機甲少女の想いは一途   作:hekusokazura

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☆これまでのあらすじ☆
概ね原作通り


※ここから大幅に改変が始まりますが、特に捻りのない、王道的展開です。



 








(53)覚醒


 

 

 

 

 朝靄が漂う小径。 

 赤毛の彼女に2度も蹴っ飛ばされた背中の痛みに顔を顰めつつ、バケツとたも網、そして釣り竿を持って、道端に咲く野花の数を数えながら歩いていたら、ふと地面が暗くなった。今朝は雲一つない快晴だったはずなのに、と視線を空へと向けたら、そこには空を覆いつくすほどの大きな影が浮いていた。

 空を見上げる少年。

 碇シンジは、空を塞いでしまったその大きな影の正体を知っている。

 彼の元上官であり、元同居人であり、元保護者である女性とその仲間たちが乗り込む、超大型飛行戦艦。

 おそらくこの村に滞在しているエヴァンゲリオンパイロットの、赤毛の彼女を迎えに来たのだろう。あるいは、あの艦から脱走した自分を拘束しに来たのかもしれない。

 いずれにしろ、自分がこの村に滞在できる時間はそう長くはないのかもしれない。中学時代の旧友は、いつまでもこの村に居たらいいとは言ってくれたが。もう一人の旧友は、機会があれば父親と話しをしてみたらどうだと言っていたが。

 

 先日、その旧友に紹介された一人の少年のことを思い出す。

 父親のことを知らない彼。

 父親の顔を見ることも、話すことも許されなかった彼。

 自分に与えられた名前が持つ意味も知らないで生きている彼。

 

 あの人は、自分の子。

 自分が愛した男性との子に。

 どんな気持ちであの名前を与えたのだろうか。

 

 

「ああ、そうだった…」

 あの少年のことを思い浮かべていたら、今の自分に与えられた難題のことを思い出し、シンジは困ったようにポリポリと頬を掻く。

「彼女の名前…、決めてあげないと…」

 

 気が付けばその足は目的地へと辿り着いていた。

 さざ波一つ立たない、静かな湖。その湖の畔に立つ廃墟。

 自分に課せられた仕事を果たすべく、毎日通い詰めた場所。

 自分の処遇がどうなるにせよ、自分がこの村を離れるその時が来るまで、せめて魚1匹くらいは釣って、彼らに恩返しをしておきたい。

 

 崩れたコンクリートの壁の隙間から、廃墟の中へと入る。

 直方体の建物。屋根はなく、四方の壁の内、湖に面している壁は綺麗に崩れ、床は所々が崩落している。

 その床の端。

 穏やかな湖を背にして立つ人影。

 

 彼女の存在を認め、心の中にほっと安堵感を抱く自分に、ちょっとした驚きを覚える。

 護りたかったもの。それこそ、世界と引き換えにしてでも救いたかった存在。

 それと姿形がそっくりな彼女。それでも決定的に違う彼女。

 彼女と向き合う時。それは自分が失ったもの、護れなかったもの。そして自分が犯した大罪と、正面から対峙させられているようであり、顔を見るのも辛かったはずなのに。

 

 彼女は。黒のプラグスーツを身に纏った空色髪の彼女は、穏やかな笑みを浮かべながら言った。

 

「おはよう…」

 

 シンジの顔も、釣られて笑顔になる。

 

「おはよう」

 

 廃墟の中。

 まるで劇場の舞台のような場所。

 その中央に2人は立ち、お互いを向き合う。

 

「どうしたの? こんな朝早くに」

 そう訊ねたシンジに、彼女は一歩歩み寄った。

「碇くんに…、会いたかった…」

 そして胸に抱いていた黒の筐体をシンジに差し出す。

「これ」

 彼女の手の中にあるのは、角が欠けたりてあちこちが凸凹になっている古い携帯型音楽プレイヤー。以前、彼女から渡された時には無言で叩き返したものを、シンジは素直に受け取った。

 暫く手の中の音楽プレイヤーを見つめていて。

 そして彼女の顔を、正面から見つめる。

「頼まれていた名前…、だけど…」

 

 見つめた先にあるのは、彼女の穏やかな笑み。

 その笑みの向こう側に見えたような気がした。

 3つの人影を。

 横に並ぶ、3人の幻影を。

 中央には先日会ったばかりのあの少年。その左側には彼の母親が、そして右側には彼の父親が立っている。彼らの一人息子を囲むように、肩を寄せ合って立つ家族。この世界では、決して見ることができないその姿。

