赤色灯の光と警報で満たされた廊下を歩き、階段を昇る。
半ば恐慌状態に陥っている乗組員たちと何度もすれ違うが、誰も彼の存在に気を留める余裕はない。
少年は静かに歩いた。人ごみを掻き分け、充満するガスを貫き、崩壊し掛けの足場を踏んで。
何かに導かれるように、見知らぬ廊下を、階段を、梯子を進んでいく。
そして一つの大きなハッチに辿り着く。
ハンドルを回し、ハッチのロックを解除すると、この大き過ぎる舟の甲板に出た。
最初に見えたのは、赤銅色に染まった空。
その空を背に浮かぶ、4本の腕を持つ異形の白に染まる巨人。
その白い巨人が抱く、四肢を捥がれた赤に染まる巨人。
甲板の上には、白い巨人を前に立ち竦む2人の女性。
一人は金色の髪を短く刈り込んだ女科学者。
そしてもう一人は、赤いジャケットを着た少年のかつての保護者。
白い巨人が唸り声を上げながら、堅牢な歯が並ぶ口を大きく開いた。
その口に向かって浮遊する人影が一つ。
それは、彼が会いたいと願った人物の背中。
碇シンジは呼び掛けた。
「父さん」
回顧すれば、葛城ミサトの半生は後悔の繰り返しだった。
父親のこと。
愛した男性のこと。
息子のこと。
人類を救うためと信じ、身を奉じた組織のこと。
そして、碇シンジのこと。
「父さん」
背後から声。
振り返ると、後悔の一つ。
碇シンジが甲板の上に立っていた。
碇シンジは異形の白い巨人に向けて浮遊する人影に向かって呼び掛けていた。
しかし人影は振り返らない。
白い巨人の口に辿り着いた人影は、岩のような歯の上に乗ると、一歩、また一歩と、巨人の舌の上を歩いていく。
やがて人影は、巨人の真っ暗な喉の奥へと、その姿を消してしまった。
口を閉じた白い巨人は再び大きな唸り声を轟かせる。
2本の腕で手足を捥がれた巨人を抱き、残りの2本の腕には1本ずつの槍を携えて、そしてこの大き過ぎる舟から離れ、そして直下にあるぽっかりと開いたブラックホールのような穴へと向かって降下を始めた。
碇シンジは甲板の淵に立ち、この大き過ぎる舟の直下の空間に開く、ブラックホールのような巨大な穴を。異形の白い巨人が降下していった穴を。彼の父親が消えていった穴を見下ろしていた。
彼の背後では、この大き過ぎる舟、超大型飛行戦艦ヴンダーの艦長である葛城ミサトと副長の赤木リツコが話し込んでいる。
「もはや我々ヴィレには人類補完計画を止める術はない…。”万事休す”…ね…」
「諦めるにはまだ早いわ…。私たちはヴィレ。私たちが諦めない限り、”意志”という槍が折れることはない…」
「でも艦はボロボロ。主機も補機も失ったまま。こうして浮いてるだけでも奇蹟なのよ…」
「それで結構。予備動力が尽きる前に…、更なる奇蹟を起こ……何をしようとしているの! 碇シンジくん!」
葛城ミサトは素早く身を翻すと、腰のホルスターから拳銃を抜き、碇シンジの背中に銃口を向けた。
金属製の床が尽き、何もない空間に次の一歩を踏み出そうとしていたシンジは、背中にかつての保護者の厳しい声を受けて、出し掛けていた右足を止めた。
振り返って、少し離れた場所に立つ2人の女性たちと正対。そして、遠慮がちに言う。
「父さんのあとを、追おうと思って…」
ミサトは拳銃を構えたままかつての被保護者に向かって氷の刃のような声を放つ。
「碇ゲンドウを追って…、何をすると言うの…!」
シンジはかつての保護者のサングラスに隠れた目を、真っすぐに見つめながら言う。
「父さんと、話しがしたいんだ」
その返事を聴き、ミサトは体温が急速に膨れ上がるのを自覚した。体内の熱を追い出すように鼻から大きく息を吐きながら、ミサトは努めて平坦な声でかつ事務的に言う。
「ヴンダーの艦長として、ヴィレの最高責任者として、それは許可できません」
対するシンジも淡々と、事務的に伝えた。
「僕は、父さんと話しをしたいだけなんです」
「いいえ。あなたに碇ゲンドウと会って、話をする必要はない」
「何故です。ミサトさん」
回顧すれば、後悔の繰り返しばかりの半生。
あの時、碇シンジの問いにあえて答えなかった自分。
14年ぶりに目覚めて、混乱の中にある彼の問いに正面から向き合わなかった自分。
ミサトは短い呼吸を2回ほど繰り返した後、慎重に言葉を選びながらシンジの問いに答えた。
