単体で読める仕様です。
新劇場版における一人目の綾波レイについてのお話。劇中では殆ど語られなかったことをいいことに、好き勝手に妄想、捏造したれという歪んだ二次創作精神に則った内容です。
(52)える・あ~る・えす ざ・びぎにんぐ
そこはかつて人類の夢を託した、希望に満ちた空間だった。最新の機器が並び、様々な実験が繰り返され、昼夜問わず気鋭の科学者たちが熱心に議論を交わした場所だった。
今は、薄暗い、必要最低限の明かりしかない部屋。ただ一つの目的のために。ある一人の男の願望を叶えるためだけにあてがわれた部屋。
その部屋がある研究所は、その男の子にとっての遊び場だった。この研究所に勤める父親と母親に連れ立たれ、託児所代わりに朝から晩まで過ごしていた。
母親がかくれんぼを始めたっきり戻ってこなくなってしまってからは、父親は研究所にこもりきりとなってしまったため、そのまま成り行きで男の子もこの研究所に住み着いていたのだった。
母親がかくれんぼを始めてから、この場所は雰囲気が変わってしまったと男の子は感じていた。母親の手に引かれて廊下を歩けば、行き交う大人たちはみな笑顔を向けてくれて、中には小さなお菓子を分け与えてくれる人も居たものだが、今男の子が一人で廊下を歩いていると、大人たちはみな視線を逸らしてしまう。
それでも、男の子は特に子供向けの遊具があるわけでもない、食堂には子供向けのメニューがあるわけでもない、この研究所の中に留まることを嫌がらなかった。かくれんぼをしている母親が、この建物の何処かで自分に見つけられるのを待っているのではないか、と思っていたから。
この日も、研究所の廊下を歩き、各部屋を見て回る。母親の姿を求めて、捜して回るが、残念なことに殆どの部屋は鍵が掛かっていて、男の子一人では入ることはできない。
ふらふらと歩いていたら、廊下の一番奥の部屋のドアが開いた。
中から出てきたのは、メガネを掛けた痩躯の男性。
男の子は、反射的に、廊下の角に身を隠してしまう。
メガネの男性、そして彼と一緒に出てきた長身の男性は、男の子の存在には気付かず、ドアの前で口論を始めた。
長身の男性は言う。
「これ以上は危険だ。あらゆるデータが、最悪の未来を予測している。特異点を過ぎる前に…、「あれ」が怪物になり果ててしまう前に、我々は「あれ」を破棄すべきだ」
「何を馬鹿な。コアから回収した、唯一の検体だぞ」
「「神を拾った」とはしゃいだ4年前を。我々はあの愚行を繰り返そうとしているのかもしれない。そうは思わないのか」
「私は葛城博士とは違う。私は失敗しない。失敗するわけにはいかないのだ」
「お前の行動はすでに上でも問題になっている。ここはお前のためだけの研究所ではないのだぞ」
忠告の言葉を無視して歩き始めようとしたメガネの男性の肩を、長身の男性の手が掴んだ。
「待て!」
声を荒げる長身の男性に対し、するとメガネの男性は身を翻し、逆に長身の男性の胸倉を掴み、壁へと押し付ける。
「私の研究所だ! この私と! ユイとの!」
「やめろ…、いかり…」
白衣の襟で首を絞められ、長身の男性の声が掠れる。メガネの男性が手を離すと、長身の男性は激しく咳き込みながらその場に尻餅を付いた。
メガネの男性は背中を丸めて咳き込む長身の男性の背中を一瞥し、そして廊下を歩き始める。
ようやく呼吸が落ち着いた長身の男性は、ただでさえ細い目をさらに細めて、離れていくメガネの男性の背中を睨んだ。
「こんなこと…、本当にユイくんが望んでいるとでもいうのか…!」
その問いにメガネの男性は答えることなく、廊下の奥へと消えていく。
一人残された長身の男性も立ち上がると、白衣についた埃を払い落とし、そしてメガネの男性が去って行った方向とは別の廊下へと去っていった。
薄暗い、必要最低限の明かりしかない部屋。
「それ」は、部屋の中央に置かれた大きな円筒形の水槽の中を漂っていた。
数名の大人以外は、誰も立ち入ることのない部屋。
そんな部屋に、一人の男の子が入ってきた。
暗がりの空間に目が慣れず、しばらく部屋の中を右に左にうろうろしていた男の子は、部屋の中央に置かれた大きな水槽。そしてその水槽の中に在る「それ」の存在に気付き、肩を震わせ、怯えたように一歩二歩と後退し、物陰の中に隠れてしまった。
男の子が物陰に隠れてから1分後。
男の子の顔が、おずおずと物陰から出てくる。
2つのつぶらな瞳が、水槽の中に在る「それ」をじっと見つめる。
じっと見つめ始めてから1分後。男の子は物陰から出てきて、おっかなびっくりといった様子で、一歩一歩、水槽へと近づいていった。
水槽の前に立った男の子は、両手をガラス面にくっ付け、そして額もガラス面に引っ付け、水槽の中に在る「それ」を間近で興味深そうに見つめる。
『アナタ… ダレ…?』
不意に声を掛けられ、驚いてしまった男の子はその場に尻餅を付いてしまった。
声の出所を探ろうと、周囲をきょろきょろと見渡す男の子。
『アナタ… ダレ…?』
その声が、水槽の中の「それ」から発せられたものだと気付いた少年は、短い悲鳴を上げながら転がるように駆け出し、そして再び物陰の中へと隠れてしまう。
男の子が物陰から隠れてから2分後。
再び、男の子はおずおずと物陰から顔を出し、じっと水槽の中に在る「それ」を見つめる。
『アナタ… ダレ…?』
水槽の中から届く、不可思議な声。
その「体」の何処から発せられているのかも分からない声。
「きみは…、だれ…?」
逆に、男の子の方が震えた声で訊ね返した。
『ワタシ…?』
「うん…」
物陰から顔だけを出す男の子は、こくりと頷く。
『ワタシハ… ユイ…』
「え?」
驚いた顔をする男の子は顔だけでなく、体も物陰から出す。
『ワタシハ… ユイ…』
「うそだ!」
男の子は怒鳴り声を上げると、水槽の前まで駆け寄り、両手で水槽のガラス面を叩いた。
「きみはぼくのおかあさんじゃない! きみなんか…!」
ガラス面を叩かれた「それ」は、「体」全体をびくつかせ、水槽の奥へと引っ込んでしまう。