 少年の右側に立つ父親は、もうこの世界には居ない。

 その父親の名前を引き継いだ少年。

 その名前を自分の子に引き継がせた母親。

 

 湖の方から、一陣の涼やかな風が吹き抜けた。目の前に立つ彼女から少し視線を外し、風が吹いてきた湖の奥の方を見つめる。

 目の前に立つ彼女が初めてここを訪れた時。自分がまだ絶望の淵を彷徨っていた頃。この湖の奥の方に、「彼女」の姿を見たような気がした。

 

 改めて彼女に視線を戻す。

「綾波は…」

 

 

 彼女に向けて何かを告げようとした口を、シンジは咄嗟に噤んだ。

 

 彼女の背後に、一人の男性の姿を見たような気がしたからだ。

 彼女「たち」をこの世界に生み出した男。

 この世界から消えた最愛の人を、「綾波レイ」として蘇らせた男。

 母親の代替品として「綾波レイ」を愛でていた父親の幻影を見たような気がして、シンジは喉まで出掛かっていた言葉を飲み込む。

 

 

「ごめん…」

 

 代わりにシンジの口から出たものは、謝罪の言葉だった。

「君の新しい名前…。僕には思いつかなかったよ…」

 そう告げるシンジの顔に広がる悲しみの色。そんな彼の表情を、洗い流すような笑顔を目の前の彼女は浮かべている。

 

「ありがとう」

 

 彼の謝罪の言葉に対して彼女の口から出たのは感謝の言葉。

 

「名前、考えてくれて。それだけで嬉しい…」

 裏表のない、透き通った彼女の声。

 そんな彼女は、さらにもう一歩、シンジへと近づいた。

 そして両腕を広げ。

 さらにもう半歩、シンジへと近づき。

 広げた両腕をシンジの背中に回そうとして。

 

 危うく彼女に抱き着かれそうになったシンジは、慌てて2歩ほど後退し、彼女から遠ざかる。

「な、何度も言ってるだろ。ダメだよ、急に人に抱き着いちゃ」

 しどろもどろな口調で抗議するシンジに対し、彼女は2度ほど大きく瞬きをして、寂しそうに自身の空っぽの両腕に視線を落とした。

「命令?」

 ぽつりと呟く彼女。

「え?」

「それは、命令?」

 彼女にそう訊ねられたシンジは、半ば自棄っぱちになりながら小刻みに頷く。

「あ、ああそうさ。命令だよ。これはメイレイ」

 そんなシンジに、彼女はくすりと笑った、

「やだ」

「え?」

「私、もう、命令聞かない。命令は、必要ない」

 「この顔」では見たことのない、心の底から溢れ出るような笑顔を浮かべている彼女に、シンジはぽかんとしてしまう。

「でも…」

 彼女は空っぽの両手を腰の後ろに隠す。

「碇くんが、嫌なら、しない…」

「べ、別に嫌、という訳じゃ…、ないけど…」

 

 彼女は両手を後ろに組んだまま、シンジから一歩遠ざかった。

 

「ここじゃ生きられない…。けど、ここが好き」

 

 そう呟く彼女は目を閉じながら、鼻から大きく息を吸い込んでいる。まるでこの世界の全てを、空気を通じて感じ取ろうとでもしているかのように。

 そして少しずつ息を吐き出しながら、再びにっこりと笑い、シンジを見つめる。

 

「好きって分かった。嬉しい」

 

 自身の胸に両手を当て、噛み締めるように言う。

 

「稲刈り、やってみたかった」

 

 さらに一歩、シンジから遠ざかる彼女。

 

「ツバメ、もっと、抱っこしたかった」

 

 さらにもう一歩。

 

「好きな人と…」

 

 シンジの顔をまっすぐに見つめる彼女の体は、廃墟の壁を背にしたところで止まった。

 

「ずっと、一緒に居たかった」

 

 

 何か予感めいたものがあったのかもしれない。

 

「綾波っ!」

 

 無意識のまま彼女の名前を叫んだシンジは、遠く離れてしまった彼女のもとへと駆け出す。

 目を閉じ、体を大きく傾け始めた彼女。

 懸命に足を前に出し、今にも倒れてしまいそうな彼女へ駆け寄り、そして両腕を前に出し。

 ようやく辿り着いた彼女の細い体を、力強く抱き締める。

 彼女の体が何処にも行ってしまわないように。

 「あの日」の彼女のように、消えてしまわないように。

 

