機甲少女の想いは一途   作:hekusokazura

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(56)響き合う声

 

 

 

 

 彼が、この部屋から出ていった。

 律義に、使ったティーサーバーを洗ってくれて。

 彼が、この部屋から出ていった。

 

 閉じられた扉から視線を離し、振り返る。

 ベッド。椅子。チェスト。小型の冷蔵庫。それ以外は、何もない部屋。

 普段通りの部屋。見慣れた部屋。

 それなのに感じる、ちょっとした違和感。

 

 この部屋は、こんなに殺風景な場所だっただろうか。

 

 まるで逃げるように部屋に背を向け、ほんの2分前まで彼が立っていた台所の方に視線を向ける。

 すー、と鼻から大きく深呼吸をした。

 まだ、紅茶の甘く香ばしい匂いが残っている。

 この部屋で、消毒液と石鹸と歯磨き粉、そして血以外に感じる、初めての匂い。

 

「碇くんの…、匂い…」

 

 その匂いを嗅ぐと、少しだけ心の中がぽかぽかと温かくなるような気がした。

 

 

 チェストの上に乗せていた学生鞄の中から、携帯電話を取り出した。

 短縮ダイヤルを使い、ある相手に電話を掛ける。

 

 2度の呼び出し音の後で、相手が出た。

『どうした…?』

 低い、男の声。

『どうした…、レイ。何があった…』

 この携帯電話でこの番号に掛けたのはこれが初めてだ。出た相手も、ちょっと驚いているらしい。

「碇司令…」

『なんだ』

「今度の日曜日」

『日曜日…?』

「予定、ありますか?」

『それを聞いてどうする』

「……」

『…午後から第2新東京市に出張予定だ』

「午前は…?」

『午前だと?』

「午前中の予定は…?」

『…その日の午前は私用に当てられている』

「私用…、ですか…」

『ああ』

「私用…とは、碇司令の…」

『レイ』

「はい」

『お前には関係のないことだ』

「はい。申し訳ありません…」

『……』

「……」

『話は終わりか』

「……」

『ならば切るぞ』

「……」

「……」

「……」

『レイ…』

「はい…」

『言いたいことがあるなれば言え』

「…碇司令」

『なんだ…』

「その私用には、碇司令お一人で…?」

『……』

「……」

『それを聴いてどうする…』

「……」

『……』

「……」

『…その予定だが』

「…そう、ですか…」

『……』

「……」

『話は終わ…』

「碇司令」

『…なんだ…』

「碇司令の私用に、私も同行することはできますか?」

『なんだと?』

「私も、碇司令の私用に、同行させてください」

『何をバカな…』

「お願いします」

『……』

「……」

『……』

「……」

『……』

「……」

『レイ…』

「はい…」

『〇九〇〇時に迎えに行く。それまでに準備を済ませておけ』

「はい。では、〇九〇〇時までに出発の準備を整えておきます」

『分かった。話は以上か』

「はい」

『では切るぞ』

「はい」

『…レイ』

「はい」

『いや…、何でもない』

「はい…」

 

 

 

 相手が通話を切ったことを確認し、今度は別の短縮ダイヤルを使って電話を掛ける。

 呼び出し音が10回ほど鳴って、相手が出た。

『え? え? レイ? ど、どうしたの?』

 今度の相手も、この携帯電話から掛けられたことに大いに驚いているらしい。

「葛城三佐」

『は、はい。なんでしょ?』

「今度の日曜日、ご予定は?」

『え? 日曜日? え、えーと。あ、あー。そうだそうだ。一応シンちゃんとお出かけすることになってるんだけど』

「お出かけ…」

『そう。どうやらね。その日、シンちゃんのお母さんの命日らしいのよ。だから、本人は「いい」って言ってんだけどね。せっかくだからお墓参りに行こうって、前々から約束してたのよ』

