容赦のない陽射しが降り注ぐアスファルトの上をてくてくと歩く。目指す先は、朽ちかけの大型集合住宅。この地が3番目の首都の名を冠すことが決まって、急造された鉄筋コンクリート製の建物群。結局のところ入居する住人は殆どおらず、都市の更なる要塞化のために取り壊しが決まっており、遠くからはコンクリートの塊りを打ち崩す解体作業の音が鳴り響いている。
建物の中の日陰に入れば少しは暑さから逃れられるかと思ったが、目的の部屋は4階。エレベーターはないため、階段を上り切った時にはすっかり汗だくになっていた。
汗一つかかないように見える彼女は、この階段をあの涼やかな顔で毎日上り下りしているのだろうか。
などと考えながら、目的の部屋の前に立つ。
錆びついた扉を前にして、初めてこの部屋に訪れたことを思い出してしまった。
ただでさえ暑いのに、まるで体中の血液が集まってしまったみたいに、顔が火照ってしまう。手のひらに残る「あの感触」を確かめるかのように、右手を無意識に開閉させてしまったため、慌てて不届きな右手をぶらぶらとさせた。
深呼吸を一つ入れ、火照った顔を冷ます。
部屋の住人を呼び出すため、ドアの横にあるインターホンを押した。押してみて、「あ、そう言えば」と思い出す。
やっぱり、鳴らない。
仕方なく、右手で拳を作り、鉄製の扉をコンコンと叩いた。
扉を叩いて、少し経過して。
部屋の中からト、ト、と軽い足音が聴こえてきた。
あの時みたいに無断進入する必要がなくなったため、ほっと安堵の溜息を吐く。
錆びた蝶番が軋む音と共に、扉が開いた。
彼女が、扉の隙間から顔を出した。
ぼんやりとした朧気な表情で。眠たげな目を擦り擦り。
良かった。
今日はちゃんと服を着ている。
心の中でもう一度ほっと安堵したのも束の間。
彼女が着る学校指定の白のブラウス。
そのブラウスの裾の下から伸びる、剥き出しの白い素足。
性の目覚めを迎えるお年頃には十分に刺激的過ぎるその姿に、悲鳴を上げてしまいそうになったところで。
「なに?」
落ち着いた、というか、冷めた彼女の声に、何とか悲鳴は上げずには済んだ。
「ご、ごめん。寝てた?」
「夕べは、零号機の再起動実験、徹夜だったから…」
起き抜けらしいどこか呂律の回っていない彼女の口ぶりが微笑ましく、体から緊張が少しばかりほぐれた。
「じゃあ、零号機、直ったんだ」
あの決戦の時。初号機の前に飛び出し、死の熱線を浴びた彼女が乗る機体。
「よかった…」
そう呟いた心の中では、嬉しさが半分。そして悲しさが半分。
まともに動くかどうかも分からない人型兵器に乗っけられ、世界の命運を背負いながら巨大過ぎる人類の天敵と戦う。そんな理不尽極まりない境遇にあって、微かに見えた希望。あの日の夜に、確かにこの手に掴んだ絆。
自分は一人ではない。”戦友”という存在。彼女とならば。あの死線を一緒に潜り抜けた彼女とならば、自分は一方的に押し付けられたこの不条理な戦いを最後まで戦い抜くことが出来るのではないだろうか。
一方で、彼女があの機体に乗るということは、再び彼女は戦地に立つという訳で。命令があれば、きっと彼女は次もまた、危険を一切顧みずに死地に飛び込んでしまう訳で。その細い身を、任務遂行のためならば躊躇うことなく捧げてしまう訳で。
細い身。
細い足。
まじまじと彼女の白い素足を見つめていた自分に気付き、慌てて視線を床に落とす。
いつから放置されているのかも分からない色褪せたダイレクトメールで埋められた床を見つめながら、本日の訪問の真の目的を果たすべく、学生鞄からプリントの束を取り出した。
