仕方を。
人を抱き締めた時のおまじないを。
ワタシたちに調整された、仕組まれた感情のことを。
その感情の意味を。
彼に頬をぶたれた時の痛みを。
彼が抱えていた絶望の深さを。
彼と繋いだ手の温かさを。
瓶に詰められた梅干しの表面にある皺の数を。
子供たちと歩く畦道から見える夕焼けの色を。
働けなくなった鴨は殺されることを。
無職のニートに生きる価値はないことを。
人でも猫でも。赤ちゃんが生まれたらとても嬉しいってことを。
彼との釣りの退屈さを。
彼と眺める湖の美しさを。
逃した魚を追いかけて湖に飛び込んだら、彼は笑ってくれるということを。
みんなからカワイイって言われたら恥ずかしいことを。
生きることを終えた人の体が冷たくなるまでの時間を。
思い出を忘れないためのおまじないを。
あなたは知ってる?
風の色を。
土の音を。
水の形を。
火の匂いを。
あなたは知ってる?
人々と共に生きていくことの喜びを。
あなたは知ってる?
一人になることの寂しさを。
「どんなもんだい、綾波レイ」
気が付けば、廃墟の空を塞ぐ巨大な艦影に向かって右拳を突き上げていた。
あなたがその中に引きこもっている間に、ワタシはこの世界の全てを手に入れてやった。
あなたがその中に引きこもっている内は知りえないであろうことを、全て知ってやった。
ワタシは全てを知っている。
色んなことを知っている。
人は泣く。
悲しい時に、人は泣く。寂しい時に、人は泣く。
でも、人は悲しい時や寂しい時だけではなく、嬉しい時も泣くってことを、ワタシは知っている。
だから。
だから、そう。
ええ、きっとそう。
きっとこの涙は、悲しいから流した涙じゃない。
寂しいから流した涙じゃない。
あなたになれなくても。
あなたにならなくても。
「好き」って何か、分かったから。
だから。
嬉しいからワタシは泣いてるんだ。
大好きなツバメをもう抱くことができなくても。
大好きなあの一家と食卓を囲むことができなくても。
大好きな小母さんたちと稲刈りができなくても。
大好きな子供たちと遊ぶことができなくても。
大好きな彼の傍に居ることが、もうできなくても。
「好き」って分かったから。
それだけで、空っぽだったワタシの器は満たされたから。
だから大丈夫。
寂しさを知ってしまったワタシでも、一人でも大丈夫。
もう大丈夫だから。
だから。
ねえ、だから。
だからお願い。
涙。
止まって。
目が塞がれて、空の色が見えないから。
鼻の奥がツンツンして、風の匂いが嗅げないから。
口から漏れる嗚咽がうるさくて、水の音が聴こえないから。
体が熱くなって、地面の冷たさが感じられないら。
最期のその時まで、この世界を感じていたいから。
大好きなこの世界を。
彼が居る。
皆が居る。
愛おしいこの世界を。
ワタシが生きたこの世界を。
ワタシが手にしたこの世界を。
だからお願い。
お願い。
涙。
止まって。
廃墟に陰を落としていた巨大な艦影が過ぎ去り、崩れかけの壁に縁どられた青い空が姿を現す。
せっかく青空が見えるようになったのに、床に横になっている少女はその顔を両手で覆っていた。
指の隙間から滲み、頬を伝う大粒の涙。
小刻みに震える細い肩。
口の端から漏れ出る、微かな嗚咽。
少女は泣いていた。
静かな湖畔に佇む廃墟。
三方を崩れかけの壁で囲まれた舞台。
その中で、少女は一人で泣いていた。
その嗚咽を止めたのは。
肩の震えを止めたのは。
涙の流れを止めたのは。
顔から手を離させたのは。
それは足音。
廃墟の入り口の方から、コツコツとコンクリートの床を叩く足音。
床に仰向けになっていた少女は、ゆっくりと上半身を起こす。