「では、その日は三佐の車で」

『ええ、そうよ』

「出発の予定時間は?」

『特に決めてはないけど、午後には弐号機と新しいパイロットが着く予定だから午前中には行くつもり…』

「分かりました。失礼します」

『え? ちょっと、ちょっとレイ。何なの…』

 相手がまだわーわー言っている内に、電話を切ってしまう。

 

 

 学生鞄の中から、飾りっ気のない小さな茶色の手帳を取り出す。

 手帳の中のカレンダーには、訓練や実験、そして「メンテナンス」のスケジュールしか記されていない。

 その中の、次回の日曜日の欄。

 何も記されていない空っぽの欄に、ボールペンで予定を書き込もうとして。

 ふと、その手を止める。

 この日の予定を、一体どのように記せばよいのだろう。

 

 ボールペンのお尻を顎に押し当て、10秒ほど考えて。

 

 思い立ち、日曜日の欄にペンを走らせる。

 

 

 この日、彼女は生まれて初めて「花」のマークを描いた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 激しい爆音を轟かせながら、1機のVTOL機が集合団地の側の空き地に着地する。地面へと伸びたタラップから、一人の男性が降りてきた。その男を追って降りてきた警護の一人が、彼に話し掛ける。「私が迎えに行きましょう」と。しかし男は首を横に振り、警護にはここで待つように指示を出し、彼が自ら本部内の売店で購入した品物が収められている買い物用のビニール袋を手に下げて、集合団地に向かって歩き始めた。

 

 エレベーターはないため、階段を使う。この猛暑にあって厚手のジャケットを着こむ彼は、その額に汗一つ垂らさずに階段を上っていく。

 目的の部屋の前に立ち、インターホンには手を伸ばさず、錆びついた鉄の扉を拳でトントンと叩いた。

 ドアノブが捻られる音と共に、錆びた蝶番の音。ドアが開き、その隙間から彼女が顔を出す。

 彼女は視線で彼に向かってお辞儀をし、彼は無言のまま頷いて答えた。

 彼女はドアを大きく開け、彼を招き入れる。

 用意されたスリッパを履いて部屋に入った彼は、ぐるりと部屋の中を見渡し、彼女の生活状況を確認した。

 書類上は10代半ばである少女が住まう環境としては、100人に訊いたら100人が不適当であると答えるであろうその部屋を、しかし彼は「何も問題はないな」とばかりに頷きながら見渡し、そして彼女に向かってビニール袋を差し出す。

 ビニール袋の中身はミネラルウォーターのペットボトルや、パウチ入りのゼリー食など。10代半ばの少女に渡すお土産としては、100人に訊いたら100人が不適当である答えるであろうそのビニール袋を、しかし彼女は喜ぶ素振りもがっかりする素振りも見せずにいつもの仏頂面のままで受け取り、中身を冷蔵庫の中に収める。

 自分が持ってきたお土産を彼女が冷蔵庫に収めたことを確認した彼は、玄関の上がり框に立った。彼女に、「行くぞ」と無言で伝える。

 しかし、彼女は部屋の中央に立ったまま、動こうとしない。

「レイ。出発するぞ」

 彼はようやく声に出して、彼女に指示する。

「碇司令」

 彼女の方もようやく声を出して、彼を呼んだ。

「なんだ」

「紅茶…」

「は?」

「紅茶…、飲んで、いきませんか?」

 

 

 

 粗末なベッドに腰を下ろすと、細いパイプの骨組みがミシリと音を立てて沈んだ。膝の上に手を組みながら、改めて部屋を見渡す。チェストに小型の冷蔵庫、椅子、そして自分が座っているパイプベッド。必要最低限のものしか揃っていない、粗末な部屋。

 部屋に置かれたそれらの家具は、全てベッドに座っている彼が揃えたものだ。

 

 別にこだわりをもって選んだわけではない。

 何かを意識したわけでもない。

 でも、改めてこのベッドから見渡したこの部屋の風景は、既視感を彼に抱かせた。

 