「サードインパクトの起因となるニア・サードインパクト。そして先のフォースインパクト。碇ゲンドウが主導したインパクトにおいて、シンジくん。あなたが全てのインパクトのトリガーになっているのよ」
「分かっています。ミサトさん」
そう答えるシンジの表情には、動揺も迷いも見られなかった。
「いいえ、あなたは分かっていない」
それがかえって、ミサトの心の中の不安を煽り立てるのだ。
「危険過ぎるのよ、シンジくん…」
努めて平坦に響かせていた声が崩れ始めた。
「でも僕は…」
「もういいのよ! シンジくん!」
この艦の。そして組織の最高責任者としての仮面が崩れ始めた。
「でもミサトさん。僕は…」
「もういいの! あなたがこれ以上、何かを背負う必要なんて、ないのよ…」
崩れた仮面の向こうから現れたもの。
「ミサトさん…」
「これ以上、私たちが犯した罪を、あなた一人が背負う必要なんて、ないの…」
それは、少年のかつての同居人であり、保護者であり、成長過程にある子供に過ぎなかった少年の側に寄り添い、支えてきたお姉さんの顔。
回顧すれば後悔ばかりの半生。
「あの時」。世界と引き換えにしてまで一人の少女を救おうとした彼の背中を、届かない声で後押しした。
それについての後悔はない。
あの瞬間。人類の、世界の命運は、彼の手に委ねられていたのだ。彼にのみ、選択権があったのだ。彼以外の人類は選択権を得る力も、選択をする資格も持ち合わせていなかった。その権利も資格も、彼を。あの少年を。「あの日」。第4の使徒が襲来したあの日に、何も知らずにやって来た彼を強引にエントリープラグの中へと押し込んだ時点で放棄していたのだ。
彼は一方的に委ねられた選択権を行使したに過ぎない。
世界よりも、一人の少女のことを、選んだに過ぎない。
その選択について、選択権を一方的に押し付けた者に責める資格も権利もないし、その選択を後押ししたことを後悔することもない。
後悔があるとすれば、彼が何も知らぬまま眠っている間に、彼へと向けられる怨嗟の炎を鎮静化できなかったこと。
彼を後押ししたことの責任を果たせなかったこと。
そして彼について、もう一つの後悔。
その後悔の発端となるのは10年前のあの日の夜。
彼と境遇の似た彼女。世界の激変を知らぬまま、4年ぶりに目覚めた彼女。目覚めたばかりの彼女に請われるまま、3号機の実験の日からあの日の夜までの4年間を、ありのまま伝えた。
その数時間後。その彼女は自殺を図った。
彼女がその夜にとった行い。同じ中学校の同級生の少年に、彼の父親の死の真相を告げたこと。
事の詳細を聴いて、直感した。彼女は、間接的な自殺を図ったのだろうと。企図までには至らなかったかも知れないが、少なくとも念慮はしたであろうと。
だから、葛城ミサトは14年ぶりに目覚めた碇シンジに対して、何も告げない、何も話さないことを選択したのだった。
その選択を後になって。
碇シンジがネルフに攫われ、再びエヴァンゲリオンに乗り、そしてフォースインパクトを起こした時になって、またもや遅すぎる後悔に苛まれることになる。
後悔ばかり。
そんな半生を歩んできた葛城ミサトの前に今再び、選択が突き付けられている。
選択を突き付けてきた相手。
碇シンジが、ミサトが構える拳銃の銃口の先で立っている。
「うん。…ありがとう、ミサトさん…」
銃身の先端にある照星と重なりながら、立ったている。
「でもミサトさん。僕はやっぱり、父さんに会いたい」
その顔に微かな笑みを浮かべながら。
「僕は、父さんと話をしなければならないんだ…」
その瞳に、確かな意思を湛えて。
揺らぐミサトの隣に、リツコが立った。
「あなたが碇ゲンドウと話をしたところで、何が変わるといいうの…?」
人の願いや想いよりも、結果を、成果を求める。リツコらしい質問に、シンジは苦笑いしながら答える。
「分かりません」
曖昧な返事とは対照的に、シンジの目はまっすぐにリツコの目を見ている。
「でも、伝えたいことがあるんです」
「伝えたいこと?」
「ええ、父さんに伝えたいこと。たった2つのことだけを」
「2つのこと?」
「ええ。その1つはミサトさん」
視線をミサトへと戻すシンジ。
シンジの全てを見透かしたような視線。
その視線がリツコへと向けられ、何処かホッとしていたミサトは、その視線を再び向けられたことで少したじろいでしまう。
「それはミサトさん。加持さんが抱いていた想いと、一緒です」
シンジの口から唐突に現れたその名前。