「これ。溜まっていたプリント」
彼女がプリントの束を受け取ったのを確認し、自分の慌てぶりを隠すかのように、彼女に背を向ける。
「じゃ、ゆっくり休みなよ。睡眠の邪魔をしてごめん」
そそくさと部屋の前から立ち去ろうとして。
「少し、上がっていけば…」
それは遠くから轟く解体作業の騒音や、集合住宅を囲う木々から鳴り響く蝉の大合唱に比べれば遥かにか細い声だったのに、何故かはっきりと聴こえた。
「あ…」
彼女の意外な申し出に大いに戸惑いつつも。
「うん…」
何故か口は勝手に返事をしていた。
部屋の中に招き入れられる。
靴を脱ぎ、上がり框に足を乗せようとしたところで、彼女がスリッパを用意してくれた。見れば、彼女の足にもスリッパ。この部屋に2足分のスリッパが用意されていることにちょっとした驚きを覚えつつ、用意されたスリッパに足を入れ、部屋の中へと入る。
普通ならば招き入れた側は招き入れられた側に何処か適当な場所でくつろぐよう指示するものだが、相手はあの「彼女」である。無言のまま台所の棚から取り出したケトルに水道水を入れ始めたので、暫く所在なく部屋の真ん中で立っていたが、ただぼんやりと突っ立っているのも間抜けに思えたので、何処かに腰を下ろせる場所はないかと視線を巡らせた。
まず目に入ったのはベッド。つい3分前まで、彼女を眠りの国に誘っていたはずのベッド。彼女の小さな頭を乗せていたはずの白の枕。彼女を包み込んでいたはずの、白のブランケット。
いやいや、さすがにそれは、と思い、次に目に入った部屋の隅にあった椅子を引っ張り出し、無断ではあるが座らせて貰うことにした。
相変わらず殺風景な部屋だな、と100人が訪問したら100人が思うであろう、この部屋に対する凡庸な感想を心の中で抱きつつ、台所に立つ彼女の背中を見つめる。
あの「彼女」が台所に立っている。
違和感しかなく、心の中で笑ってしまった。
一体どんな方法で自分をもてなしてくれるのだろう、と期待半分、不安半分で彼女の後姿を観察する。
寝ぐせのついた空色の髪。
寝巻代わりの皺が寄った白のブラウス。
その両袖から伸びる、2本の白い腕。
その2本の腕のうち1本が頭に翳され、撥ねた後ろ髪を梳き。
蚊にでも刺されたのか、もう片方の腕の肘の辺りを掻き。
時折、細い肩がぐっと盛り上がり、そしてすーっと下がる。きっと欠伸でもしているのだろう。
肘を掻き終えた手が、ぶらりと下がる。
そしてそのままコンロの火に掛けたケトルを、じっと見つめている彼女。
そのままコンロの前で、彫刻のように固まってしまっている彼女。
お湯が沸くのを、待っているらしい。
そんな彼女の後ろ姿に、またもや心の中でくすりと笑ってしまう。
少しでも家事に慣れた者ならば、お湯が沸くまでの時間で他の作業を済ませてしまうのだが。
コンロの前に立ち続けている彼女。案外、マルチタスクが苦手なのだろうか。
ケトルの注ぎ口から白い湯気がぽっぽと立ち昇り始め、蓋がカタカタと揺れ始めた。
お湯が沸いたのを確認した彼女は、ようやくコンロの前から離れ、棚からガラス製のティーサーバーと、2つの紙コップ、そして四角い缶ケースを取り出す。紅茶を淹れてくれようとしてるのだろうが、しかしあの彼女の部屋にあんなに立派なティーサーバーという代物が存在していることにまたもやちょっとした驚きを覚えつつ、一方で紅茶を淹れるための器はただの紙コップというその落差が何となく彼女らしいと思えた。