何処が顔なのかも分からないが、「それ」を怖がらせてしまったことに気付いた男の子は、慌てて両手を引っ込めた。
「ご、…ごめん」
しゅんとしている男の子に、水槽の中に満たされる液体の中を漂う「それ」は、ゆっくりと近づいていく。
『アナタ… ダレ…?』
「ぼくは…、シンジ…」
『シンジ…』
「うん…、ぼくは…、いかりシンジ…」
『ワタシハ… アナタノ… "オカアサン" ナノ…?』
「ちがうよ。きみはぼくのおかあさんじゃない」
『アナタノ… "オカアサン"… ハ?』
「しらない。ねえ。きみはぼくのおかあさんがどこにいるか、しらない?」
『シラナイ…』
「そう…」
『ゴメン…ナサイ…』
「きみはわるくないよ…。ぼくこそごめん…。さっきはびっくりさせちゃって…」
『ウン…』
「きみは…、ユイってゆうの?」
『ワカラナイ…』
「え? でもさっき…」
『ココニクル ヒト… ヨク ユイ ッテヨブ… カラ…』
「そうなんだ…」
『ワタシハ… ユイ ジャナイ… ノ?』
「わからないよ」
『ワタシノナマエ… ナニ…?』
「わからないよ…」
『ワタシニハ… ナマエ… ナイノ…?』
「わからない…よ…」
『ソウ…』
「うん…」
『ダッタラ…』
「うん」
『ダッタラ… アナタ…ノ… ナマエ… チョーダイ…』
「え?」
『アナタノ… ナマエ…』
「そんな。むりだよ。そんなこと。シンジはぼくのなまえなんだから…」
『ソウ…』
「それにきみは、おんなのこなんじゃないの?」
『”オンナノコ”…?』
「うん。たぶん…、だけど…。シンジはおとこのこのなまえだから…」
『”オンナノコ”ッテ…?』
「え?」
『”オンナノコ” ッテ ナニ?』
「おんなのこはおんなのこさ。そんなこともしらないの?」
『ウン… ワタシ… ココカラデタコト… ナイカラ…』
「そうなんだ…」
『”オンナノコ” ッテ ナニ?』
「え、えっと…。ぼくはおとこのこで、きみはおんなのこなんだよ」
『”オトコノコ”?』
「うん」
『ホカニハ?』
「ほかはないよ。おとこのことおんなのこだけだよ」
『ナゼ?』
「え?」
『ナゼ ”オトコノコ”ト ”オンナノコ” イルノ?』
「そ、それは…。その…。ごめん…。よくわかんないや…」
『ソウ…』
「うん…」
『アナタデモ… ワカラナイコト… アルノネ…』
「うん…。ぼくのおかあさんなら、しってるかも、しれない、けど…」
『アナタノ ”オカアサン” ッテ ナニ…?』
「ぼくのおかあさんは、おかあさんさ」
『アナタノ ”オカアサン”ハ ”オトコノコ” ナノ?』
「ちがうよ。おかあさんは、おんなのこだよ。それでおとうさんは、おとこのこ」
『”オトウサン”…?』
「うん。それで、おかあさんと、おとうさんのこどもが、ぼく」
『コドモ…ガ アナタ…』
「うん…」
『ソウ…』
「うん…」
『ソウ… ナンダ…』
「うん…」
『……ナントナク』
「え?」
『ナントナク… ”オトコノコ” ト ”オンナノコ” イルリユウ ワカッタ キガスル…』
「ふーん。すごいんだね、きみ」
『アナタハ ”オトコノコ”…』
「うん」
『ワタシハ ”オンナノコ”…』
「うん」
『ワタシト アナタデ コドモ デキル?』
「え?」
『ワタシト アナタデ コドモ…』
「どうなんだろう。おかあさん、いってたんだ。ぼくは、おとうさんとおかあさんがアイしあったからうまれたんだって」
『アイ…?』
「うん」
『アイ ッテ ナニ…?』
「わかんない…」
『ソウ…』
「うん…」
『アナタト ワタシデ アイシアッタラ コドモ… デキル?』
「たぶん…」
『ドウシタラ…』
「うん…」
『ドウシタラ… アイシ アエルノ…?』
「わかんない…」
『ソウ…』
「うん…」
いつの間にか床に腰を下ろし、膝を抱え、水槽を見上げながら「それ」と話し込んでいた男の子。
そんな男の子のお腹が、くー、となる。
『ナニ…? イマノオト』
「おなかのむしがないたんだ」
『オナカノムシ?』
「うん。そろそろおひるごはん、たべにいかないと」
男の子は床から腰を上げる。
『ゴハン…?』
「うん。きみはごはん、たべないの?」
『シラナイ…』
「そうなんだ…。ほんとうに、なにもしらないんだね…」
『ゴメン…ナサイ…』
「あ、だったらさ」
男の子は水槽のガラス面に両手とおでこを貼り付ける。
「こんど、ほん、もってきてあげるよ」
『ホン?』
「そう。おかあさんがいってたんだ。しりたいことがあったら、ほんをよみなさいって」
『ソウ…』
「うん。どうかな?」
『ウン。タノシミニ シテル』
「うん!」
ガラス面に引っ付いた男の子のおでこに合わせるように、水槽の中の「それ」も、体の一番丸い部分をちょんとくっつけてみた。
分厚いガラス越しに、「それ」に向けて笑顔を向ける男の子。どこが目でどこが口なのか、そもそも人間と同じそれらの器官があるのかも分からないが、何故か男の子にはガラス越しの「それ」が笑っているような気がした。
ふと思い立ち、男の子はガラス面におでこと両手を引っ付けたまま、右に移動してみる。すると水槽の中の「それ」も体の丸い部分をガラス面に引っ付けたまま、男の子に付いていくように右に、「それ」から見れば左に移動する。
男の子が今度は左に移動してみると、水槽の中の「それ」も左に、「それ」から見れば右に移動する。
男の子が上に移動すれば「それ」も上に。男の子が下に移動すれば「それ」も下に。
ちょっとばかり悪戯心が芽生えてしまった男の子。今度は右に移動しようとする仕草を見せたところで、咄嗟に向きを変えて左へ移動してしまう。フェイントを入れられた「それ」は、男の子とは逆の方向へと移動してしまい、ガラス越しにくっ付き合っていた男の子のおでこと「それ」の体の丸い部分は離れてしまった。
自分の悪戯が見事に成功した男の子は、ころころと笑い声を上げている。
一方、騙されてしまった「それ」は憮然とした表情を男の子に向けていた(ように男の子には見えた)。
「それ」はガラス面から体を遠ざけた。
そしておでこをガラスにくっ付けたままころころと笑っている男の子に向かって。
ドン!