息を止めながら、廃墟の入り口を見つめた。
崩れかけの壁の隙間から覗く白いシューズ。
紺色ジャージの袖。
短く纏まった黒の髪。
少女の顔に最初に浮かんだのは、驚きの表情。
その直後に顔がしわくちゃになってしまい、2つの瞳からさらに大量の涙が溢れ出てしまって。
涙を引っ込めるために一度鼻から大きく深呼吸をして。
口からふーっと深く息を吐いて。
何度か鼻を啜って。
涙で汚れてしまった頬を手のひらで一生懸命拭って。
そして緊張しきっていた表情筋を一気に緩ませ。
目尻を下げ。
そして口もとに、緩やかな曲線を描いて。
ゆっくりと、床から立ち上がった。
自分に残された、最後の力を振り絞って。
その胸に、彼女の唯一の持ち物となった黒の音楽プレイヤーを抱いて。
朝靄が立ち込める湖の畔に立つ廃墟。
その中に足を踏み入れた彼。
彼女は、彼に向かって「おはよう」と言った。
彼も、彼女に向かって「おはよう」と答えた。
裏部屋にある「あいつ」の寝床。
床に干し草を敷いて、その上に薄いマットを広げただけの、とっても粗末な「あいつ」の寝床。
そこで、さっきまで大いびきをかきながら寝ていた「あいつ」の姿は、今はない。
左半分が空っぽのベッドから離れて。
結局昨晩は帰ってこなかったらしいこの家の主の、やはり空っぽの寝床の横を通り過ぎて。
そしてこの裏部屋にやってきて。
慣れない肉体労働でよほどくたびれていたのか。
3人で過ごしたあのマンションでの日々では見たことがない、大口を開けたまぬけな顔で寝ている「あいつ」。
あたしが裏部屋に入ってきたことも気付かず。
「あの子」が居なくなったことにも気付かず。
呑気に寝ている「あいつ」。
とりあえず、その背中を蹴っ飛ばしてやる。
あたしのつま先に蹴っ飛ばされて、寝床から床の上に転がり落ちた「あいつ」。
それでも「あいつ」は寝ぼけた様子で目をぐりぐり押さえながら、「朝ごはんにはまだ早いよ」などとほざいてる。
そんな「あいつ」にあたしは言った。
魚が食べたい、と。
あいつは鳩が豆鉄砲食らったような間抜けな顔で、「は?」と言う。
朝っぱらから人をイライラさせる表情を見せる「あいつ」にあたしは言った。
いいから、さっさと行って、鯛でもエビでも何でもいいから釣ってこい、と。
そしてもう一度「あいつ」の背中を蹴っ飛ばしてやる。
「あいつ」は、「そんもの釣れやしないよ」などとぶつくさ言いながらも、釣り道具を抱えて小屋を出て、湖へと向かう小径を歩いていった。
「あの子」が居なくなって。
この家の主もまだ帰ってこなくて。
「あいつ」も追い出してやって。
そして、アスカは日当たりの悪い裏部屋で、木箱に腰かけながら一人佇んでいる。
その手には一枚の紙きれ。
いかにも不器用そうな筆さばきで綴られた、拙い文字。
おはよう
しきなみ あすか らんぐれえ
その文字を見つめながら、アスカは呟く。
「おはよう…、そっくりさん…」
呟いてみて、アスカはくすりと小さく笑う。
「おはよう、とか、久しぶりに言ったわ…」
と呟いた瞬間に。
「「「「お・は・よ・う!!」」」」
などと、外から大声で呼びかけられたものだから、びっくりしたアスカは木箱からずり落ち、床にすっ転んでしまった。
「「「「そっ・く・り・さあ~~ん!!!」」」
モルタルの床にしたたかに打った腰を摩りながら、声がする方を睨む。
甲高い声の集合体。
声の主は、子供たち。
アスカは起き上がると、小屋の表へと回り、勝手口のドアを開いた。
ドアを開いた瞬間、真正面から太陽の光を受け止めたアスカは頭上に手を翳し、目を細める。
朝日の光が燦燦と降り注ぐ、朽ちた駅のプラットフォームを利用した前庭。
そこに立つ複数の人影。