 少年の腕の中の少女。

 彼女の両手は遠慮がちに彼の背中へと回され。

 

 

「さよ…なら…」

 

 

 彼の耳元に囁かれた小さな呟きと共に、彼の顔に数滴の水飛沫が掛かり、そして彼の腕から彼女の体の感触が消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「アスカなら知ってるんだろ! 綾波はどこなんだよ!」

 

 

『知らない…』

 

 

「知らないって…、助けたんだよ、あの時!」

 

 

『人ひとりに大袈裟ね…。もうそんなことに反応してる暇なんてないのよ、この世界には』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「綾波はどこなんですか! 教えてください! ミサトさん!」

 

 

『シンジくん…、綾波レイはもう存在しないのよ』

 

 

「いいえ…、確かに助けたんだ! きっとまだ初号機のプラグの中に居ます! よく探してください!」

 

 

 

 

「父さんの…、あの時綾波が持ってた…。やっぱり助けたんじゃないか…!」

 

 

 

 

 

『レイはもういないのよ! シンジくん!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『君はお母さんを覚えているかね?』

 

「この人は…、…あやなみ…?」

 

『君の母親だ。旧姓は「綾波ユイ」。大学では私の教え子だった。今はエヴァ初号機の制御システムとなっている』

 

『エヴァのごく初期型制御システム。ここでユイくんが発案したコアへのダイレクトエントリーを、自らが被験者となり試みた。君も見ていたよ。記憶は封印されているがな』

 

『結果、ユイくんはここで消え、彼女の情報だけが綾波シリーズには残された。君の知っている綾波レイは、ユイくんの複製体の一つだ』

 

『その娘も、君の母親同様初号機の中に保存されている』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 けたたましいブザーの音。

 薄闇を切り裂く警告灯の光。

 方々から湧き上がる、科学者や技術者たちの怒号、悲鳴。

 

 その渦中にあって、とりわけ狂騒と恐慌と混乱に陥っている男が一人。

 彼は彼らが居るモニター室と、被検体が居る実験房を隔てる強化ガラス製の壁を両拳で何度も叩き、誰かの名前を声を嗄らしながら叫んでいる。

 寥廓たる実験房の床からは巨大な赤い球体がその一部を覗かせており、天井からはその球体に向けて2本の太いワイヤーロープが吊るされていた。まるで大量のマグマを抱える火口のように怪しげな光を放つ赤い球体の中へと沈んでいるワイヤー。その先端は見えない。天井に設置された2基のウィンチは火花を舞い散らせ、耳を劈くような金属音を鳴り響かせながら、最大限の速さで長い長いワイヤーロープを巻き取っている。

 

 やがて、光り輝く球体の中から、ワイヤーの先端が現れた。

 

 ぷつりと途切れたワイヤーの先端。

 

 それが現れた瞬間、男の悲鳴が、一際大きくなった。

 男は両手で頭を抱え、身を捩らせ、獣のような叫び声を上げると、大きな強化ガラスの一角にある扉に駆け寄り、ドアノブを何度も捻るが、自動ロックが掛かったドアは1ミリメートルも開かない。男が何度となく体当たりをしても、小動もしない。男は強化ガラスを拳で叩き、さらにはその額をもガラスに打ち付ける。掛けていたメガネのレンズが割れ、フレームが歪み、カタカタとけたたましいブザーの音に比べれば遥かに慎ましい音を立てて床に転がっていく。強化ガラスには男の割れた額や拳から滲んだ血が、べっとりと付着している。

 自分の肉体のみではこの扉も強化ガラスも砕けないと悟った男は、近くにあった重い椅子を持ち上げるとガラスに向けて投げ付けた。しかしショットガンでも撃ち抜けない強化ガラスはあっさりと椅子を跳ね返し、椅子は激しい物音と共に床に落ちて脚ももげてしまった。

 

 長身の男に指示された同僚の3人が恐慌状態の男の体を押さえに掛かったが、両腕と胴を拘束されてもなお男は暴れ回り、右腕を拘束していた同僚の顎を肘で撃ち抜き、自由になった右拳で左腕を拘束する同僚の頬を殴り飛ばし、最後に胴を拘束する同僚の腕からも逃れようと上半身を大きく振り回すが、さらに複数の同僚たちが男の体を抑え込みに掛かり、ついに男は床へとねじ伏せられてしまう。

 