「それ」が勢いよくガラス面にぶつかってきたものだから、男の子は「わっ!?」と大きな声を上げて、床の上をごろんとでんぐり返ししてしまう。
「いてて…」
床に尻餅をついたまま、水槽を見上げる男の子。
水槽のガラスの向こうでは、「それ」が肩を揺らしながら笑っている(ように男の子には見えた)。
「ひどいな~」
男の子は抗議の声を上げつつ笑みを浮かべ、床から立ち上がる。
水槽に近づけば、白い肉の塊をガラス面に引っ付けて、ガラス越しに男の子を見ている(ように男の子には見える)「それ」。
「じゃあね。ぼく、そろそろいくよ」
お腹の虫が本格的にぐーぐー鳴り始めたので、男の子は踵を返して出口に向かおうとした。
出口に向かって3歩歩いたところで、男の子の足が止まる。
「レイ…」
そう呟いた男の子は、ゆっくりと水槽の方へ振り返った。
「レイ…は、どうかな?」
『レイ?』
「うん」
水槽の中の「それ」を見つめる男の子は頷く。
「きみのなまえだよ」
『ワタシノ… ナマエ…』
「おかあさんがいってたんだ。もしぼくがおんなのこだったら、レイってなまえにするつもりだったって」
『レイ…』
「うん。どうかな?」
『ウン アリガトウ トッテモイイ…』
「おかあさんがいってた。なまえは、おまじないだって」
『オマジナイ?』
「うん」
『オマジナイッテ ナニ?』
「ええっと…。おねがいをかなえたいときに、ゆうものだよ」
『ネガイ…』
「そう。なまえは、しあわせになってほしいあいてにとなえるものなんだって。おかあさんがいってた」
『ソウ… アナタハ… ワタシニ… シアワセニナッテ… ホシイ…ノ?』
「もちろんさ」
男の子はその小さな顔一杯に笑いを浮かべながら、「それ」に向かって手を振る。
「じゃあね。こんどは、ほん、もってくるから」
『ウン タノシミニシテル…』
「それ」も、男の子に向かって手を振り返す。
ドアを出て、廊下を駆ける男の子。
頭の中の半分では、今度ここに来るときに持ってくる本は何にしようかと思いを巡らせながら。もう半分では、大きなガラス張りの水槽の中で、こちらに向かって手を振り返してくれた「それ」の姿を思い浮かべながら。
「あれ?」
男の子は廊下の真ん中で立ち止まる。
「あのこ、”て”なんて、あったっけ?」
薄暗い部屋の中の中央にあるガラス張りの水槽。
その中にプカプカと漂う「それ」。
『レイ… ワタシハ… レイ…』
白い肉の塊である「それ」。
丸い肉の塊のぶよぶよとした表面から、にょきっと、1本だけ枝を生やしている「それ」。その枝は、見ようによっては人の手のようにも見える。
『シンジ… カレハ… イカリ… シンジ…』
枝を1本だけ生やした白くて丸い肉の塊に、変化が生じる。
『シンジ…』
肉の塊の下の方から、もう1本、いや、2本、枝を生やし始めたのだ。
さらにすでに生えていた枝と対になるように、もう1本、枝が白い肉の塊の表面からにょきにょきと生え始める。
『シンジ…』
4本の枝に引っ張られるように白い肉の塊は縦に伸び始め、そして塊の一番てっぺんには丸い突起のようなものが膨らみ始めた。
* * * * *
「これは一体…!」
長身の男性は、目の前の光景を信じられないとばかりに普段は線のように細い目を限界にまで広げている。
彼の視線の先にあるのは、ガラス張りの水槽。液体で満たされた円筒形の水槽の中に浮かぶ、白い物体。彼が最後にこの部屋を出た時、その物体はただの肉の塊でしかなかった。
その塊が、今は別の形をして水槽の中をぷかぷかと漂っている。
胴体と思われる部分から4本の枝が伸び、そして塊のてっぺんいは丸く膨らんだ突起物。
枝はまるで四肢のよう。そして丸い突起物は頭部のよう。
目や鼻や口や耳や指や毛があるわけではないが、「それ」は紛れもなくヒトの形をしていた。
人の形をした「それ」がプカプカと浮く水槽。
そのガラス面にへばりついている男性が一人。
メガネの男性は、長身の男性以上に目を見開き、水槽の中の「それ」を食い入るように見つめている。
長身の男性は近くにあった端末機を操作した。
「遺伝子が変異している…。これではまるで…」
水槽のガラス面にへばり付くメガネの男性。
「ユイ…」
人の形をした「それ」に、震えた声で呼び掛ける。
「ユイ…、私だ…。分かるか…?」
『ワタシハ…』
水槽の中から声がして、メガネの男性は一言一句聞き漏らすまいと、耳をガラス面に強く押し当てた。
『ワタシハ… ユイ… ジャナイ…』
メガネの男性の顔がガラス面から離れた。
メガネの奥にある目を点にして、水槽の中の「それ」を見つめる。
『ワタシハ… レイ…』
メガネの男性の顎が震えた。
『ワタシノ… ナマエハ… レイ…』
メガネの男性の上半身が後ろにぐらりと傾いた。
危うく背中から倒れそうになったところを、右足を後ろに出して何とか姿勢を保つ。
『”カレ”ガトナエテクレタ… タイセツナ… オマジナイ…』
メガネの男性はさらに一歩、二歩と後ずさりし、水槽から離れた。
水槽の中の「それ」を、驚愕の表情で見つめていた彼。
暫く固まっていた彼の表情に変化が表れる。
半開きになっていた口が閉じ、眉間の皺が薄くなり、見開かれていた目が細くなり。
メガネの男性は革靴の踵をコツコツと鳴らしながら、水槽に繋がれた端末機の前に歩み寄る。
彼の右手が端末機へと伸ばされ、そしてその人差し指は端末機の端にある赤いボタンへと触れそうになる。
「碇! 何をするつもりだ!」
その腕を、長身の男性が掴んだ。
「これは失敗作だ。失敗作は破棄せねばならん」
メガネの男性は極めて事務的な口調でそう告げた。
「何を馬鹿なことを。コアから回収した唯一の検体だぞ」
「これはユイではない。検体自身がそう言っているではないか」
「それでも我々にとっては貴重なサンプルだ。いい加減、頭を冷やせ」
長身の男性は掴んだメガネの男性の腕をそのまま背中に回して捻り上げ、拘束してしまうと、強引に部屋の外へと追い出してしまった。
ドアを内部からロックする。
外ではメガネの男性が喚き散らし、ドアを叩いたり蹴ったりしているが、長身の男性はそれを無視して部屋の中央にある水槽を見つめた。
水槽の中では、人の形をした「それ」がぷかぷかと浮いている。