 

 それは彼と「彼女」が愛を育んだ部屋。

 若かりし頃の2人。

 2人とも駆け出しの科学者で裕福ではなく、またお互い物欲がないもの同士だったため、部屋に揃えたものはこの部屋と同様必要最低限のものだった。

 シングルのパイプベッドに2人分の衣類が入ったチェスト。アルコールとミネラルウォーターと少しばかりの食べ物くらいしか入っていない小さな冷蔵庫。1日の大半を研究所に詰め、帰って寝るだけでしかない部屋であるため、これだけあれば十分だった。

 それは彼にとって、最も幸せだった時代。

 部屋に帰ればすぐに服を脱ぎ捨て、2人でシャワーを浴び、下着だけを着てベッドの中になだれ込む。

 お互いの肢体を絡ませながら、カーテンの隙間から空を見上げれば、闇夜に浮かぶ月。

 果てた後は汗だくの「彼女」の腕の中で朝まで微睡む。

 目を覚ませば台所に立っている「彼女」の後姿。

 あるものを挟んだだけのサンドイッチを皿に乗せ、ケトルでお湯を沸かし、ガラス製のティーサーバーに茶葉を入れ、ティーカップを用意する。

 

 そう。

 今、正に彼女がそうしているように。

 

 

「碇司令…?」

 コンロからケトルを下ろした彼女が、肩越しに彼を見ている。

 その赤い瞳から放たれる視線を受けて、彼は初めて自分がいつの間にかベッドから離れ、彼女のすぐ背後に立っていたことに気付いたらしい。その右手は、あと10センチメートルで彼女の肩に触れようとしていた。

 2度ほど丸渕メガネの奥にある目を瞬きさせ、手を下ろした彼。

 見れば、調理台の上にはサンドイッチなんて置いてないし、彼女の髪は不自然な空色。

 

 調理台の隅に置かれているのは、ガラス製のティーサーバー。

 それは彼が、彼女の書類上ではない、「本来の誕生日」に贈ったものだ。

「使っているのか?」

 彼のその発言の意味をすぐに理解できなかった彼女は、彼のメガネ越しに注がれる視線がティーサーバーに向いていることに気付く。

「はい…、たまに…」

 これが2回目だということは黙っておくことにした彼女。

「そうか…」

 そう呟く彼の声音は、どこか満足げであったことに、人の心の機微に疎い彼女が気付いた様子はない。

 

 ケトルのお湯が沸いたことを確認した彼女は、スプーンを使って缶ケースの中の茶葉をティーサーバーの茶こしの中に入れる。

 蓋を閉め、調理台の隅に置かれた紅茶の缶ケースに、彼は素早く視線を走らせ、その缶ケースの蓋に記された印字を確認する。

 蓋に記された年月日。

 その紅茶の消費期限を示す数字。

 その日付は、2日前。

 

「レイ…」

 彼女の名を呼んだが、すでに彼女はティーサーバーの中に熱湯を注ぎ入れているところだった。

「はい…」

 熱湯を注ぎ終えた彼女は肩越しに振り返る。

「いや、なんでもない」

 多少期限が過ぎた程度の紅茶で、人が死ぬようなことはないだろうと、多少潔癖の気がある自分を納得させる彼である。

 

 こぽこぽと音を立てながら紙コップの中に注がれる紅茶。

「どうぞ」

 彼女の手で差し出された湯気が立ち昇る紙コップを、彼は黙って受け取る。

 

 数日前の「彼」と同じように、台所に立ったまま紙コップの中の紅茶を啜る彼。

 彼女もまた自分用の紙コップに紅茶を注ぎ、両手で包み込むように紙コップを持って、とんがらせた口で紅茶を啜った。

 

