機甲少女の想いは一途   作:hekusokazura

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(60)鋼鉄の守り人

 

 

 

 

「では診察券をお返しします。次回受診は1月後となっておりますので」

 診察券を収めた財布を腕に下げたハンドバッグに入れたその女性は、正面玄関でスリッパから靴に履き替えると、ドアを開いて外に出た。空から降り注ぐ容赦のない日光。慣れない強さの陽射しに思わず右手を掲げ、目の周囲に即席の日陰を作る。指の隙間から覗くぎらつく太陽を暫し見つめた後、女性は手すりを握って体を支えながら、慎重に階段を降りていく。

 

 表通りの歩道に立ち、並木が作る木陰伝いに歩いていく。

 半年前までは、この街の繁華街として老若男女問わず多くの人々が生き生きとした顔で行き交っていた並木通り。今は人影もまばらで、痩せた野良犬たちが闊歩し、歩道の片隅では浮浪者たちが路上に敷いた段ボールの上で横になっている。

 時折男性の浮浪者たちから向けられる下卑た視線。女性は庇うように身を竦めながら、足早に並木通りを歩ていく。

 

 ゴミが散乱する路上を見つめながら歩いていた女性。

 その女性の足が止まった。

 見つめていた路上に立つ、2本の足。

 男性の足。

 女性は視線を上げた。

 

「■■■くん…」

 

 行く手に立ち塞がった男性の名前を呟く女性。

 

「綾波…」

 

 男性もまた、女性の名前を呼んだ。

 

 

 男性は彼女の名前を呟いたきり無言のまま女性に歩み寄ると、彼女の右手首を掴み、彼女の手を引いて歩き始める。

 どんどん歩いていく男性。手を強引に引っ張られる女性もまた無言。女性よりもずっと身長の高い男性が、大股で、かつ足早に歩いていくため、女性は小走り気味に男性の後を追う。

 

 大通りの方では幾つもののプラカードを掲げ、ヘルメットを被った物々しい空気を放つ群衆がシュプレヒコールを上げており、遠くからは機動隊の怒鳴り声が拡声器を通して鳴り響いている。

 一触即発の雰囲気の大通りから離れ、女性の手を引く男性は街の郊外を目指した。

 

 やがて2人は大きな緑地公園に辿り着く。

 かつては市民の憩いの場として愛されたこの公園もまた住む家を失った者たちのバラックが立ち並び、殆どのベンチは昼寝をしているバラックの住人たちで占拠されていたが、大きなコナラの木の木陰に空いているベンチを見つけた男性は、女性をベンチの前まで誘導したところでようやく女性の手首を解放した。

 ずっと握られていた右の手首に、人の手の形をした薄い痣が浮いていた。

「ごめん…」

 男性の詫びに、女性は「平気」と短く答え、ベンチに腰を下ろす。

 男性も女性の隣に、少し間を空けて座った。

 

 暫しの沈黙。

 女性は背筋をピンと伸ばした姿勢で。

 男性は少し前のめりの、項垂れた姿勢で無言の時を過ごす。

 

 

「綾波…」

 最初に口を開いたのは、男性の方。

「なに?」

 女性は正面にある枯れた噴水を見つめたまま返事をする。

「なぜ…、黙って姿を消したんだ…」

 男性は相手を責めるような、普段よりも低く鋭い声でぼそりと呟いた。

「手紙は…、出したわ…」

「なぜ、僕の前から消えたんだ…!」

 男性は呻くような声で語気を強める。

「…あなたは、望まない、と思ったから…」

 ぽつりぽつりと呟く女性の横顔を見つめる男性。一度目をぎゅっと閉じ、そして開いた目で足の間の地べたを睨んだ。

「…そんなはず」

 地べたを睨みながら呟く男性の横顔を、今度は女性が見つめる。

「そんなはず、…ないじゃないか…」

 語気が弱まっていく男性の頭部が項垂れていくのを見届けた女性は、視線を正面の噴水に戻す。

「だから…、わたし…、ひとりで…」

 