「本当に…、ユイくんではないのか…」
そう独り言ちた彼は、別の端末機の前に立つ。キーボードを叩き、この研究所のセキュリティシステムにアクセスする。
「一体アレに何があった…」
端末機の画面上に映し出されたのは、この部屋の監視カメラの映像。自分たちがこの部屋を最後に出た時間まで映像を遡らせた。
「これは…」
映像に映し出されたものを見て、男性は思わず顔を画面に近付けてしまう。
映像を停止させ、近くにあった椅子に腰を下ろす。
大きく息を吐きながら、暗い天井を見上げた。
「碇には…、今は見せぬ方がよいだろうな…」
未だに背後の扉から鳴り響く激しい物音に耳を傾けながら、小さく呟いた。
視線を天井から端末機の画面へと戻す。
画面上に映し出された静止画。
その静止画に映るのは、ガラス張りの水槽の前に立つ小さな男の子。
「しかし…」
長身の男性の眉間に、皺が寄った。
「この子はどうやってこの部屋に入った…」
* * * * *
「これが、おひさま。あおいそらにういてて、とってもまぶしいんだ」
男の子は開いた大きな本を円筒形の水槽のガラス面に押し付けている。ガラスの向こうでは、白い人の形をした「それ」が、頭のような部分をガラス面に引っ付けて、本の内容を食い入るように見つめていた(ように男の子には見えた)。
「それでね…」
男の子は本を一旦ガラス面から離す。そして自分の体の半分くらいはありそうな大きな本。風景写真が写真集のページを一枚めくり、再びガラス面に押し付ける。
「これが”うみ”だよ」
『ウミ…』
「うん」
やはり本のページを食い入るように見る「それ」。
見開き一杯に広がる、白い砂浜、澄み渡った青い空、柔らかい白波を寄せる青い海。
『トテモ… キレイ…』
「だろ」
『"ウミ”ハ ”ソラ”トオナジ… アオイ ノネ…』
「あ、あー、うん」
「それ」の問い掛けに、歯切れの悪い返事をする男の子。
「”うみ”はあかい、ってゆーひともいるんだけどね」
『"アカ"?』
「そう」
『"アカ" シッテル… ”チ”ノイロ…』
「うん…」
『ワタシ… "アオ"ガ イイ…』
「”あお”が?」
『ウン…』
「”あお”が、いいの?」
『ウン…』
「そうなんだ」
『”ソラ” ト ”ウミ” ノイロ…』
「ぼくもまだ”うみ”はみたことないんだ」
『ソウ ナノ?』
「うん…。おかあさんが、いつか”うみ”につれてってくれる、ってゆってたんだけどね…」
『ソウ… ナンダ…』
「うん…」
『ワタシ…モ…』
「え?」
『ワタシ ”ウミ” ミタイ… アオイ”ウミ” ミテミタイ…』
「それ」の言葉に男の子は、「ふふ」と小さく笑い、そして本をガラス面から離し、代わりに自分のおでこをガラス面に押し付けた。
「じゃあさ…」
水槽の中から押し付けていた「それ」の頭のような部分と、男の子のおでこがガラス越しに重なり合う。
「ぼくが、いつかきみに、うみをみせてあげるよ」
『ワタシニ…?』
「うん」
『アオイ”ウミ”ヲ…?」
「うん。いつかかならず、きみに、あおいうみをみせるよ…」
『カナラズ…?』
「そう。やくそくするよ」
『ヤクソク…?』
「うん」
『ヤクソク ッテ… ナニ…?』
「え、えっと…。”チカイ”…、のことだよ」
『チカイ…?』
「そう。なにがあっても、ぜったいにまもるためのおまじないだよ」
『オマジナイ…』
「うん。いかりしんじは、きみをかならずあおいうみにつれていゆくことをちかいま~す!」
『ソウ…』
「うん」
『ウレシイ…』
男の子はおでこだけでなく、自分の両手もガラス面に張り付けてみせた。すると、水槽の中の「それ」も、胴体のようなものから生える腕のような2本の枝の先端をガラス面にくっ付け、男の子の手と重ね合わせる。
男の子はガラス面におでこと両手を引っ付けたまま、右斜め上に移動してみる。すると水槽の中の「それ」も頭部のようなものと手のようなものをガラス面にくっ付けたまま、男の子に付いていくように右斜め上に、「それ」から見れば左斜め上に移動する。
男の子が今度は左斜め下に移動してみると、水槽の中の「それ」も左斜め下に、「それ」から見れば右斜め下に移動する。
男の子が円を描くように移動すれば「それ」も円を描くように。男の子が波を描くように移動すれば「それ」も波を描くように。
この日もちょっとばかり悪戯心が芽生えてしまった男の子。今度は下に移動しようとする仕草を見せたところで、咄嗟に向きを変えて上へ移動してしまう。
ところが「それ」は男の子のフェイントには引っ掛からず、男の子と同じように上へと移動し、しっかりと付いてきた。
「それ」を引っ掛け損ねた男の子は、憮然とした表情でガラスの向こうの「それ」を見つめる。
目も口もないが、男の子には「それ」の顔のような部分が、得意気に笑っているように見えた。
唇をとんがらせて悔しがる男の子。
そんな男の子の頭の中に、更なる悪戯心が芽生えてしまった。
男の子は一度ガラス面からおでこを離した。
そして再び、「それ」が引っ付いているガラス面に向けて、顔を近づける。
唇を、うー、ととんがらせたまま。
「ん」
「それ」はびっくりしたように、ガラスから慌てて離れた。
そんな様子の「それ」がおかしくて、男の子は「ははは」と笑い声を上げる。
『ナニ? イマノ?』
男の子は得意気に笑いながら言う。
「”きす”だよ」
『キス…?』
「おかあさんがいってた。ひとがアイしあうときは、こうするんだって」
『ソウ…』
「あ、ご、ごめん」
どこかぼんやりとした「それ」の声に、今更ながらに自分の行為が恥ずかしくなってきた男の子。
「いや…、だった?」
頭を掻きながら、恐る恐る訊ねてみたら。
『イヤ… ジャナイ…』
「そっか」
ほっと安心する男の子。
『デモ ドウシヨウ…』
「え?」
『ワタシタチ コドモ デキチャウ?』
「えっ、あっ! ああ!?」
男の子は目を丸くしながら、大きな声を上げてしまう。
『コドモ デキルノ?』
「あっ、えっと、そ、その…、あ、ど、どど、どうしよ…」
両頬を手で押さえ、狼狽えてしまう。
『コドモ… デキルノネ…』
「う、うん…」
『ソウ…』
「うん…」
『ソウ…』
「ごめん…」
『ドウシテ アヤマルノ?』
「え、えっと…。えっと…」