それにしても、もしかしたら初めてかも知れない。彼女の姿をこうもまじまじと見つめたのは。時間にすれば2分にも満たない、短い間だけれど。その短い時間の中で、2度も心の中で笑っている自分が居る。
人間味など感じさせない。どこか別世界の住人のような彼女。
それが、これまでの。あの決戦の日まで、自分が彼女に抱いていた印象。
でも、ちょっとの間だけでも観察すれば、その一つ一つの行動が何かと微笑ましい。案外、色々と面白い子なのかも知れない。
部屋に招き入れられた時は緊張のあまりカチコチに固まっていた肩の力が、ふわりと抜けていく。
椅子の背もたれに背を預けながら、彼女の後姿を見続ける。
その彼女は、今も四角い缶ケースを見つめながら、固まっている。
彼女が手に持っている缶ケースは、おそらく紅茶の茶葉が入ったケースだろう。遠目で見る限り、封は切られていない。
紅茶の缶ケースを見つめた彼女が固まってしまって、1分が経過した。
今もコンロの火に炙られ続けているケトルの蓋が、カタカタと激しく揺れている。
そろそろ助け舟を出した方がいいかなと思い、椅子から腰を上げる。
その気配に気づいたらしい彼女は、ようやく口を開いた。
「紅茶って…、どれくらい葉っぱ、いれるのかな…」
何だろう。
何の変哲もない、極ありふれた質問のはずなのに、彼女の口から聴くとまるで万病に効く秘薬の調合方法を訊ねられたような気分になってしまう。
訊ねられたのに、何となく黙ってしまい、彼女の動向を見守り続けた。
彼女は手の中にある缶ケースと、肩越しに来客者の顔とを、交互に見比べている。
この部屋には2人しか居ないわけで。
彼女が発した質問は、彼女以外のもう一人に投げ掛けられた訳で。
その相手が何も答えてくれないので、少し戸惑っているらしい。
やがて彼女の視線は缶ケースの上に落ち着き、そして何度か目を瞬かせ。
そして缶ケースの蓋を留めるテープを剥がし、蓋を開けた。
ケースの中には、細かく刻まれた茶葉。甘く香ばしい匂いが溢れ出し、鼻孔を擽る。
彼女は蓋を調理台の上に乗せると、調理台の隅にある空き瓶に挿された1本の歯ブラシと1本のスプーンのうち、スプーンを手に取る。
咄嗟に、調理台に置かれた缶ケースの蓋に目をやった。
蓋の淵に印字された数字。
良かった。ギリギリ消費期限内だ。
視線を調理台の上の蓋から、彼女に戻した。
吹き出しそうになった口を、懸命に噤む。
「これくらい、かな?」
大きなスプーンに山盛りの茶葉を乗せた彼女が真顔で訊ねてくるその様は、もはやコメディ映画のワンシーンにしか見えなかった。
「それじゃ、入れ過ぎ、じゃない、かな?」
今にも笑ってしまいそうな声を、必死で取り繕う。
彼女はスプーンの上の山盛りの茶葉に視線を戻す。茶葉を見つめたまま、困ってしまったようにくてんと小首を傾げるその後姿は、とてもあの巨大過ぎる人型兵器に搭乗するパイロットには見えない。
小首を傾げたまま、またもや固まってしまった彼女。
炙られ続けたケトルの蓋が蒸気に煽られてついに零れ落ちそうになってしまったため、硬直から解かれた彼女はコンロから降ろすためケトルに手を伸ばした。
「あっ…」
彼女の口から、小さな悲鳴が漏れた。
「大丈夫!?」
慌てて彼女の隣に駆け寄る。
彼女は、赤く腫れた右手の人差し指を見ていた。
「少し、火傷、しただけ…」
いつもの無感動な声でそう告げる彼女の右手首を、すぐに掴んだ。
「しただけって!」