「加持が…」
ミサトは、その名前が彼女の子供の父親の名前であるということを、すぐには理解できなかった。
「うん。加持さんが…」
ミサトの頭の中で、ようやくその名前が無精髭を生やした男性の顔と一致する。
シンジの視線に対する怯えにも似た感情が、ミサトの体内から消えた。
「加持が抱いていた想いは私たちとは相いれないものよ…」
ミサトの顔が、一気に険しくなった。
「シンジくん…。あなたが加持と一緒に水をやったあのスイカ畑。あの畑の姿そのものを残すことが加持の願いであり、使命だったの。たとえその畑の中に、私たち人類の姿がなかったとしても…、加持はそれで構わなかったのよ…」
「いいえ…、ミサトさん」
シンジはかぶりを振る。
「父さんの計画の巻き添えになる種の保存。それは加持さんの使命ではあったとしても、それだけが加持さんの願いではなかったはずです」
シンジの右手が彼が履く黒の学生ズボンの後ろポケットへと伸びる。
そのポケットにねじ込んでいたもの。
彼の右手は、携帯型の音楽プレイヤーを取り出した。
筐体に巻き付けていたイヤフォンのコードを解き、そしてヘッドフォンジャックに挿し込まれたイヤフォンのピンを抜く。
筐体の側面にあるダイヤルを回し、内臓スピーカーの音量を上げる。
「初号機の中の綾波が、残してくれていたもの、だよ」
シンジの親指がプレイヤーの再生ボタンを押す。
プレイヤーの中のマイクロカセットテープが回り始めた。
『私の願いなんて、ささやかな、極ありふれたものですよ』
酷いノイズに混じって聴こえる、大らかな雰囲気を纏った男性の声。
スピーカーがその声を奏で始めた瞬間、サングラスに隠れたミサトの目が大きく見開かれた。
プレイヤーは淡々と、磁気テープに記録された音声を流していく。
『でも、その願いを叶えるためならば、何だって利用してやろうと思ってます』
大らかな声の持ち主は、誰かと話をしているらしい。
『君は、何を願うんだい?』
大らかな声の持ち主の話し相手。涼やかな少年の声が、問いかける。
『子供たちが笑って暮らせる、明るい未来』
かつての被保護者を狙う拳銃を構えたミサトの腕。
それが重力に引かれ。
否。
まるでその場には居ない、見えない誰かの手によって、そっと引かれるように、ゆっくりと下がっていく。
『俺、父親になるんです』
シンジはプレイヤーの再生を止める。
「加持さんが抱いていた願い…」
ミサトを見つめた。
「それはきっと、あのスイカ畑で、加持さんとミサトさんの子が笑いながら駆け回ってる姿、だったんじゃないかな…」
「リョウジに…、会ったの…?」
ミサトの口から掠れた声で漏れる、我が子の名前。
シンジは頷き、そして彼女の子と初めて顔を合わせた時のことを思い出して、小さく笑った。
その笑みに釣られるように、ミサトの顔から少しだけ緊張が薄れた。
「元気…、だった…?」
それはシンジが初めて目にすることになる、母親としてのミサトの顔。
「うん…。すごくいいヤツだったよ…」
シンジは表情を引き締めた。
「僕の願いも加持さんと一緒だよ」
シンジが纏う空気が変わったことに気付いたミサトは、一瞬表情に宿った母親の顔を打ち消す。
「加持さんと、ミサトさんの子が生きているこの世界を、守りたい」
彼女の夫の肉声が込められた音楽プレイヤーを握り締めながら、シンジは訴えた。
「その想いを、僕は父さんに会って、直接伝えたいんだ」
「でも…」
目の前には突き付けられた選択。
背後には、積み重ね続けられた後悔の山。
その狭間に立つミサトのサングラス越しの瞳が、シンジの顔と自身の足もとの間を何度も行き来する。
「シンジくんが碇ゲンドウと会えば、きっとまたシンジくんが利用されて…、傷ついて…」
震えた声でそう訴えるミサトの姿に、シンジは表情を緩めた。
「頑固な父親と思春期真っ盛りの息子が顔を合わせるんです。多少の摩擦は仕方がない事ですよ。ミサトさん」
「でも…、でも…。私はもう、シンジくんには…」
シンジはミサトと話しをしながらイヤフォンのコードをプレイヤーの筐体に巻き付けると、それをズボンの後ろポケットに捻じ込んだ。
しかし。
「あっ」
ポケットへの捻じ込みようが浅かったらしく、プレイヤーはズボンのポケットから零れ落ちてしまった。
甲板の床へと落ち、カタカタと硬い音を響かせながら転がってしまうプレイヤー。