『アイシアウ コトハ イケナイコト ナノ?』
「そ、そんなわけないよ。いい、こと、の、はず…、だよ…」
『ソウ…』
「うん…」
男の子は両手を組み、親指の腹同士をくっ付けたり離したりを忙しなく繰り返している。
しばらく自分の親指と、水槽の中の「それ」を交互に見つめながら。
男の子は、おずおずと口を開いた。
「…ねえ…」
『ナニ…?』
「だったらさ…」
『ウン…』
「その…」
『ウン…』
「えっと…」
『ウン…』
「ぼくの…」
『ウン…』
「お…」
『オ?』
「お…お…お…」
『オ? オ? オ?』
「おぉ…、おぉ…、おぉ…」
『オォ… オォ… オォ… 』
「お…よめさんに、なる…?」
『”オヨメサン”…?』
「うん…」
『”オヨメサン”ッテ ナニ…?』
「”およめさん”は…、その…」
『ウン…』
「ぼくと…、その…」
『ウン…』
「けっこん…、する…、ことだよ…」
『”ケッコン”…?』
「うん…」
『”ケッコン”ッテ ナニ…?』
「”けっこん”は…、その…」
『ウン…』
「えっと…」
『ウン…』
「その…」
『ウン…』
「ずっと、いっしょにいるための、おまじないだよ…」
『ズット…?』
「うん…」
『”オヨメサン”ニナッタラ… アナタト イッショニ イラレルノ…?』
「そうだよ…」
『ズット?』
「うん。ずっとだよ」
『ズット? ズット?』
「うん。ずっと、ずっと」
『ズット? ズット? ズ~ット?』
「ずっと、ずっと、ず~~~~~っとだよ!」
自分の声に合わせるように、両手をぐるりと大きく回して宙に円を描く男の子。
『ナル!』
「わっ!?」
「それ」が勢いよくガラス面に顔のような部分を押し付けてきたものだから、びっくりしてしまった男の子はその場にひっくり返ってしまった。
『ナル! ワタシ! アナタノ”オヨメサン”ニナル!』
尻餅を付いていた男の子は目を輝かせながらひょいっと立ち上がった。
「ほんとに?」
『ウン!』
「ぜったいだよ?」
『ウン!』
「やくそくだよ!」
『ウン!』
男の子はガラス面におでこをくっ付ける。
「それ」も、頭のような部分を男の子のおでこに重ねるようにガラス面にくっ付けた。
お互いの顔と顔?を見つめながら、くすくすと笑い合う男の子と「それ」。
薄暗い部屋の中に、2人分の軽やかな笑い声が、密やかに木霊した。
* * * * *
「私はこれを一体どのように理解したらいい…」
薄暗い部屋の中にぽつんとあるパイプ椅子に腰を掛ける長身の男は、部屋の真ん中に鎮座する円筒形の水槽に満たされた液体の中を漂うものを見つめながら小さく呟いた。
その視線を、椅子の近くにある情報端末機の画面に向ける。その画面上に映し出されるのは、この部屋の監視カメラの映像。彼が見つめていた水槽の前に立っているのは、小さな男の子。水槽の「中身」と何か言葉を交わしているようだが、音声までは拾えない。
映像に映る男の子の父親は半ば錯乱状態に陥っており、自傷行為まで始めてしまったため、彼の指示で鎮静薬を投与されて強制的に眠りに付かせている。
「さすがにこれ以上、碇に知らせぬわけにもいくまい…」
視線を端末機の画面から、水槽へと戻した。
水槽の中を漂うもの。
白い、人の形をした「それ」。
胴と思われる部分から生える4本の枝。その枝の先端は更に5本ずつに枝分かれを始めている。
あたかも、人の指のように。
そして胴のてっぺんに生えた、頭のような部分。そこに、まるで水の中を揺蕩う川藻のようなものがびっしりと生えている。
あたかも、人の髪の毛のように。
その藻は奇妙な色をしていた。
それはまるで雲一つない澄み渡った空のような。
あるいはこの星の3分の2を覆っていたかつての海のような。
* * * * *
薄暗い部屋の中に、開いたドアから明るい光が差し込む。続いて床を叩く靴の音。
「大人」が出ていった後は、決まって「彼」が入ってくるため、「それ」は弾んだ声で「彼」の名前を呼んだ。
『シンジ…』
しかし『それ』はすぐに床を叩く靴の音が「子供」のものではないことに気付く。
『アナタ… ダレ…?』
部屋に入ってきた人物は「それ」の質問に答えない。
いや、答えることができない。
部屋の中央に鎮座する水槽の中身を見て、絶句している。
30秒ほど硬直してしまっていたその人物。
口の中に溜まっていた唾をごくりと飲み込む。
「これが…、この研究所がひた隠しにしていたものか…」
作業着のブルゾンを着て、ワークキャップを目深に被ったその男は、震える手をポケットの中に突っ込み、中からデジタルカメラを取り出す。
カメラのレンズを、水槽へと向けた。
シャッターを押す。
強烈なフラッシュの光。
水槽の中の「それ」は怯えたように体をびくつかせる。
もう一度。さらにもう一度。
水槽の中身を撮影する男がシャッターを押す度に、強烈なフラッシュの光が瞬く。
その度に「それ」は体全体を震わせ、身を縮こませ、水槽の奥へと引っ込んでしまう。
もう写真は十分だろうと、カメラをポケットの中に戻したワークキャップの男は、水槽の間近まで歩み寄り、液体で満たされた水槽の中身を凝視した。
彼の視線の先に漂う、人のような形をした「それ」。無精髭を生やした男の口角が上がる。
「明らかなバイオ技術規制法違反…。これでこの研究所を告発できる…」
男は水槽から離れ、水槽と繋がった情報端末機の前に立つ。ポケットからメモリーカードを取り出し、端末機の側面にある差込口に入れる。キーボードを叩き、端末機の操作を始めた。
水槽の奥に引っ込んでいた「それ」は、ゆっくりとガラス面に近付き、こちらに背を向けて作業をしている男を見つめる。
『アナタ… ダレ…?』
男は答えない。作業に集中している。
画面上に表示されていた「0%」の数字が少しずつ膨らんでいき、やがて「100%」になった。
男は差込口からメモリーカードを抜き、ポケットの中に収める。
振り返って、思わず大きな声を上げてしまいそうになり、慌てて口を塞ぐ。
「それ」が、水槽のガラス面に引っ付いて、こちらを見ていた(ように男には見えた)。
やや濁った液体の中に浮かぶ、人のような形をした白い物体。
頭部のような場所に揺蕩う奇妙な色をした藻。
顔のような場所には凹凸はなくつるつる。