 再び2人の間に横たわる沈黙。

 上空を編隊を組んだ軍用ヘリコプターが通り過ぎ、地上に爆音を轟かせる。

 ようやく爆音が去っていったところで、再び男性が口を開いた。

「君が姿を消したと気付いて…。その後僕は必死で君の行方を捜した」

 男性の膝の上に乗せられた彼の手が握り締められた。彼女を捜し続けた日々を。彼女を失う恐怖に苛まれた日々を思い出しながら彼は続ける。

「君の行方と…、そして君の素性も調べたんだ…」

 枯れた噴水をぼんやりと見つめていた女性の目が、大きく見開かれた。

「綾波…」

 地べたを見ていた男性は顔を上げると、隣に座る女性の横顔を見る。

「この国に…、”綾波”という姓を持つ人物は存在しない…」

 女性の顔が、ゆっくりと男性へと向けられた。女性の視線と、男性の視線が交差する。

「綾波…。君はいったい…、誰なんだ…?」

 

 

 再びの沈黙。

 お互いの顔を見つめ合ったまま、口を閉ざす2人。

 

 

 女性は絡み合った視線を解き、顔を噴水の方へと向けた。

 女性の口は枯れた噴水の栓のように、閉ざされたまま。

 女性のその態度に男性は深い溜息を吐き、視線を地べたへと戻す。

「マルドゥック機関…」

 男性の口から漏れたその言葉に、女性は短く瞬きをした。

「世界の教育水準向上を目的に設立された私設教育機関。君の就学と活動の場を支援し、僕たちの南極行きの資金援助もしたとされるこの組織も、調べてみれば殆ど実態がなかった。君の経歴と同じように…」

「■■■くん…」

「そしてマルドゥック機関を調べていくうちに、僕はその背後にある一つの組織に行き当たった…」

「■■■くん…」

「ゼーレ…」

「■■■くん…」

「綾波…」

「■■■くん…、だめ…」

「ゼーレとは、いったい何なんだ…?」

「だめ…、■■■くん…」

 前歯で微かに下唇を噛む女性。彼女の左手は、いつの間にか隣に座る男性の右膝の上に乗せられている。

「そして日本に居た君が南極の僕のもとへ寄越したあの手紙。僕を日本へ呼び戻すためのあの手紙。僕が呼び戻されてから3日後に、「あれ」が起きた」

 男性は女性の左手に自身の右手を重ねた。

「君は「あれ」が起こることを知っていたのか…?」

 重ねられた女性の手を、彼は骨が軋むほどに握り締める。 

「君はいったい…、何者なんだ…?」

 見つめる女性の横顔。伏せられた目の縁を彩る繊細な睫毛が、微かに揺れている。

 

 女性は2度、鼻を啜って、そしてぽつりぽつりと言う。

「わたしは…、■■■くんが愛してくれた女…。わたしは…、■■■くんを愛してる女…」

 女性の顔が、ゆっくりと男性へと向けられた。

「それではだめ…、なの…?」

 繊細な睫毛に縁取られた目が、微かに潤んでいた。

 その女性の視線を正面から受け止め切れなかった男性は目を閉じ、頭を小刻みに横に振る。

「僕も一緒さ…。僕も…、君を愛してる…。狂おしいほどに…」

 そう告げて、男性は女性の体を抱き寄せた。

「なのに…」

 無精髭に縁取られた男性の唇が、微かに女性の頬に触れる。

「何故君は、僕の前から消えてしまったんだ…」

 

 密着する彼と彼女との間に、彼女の腕が挿し込まれる。男性の胸に両手を広げた女性は、そっと男性の体を押し返す。離れてしまった彼女の顔を、男性は表情を歪めて見つめた。

「あなたは、祝福してくれるの?」

 女性のその問いに、男性は再び目を伏せてしまう。

「わたしは祝福してあげたかった。祝福に満ち満ちた場所で、迎え入れてあげたかった。あなたは、望まれてこの世界にやってきたのだ、と」

 男性の胸に広げられた女性の手が、男性のワイシャツを掴んだ。

「あなたは、本当に、祝福してくれるの?」

 男性の両手が、彼のワイシャツに皺を走らせる彼女の両手に添えられる。

「祝福できるわけ…、ないじゃないか…」

 その男性の返答に、今度は女性の顔が悲し気に歪んだ。

「世界が血の色で分断されたあの日から僅かな期間で世界の人口は4分の1が削られた。各地で起きた紛争はすでに世界大戦の様相を呈してる。こんな世界で…。この世界が辿る末路は、葛城博士と共同であの計画を提唱した君が、一番よく分かっているはずだろう…」