隣の流し台に、すぐに彼女の腕を引き入れた。
「早く冷やさないと!」
蛇口から流れる水に、彼女の右手を晒す。
勢いよく流れる水道水の中の、彼女の人差し指。
2人で、その指をじっと見つめる。
水の流れる音と、蒸気に煽られたケトルの蓋が跳ねる音。
缶ケースから漂う甘く香ばしい香り。
すぐ側で感じる、彼女の体温。
ふと、すぐ隣に在る彼女の横顔を見る。
光の加減の所為だろうか。
彼女の両頬が、少しだけ赤く染まって見えるのは。
「あ…」
今更ながらに彼女の体に密着し過ぎていることに気付き、掴んでいた彼女の手首を離した。
「紅茶、僕が淹れるから。綾波は暫くそうしていなよ」
そう告げて、彼女に背を向けコンロの前に向かう。
「うん…」
背中で聴いた彼女の小さな声。いつもより声音が揺れているような気がしたのは、指に負った火傷の所為なんだろうなと思いながら、コンロの火を消した。
ティーサーバーの中の茶こしに2人分用の茶葉を入れ、ケトルのお湯を注ぎ入れ、蓋を閉める。
蒸らしの間は何もすることが無い。
背後では、水の流れる音が続いている。
「綾波は…」
ガラス製のティーサーバーの中で茶葉から広がる紅い色を見つめていたら、殆ど無意識に口を開いていた。
「綾波は、父さんと、いつもどんな話をしているの…?」
背後で蛇口レバーを捻る音。
水の流れる音が止まる。
「お父さんと…」
彼女の視線を、背中に感じた。
「お父さんと、話、したいの?」
ティーサーバーから視線を上げ、少し汚れた剥き出しのコンクリートの壁を見つめる。
「うん…。話をして何が変わるってわけでもないだろうけれど…、でも…」
視線をティーサーバーに戻すと、お湯の上の方に浮いていた茶葉たちが、茶こしの底に沈んでいる。
「でも…、今のこんなままの状態では…、つらいんだ…」
ティーサーバーの蓋に付いているレバーを引っ張り、茶こしをお湯の中から引き揚げた。
「父さんのことが、よく分からないまま…、エヴァに乗り続けるのは…」
なぜ、こんなことを彼女に言ってしまったのだろうと、少しばかりの後悔。
こんなことを言っても、彼女を困らせてしまうだけだろうに。
沈黙。
ティーサーバーの取っ手に手を伸ばす。
さっさとお茶を淹れて、飲んで、帰ろう。
取っ手を掴み掛けて。
「言えば、いいのよ…」
「え?」
伸ばし掛けた手を引っ込め、彼女を見た。
彼女は火傷した右手を胸の前で抱き締めながら、いつものまっすぐな瞳でこちらを見ている。
「思ってる本当のこと…。お父さんに、言えばいい…」
気が付けば、まっすぐな瞳で彼女を見つめ返していた。
いつもなら人と交差した視線はすぐに逸らせてしまうのに、彼女のまっすぐな視線を受け止め続けている自分が居た。
珍しく、先に視線を外したのは彼女の方。
仄かに、その真っ白な頬を、赤く染めて。
外された彼女の視線の先には、調理台の上のティーサーバー。
「綺麗な色…」
彼女の視線に釣られて、ティーサーバーを見る。
2人分のお湯で満たされたガラス製のティーサーバー。まるで彼女の瞳のように、赤く染まっている。
「飲んで、いい?」
「あ、うん…」
紙コップに彼女の分の紅茶を注ぎ入れ、彼女に渡す。
残ったもう一つの紙コップにも、紅茶を注ぎ入れる。
両手に包まれた紙コップに、そっと唇を近付ける彼女。
紙コップを傾け、中の紅茶を口の中へと少しだけ流し込む。
そんな彼女の様子を眺めながら、自分も紙コップの紅茶を一口だけ飲み込む。
ちょっと蒸らしすぎたかな?