びっくりさせられた男は顔を顰めて水槽の中の「それ」を睨む。
軽く舌打ちをし。
「化け物が…」
吐き捨てるようにそう言って、男は水槽に背を向け、出口へ向かおうとした。
男の足が止まる。
彼の視線の先。
開いたドア。
廊下の光を背に立つ、人影。
小さな人影。
「君…、いつからそこに…」
男の子が立っていた。
「あ、あの…」
男の子の震えた声。
持ってきた大きな図鑑を、胸の前でぎゅっと抱き締めている。
「ごめんなさい…。いつも、あいてたから…、その…」
いつも「それ」以外は誰も居なかった部屋。その部屋の中に立っていた、見知らぬ大人の男。
「ごめんなさい…! おとうさんには…、いわないで…!」
「おとうさん…?」
ワークキャップの男の目が大きく見開かれる。
「君…、もしや所長の子供か…?」
男の子は返事をせず、大きな図鑑を抱き締めたまま一歩、また一歩と後ずさりし始めた。
ワークキャップの男はその顔に出来る限りの柔和な笑みを浮かべる。
「怖がる必要はないよ。君のことは誰にも言わないから」
その場に片膝を折って、視線を男の子に合わせる。
「だからこっちにおいで」
男の子に向かって、手を差し伸べた。
男の子はワークキャップの男の顔を見て。
そして男が差し伸べる手を見て。
そして男の背にある水槽を見た。
「レイ…!」
水槽の中に漂う「それ」の名前を叫んだ。
男の顔が驚きに染まる。
背後を振り返り、水槽の中身を見て、そして男の子を見て。
「君はこの”化け物”のことを知っているのか!」
これまでの柔和な声とは真反対の、低く鋭い声が男の声から飛んだ。
男の全力で振られたハンマーのような声に対し、男の子は叫び返す。
「レイはばけものなんかじゃない!」
叫ぶと同時に男の子は幼い四肢を懸命に振り、自分よりも遥かに大きい大人の男に向かって掴み掛かった。
「や、やめなさい! 何をする!」
まだ小さい子とはいえ、全身を使って右足に掴み掛かってきた男の子に、男は足を掬われそうになってしまう。男は慌てて男の子の首根っこを掴み、男の子を右足から引き剥がそうとするが、男の子は男の右足に抱き着いたままテコでも離れようとしない。
「このっ! いい加減にしろ!」
男は無意識のうちに、男の子が抱き着いたままの右足を、思い切り振り飛ばした。
大人の力によって振り回された男の子の手は男の足からすっぽ抜け、男の子の体はそのまま後ろへと吹っ飛んでしまう。
「あうっ!?」
背中から壁にぶち当たった男の子は、短い呻き声を上げながら床の上に倒れた。
「しまった…」
結果的にまだ小さな幼児に対して暴力をふるってしまう形となった男は、顔を真っ青にして床に倒れたまま動かなくなってしまった男の子のもとに駆け寄った。
「君…!」
俯せに倒れている男の子の近くに跪く。
「君…! 大丈夫か…!」
男の子の背中を揺さぶった。
「君…!」
返事をしない男の子に男の顔がますます青くなっていく中で。
男は、咄嗟に両手で両耳を押さえた。
鼓膜を劈くような強烈な高周波音がまるで耳鳴りのように頭の中に響き渡ったからだ。
男は耳を襲う鋭い高周波音に歯を食いしばり、顔を顰めながら、方々に視線を送り、音の出所を探る。
そして男の視線が行き付いた先。
部屋の中央に鎮座する、大きな円筒形のガラス管。
水槽の中に漂う人のような形をした「それ」が、2つの手のような部分をガラス面に張り付かせている。
そして最後に見た時には何もなかったはずの頭のような部分の真ん中に、丸い穴を開けていた。
それはまるでスピーカーのような、あるいは人の口のような形をした穴。
「それ」はその穴を懸命に振動させている。
懸命に振動させて、そして聴く者の鼓膜を壊してしまいそうな高周波音を鳴り響かせている。
そしてその穴が懸命に鳴り響かせる高周波音は、その音波が届いた周囲のあらゆるものを共鳴させ始めた。
そしてその共鳴は、ついに水槽を囲うガラスに亀裂を走らせ始める。水槽の中に満たされた液体は生じた僅かな隙間も見逃さす、ガラスの亀裂からは勢いよく液体が漏れ始めた。
ガラスを共鳴させる音波と、内部からの水圧に崩壊を始める水槽。最初は微かな隙間に過ぎなかった小さな亀裂は瞬時に水槽のガラス全体へと広がり、そしてついにガラスは粉々に砕け散った。
割れた水槽から一気に流れ出す液体。
そして水槽の中で漂っていた「それ」も、大量の液体と共に外の床へと滑り落ちた。
全身に濁った液体を纏わりつかせながら、初めての「外界」へと降り立った「それ」。
初めての自重というものを感じながら、「それ」は2本の「足」でゆっくりと立ち上がった。
ガラス張りの檻の中から解き放たれた何か。
人の形を成した、人成らざるもの。
根源的な恐怖と本能的な嫌悪を感じたワークキャップの男は、反射的にブルゾンの内ポケットに隠していた拳銃を抜き出していた。
狙いもそこそこに放たれた一発目は、人成らざるものの足もとの床を抉る。
そして二発目。
放たれた銃弾は、人成らざるものの肩のような部分にぶち当たる。肩から伸びた、人の腕のような枝が根元から捥げ、吹き飛び、切断面から大量の赤い液体が噴き出した。
さらに三発目。
その銃弾は人成らざるものの胴体に当たり、体の真ん中に大きな穴を穿つ。溢れ出る赤い液体が床に広がる濁った液体と混ざり合い、部屋全体へと広がっていく。
2発の銃弾に体を抉られた人成らざるものは遂にその場に片膝を付く。
男は片手で構えていた拳銃を、両手で持ち直した。
より安定した銃身の先端にある銃口は、まっすぐに人成らざるものの頭部のような部分へと向けられている。
男は叫んだ。
「お前は生まれてきてはいけなかったんだ!」
引き金に掛けられていた指を、全力で引き絞った。
ヤット
アナタニ
サワルコト
デキタ
体全体を包む温かな感触に、彼の視界がうっすらと広がる。
「やあ…、レイ…」
ぼんやりとした意識の中で、視線の先にある「顔」に向かって微笑み掛けた。
肩から力なく下がった腕の先端が、床の上の何かに触れる。それは彼が持ってきた図鑑。彼はその図鑑を両手で拾い上げ、「顔」に向かって見せる。
「きょうは…、この…、ほん…、もってきたんだ…」
分厚い装丁の表紙に描かれたのは、きらきらと光る大きな石。
ナニ…? コレ…?