 男性から向けられるその厳しい眼差しに、今度は女性の方が目を伏せてしまう番だった。

 

 女性は1度だけ鼻を啜り、そして鼻からゆっくりと息を吐き出しながら、震えた声で言った。

「私は裏死海文書を解読し、そこから得られた情報をもとにこの世界の未来を予測しただけ。あの計画それ自体は、葛城博士独自のものよ」

「論点をすり替えないでくれ…」

「ごめんなさい…。でも」

 震えていた女性の声音が変わったことを、男性は感じた。

「私は葛城博士が予測したあの計画の結末とはまた違う未来を、思い描いてる」

 彼女の口から発せられる、芯の通った声。

「違う未来…?」

「ええ…」

 女性は伏せていた目を男性へと向ける。

 そして次に女性の顔に現れた表情に、男性はたちまち心を奪われてしまった。

 それは彼女の普段通りの表情。

 見る者全てを慈愛で包み込んでしまいそうな、柔和な笑み。

「綾波…。君はいったい、どんな未来を思い描いているというんだ…」

 その問いに、女性の顔から緊張が消えていく。

「全ての母親が思い描く未来なんて一つだけよ。■■■くん」

 「さっぱり分からない」とばかりに眉根を寄せる男性の顔に、女性はくすりと笑う。

 

「子供たちが笑って暮らせる、明るい未来」

 

 そう告げた女性は、視線を自身の腹部に落とし、右手でそのお腹を摩った。

「そのために、わたしはこの子を産むの…」

 男性も女性のお腹に目を向ける。まだ大きくなる前の、肉の乏しいほっそりとしたお腹を。

「”明るい未来”とやらのために、終末へと転がり落ちているこの世界にその子を産み落とす、というのか…」

 皮肉めいた彼の口ぶりに、女性は困ったように笑った。

「ええ。わたしはこの子を産むために、この世界にやってきたの」

 大袈裟な物言いの女性の顔を、男性は面白くなさそうに見つめている。

「それじゃ君はまるで子供欲しさに僕に近付いてきたみたいじゃないか…」

 どこか不貞腐れたような、子供のような表情の男性に、女性はきょとんとした顔。少し間を置いて、女性の口もとが悪戯っぽく笑った。

 女性は男性に顔を近付け、そして彼の耳もとに口を近付けた。

「ええ、そうよ…」

 妖しげな響きを伴う囁き。

 その言葉を受けて男性の顔に広がる困惑の色を観察しながら、女性はさらに続けた、

「わたしと、あなたの…。わたしたちの子供を産むために、あなたに近付いたの…」

「僕…たちの…?」

「ええ。だって、あなたとわたしの子なんですもの。もしかしたら明るい未来を切り開いてくれるのは。世界中に。全ての人類を希望の光で照らしてくれるのは、この子かもしれないじゃない」

 もはや「明るい未来」とやらは約束されたような女性の口調。そんな口調で告げられても、男性は唇をとんがらせたまま。

 女性はふふっと、声に出して笑った。

「何がおかしいんだ」

 男性に咎められ、女性は慌てて口もとに手を添えて笑う口を隠す。

「あなたは時々忘れてしまってるんじゃないかと、心配になるから…」

「何がだ…」

「あなたもみんなと同じ、ヒトだってこと。人類全てに注がれる希望の光。その光は、あなた自身にも注がれるかもしれないのよ」

 

 

 ベンチに座る男女。

 彼に寄り添うように、彼の肩に体を預ける彼女。

 

 何度目かの沈黙の後。

「分かったよ…」

 重い口を開いた彼を、彼女は見つめる。

「祝福、するよ…」

「本当に…?」

 彼女の顔が華やぐ。

「ああ。本当だ。僕は、僕たちの子を、祝福する」

 誓うようにそう告げた彼は、自身の肩に寄り添う彼女の背中に腕を回した。

「だから綾波…」

「うん…」

「僕のもとに、帰ってきてほしい…」

「うん…」

「君の居ない生活など、僕には考えられない…」

「うん…」

「それともう一つ…」

「うん…」

「君に頼みがある…」

「うん…」

「”綾波”という君の名前…」

「うん…」

「それはもう、名乗らないでほしい…」

「……うん……」

「偽りの名前は、もう捨ててほしいんだ…」

「……うん……」

「だから…」

「……うん……」

「その…、だから…」

「……うん……」

「そ、そその…、え…と…」

 しどろもどろになる彼に、彼女は思わず吹き出してしまった。

 聡い彼女は、こう見えて意気地のない彼に助け舟を出してやる。

 