10人ばかりの小さな子供たちが、横一線に並んでいる。
「あれ~、そっくりさんじゃなーい」
前歯が抜けた女の子は、ドアから出てきたアスカを見てあからさまにがっかりしたように呟いた。それを皮切りに、子供たちは次々に口を開いていく。
「ねー、そっくりさんは?」
「あたしたち、そっくりさん、むかえにきたの」
「きょうはそっくりさんとおえかきしてあそぶんだから」
「ちがうちがう。ぼくときのぼりしてあそんぶんだよ」
「はやくそっくりさんもかえろーよー。ぼく、おなかすいたよー」
「はやくはやくー」
子供たちに囲まれてしまい、棒立ちになってしまうアスカ。
「はっはっは。ちょっと君たち。あんまりお姉さんをいじめないでおくれよ。困ってるじゃないか」
その青年は朗らかな笑い声を上げながら子供たちの背に立ち、子供たちの頭をぐりぐりと撫で回していく。
「ケン…、ケン…」
アスカは呆然としたまま、この家の主の顔を見つめた。
「アスカ。村の方は何とかなったよ。だからもう大丈夫だ」
「そうそう」
相田ケンスケの言葉に相槌。アスカの視線は、ケンスケの後ろから現れたお揃いの青いツナギを着た数人の女性たちに移る。
「青年団の連中には、あたしたちからきつーくお仕置きしといてやったから」
「この村じゃ青年団なんかよりもあたしたち婦人会の方がよっぽど強いからね」
「それに結局のところ村の連中の大半はあの子のことが大好きなのさ」
「そうさね。あたしたちももうあの子の居ない生活なんて考えられないよ」
「寝る前は、明日はそっくりさんに何教えてあげようかって考えちゃうくらいだからね~」
女性の一人がケンスケの肩をぽんと叩いた。
「それでもまだうだうだゆってる連中は居たけどさ。最後はこのお兄さんの一言でみんな受け入れてくれたさ」
「さっすがは我が村の何でも屋さんだね~」
「うちのバカ旦那よりよっぽど役に立つよ」」
「いや~…」
女性たちに褒められ、照れ臭そうに後ろ頭を掻くケンスケに、アスカは再び視線を向ける。
その何かを問う視線に、ケンスケは穏やかな笑みを返しながら言った。
「親父のこと、みんなにバラしちゃった」
そう言って、子供っぽく舌先を出すケンスケ。
「え?」
「俺の親父は裏切者だってこと。俺は大罪人の子だってこと」
「せんせ~、ウラギリモノってな~に~?」
子供の一人がケンスケの顔を見上げながら言う。その質問については、困ったような笑顔を返すことでケンスケは応じる。
「俺は村のみんなを騙し続けたことになる。つまり、俺もあの子と一緒だ。だから俺もあの子と一緒に村を出て行くことにするよ、って」
よく分からないと首を傾げている子供の頭を、ケンスケの大きな手がわしゃわしゃと少し乱暴気味に撫で回す。
「ついでに言ったんだ。俺と同じようにこの村で暮らすことに後ろめたさを感じてる奴は、俺と一緒にここを出て、別の場所で暮らそう、ってさ。でも結局、この村じゃニアサー以後に生まれた子供たち以外で、あの日々を生き延びたことに後ろめたさを感じてない奴なんて、一人も居なかったってことさ。みんな、大なり小なり、誰かを傷付け、自分を傷付けながら、あの日々を生きてきたんだ」
撫でられた子供は質問のことなんか忘れて、きゃっきゃと笑い声を上げている。
「だからみんなで話し合って、今日から仕切り直そうってことに決めたんだ。俺たちも、もちろん、あの子のことも含めてね。今頃村じゃ今日が村の第2の開村記念日だって、ちょっとしたお祭り騒ぎさ。トウジなんて朝っぱらから一升瓶持ち出して、みんなと酒酌み交わしてるよ」
子供に落としていた視線を、アスカへと向けた。
「みんな、あの子の帰りを待ってる。だからさ、アスカ」
「ねえ、アスカ」