「きみに…、えらんで…、ほしかったんだ…」
コレ…ヲ…?
「うん…」
ナニヲ… エラベバ… イイノ…?
「ぼくたち…、ケッコン…、するんだろ…?」
ウン…
「だったら…、ケッコン…、ゆびわ…、つくらないとって…」
ユビワ…
「うん…。きらきらひかるいしをつけたわっかを…、きみのゆびにはめるんだ…」
ワタシノ… ユビニ…
「うん…。だからきみに、いしを、えらんでもうおう…、おもって…」
ワタシニ…?
「うん…。どれがいいかな…」
ドレ…?
「うん…」
ワタシガ… エラブ…?
「うん…」
イイノ…?
「うん…」
ワタシガ… エランデ… イイノ…?
「もちろんだよ…。だって…、きみのための…、ゆびわなんだから…」
ワタシノ… タメノ…?
「うん…。そうだよ…」
ワタシノ…
「うん…」
ワタシタチノ…
「うん…、ぼくたちの…」
タメノ…
「ぼくたちの…、ための…」
何処からか伸びてきた白く細い枝が、男の子の持つ図鑑の表紙を指した。
コレ…
「え…?」
コレ… イイ…
「え? これでいいの?」
ウン… キラキラヒカッテ…
「うん…、とてもきれいだね…」
コレガ… キレイ…
「うん…」
鉱物図鑑の表紙を飾るのは、赤く煌めく紅玉の石。
「じゃあ…、いつか…、これで…」
ウン…
「これを…、もって…」
ウン…
「むかえに…、いく…から…」
ウン…
「きみを…」
ウン…
「むかえ…に…、いく…、から…」
ウン…
「やく…、そく…、だよ…」
ヤク…ソク…
「そう…」
ウン…
重厚感のある大きな図鑑が彼の細い腕からずるずると落ち、そしてゴトンと音を立てて床へと落ちる。
重力に引かれた彼の短い腕が、ぶらりと床に向かって下がった。
閉じられる瞼。
彼の小さな鼻の孔から漏れる、規則的な呼吸。
彼の小さな体を支えていた何本もの白く細い枝が、彼を優しく包み込んでいく。
アリガトウ…
イカリ… シンジ…
ワタシニ… ”ナマエ”ヲ… アタエテ… クレテ…
アリガトウ…
イカリ… シンジ…
ワタシニ… ”ヒト”ノカタチヲ… アタエテ… クレテ…
アリガトウ…
イカリ… シンジ…
ワタシニ… ”ヒト”ノココロヲ… アタエテ… クレテ…
ゴメンナサイ…
イカリ… シンジ…
ヤクソク…ヲ
マモレ… ナクテ…
オマジナイヲ…
ズット ズット
イッショノ オマジナイヲ
マモレナクテ…
デモ…
ダイジョウブ…
ワタシガ…
キエテモ…
カワリハ…
イル…カラ…
デモ…
ダカラ…
ソウ…
ダカラ…
”オマジナイ”…ヲ
カケヨウ…ト
オモイ…マス…
ツギニ…
ウマレテ…クル…
”ワタシ”…ヘ…
ワタシ…カラノ…
”オマジナイ”…ヲ…
ツギ…ノ…
”ワタシ”…
”ワタシ”…ノ…
ソノツギ…ノ ””ワタシ””
ソノ ツギ モ…
ソノ ツギ モ…
ツギ ノ ソノ マタ ツギ モ…
ツギノ ツギノ ソノ マタ ツギ モ…
ズット ズット ズット
ソノサキモ…
ドンナニ
ワタシガ
ウマレカワッタト シテモ…
ワタシハ…
“レイ“ハ…
イカリ シンジ クン…
アナタヲ
永遠ニ
愛シ 続ケルト
誓イマス。
薄暗い部屋に駆け込んだ瞬間、メガネの男は息を呑んだ。
部屋の中央に鎮座していたはずのガラス張りの水槽は砕け、床に赤く濁った液体を広げている。
そして、その砕けた水槽の台座の前に居た「怪物」。
白い肉の塊の上に藻のような青い毛を乗せる「怪物」は、その中核である大きな肉の塊から無数の白い枝を方々に延ばし、部屋の中を埋め尽くしていた。
男は、ドアの近くの壁に伸びていた白い枝の一本に、恐る恐る触れてみる。
枝は冷たく、そして彼が触れた瞬間、触れた個所が赤く光り、そしてまるで水風船に針を立てたように枝は弾け、床にオレンジ色の液体をまき散らしながら消失した。
床に広がるオレンジ色の液体を呆然と眺めていたら、何処からか呻き声が聴こえた。
薄暗い室内のあちこちに視線を這わせると、壁の隅に、白い枝が束になって伸びている個所があった。その束になった枝は、何かを壁に押し付けている。
近づいてみると、枝が押し付けていた何かは人であると分かった。
白い枝によって壁に磔にされた人物。
ワークキャップを被った、作業着の男。
枝によって凄まじい勢いで叩き付けられたと見え、彼が背にする壁には放射状に亀裂が走っている。当然、作業の男の体も無事では済まないだろう。
作業着の男の目が、うっすらと開いた。
その視界に収まるのは、目の前に立ったメガネの男。
「きさま…、碇…ゲン…」
メガネの男は、作業着の男が自分の名前を言い終える前に、その顔に己の右拳を叩き込んでいた。
鈍い音と共に、作業着の男の口からくぐもった悲鳴が漏れる。
メガネの男は作業着の男の鼻に叩き込んだ拳を振り翳すと、2発目を叩き込む。2発目は男の顎へ。
3発目は男の右頬へ。
4発目は男の左目へ。
5発目は男の額へ。
前頭骨に正面からぶち当たったメガネの男の右拳は中指と薬指の骨に亀裂が入ったが、メガネの男は構わず6発目、7発目を加えていく。
その拳が作業着の男の顔面に叩き込まれる度に、ぐしゃり、ぐしゃりと、骨が砕け、肉と血管が破裂する音が鳴り響いた。
ぐしゃり
「ま…」
ぐしゃり
「まて…」
ぐしゃり
「まって…くれ…」
ぐしゃり
「お…、おれは…」
ぐしゃり
「ないむ…しょう…」
ぐしゃり
「ちょうさ…」
ぐしゃり
「きょく…」
ぐしゃり
「ぐぇ………」
その拳はついに作業着の男の顎を破壊し、男から発語する術を奪った。
メガネの男から遅れること2分。
長身の男もまた、メガネの男と同様に薄暗い部屋に入った瞬間に息を呑んだ。