 丁度良い風味、香り、甘味。

 あの日、「彼」が淹れてくれた紅茶に比べればずっと飲みやすいが、何故だろう。「彼」が淹れてくれたあの日の、苦味の強い紅茶の方が美味しかったと感じるのは。これが”嗜好”というものなのだろうか。

 それとも…。

 

 一方の彼は、猫舌なのだろうか。

 熱々の紙コップに慎重に口をつけ、一口一口をちびちびと、ゆっくり啜っていた。

 

 暫くの間、2人が紅茶を啜る音だけが殺風景な部屋の中に響いた。

 

 

 空っぽになった紙コップを、調理台の上に置く。

 彼はメガネのレンズを湯気で曇らせたまま彼女に言った。

「行くぞ」

 彼女は自分と彼の紙コップをゴミ箱に捨てながら言う。

「碇司令…」

「なんだ」

「トイレ、いいですか」

「ああ」

 

 

 ユニットバスのトイレに入り、この部屋に住み始めて以来初めてドアの内鍵を閉める。

 パンツもスカートも下ろさず、そのまま洋式の便座に座った。

 スカートのポケットから携帯電話を取り出す。携帯電話の画面に表示される時刻を確認し、そして短縮ダイヤルを使って電話を掛けた。

『もしもし?』

「三佐…」

『う、うん。どしたの?』

 やはりこの電話番号から掛かってくることに戸惑いを覚えているらしい相手。

「碇くんは…」

『え? 部屋に居るけど?』

「今日は、お墓参りでは…?」

『それがさ、シンちゃん、やっぱり今日はいい、って言い始めちゃってねぇ』

「え?」

『あ、でも何とか説得して、今部屋で着替えてるところ』

「そう、ですか…」

 ホッと、安堵の溜息を漏らすトイレの中の彼女。

『ねえ。なんなの? あなた、この前から変よ?』

「三佐」

『なに?』

「三佐のおうちから、お墓まで、車でどれくらい…?」

『え? えっとぉ…、30分くらいかな?』

「分かりました」

『ちょ、ちょっと。何なのよレ…』

 相手がわーわー言っている間に、電話を切ってしまう。

 

 

 

 パイプベッドの上に腰掛けたまま、部屋をぼんやりと眺めていた。

 どこか懐かしさを感じさせるこの部屋を。

 

 ふと、立ち止まることなど許されないはずの自分が、無為に時間を過ごしていることに気付き、視線を左手首の腕時計に落とす。

 彼女がトイレに入ってから、随分と時間が経過していた。

 

 トイレのドアの前に立った。

 右拳を、木製のドアに当てようとして。

 年頃の女の子のトイレ中に声を掛けるのはあまりにも不作法ではないか、と彼にしては珍しく躊躇いを感じ、右手を下ろした。

 その後も彼の右拳は何度かドアの前と彼の腰との間を行き来する。

 十分に逡巡した後、ようやく彼女がトイレの中で倒れている可能性に思い当たり、彼は思い切ってドアを叩いた。

 

「はい…」

 

 ドアの向こうからすぐに彼女の返事があり、彼はほっと安堵の溜息を吐く。

 

「レイ。そろそろ出発だ」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「レイ。時間が押している」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「レイ。どうした。気分でも悪いのか」

「いいえ…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「レイ…」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「レイ」

「なんでしょう…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「まだ時間が掛かるのか…」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「長いな…」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「お…」

「お?」

「大きい方…、ですから…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「そうか…」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「すまん…」

「いいえ…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「レイ」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「ご無沙汰だったのか…」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「そうか…」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「食物繊維は十分に摂っているのか?」

「たぶん…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「今度支給するサプリメントの内容を再検討させよう」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「レイ」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「まだ時間が掛かりそうか」

「はい…」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「……」

「……」

 

「分かった」

 

 

 ドアの向こうに居た彼の気配が消えた。

 携帯電話を掛ける。

『はいはい。なんでござんしょ?』

「碇くんは?」

『ようやく部屋から出てきたわ。今から出かけるところ』

「分かりました」

 電話を切る。

 