プレイヤーは、かつての保護者と、そしてかつての被保護者の間で止まる。
転がった拍子に、再生ボタンが押されてしまったらしい。
プレイヤーの中にセットされたマイクロカセットテープが、所持者の意図に反して回り始めてしまった。
そしてそれは、プレイヤーの小さなスピーカーから赤銅色の空に向かって、大音量で流れてしまった。
『愛してるぜ…!』
スピーカーの音割れを起こすほどの大きな声。
世界中の隅々に向けて。
この声を届けたい相手が、世界の何処に居たって届くように。
『ミサト…!』
その声は14年という時を越えて、ようやく目的地へと辿り着いた。
「あ、こ、これは、その…」
相手に聴かせるつもりはなかった音声記録が流れてしまって、シンジは大慌てでプレイヤーを拾い上げて再生を停止させる。
ドサリと、鈍い音。
顔を上げた。
つい5秒前までそこにあったはずのミサトの顔がない。
しかし視線を少し下げれば、すぐにミサトの顔を見つけることができた。
ミサトが、甲板の上に両膝を付いている。
膝を付いた拍子にずれたらしいサングラスの隅から覗く彼女の瞳。
その瞳が、瞬時に潤み始める。
「リョウジ…」
ミサトの顎が震えた。
「リョウジ…」
口と眉根が、大きく歪んだ。
「リョウジ…」
愛した人の名を繰り返し呟く。
その瞳から、大量の涙を溢れさせながら。
愛した人の名を繰り返し続けた声は、何時しか激しい嗚咽となって甲板の隅々まで響いていく。
人目も憚らずに泣き崩れてしまったかつての保護者。
こうなってしまうことは予想が付いていたので、この音声は聴かせるつもりはなかったのだが。
これは「ズル」をしてしまったなと、シンジは頬をぽりぽりと掻きながら、甲板にしゃがみ込んで泣き続けている女性の姿を見つめた。
「あ~あ~。うちのミサトに何てことしてくれたのよ、碇シンジくん」
そう呆れたように言いながら、床にしゃがみ込んでいるミサトの背後に立ったのは彼女の古い友人。
床に転がっていた官帽を拾ってやり、ミサトの頭の上に被せてやる。
「サードインパクトが起きたあの日から、今日まで頑張って一度も泣かなかったのに。ねえ?」
ミサトの隣に跪いたリツコがしゃくり上げながら泣いているミサトの体を抱いてやると、友人の温かい腕に包まれたミサトの泣き声が一際大きくなった。
リツコはそんな鬼の艦長の背中をよしよしと摩ってやる。
「それで? 碇シンジくんはどうやって碇ゲンドウに会いにいくつもりなの?」
リツコは友人の背中を摩り続けながら、シンジを見つめる。
「ガフの扉の向こうは、ヴンダーも手出しできないマイナス宇宙よ」
その問いに対して、シンジは口を噤んだまま、ただ微笑みを返すことで答えた。
「そう…」
リツコも微笑む。
「全部、思い出したのね…」
シンジは何も言わず、こくりと頷いた。
リツコの腕の中では、変わらずミサトがおいおいと泣き続けている。
「ほら。何やってるの、シンジくん」
リツコにそう言われ、きょとんとするシンジ。
「あなたの所為で我らの艦長はこんな風になってしまって。そして私は乙女になってしまった艦長をあやす為に両手を塞がれてしまったわ」
リツコの言葉の意味をくみ取り損ねるシンジは、小首を傾げている。
この鈍ちんなところは相変わらずね、とリツコは苦笑しながら言った。
「今、あなたを止められる者は誰も居ないわ」
「あっ」
シンジがようやく気付き、短い声を上げたところで、後方のハッチが開いて数人の乗組員が甲板に出てきた。
「あっ! 疫病神!」
ピンク色の髪をした女性が叫びながら、腰のホルスターから拳銃を引き抜こうとしている。
「ほら! シンジくん!」
リツコに再度促され、シンジは力強く頷いた。
駆け出そうとする少年に、リツコはもう一言だけ付け加える。
「レイによろしく、ね?」
リツコのその言葉に、シンジはもう一度力強く頷き、身を翻した。
「シンジくん!」
リツコの腕の中のミサトが叫んだ。
すでに甲板の隅っこに向けて走り出していたシンジは肩越しにミサトの顔を見た。
「必ず! サポートするから!」
「うん! 行ってきます! ミサトさん!」
振り返ったシンジは、一度だけミサトたちに向かって手を振った。
「いってらっしゃい! シンジくん!」
ピンク色の髪の女性が構えた拳銃が火を放つ。
銃弾が甲板の床に跳ねたと同時に、シンジの右足が床を蹴った。
少年の華奢な体が、空中へと躍り出る。