「ええ。分かったわ」

 

「え?」

 

「私は今日から…」

 

「え?」

 

「六分儀ユイになる…」

 

「え?」

 

「でしょ? 六分儀ゲンドウくん」

 

 悪戯っぽく笑いながら覗き込んでる彼女。彼は真っ赤になってしまった顔を彼女に見られないようそっぽを向いてしまった。

「六分儀くん…?」

 どこか不機嫌そうな彼の態度に、彼女は心配そうな表情で顔を寄せてくる。彼は掛けたメガネのブリッジを押し上げながら言う。

「綾波…」

「なに?」

「僕は親から勘当されたも同然の身ってことは知ってるよね?」

「ええ」

「僕も、あの家に戻るつもりはない」

「うん…」

「だから、”六分儀”という名前も、できれば君には名乗らせたくないし、生まれてくる子にも継がせたくはないんだ…」

「そう。だったら…」

「え?」

「だったら、綾波ゲンドウになる?」

「そ、それは…」

「ふふっ」

 困った顔をする彼の顔を見るのが何よりも好きな彼女は、彼のその顔を見て嬉しそうに笑った。

 いつの間にか会話の主導権を完全に奪われてしまった彼は、大そう不満げに鼻を鳴らしつつ、膝の上に頬杖を付きながら枯れた噴水を睨んでいる。

 そんな子供のような拗ね方をしている彼の横顔を満足そうに見つめる彼女。

 

「私たちの新しい苗字のことはまた後でゆっくりと考えればいいわ。それよりもろく…、ゲンドウくん」

 

「なんだい? あや…、ユイ」

 

「私たちのことよりも、決めなくちゃいけないもっと大切なことがあったでしょ?」

 

「え?」

 

「決めてくれた?」

 

「何を?」

 

「手紙に書いてあったこと…」

 

「君を捜すのに必死だったんだぞ。そんな暇…」

 

「うそ」

 

「なに?」

 

「ゲンドウくんは、相変わらず嘘が下手ね」

 

「……」

 

「名前、決めてくれた?」

 

「ああ…」

 

「ふふっ」

 

「男だったら”シンジ”。女だったら”レイ”と名付けよう」

 

 彼の口から告げられた2つの名前。

 

「シンジ…、レイ…、ふふっ」

 

 彼女は彼から贈られた一番の宝物を、口の中で転がし続ける。

 

「シンジ…、シンジ…。綾波…、シンジ…」

 

 試しに、男の子だった時の名前を仮のフルネームで呟いてみた。

 

「レイ…、レイ…」

 

 続いて女の子だった時の名前を。

 

 

「いかり…、レイ…」

 

 

 自分が考えた子供の名前なんて恥ずかしくて溜まらないのに、彼女の口で、声音で読み上げられるとまるで高尚な詩の一節のようだった。目を閉じ、彼女の声に耳を傾けていたら。

 唐突に、それは彼女の口から出ていた。

「いかり?」

 彼は閉じていた目を開ける。

 「誰だ? それは」と訊ねようとして、隣の彼女の顔を見た彼の口は出し掛けた声を飲み込んだ。

 

「違う…」

 

 自分のお腹を。新しい生命が宿ったお腹を見下ろす彼女の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちていた。

 

 

「綾波…、レイ…」

 

 

 大きく見開いた眼から大量の涙を流す彼女の横顔。

 初めて見るような、知らない女性のように見えた彼女の横顔。

 また彼女が何処かへ消えてしまいそうな気がして、彼は咄嗟に彼女の手を握る。

 彼に手を握られ、彼女は弾かれたように瞬きをし、そして緩慢な動作で彼の方へと顔を向けた。

 

「そっか…。そういうこと、か…」

 