「少し、苦かったね…」
少しだけ、彼女の口角が上がって見えるのは気の所為だろうか。
彼女は柔らかな声で言う。
「でも、温かいわ…」
3口ほど紅茶を飲み込んだ彼女は、両手に包み込んだままの紙コップをそっと調理台の上に置いた。
白の紙コップの中にある半分に減った紅茶を見つめながら、彼女は言う。
「碇くん…」
3口目を啜っている途中だったため、「ん?」と短い声で応えた。
「碇くん…、今度の日曜日、予定は?」
「え?」
紙コップから口を離した。
「今度の日曜日。予定、ある?」
それはもしかしてデートの誘いとかゆーやつですか!
一瞬心臓が跳ね上がったが、しかしすぐに肝心なことを思い出してしまう。
「あ、うん…。ちょっと、用事が入ってて…」
跳ね上がっていた心臓が、急速に萎んでいくのを感じた。
「そう…」
「うん…」
彼女の顔が隣へと向けられる。
「その用事って…」
「え?」
「その用事って…、もしかして…」
彼女は何かを言い掛けて、しかし口を閉じ、寝癖が付いた頭を左右に振る。
「なんでもない…」
そう言って、紙コップに残った紅茶を一気に飲み干す彼女。コップから口を離し、小さく溜息を吐いて、そして。
「美味しかった…」
「そう。良かった」
間違いなく、今度ははっきりと、彼女の口角は上がっている。
「よかったら、紅茶の淹れ方、教えてあげようか?」
「ええ、お願い」
意外なほど素直に頷く彼女に、さっそく茶葉の一人分の分量から教えることにした。
* * * * *
まるで砂漠のような丘陵に並ぶ、無数の墓標。広大な霊園の一角に、一機のVTOL機が土煙を巻き上げながら降り立つ。
そのVTOL機を背にして立つ男は、視線の先に立つ彼の息子に言った。
「時間だ。先に帰るぞ」
踵を返し、着陸したVTOL機に向かって歩き出す。
「父さん」
背中に投げ掛けられた声に立ち止まり、振り返った。
一つの墓標を背にして立つ少年。
彼の息子が、ぎこちなくも微笑んで父親を見ている。
「あの…、今日は嬉しかった…。父さんと話せて…」
「そうか…」
そう短く答える男の声もまた、ぎこちない響きだった。
* * * * *
突然の7番目の襲来。
輸送途中だった弐号機のいきなりの実戦投入。
そして嵐のような赤毛の少女の登場劇。
色々あり過ぎて頭の中が少々混乱したまま廊下を歩いていたら、廊下の先を歩く彼女の後ろ姿を認めた。
心が逸るのを自覚しながら、彼女の背中を駆け足で追いかける。
「綾波…!」
すでに制服に着替え終えていた彼女は、足を止め、振り返った。
彼女の前まで辿り着き、両膝に手を付いて乱れた息を整える。
彼女は何も言わず、呼吸が整うのを待ってくれている。
「綾波、今日さ」
顔を上げ、彼女を見た。
「父さんと、話が、出来たんだ」
弾んだ声で、彼女に言う。
「結局僕が言いたいことが何なのか、分からず終いでさ…」
彼女は、無言のまま見つめてくる。
「碌な話もできなかったけど…」
そんな彼女の顔を、笑顔で見つめ返しながら、噛み締めるように言う。
「でも、父さんと話、できたんだ…」
シャワーを浴びたばかりらしい、少し濡れた前髪の隙間から見える彼女の紅玉の瞳。その瞳が少しだけ細くなり、そして薄桃色の唇が緩やかな曲線を描いた。
「そう…」
微笑んだ彼女の顔。
「よかったわね…」
彼女の顔を、暫しぽかんと見つめた。
父親を迎えに来たVOTL機の窓ガラスに、彼女の姿を見たような気がした。
「綾波…、もしかして…」
「なに…?」
いつの間にか彼女の顔からは微笑みが消え、いつもの無表情に戻っている。そんな仏頂面で小首を傾げる姿が、少しだけ可笑しく思えた。