 先ほど聞いた、「彼」の家から目的地まで車で掛かる時間と、ここからVTOL機で目的地まで掛かる時間の差を計算する。

 

 

 

 さすがにこれ以上はもう待てない。

 トイレのドアの前に立つ。

 

「レイ」

「はい…」

「どんな様子だ?」

「はい…、えっと…」

「VTOLの中にもトイレはある」

「はい…」

「まずは出発しよう」

「……」

「どうした? レイ」

「碇司令…」

「なんだ」

「実は…」

「なんだ」

「くだしてしまったようで…」

「なに?」

「……」

「大丈夫なのか?」

「はい…」

「やはりあの紅茶はまずかったか…」

「はい?」

「いや…。レイ」

「はい…」

「今日はもう、諦めなさい」

「え?」

「お前が望むなら、また別の機会に連れて行こう」

「え?」

「だから今日は家で養生していなさい」

「大丈夫です」

「レイ。我儘はよしなさい」

「大丈夫です。碇司令。もう少し、待ってください」

「レイ…」

「お願いします」

「……」

「お願いします」

「……」

 

 ジャケットのポケットに手を突っ込む。

 中から、朱色の小さな瓶を取り出した。

 

「レイ」

「はい…」

「ドアを開けなさい」

「え?」

「ドアを開けるのだ、レイ」

「でも…」

「開けなさい。これは命令だ」

「はい…」

 

 ドアノブが回り、ドアが僅かに開いて、その隙間から赤い瞳が覗いた。

 その瞳を見つめながら、彼は溜息を吐きつつ、手に持っていた小瓶を差し出す。

 差し出された小瓶を見て、彼女はぱちくりと瞬きをする。

 

「これを飲め」

「これは…?」

「征露丸だ」

「セイロ…ガン…?」

「下痢から便秘まで、お腹の悩みには何でも効く」

「なんでも…?」

「私がこの世界で最も信頼を寄せる薬剤だ」

 

 ドアの隙間から、おずおずと白い手が伸びる。

 その白い手に小瓶を乗せると、彼は一旦ドアの前から離れて台所に行き、コップに水を注いだ。トイレの前に戻り、ドアの隙間から中の彼女にコップを渡してやると、ドアを閉めた。

 

「あと10分待つ」

「はい…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 広大な丘陵の表面には、まるでサボテンの針のように並ぶ無数の墓標。

 VOTL機は大きな爆音を轟かせながら、霊園の広場に降り立とうとしている。

 

 彼は、VTOL機の窓から見える一つの墓標の前に立つ人影を見て、目を丸くした。

 彼の視線の先に立つ2つの人影。その人影の1つ、少年もまた、この静かな霊園には不似合いな爆音を轟かせて降り立とうするVOTL機を、目を丸くして見上げている。少年の隣に立つ赤いジャケットを着た女性は爆風に暴れる黒髪を抑えながら、全てに合点がいったような様子でニヤニヤと笑いつつ、少年と同じようにVTOL機を見上げていた。

 

 

 彼は窓から視線を外し、隣の席に座る彼女を見た。

「レイ…」

「はい…」

「お前…」

「はい…」

「謀ったか…」

「何のことでしょうか…」

「……」

「……」

 2人の間に沈黙が横たわっている間に、VTOL機の主脚が地上に接触した。

 ハッチが開き、地上に向けてタラップが降りる。

 開いたハッチと、隣に座る彼女とを交互に見比べる彼。

 

「司令?」

 目的地に到着したのに座席に座ったままの彼に、警護の一人が声を掛ける。

 私用で公用機を使っている以上あまりもたついている訳にもいかない彼は、仕方なしに座席から腰を上げた。

 