 彼の瞳から零れ落ちる涙は止む気配がない。

 彼女は泣きながら。それでいて顔の表情は笑いながら。酷く矛盾した表情で、彼を見つめ返した。

 

 そして再び自身のお腹に視線を落として。

 

 

「おめでとう…。碇シンジくん…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「私にとっての希望の光…。それはお前だけだ…。ユイ…」

 

 全ての儀式を終えた碇ゲンドウは、虚構の世界に立っていた。

 虚構の世界。マイナス宇宙。

 ヒトでは認知することすら叶わない場所。

 そこにヒトを捨てた姿で立つ碇ゲンドウは、彼自身が取り仕切った儀式の行く末を見守るべく、虚構の空を見上げていた。

 

 ヒトを捨てた相貌から放たれる視線の行く先。

 そこに在るのは現世には存在しない、架空の存在。

 虚構と現実。本来、相容れない2つの世界を等しく信じることができるヒトだけが認知できる存在。

 ヒトには到達し得ない場所に鎮座した、ヒトにしか見ることができない存在。

 

 その存在が、2本の槍。

 希望の槍と、絶望の槍。

 対となる槍を吸収することで、矛盾に満ちた存在は初めて同一の情報と化し、虚構と現実とが溶け合っていく。

 それは即ち既存の認識の破壊と再生。即ち、世界の書き換え。

 

 矛盾に満ちた存在は実態を成し、そして白い女性の姿を成しながら肥大化していく。

 ついにその頭部はこの空間を塞ぐ天蓋。ガフの扉へと到達し、その扉をもすり抜けて虚構から現実の世界へと溢れ出し始めた。

 

 今もなお肥大化し続ける女性の姿をした存在を見上げるゲンドウ。

 表情というものを構築するための部位の半分を失ったその顔は、しかし何処か満ち足りている様子だった。肥大化し過ぎてもはや顔すら見えなくなってしまった女性の姿をした存在に向けて、語り掛ける。

「もうすぐ会えるな…、ユイ…」

 

 

 

 

 ふわりと。

 

 背後から風が巻き起こった。

 彼の背中をそっと押すような、柔らかな風。

 

 そして彼が立つ地面を微かに震わせる、柔らかな地響き。

 

「お前を再構成するための最後のマテリアルも、今届いた…」

 

 彼は振り返る。

 

「戻ったか…。レイ…」

 

 紫色の甲冑を纏った巨人が、跪いていた。

 

 

 巨人。エヴァンゲリオン初号機は跪いた姿勢のまま、重ねた両手で大切に包み込んでいたものを、そっと地面に置く。

 初号機の大きな指の隙間から現れた、白のワイシャツと黒の学生ズボンに身を包んだ少年。碇シンジは、ゆっくりと虚構の世界の地面に降り立つ。彼らの先に立つ人物。碇ゲンドウの、ヒトを捨てた顔をまっすぐに見つめて。

 両足で地面に立ったシンジは、その顔を初号機の顔へと向けた。

 シンジの視線を受け、初号機は身を屈め、首を窮屈そうに曲げて、耳(があると思われる部分)をシンジに近付ける。シンジは初号機の耳(があると思われる部分)に向けて口を開き、短い言葉で語り掛けた。初号機はその大きな顔をシンジから離すと、シンジを見つめながら大きく頷く。そして地面に跪いたままのっしのしと。シンジが立つ場所から一歩二歩と、ゆっくり遠ざかっていった。

 少し遠くに離れた初号機の顔を眩しそうに見上げていたシンジはその表情を引き締め直し、視線を父親の方へと戻した。

 

「父さん…」

「レイ」

 虚構の世界に響いた息子の声を、父親は遮る。

「約束の時は来た。初号機を、私のもとへ」

 