 床にうつ伏せに組み敷かれた男は、顔だけを上げ、強化ガラスの向こうを見つめる。

 割れた額から血を垂れ流し、両目から大量の涙を溢れさせ、口の端からは大量の唾液の泡を吹き出し。

 そして懸命に口を開き、誰かの名前を叫んでいる。

 

 

 

 その男の子は、自分の父親が何人もの人間に抑え込まれる姿を、部屋の隅で身を縮ませながら見つめていた。

 そして父親の口が必死に呼ぶ名前が、自分の母親の名前であることは分かっていた。

 母親の身に。

 あの大きなガラスの向こうに居るはずの母親の身に、何か良からぬことが起きていることも分かっていた。

 

 それでも今の男の子の目には。その頭には。

 哀れなまでに顔全体を歪ませ、顔中の穴から液体をまき散らし、そしてまるでその2文字しか知らないとばかりに同じ言葉を繰り返し叫んでいる彼の父親の姿しか入らなかった。

 

 男の子はただ恐怖した。

 

 何となく、疎まれていることは分かっていた。

 避けられていることは、幼心に感づいていた。

 

 それでも母親が愛した相手。

 自分に、「シンジ」という名を与えてくれた人。

 ぎこちない手つきで、何度もこの体を抱き上げてくれた人。

 

 男の子は、そんな父親の、見たこともない姿に、ただ恐怖していた。

 

 

 警告灯が消え、ブザーも止み、扉の自動ロックが解除される。長身の男を含めた何人かの科学者たちが、扉を開けて実験房へと入っていく。

 

 2分後。

 

 長身の男が実験房から戻ってきた。

 今もなお、数人の同僚たちによって床の上に組み敷かれている男の前に立つ。

 

 涙と鼻水と涎と血で汚れた顔で。

 悲痛に歪曲した顔で。

 それでもほんの僅かだけ期待を寄せた顔で、男は長身の男を見上げる。

 

 長身の男はそんな哀れな男の顔を5秒ほどじっと見つめ。

 

 そして目を閉じ。

 

 

 その顔を、ゆっくりと左右に振った。

 

 

 

 部屋中に、男の泣き叫ぶ声が充満する。

 

 聴く者の鼓膜を切り裂いてしまうかのような、心臓を鷲掴みにしてしまうかのような、魂を汚泥の中に引きずり込んでしまうような、男の悲鳴のような泣き声。

 

 

 男の子はその場に蹲り、目を閉じ、両耳を塞いだ。

 

 男の慟哭から逃げるように、体の中の全ての扉を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

『新弐号機! 全ての信号をロスト! パイロットの状況不明!』

 

 

『補機N2機関! 大破!』

 

 

『エヴァっぽい何かです! 取りつかれました!』

 

 

『艦内が物理的に浸食されていきます!』

 

 

『侵入速度が速すぎて対処が追い付きません!』

 

 

『マーク9! VD防壁を突破!』

 

 

『ダメです! コントロールが全部乗っ取られました!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全部…、思い出したんだね…」

 

 気が付けば、隣に「彼」が座っていた。

 爆破物で囲まれた物々しいガラス張りの部屋の中に置かれた簡易ベッド。

 そのベッドに座る少年。その隣に、「彼」が座っている。

 

 少年は手の中にある、父親がくれた携帯型の音楽プレイヤーを見つめながら頷いた。

「うん…、消去されていた…」

 そこまで言い掛けて、少年は頭を小さく左右に振る。

「僕自身も、忘れようとしていた…、忘れたいと願い、自分で封じ込めていた記憶…」

 顔を上げ、隣の「彼」を見つめる。

「全部、思い出したよ…」

 

 隣の「彼」はにっこりと笑った。

「回顧すれば、君の歴史は喪失の繰り返しだね」

 少年の心に寄り添うような、柔らかな「彼」の声音。

「母親が消え、父親は君の前から去り、君を慕ってくれた君の母親そっくりなあの子たちもみんな消えてしまった」

 少年は、苦々しく笑う。

「君も、だよ…」

 少年の指摘に、「彼」はほんの刹那、意表を突かれたような顔をしたが、すぐにやや大き目の口の端を上げる。

「悲しいかい…?」

「うん…」

「苦しいかい…?」

「うん…」

「こんな世界は間違ってる…、って思うかい?」

「うん…」

 素直に頷く少年の耳もとに、「彼」は口を近付け、そして囁いた。

 

「じゃあ…、全部無かったことにしてしまおうか…」

 