 ハッチの前に立つと、墓標の前に立ちこちらを向いている少年と目が合ってしまう。

 彼は一度機内を振り返った。

「どうした?」

 同行を願い出たはずの彼女は、まだ座席に座ったまま。

「来ないのか?」

 彼女は手でお腹を摩る。

「まだお腹の調子が…」

「そうか…」

 彼の足が、タラップに向けて踏み出される。

 1段降り、2段降り。

 彼は未練がましく振り返り、機内の彼女を見る。

 彼女は、黙って彼を見送っている。

 同行してくれる様子のない彼女を見て、仕方なしに彼はさらに3段、4段と降り、彼の2本の足はついに地面に降り立った。

 

 改めて目的の墓標を見ると、その側に立つ少年がこちらを見つめている。

 いつの間にか、少年の隣に立っていた赤いジャケットの女性の姿は消えていた。

 何のつもりだ。それで気を利かせたつもりか、と自分の部下の女性を心の中で激しく呪う彼である。

 

 彼はまたもや振り返り、タラップの下から機内を見た。

「レイ、やはりお前も…」

 

「機長さん」

「は、はい」

 この。彼らの最高司令官のお気に入りであるやたらと白いこの少女をこの機に乗せたのはこれが初めてではないが、その少女から声を掛けられたのは今回が初めてだった。VTOL機の機長はやや上擦った声で返事をしてしまう。

「私、トイレに…」

「トイレなら機内の後方に」

「凄いのが出そうなんです…。どこか、ちゃんとしたトイレに…」

「わ、分かりました」

 

 自分を置いて無断で飛び立って行ってしまったVTOL機を、彼は唖然としたまま見送るしかなかった。

 仕方なしに振り返り、そして墓標の前で立っている息子と対峙する。

 

 

 

 

 

 

 着地したVTOL機のタラップが降りると、父親は少年に背を向けて歩き始める。

「父さん」

 少年はそんな父親を呼び止めた。

「あの…、今日は嬉しかった…。父さんと話せて…」

「そうか…」

 父親はやや俯きながらぎこちなくそう答えると、タラップを上り始める。

 

 

 彼が指定の座席に腰を下ろすと、タラップは閉まり、VTOL機は少年を一人地上に残して上昇を始める。

 彼女は、窓からそんな少年の姿をじっと見つめていた。

「レイ…」

 呼ばれ、彼女は隣の席に視線を向ける。

 彼は、組んだ足の上に組んだ両手を乗せながら、前を見つめている。

「二度と、こんなことはするな…」

「……」

 返事をしない彼女に、彼は目だけを動かして隣に座る彼女を見た。

「分かったか…」

「……」

「返事をしろ…」

 

 彼が彼女に対し強引に返事を迫った時。

『乱気流に入ります。全員シートベルトを着用して下さい』

 との機長のアナウンスが終わる前に機体は激しく揺れ始めたため、結局彼は彼女からの返事を聞くことはできなかった。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 7番目の使徒襲来との報にすぐにプラグスーツに着替え、零号機に搭乗して待機していたら、この日到着したばかりの機体とパイロットによって、使徒はあっさりと撃退されたようだ。

 シャワーを浴び、制服に着替え、廊下を歩いていたら、弾んだ声で自分の名前を呼ぶ声が聴こえた。

 胸の中の心臓が少しばかり高鳴るのを自覚しながら、後ろを振り返る。

 長い廊下をずっと走ってきたらしい彼が、自分の前で足を止め、両膝に手を付いて乱れた呼吸を整えている。

「綾波、今日さ」

 顔を上げた彼の顔は、何処か晴れやか。

「父さんと、話が、出来たんだ」 

 その顔を見ていると、何故だか自分の心の中も晴れやかになっていくことを自覚する。

「結局僕が言いたいことが何なのか、分からず終いでさ…。碌な話もできなかったけど…」

 彼の口から、楽し気に彼の父親の話をされると、何故だか自分の心の中がぽかぽかと温かくなるのを自覚する。

「でも、父さんと話、できたんだ…」

 綻んだ彼の顔。

 