 少年にとっては長い眠りから目覚めて以来初めて見る父親の素顔だった。

 しかし少年から少し離れた場所に立つ父親の素顔は、少年が知るものとは懸け離れたもの。

 目の周辺が十字状に大きく陥没し、陥没した奥に鈍い光を湛えているその顔に向けて、息子はなおも呼び掛ける。

「父さん…」

 しかし双眸を失った父親の顔から放たれる視線は息子ではなく、その背後に控える巨人へと向けられている。

「全ての儀式は成った。もう間もなく全ての魂が溶け合い、混ざり合う。初号機の中に残置されているユイの魂と共に」

 他の存在を無視するかのように、巨人へのみ語り掛ける父親。息子は健気に呼び掛け続ける。

「父さん…、僕は」

「さあレイ」

「僕は、父さんと…」

「初号機を私のもとへ」

「父さんと話がしたいんだ…」

「私を導け」

「父さん」

「安らぎの世界へ」

「僕と」

「ユイと私が再び出会える世界へと、導くのだ」

「僕と話をしよう…」

 

「何を…」

 ゲンドウの顔は彼の目線よりも遥かに高い位置にある初号機の顔に向けられたまま。しかし十字状に裂かれた顔面の奥に浮かぶ鈍い光が、初めて彼の息子へと向けられる。

「この期に及んで何を話そうというのだ。シンジ」

「僕は…」

「もはや」

 父親に問われ、言葉を紡ごうとしたシンジの声は、またもや父親の声によって遮られる。

「もはや話をすべき時は過ぎたのだ。成さなければならないことがある私に、お前と語り合う時間などない」

 父親からのその言葉に、伏せられる息子の目。

「うん。そうだね。僕たちは…」

 言い掛けて、息子は頭を左右に振った。

「僕は、もっと早く話をしなければならなかったんだ。父さんと…」

 華奢な両手が、密かに握り締められた。

「「あの時」の。この世界で言う14年前のあの悲劇が起こる前に、僕は父さんと話をしなくちゃいけなかったんだ」

 右手に握っていた、何度もあちこちをぶつけられ、べこべこに凹んでいる携帯型音楽プレイヤーがミシリと音を立てた。

「遅すぎたってことは分かっている。でも今、ようやくこうして父さんと向かい合って、僕は立っている。この機会を、僕は逃したくないんだ。だから、父さん…」

 伏せていた目を、まっすぐに父親へと向けた。

「僕と、話をしよう」

 

 ゲンドウの顎が下がる。目線よりも遥かに高い位置にある初号機の顔に向けられていたゲンドウの顔が、ようやく息子の方へと向けられた。

「私と話をすることで、お前は何を成すつもりだ」

 その問いに対し、シンジは一拍だけ深呼吸を挟んで答えた。

「父さんが成そうとしていることを、止めたい」

 

 息子が父親の問いに答えた瞬間、ゲンドウの十字状に裂かれた顔面に強烈な閃光が瞬いた。凄まじい破裂音と共にゲンドウの顔面から膨大なエネルギーを圧縮した光球が放たれ、彼の視線の先に立つ息子へと襲い掛かる。

 巨大な爆発と共に激しい轟音。

 自分の息子が立っていた場所が爆炎に包まれた様子を、表情一つ動かさずに見つめているゲンドウ。

「ならば、語り合うことは何もない」

 再びゲンドウの顔面が光り、そして放たれた光球は彼の息子が立っていた位置に新たな爆炎を作り出す。

「大人しく初号機を渡せ」

 3発目、4発目と、次々と放たれていく光球。

「そうすれば、お前も再び母に会える」

 幾つも起こった爆発で辺り一面が煙で包まれたところで、ようやくゲンドウは攻撃の手を止めた。

 

 

 立ち込めた煙が少しずつ晴れていく。

 そして最初に見えたのは、地面に築かれた幾つもの爆発の痕…、ではなく、うず高く聳え立つ小山のような影。

 2分前と同じ姿で跪く、エヴァンゲリオン初号機。

 しかしその位置は2分前よりも巨人の歩幅で2歩ほど前に出ており、そしてその右腕は前に向けて伸ばされ、地面に置かれた右手はその下にある何かを守るように覆っている。

 

 その巨大な手の下から声がした。

「もう大丈夫だよ。綾波」

 その声を合図に、初号機はゆっくりと右手を上げていく。

 右手の下から現れたシンジは、父親の攻撃から自分を守ってくれた右手を見上げ、そしてそのまま右手の持ち主の顔へと視線を移す。

「ありがとう。綾波」

 微笑みを向けられ、巨人はその図体には不釣り合いな繊細な動きで、小さく頷いた。

 