 少年は何も答えず、両手で持っている音楽プレイヤーを見つめている。

「エヴァに乗ったあの2人の攻撃もどうやら失敗に終わったようだ。この舟も新しい世界のための供物となるようだね。この世界は、もう、”詰み”だよ…」

 少年の指が、音楽プレイヤーの角に食い込む。

「そうなってしまう前に…」

 笑っている「彼」の口から零れる、凍てついた声。

「時間を巻き戻してしまえばいいのさ…。君がまだ、みんなと笑っていられたあの頃まで…」

 少年は音楽プレイヤーに視線を注いでいた目をぎゅっと閉じた。

「そうすれば、全部が元通りだ。君はいつものように彼女と彼女のために朝ごはんを作って、迎えに来てくれた彼と彼と一緒に学校に行って、教室に入ればいの一番に片隅で本を読んでいる彼女に声を掛ける。それはとてもとても退屈な毎日で、でも今振り返れば宝箱のように光り輝いていた日々だったはず」

 音楽プレイヤーの角に食い込んでいた少年の指が少しだけ緩んだ。

 

「全部無かったことにしてしまえばいい…。君の大切な人たちが、皆消えていく。こんな世界になんて、背を向けて…」

 

 少年の体から強張りが薄れたのを感じた「彼」は、すかさず告げる。

 

「全部無かったことにして…。自分の望む世界にしてしまえばいいのさ…」

 

 

 閉じていた少年の目が開いた。

 

 

「そうか…。そういうこと、か…」

 

 

 少年は顔を上げると、すぐ側にある「彼」の顔を見つめる。

 少年の黒曜石のような瞳。

 その澄んだ眼差しに見つめられた「彼」は柔らかく笑うと、ゆっくりと少年から顔を離した。

 

「ありがとう…、カヲルくん…」

 少年は目を細めながら、「彼」に向かって感謝の言葉を捧げた。

「どういたしまして。碇シンジくん…」

 「彼」もまた、目を細めて少年の謝意に応じる。

 少年は「彼」から視線を逸らすと、再び手に持った音楽プレイヤーを見つめた。

 

「僕、初めて父さんの気持ちが、分かったよ…」

 

 そう呟く少年の右手が、音楽プレイヤーの表面を優しく撫でた。

「うん…」

 少年のその右手を見つめながら、「彼」は柔らかく笑う。

「だから…、カヲルくん…」

 少年は隣の「彼」を見た。

「僕、父さんと会いたい…」

「うん…」

「僕は今、父さんと会って、無性に話がしたいんだ…」

「うん。そうだね」

 

 「彼」はベッドから立ち上がる。そしてガラス張りの壁へと近付き、やはりガラス張りの扉を大きく開けた。

「それじゃあ行こうか。碇シンジくん」

「うん」

 少年も立ち上がり、扉へと向かう。そして「彼」が大きく開けてくれている扉をくぐり、部屋の外へと出た。

 

 扉を開けてくれた「彼」は、部屋から出てこようとしない。

 少年は立ち止まり、肩越しに「彼」を見た。

 「彼」は扉枠に背中を預けながら、その場に佇んでいる。

 「彼」は少年の視線を受けて、くすりと笑いながら言った。

「分かってるはずだよ。僕は君が心の中で作り上げた、ただの幻想に過ぎない」

 「彼」の指摘に、少年は小さく頷く。

「この扉を開いたのは君の手であり、君をこの部屋から出したのは君の脚であり、君が再び立ち上がったのは君自身の意思に依るものだ」

「うん。分かってるよ」

 少年は身を翻し、「彼」に正面から向き直った。

「だからこれは、僕自身に対する誓いだ…」

「うん」

 「彼」はにっこりと笑い、扉枠から背中を離し、両手はズボンの中に突っ込んだままではあるが、背筋を伸ばして少年の言葉を待った。

 

「アスカを…、みんなを…助けたい…」

 

「うん」

 

「そして、君も、助けたい…」

 

「うん…」

 「彼」の声が、少しだけ震えた。

 

「だから待ってて。カヲルくん…」

 その決意を表すように、右手の中の音楽プレイヤーを握り締める。

 

「必ず迎えに行くから」

 

 そして少年もまた、にっこりと笑った。

 

「みんなを、迎えに行くから」

 

 握り締めた音楽プレイヤーを、胸元に当てた。

 

「綾波と、一緒に…。必ずみんなを、迎えに行くから…」

 

 「彼」は少しだけ潤んだ目で破顔する。

 

「うん。待ってるよ。碇シンジくん…」

 

 

 

 

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