 きっとこんな時が、そうするべき時なのだろう。

 

 「あの時」、彼が教えてくれたことを、この場で再現してみることにする。

「そう、よかったわね…」

 微笑みながらそう答えたら、彼はぽかんとした顔をしてしまった。

 もしかしたら、タイミングを間違えてしまったのだろうか。

 やっぱり、自分にはまだ「笑えばいい」時がどんな時か、よく分かってないようだ。

 気を取り直した様子の彼が言う。

「綾波…、もしかして…」

「なに…?」

「ううん。なんでもない」

 どちらからともなく、廊下を歩き始めた。

「そう言えば、あれから紅茶淹れてみた?」

「ええ」

「…あの茶葉は早めに使い切った方がいいよ。確か、消費期限ギリギリだったと思うから」

「そう…。碇くん…」

「なに? 綾波」

「また…」

「うん」

「また、お父さんと、話。したい?」

 ちらりと、隣を歩く彼の横顔を見つめる。 

「うん…。そうだね…」

 彼は深く頷いた。

「また、父さんと話、できたらいいな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「碇司令…」

 

 

「なんだ…」

 

 

「食事って…、楽しい、ですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――■■■■…

 

 

 

 

 どこからか声がしたような気がした。

 

 誰かが、私の名前を呼ぶ声が。

 

 

 

 

「レイ…」

 

 

 

 それは彼の声。

 

 

 

「もういいのだ…。レイ」

 

 

 いつになく、柔らかな彼の声。

 

 

「全てはもう終わる…」

 

 

 微睡んでいる幼子を、優しく寝かしつけている父親のような声。

 

 

「戦いの時は、終わったのだ…」

 

 

 彼の優し気な声に包まれて。

 

 

「お前はよく戦った…、レイ」

 

 

 彼の労わりの心の中に包まれて。

 

 

「だから…、レイ…」

 

 

 私の意識は、深く暗い海の底へと、ゆっくりと引きずり込まれていく。

 

 

「お前も、もう、眠りなさい…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  そう…

 

 

 

    全てはもう…

 

 

 

       終わる…

 

 

 

 

 

 

「ああ…」

 

 

 

 

    これで私も…

 

 

 

  私の役割も…

 

 

 

      私が生まれてきた意味も…

 

 

 

 

 

 

「ああ、終わりだ…。

 

 

 

 世界は書き換えられる。

 

 

 

 全てが、等しく、単一な、

 

 

 

 人類の

 

 

 

 心の世界。

 

 

 

 他人との差異がなく、

 

 

 

 貧富も、差別も、争いも、虐待も、苦痛も、悲しみもない。

 

 

 

 浄化された魂だけの世界。

 

 

 

 そこには自分も他人もない。

 

 

 

―――父さんと、話がしたい。

 

 

 

 全ての境が消えた世界。

 

 

 

―――碇ゲンドウと、話がしたい。

 

 

 

 境がない故に、言葉も必要としない。

 

 

 

―――無性に話がしたいんだ。だから。

 

 

 

 境がない故に、身体的接触も必要としない。

 

 

 

―――もう一度、手を貸してほしい。僕に。君の手を。

 

 

 

 境がない故に、人と繋がる恐怖も、人が溢れるこの世界への恐怖も存在しない。

 

 

 

―――だから、もう一度、僕の手を握って。

 

   もう一度、僕の手を繋いで。

 

 

 

 人類は、誕生以来の最大の敵である「他人」という恐怖に、初めて打ち勝つのだ。

 

 

 

 

 

だから

 

 

 

 

 

―――だから。

 

 

 

 

 

レイ!

 

 

 

 

 

―――綾波!!

 

 

 

 

 

耳を貸すな!

 

 

 

 

 

―――僕はここだ!!

 

 

 

 

 

答えてはならん! レイ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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