……そして、とっても可愛いとも思ってしまった。
「ううん。なんでもない」
彼女と肩を並べて、廊下を歩き始める。
「そう言えば、あれから紅茶淹れてみた?」
「ええ」
「…あの茶葉は早めに使い切った方がいいよ。確か、消費期限ギリギリだったと思うから」
「そう…。碇くん…」
「なに? 綾波」
「また…」
「うん」
「また、お父さんと、話。したい?」
彼女からの意外な質問に、虚を突かれたようにきょとんとしてしまう。
「うん…。そうだね…」
隣を歩く彼女の横顔をちらりと見ながら、深く頷く。
「また、父さんと話、できたらいいな」
* * * * *
それから例の嵐のような少女との同居生活が始まったり、上官兼保護者兼同居人の元カレの誘いで郊外の巨大水族館にみんなで出かけたり、空から降ってくる8番目を3人で受け止めたりと、あれやこれや色々あって。
訓練や実験が終わり、プラグスーツから制服に着替えて更衣室から出たところで。
「あ、綾波?」
廊下に制服姿の彼女が立っていたので、ちょっと驚いてしまった。
「どうしたの?」
彼女はいつもの仏頂面でスタスタと歩み寄ってくるので、ちょっと身構えてしまう。目の前にやってきた彼女はすっと右手を差し出してきた。
彼女の真っ白な手の中にあるのは、白の洋封筒。
「え!?」
これはもしかしてラブレターとかゆーやつですか!
情けなく震える手で洋封筒を受け取る。
表紙には、ぎこちない筆跡で綴られる『碇君江』の文字。
「あやな…?」
封筒から顔を上げると、彼女はすでに背を向け、歩き始めていた。
彼女の背中と手もとの封筒とを交互に見つめる。
封筒をひっくり返すと、『綾波レイ』という差出人の名前と、彼女のイメージにはまったく合わない犬の足跡を模したシールで留められた封。シールを剥がし、封を開け、中のメッセージカードを取り出す。
「食事…、会…?」
* * * * *
まるでブラックホールのような穴。
赤い空間にぽっかりと開いた大きな穴。
自分が飛び降りた巨大過ぎる空中戦艦など、ミジンコのように思えるほどの大きな穴。
それに向かって、真っ逆さまに落ちていく。
どんどん、どんどん、落ちていく。
凄まじい風圧に煽られ、錐もみ状態になりそうな体を必死に制御して。
真っすぐに大きな穴へと落ちていく。
落ちていくのに、何故か穴は遠くのまま。
穴に近付けない。
それは単に、穴がこの体に比してあまりにも大き過ぎるからであって、近付いている実感が持てないだけなのかもしれないし。
あるいは、あの女科学者が言っていたように、あの穴の向こうは、ただの人間には手出しできない場所、立ち入れない場所、近づくことすらできない場所なのかもしれない。
だけど。
そうだとしても。
確信があった。
あの穴の向こうに行けるという確信が。
あの穴の向こうに行ってしまった父親に会えるという確信があった。
何故なら。
そう、何故なら。
そうだったね。
君は、ずっと前から、僕に言っていたんだ。
望んでくれていたんだ。
あの男と。
碇ゲンドウと。
ぼくの父親と話せと。
君はずっと、僕に言い続けてくれていたんだ。
だから。
僕は今、父親と。
碇ゲンドウと、話がしたい。
無性に話がしたいんだ。
だから。
もう一度、手を貸してほしい。
僕に。
君の手を。
もう一度。
だから。
もう一度僕の手を握って。
もう一度手を繋いで。
あの時のように。
もう一度、僕の手を。
だから。
「綾波!!」
僕の声に応えて!
「僕はここだ!!」