「あくまで私の邪魔をするか。シンジ」

 その声に、シンジは視線を正面へと向けながら、頭を横に振る。

「僕に父さんを邪魔する力なんてない。ただ願うだけだよ。父さんがやめてくれることを。だから父さん…」

「人の願いや思いだけでは何も変わらん」

「僕と話をしよう」

「くどい」

 

 シンジの頭上に巨大な拳が振り下ろされたのは、ゲンドウが短い言葉を放った直後だった。

 ゲンドウの背後に突如現れた巨体。

 まるで地の底から這い出てきたように、ゲンドウが立つ場所の後ろからその大きな上半身を現した巨人。エヴァンゲリオン第13号機は、握り締めていた岩のような拳を、第13号機の使役者の息子に向かって振り落とした。

 

 人間など。

 地球上に現存するどのような生命体も一瞬にして粉々に潰してしまえる第13号機の拳。

 しかしその拳は、華奢な少年の体に傷一つ負わせることも叶わなかった。

 シンジの頭上に差し伸べられたもう一つの手が、第13号機の拳を受け止めたからだ。

 その手を差し伸べたもの。

 シンジの後ろに控えていたエヴァンゲリオン初号機は、受け止めた第13号機の拳を広げた指で包み込むと、一気に握り締める。握り締められた拳は瞬時にして捻じれ、千切れ、捻り潰される。すり潰された第13号機の右手から大量の血飛沫が舞い、地面へと降り注いだ。

 

 ほんの数メートル頭上で繰り広げられる血染めの握手。その直下に居るシンジは、顔色一つ変えることなく正面に居る父親を見続けている。

「父さん…」

 潰された第13号機の右手から滝のように落ちてくる大量の血。初号機によって生み出されたATフィールドで守られるシンジの体を汚すことなく、少年が立つ場所の周囲に血の池を作り上げる。

「僕と…」

「耳障りだ…」

 

 第13号機の4つある目が光った。

 雷鳴のような轟音と共に第13号機の顔面から強烈な光線が放たれ、シンジに襲い掛かる。

 しかしATフィールドをも穿つその光線すらも、シンジを傷つけることはできない。

 シンジの背後からも、ほぼ同時に雷鳴のような轟音。シンジの背後に跪く初号機からも同様の光線が放たれ、第13号機の光線を弾いてしまう。目標から大きく反れた光線は地を、そして空を這いながらありとあらゆるものを貫いて回り、この虚構の空間のあちこちに鈴なりの大きな爆発を巻き起こした。

 

 第13号機は使役者を。

 初号機は護るべき者を。

 それぞれの左手で、無数の爆発がまき散らした衝撃波から守る。

 

 土煙が晴れ、2体の巨人はほぼ同時に左手を上げた。

 

 初号機の左手の下から現れた少年は、2分前に初号機の手によって覆われた時と全く変わらない姿勢で彼の前に立つ父親の顔を見つめていた。

「僕と、話をしよう…」

 

 一方、第13号機の左手の下から現れた父親は、少年の方を見ていない。

「絶望の第13号機と対を成す、希望の機体。初号機…」

 十字状に裂かれた顔を、少年の背後に控える巨人の顔へと向けている。

「やはり初号機は第13号機の…、私の側に立つこそ相応しい」

 ゲンドウは右手を上げ、シンジの背後で跪く初号機に向かって差し伸べた。

「だからレイ。私のもとに来なさい」

 その手が、あらゆるものを、虚空すらも毟り取ろうとするかのように大きく開かれた。

「これは命令だ」

 

「ダメだよ。父さん」

 息子へと向けられる父親の顔。十字状の裂け目から覗く鈍い光。

「綾波は、もう命令には耳を傾けない」

 その光から放たれる冷気を纏った怪しげな視線を、シンジは顔色一つ変えずに受け止める。

「綾波は、命令では動かない。…でも」

 静かな眼差しを父親へ返す。

「願いになら、耳を傾けてくれる」

 抑揚を押さえた声で、父親に語り掛ける。

「願いになら、綾波は応えてくれるはずだよ」

 背後で、初号機から響いてくる小さな唸り声に耳を傾けながら。

 