ケンスケの言葉を、若い女性の声が引き継ぐ。
「ヒカリ…」
アスカの視線が、子供たちの後ろに立っていた、彼女の中学時代の同級生に注がれた。
「アスカも一緒に帰ろ。碇くんと一緒に。そっくりさんと一緒に。ね?」
鈴原ヒカリはアスカに向けてにっこりと微笑んだ。まるであの時の。14年前の中学校の教室。母国を離れてこの国にやって来たばかりでクラスメイトと打ち解けようとしないアスカに、お弁当に誘うために声を掛けてきたあの時のような笑顔で。
ヒカリは周囲を見渡す。
「アスカ。碇くんと……」
そして改めて、中学時代の旧友の顔を見つめた。
「そっくりさん…、は…?」
全員の視線が、緋色髪の少女の顔に注がれた。
アスカはとぼとぼと歩き始めた。
サンダルでペタペタと地面を踏み。
自分を囲む、子供たちを掻き分け。
揃いのツナギを着た女性たちの前を通り過ぎ。
青年の前も通り過ぎ。
旧友のもとへと、とぼとぼと歩いた。
やがてアスカの足は旧友まであと一歩の位置で止まる。
どこか虚ろ気な表情の、左目を眼帯で覆った緋色髪の少女。
その眼帯以外は、かつて学び舎を共にした頃と変わらぬ姿で、目の前に立った少女。
ヒカリは訊ねる。
「アスカ?」
アスカは黙ったまま、ヒカリに向かって手に持っていた一枚の紙切れを渡した。
紙切れを受け取ったヒカリは、皺が走る紙面を見つめる。その紙面に綴られた、見覚えのある筆跡の文字。
「おはよう…、しきなみ、あすか、らんぐれー…」
拙い文字を表すかのように、たどたどしい口調で読み上げたヒカリの口。
視線を紙面から上げ、目の前に立つアスカの顔を見つめた。
どこか焦点の合わない、青色の瞳。
ヒカリの視線は、紙面と青い瞳との間を何度か行き来し、やがてその紙切れの裏にも、何かが書かれていることに気付いた。
紙切れを裏返しにしてみる。
おはよう
おやすみ
ありがとう
さよなら
「さよなら……、って…」
紙面からアスカへと視線を移そうとして。
視界一杯に、緋色の髪が広がった。
ヒカリに、もう半歩歩み寄ったアスカ。
そのアスカの右腕が、ヒカリの背中に回され。
アスカの左腕も、ヒカリの背中に回され。
アスカの額が、ヒカリの右肩に押し付けられる。
まるで迷子になっていた子供が母親を見つけた時のように、抱き着いてきた緋色髪の少女。ヒカリは少しだけ戸惑いの表情を浮かべつつも、そんな少女の体をすぐに、そしてそっと抱き締め返した。
なんてたって、急に抱き着かれるのは「そっくりさん」で慣れているから。
ごく自然に、旧友の体を抱き締めていた。
目を閉じ、旧友の息遣いに耳を傾け、旧友の胸の中の鼓動に耳を傾け、旧友の生命の息吹を感じて。
互いに抱き締め合うアスカとヒカリの周りに、子供たちが集まってくる。
前歯の抜けた女の子が、アスカのパーカーの裾を引っ張った。
「ねえ、そっくりさんは?」
アスカは何も答えない。
他の子どもたちも、みな口々に「そっくりさん」の居所を尋ねてくる。
アスカは何も答えない。
何人かの子供が子供の輪から離れ、「そっくりさーん」と呼びかけながら小屋へと入っていく。
アスカは追い掛けない。
女性たちも、「やれやれ。手の掛かる子だこと」「でもそこがまたカワイイんじゃないか」などと楽し気に言葉を交わしながら、子供たちを追って小屋へと向かう。
アスカは追い掛けない。
みんなが「そっくりさん」の姿を求めて小屋へ向かって。
その場に残ったのは、かつて学び舎を共にした3人だけになって。
昇ったばかりの太陽が、朽ちたプラットフォームに立つ3人に無償の愛を注ぐ、その傍らで。
青い空に浮かぶ巨大な影。
村から少し離れた空の上で、超大型飛行戦艦が大地に向けて投錨を始めていた。