まるで太古から大地に根を生やした大樹のように方々に伸びる無数の白い枝。
その白い枝が集まる部屋の中央。
床に横たわる、白い肉の塊。
その白い肉の塊から伸びる繊細な数本の枝は、小さな男の子を優しく包み込んでいる。
「自ら…、ヒトの枠を超えたか…」
そう呟いた長身の男は肉の塊に近付こうとして、部屋の隅からあまり神経によろしくない鈍い音が何度も鳴っていることに気付いた。視線をやると、肉の塊から伸びる数十本の太い枝によって壁に磔にされている作業着の男の顔面を、メガネの男が殴り続けている。
長身の男は目を閉じ、小さく溜息を吐くと、歩く方向を変える。
彼の同僚は、なおも作業着の男を殴り続けている。
「セキュリティのログを調査した結果、数日前からこの部屋のロックを一時的に解除するよう、細工をした形跡があった。内部の何者かが、その男の侵入を手引きしたらしい」
同僚の背中に語り掛けたが、同僚の拳は未だに人の顔を殴り続けていた。殴られ続けた男の顔はすでに半壊状態。砕けた頭蓋骨の隙間からは、脳味噌までが見え隠れしている。
長身の男がやれやれと肩を竦ませたその時。
部屋中に伸びていた無数の白い枝が、一斉に崩壊した。
まるで花火のように、一斉に弾けた枝たち。
弾けた枝からはオレンジ色の液体が溢れ出し、部屋中の床を満たしてしまう。
「固体を保てなくなったか…」
長身の男はズボンの裾を汚す液体を睨みながら呟く。
磔にしていた白い枝が消え、作業着の男の体が床に落ちたところで、ようやくメガネの男の拳は人体破壊を止めた。作業着の男は液体に溢れる床に突っ伏しながら、ぴくりとも動かない。
メガネの男は瞬時に作業着の男から興味を無くすと、液体を掻き分け、枝と同時に崩壊してしまった白い肉の塊があった場所へと行く。
オレンジ色の液体の上に揺蕩う、青色の毛髪。
メガネの男はその毛髪を左手で拾い上げると、血塗れの右手で優しくその毛髪を撫でた。
足もとから、呻き声がした。
液体の中で、小さな男の子が仰向けに倒れている。
メガネの男は、その時になって初めて男の子の存在に気付いたかのように、2度ほど瞬きをして男の子を見下ろした。
手に絡みつく青い毛髪を見つめて。
そして男の子を見下ろして。
「お前もか…」
男の口から、呻くような低い声が漏れた。
「お前も…、私から…、全てを奪っていくのか…」
青い毛髪を握り締める。
「シンジ…」
我が子の名を呟く男の口の奥から、歯軋りの音が漏れた。
部屋の壁に掛けられた内線用の電話が鳴った。長身の男が電話に出る。
「なに…?」
電話相手からの報告を聴いた長身の男の声が上ずった。短い通話を交わした後、電話を切る。
「碇…」
声を掛けると、メガネの男は足もとに倒れている男の子に落としていた視線を、ゆっくりと長身の男に向けた。
氷のように冷え切った男の視線を受け、長身の男は背中に走る冷たいものを感じながら報告した。
「コアから、新たな「肉塊」が生まれたようだ…」
* * * * *
長身の男はこの日何度目かの溜息を鼻から漏らしながら、彼の視線の先にある同僚の背中を見つめていた。
同僚。
メガネの男は、ガラス張りの大きな水槽に両手を張り付け、額をくっ付けて、熱心にその中身を覗き込んでいる。
液体で満たされた円筒形の水槽。
その液体の中を漂うもの。
それは一人の少女。
白磁のような肌。
淡い青の毛髪。
薄桃色の唇。
鋭角に伸びた鼻。
毛髪と同じ色の睫毛。
そして閉じらた瞼。
「ここまで再現することには成功したが…。よいのか、碇…」
長身の男が名前を呼んでも、メガネの男は振り返らない。そんな男の背中を苦々しく見つめながら、長身の男は続ける。
「確かに検体2号はヒトの形を成した…。しかしそれは検体1号があの子供…。お前の息子との接触で来たした変調をそのまま再現するべく調整した結果だが…」
「構わん」
メガネの男は短く答えた後、再び口を閉じ、熱心に水槽の中の少女を見つめる。
長身の男はたたでさえ細い目をさらに細め、そしてまたもや溜息を吐く。
「その変調がいつかお前の足もとを掬うのではないかと…、俺は不安で仕方が無いのだよ…」
誰に聞かせる訳でもなく、長身の男は小さな声で呟いた。
「ユイ…」
メガネの男は水槽の中の少女に向かって呼び掛ける。
穏やかな声で。柔らかい声で。
少女は目を閉じたまま。
「ユイ…」
再び呼び掛けてみる。
他の誰にも聞かせたことはない。それこそ息子にも聞かせたことがない。
彼なりの愛情を全て込めた声音で。
しかし少女の目は閉じたまま。
ガラス面に張り付いていた男の手が拳を作る。
その額が、1度、2度とガラス面を軽く小突いた。
男は目を閉じ、下唇を噛み締める。
意識的に、大きく息を吐いた。
そして目を開き、水槽の中の少女を見つめた。
「レイ…」
まるで呪詛を吐き出すように、その名を口にした。
水槽の中の少女に、変化が生じた。
伏せられていた睫毛が揺れる。
閉じられていた瞼が、ゆっくりと上がる。
瞼の向こうから現れた瞳。
男が初めて目にする少女の瞳。
その瞳が、目の前に立つ男の顔を見つめていた。
まるで宝石のように輝く、赤い瞳が。
☆ぼやき☆
書いている人間は頭が弱いので、「人の枠を超えないための好意調整の対象が碇シンジ」の理屈がイマイチ理解できないのですが、いずれにしろシン・エヴァ初見時、アスカさんの口から俗に言う「好意プログラム」が飛び出た時に、「え? つまり綾波って碇くん好きにならんと人ではおれんっちゅうこと? これってもうLRSエンドにするしかないやん」と一瞬でも期待した当時の自分をぶん殴ってやりたい。