「くだらん」

 ゲンドウは吐き捨てるように言った。

「綾波と式波型パイロットは、もとよりこの時のために用意されたもの。これは運命だ」

 十字状の目を初号機へと向ける。

「レイ。運命に逆らうか」

「自身の願望はあらゆる犠牲を払い、自身の力で実現させるもの」

 ゲンドウの言葉を遮るように重なった、シンジの声。

「そう言ったのは父さんじゃないか」

 ゲンドウの右頬が、一度だけ痙攣した。

「綾波は綾波の願いの為に、あらゆる犠牲を払って…。そして今、ここに立っている」

 そしてシンジは頭を少しだけ動かし、背後に控える巨人を肩越しに見た。

「彼女の願いは僕の願い」

 初号機に向けて微笑み掛けたシンジは、そして再び彼の父親を正面から見据える。

「僕の願いは、彼女の願いだ」

 シンジの言葉に同調するように、初号機の口の両端からやや多めの蒸気が漏れ出た。

 

 

「そうか…」

 父親の口から漏れた微かな呟き。

「そうだったな…」

 少しだけ顎を引き、少しだけ顔を俯かせる。十字状の目から放たれる視線が、地べたを這う。

「父さん…」

「ならば…」

 息子からの呼び掛けと同時にゲンドウの顔が上がり、十字状の目の奥にある光が爛々と輝いた。

「私も私の願いのために最後の犠牲を払うしかあるまい」

 

 

 まるで碇ゲンドウの宣言に呼応するかのように、第13号機が動き出した。

 握り潰された右手を尚も掴んでいる初号機の手を強引に振りほどくと、大きな地響きを立てながら、一歩、二歩と後退する。

 そして両手を地面に付けて前屈みになり。全ての指を地面にめり込ませ、背中を弓なりのように反らし。

 それはまるで四つ足の獰猛な肉食獣が、獲物に向かって今にも飛び掛かろうとしているかのような姿勢。

 第13号機の口が大きく開き、口の端から凶悪な牙が覗く。

 そして。

 

 

 

  グアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!

 

 

 

 空間を揺るがすほどの巨大な咆哮が、第13号機の口から放たれた。

 

 相手を威嚇し、圧倒するための咆哮。

 その咆哮を真正面から受けたシンジは両足に力を籠め、地面を踏ん張り、竜巻のような風圧に耐える。

 そして第13号機の咆哮が止むのと同時に鳴り始めた背後からの音を耳にし、シンジはふふっと小さく笑った。

 

 それは空気を吸い込む音。

 この空間の中にある全ての空気を吸い尽くしてしまうような勢いで吸息する音。

 メキメキと、胸の中の肺が急速に膨らみ、肋骨を押し広げていく音。

 その音が止まり。

 世界をほんの僅かな間、静寂が包んで。

 そして。

 

 

 

  グアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!

 

 

 

 地面を揺るがす程の巨大な咆哮。

 相手を威嚇し、圧倒するための咆哮。

 しかし背後に控える初号機から放たれたその咆哮を背中で受けたシンジには、その咆哮が何よりも頼もしく、そして心地良く感じられた。

 

 

 第13号機は深い前傾姿勢を保ったまま、さらに三歩、四歩と後退していく。

「あくまで私に逆らうか。シンジ。レイ」

 巨人たちが轟かせる足音に混じって、ゲンドウの声が飛んでくる。

「父さん。僕は父さんと話がしたいだけだ」

 シンジの背後からも足音と共に大量の土煙が立ち昇る。そして喉を鳴らす低い音。

「そして彼女は」

 助走を付けるには十分な距離をとった第13号機。地面に付いた両手のうち、右手で何度も地面を引っ掻く。背中を弓なりに反らし、右膝は折ったまま。そして左足はピンと伸ばし、お尻を天に向かって高く突き上げ、そして。

 

 

「綾波は約束してくれたんだ」

 

 

 後ろ足で大地を蹴り、前足で大地を引っ掻いた。

 激しい咆哮と共に剥き出しになる第13号機の牙。

 全身の筋肉を躍動させ、宙を舞う第13号機の体。

 前に突き出された両手と牙が、地上に立つ一人の少年へと襲い掛かる。

 

 

「僕が父さんと話をするまで、邪魔するあらゆるものを排除すると」

 

 

 シンジの背後から、その頭上を大きな影が飛び越えた。

 

 

 

 

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