「あれがヴンダーか」
小型ビデオカメラのモニター越しに見る巨大な艦影。
「でっかいなぁ~」
小さなカメラの視野には収まり切らない超弩級飛行戦艦の威風に、相田ケンスケは感嘆の声を漏らしながら撮影を続けている。
ヴィレ旗艦AAAヴンダー。乗員の家族の多くが住まう村の外れの上空に投錨した飛行戦艦は、決戦の前に最後の物資の搬入作業を進めていた。
地上にはヴンダーの随伴艦たちが着底しており、その甲板に大量のコンテナを運び込んでいる。巨大なリフトによって次々と引き揚げられるコンテナ群。コンテナが甲板に移動させられると、空になったリフトにはコンテナに代わって大量の人々が乗せられ、地上へと降ろされていく。
「離艦希望者が下船している。いよいよ決戦か」
地上を忙しく駆け回る中に、よく知る人物が一人。離艦者の受け入れを担当するケンスケの中学時代の同級生が、支援機関クレイディトの構成員に向かって次々と指示を出している。まったく。昨日は「第2の開村記念日」にかこつけて朝から晩まで村人たちと飲み明かしていたくせに、あの回復力は何処から来るのだろうかと感心してしまう。
ヴィレ艦隊が寄港する広場から少し離れた高台より彼らの様子を撮影しているケンスケは、そんな同級生の姿も遠目に映像に収めながら、ビデオカメラをさらに横に振っていく。
遠くの景色から、近くの景色へ。
撮影対象との距離が縮まり、一瞬ピンボケするカメラ映像。
そのピンボケしたモニターに映るのは、一人の少女。
ケンスケの隣に立つ、パーカーのフードを被った緋色髪の少女が小さなモニターを占有する。
地上の様子をぼんやりと眺めていた式波・アスカ・ラングレー。隣に立つ青年からカメラを向けられたことに気付き、一度目線をカメラのレンズに向けるが、すぐに地上へと戻す。
「あれ?」
いつもと違う反応。
「今日は嫌がらないんだね?」
普段ならカメラを向けられるとすぐに顔を隠してしまう彼女。
「うん。今日はいい…」
らしくない細い声で呟きながら、アスカは彼女の前に張られた転落防止用の鉄柵を両手で握る。握った鉄柵を支えに、肘を曲げては伸ばし、曲げては伸ばしを繰り返し、体を前に後ろにとぶらぶらさせる。
揺れる彼女の体をカメラで追おうとするケンスケ。彼女から撮影の許可が下りることなど滅多に無いのに、その彼の動きは鈍く、カメラの枠の中に彼女の姿はなかなか収まらない。
「式波…」
「ねえ、ケンケン」
ようやく動きを止めた彼女。柵を掴んだまま腕を伸ばし、柵の根元を踏む足も伸ばし、体を「く」の字に曲げて、顔を俯かせて地面を見つめている。背中まで伸びる緋色の髪が垂れ下がり、彼女の横顔を覆った。
「なに? 式波…」
彼はモニターから目を離し、肉眼で彼女の髪に隠れた横顔を見つめた。
「たぶん、あたしは生きては帰ってこれない…」
彼女のその言葉を聴いた瞬間、彼の息が5秒だけ止まった。
目を閉じた彼は、5秒掛けて、止めていた息を吐き出す。カメラを持っていない左手を、ぎゅっと握りしめる。
「うん…」
微かに震えた声で返事をした。
「でもね」
俯いていた彼女の顔が、少しだけ上がる。
「もし何かの間違いで…」
緋色髪の隙間から覗く瞳。
「あたしが生きて帰ってこれたとしても…」
彼を見つめる蒼い瞳が、微かに揺れている。
「多分、それはもう、あたしじゃない…」
「式波…」
「それでもさ。ケンケン…」
「く」の字に曲げていた体をゆっくりと伸ばし。
「そんなあたしでもさ…」
体を起こし。
「帰ってこれたらさ…」
柵から手を離し。
「ケンケンはさ…」
彼の顔を正面から見つめ。
「また「おかえり」って言ってくれる?」
彼はカメラを下ろし、電源をオフにした。
彼女が彼に対してしているのと同じように、彼女の顔を正面から見つめる。
「しき……」
何かを答えようとして、一度止めて。
返事を止めてしまった彼に、彼女の顔に不安が色濃く浮かぶ。
彼はそんな彼女の不安をほぐすような、柔らかい笑みを浮かべながら言った。
「アスカはアスカだ」
不安げな様子だった彼女。
「どんなに変わったとしても」
そんな彼女の呼吸が、一瞬止まったのが側に居る彼にも分かった。
「いつだって。どこにいたって」
噤まれた彼女の口に代わって広がるのは、宝石のような深い蒼を湛える瞳が収まる目。
「アスカはアスカだ」
そんな彼女の瞳に向けて、彼は真摯に伝える。
「ありのままの君でいたらいい」
彼女の瞳をまっすぐに見つめる彼の眼鏡越しの目。
対してまん丸に見開かれた彼女の目は泳ぎまくっており、地べたを見ては彼の顔を見て、空を見ては彼の顔を見てと色々と忙しそう。頬から額までが真っ赤に染まり、噤まれていた口は重力に引かれて半開き。肩から指の先は石化の呪文でも掛けられたかのように、カチコチに固まってしまっている。
しかし次第に忙しかった目は落ち着いていき、頬や額の照りも薄れていき、肩は大きく沈んでいく。
伏し目になった彼女の顔を、彼は心配そうに覗き込んだ。
「アスカ…?」
「ごめん、ケンケン…!」
彼女の名前を呼ぶ彼の声に重なるように、彼女の口から絞り出される大きな声。彼の視線から逃げるように、彼女は顔を人々が忙しく動き回っているヴィレ艦隊の停泊地へと向ける。彼もまた、これ以上自分の視線が彼女を追い詰める事がないように彼女から視線を外し、同じく艦隊の停泊地に顔を向けた。黙って、彼女が続きを話し始めるのを待つ。
暫くして、彼女はぽつぽつと話し始めた。
「あの日の夜…」
「うん」
「あたしたちが4年振りに会った、あの夜」
「うん」
「あたしは4年振りに目覚めて。世の中はすっかり変わっちゃってて」
「うん」
「知らない間に、みんなは大きくなってて。あたしだけがみんなから取り残されてて」
「うん」
「シンジは…、あたしだけ助けてくれなくて…」
「うん」
「どうして傷付くのは、あたしばっかりなんだろう、って…」
「うん」
「どうしてあたしばっかり苦しまなくちゃいけないんだろう、って…」
「うん」
「そんな捨て鉢になってた時にさ…」
「うん」
「ちょうどいい具合にさ…」
「うん」
「あんたが近くにさ…」
「うん」
「居たからさ…」
「うん」
「あたしばっかり傷付くのはズルいって思ったからさ…」
「うん」
「あたしばっかり苦しまなくちゃいけないのはおかしい、って思ったからさ…」
「うん」
「誰でもいいからさ…」
「うん」
「傷付けてやりたい、って思ってさ…」
「うん」
「だから…!」
彼女の手は再び鉄柵を握り締める。
「別にケンケンが知る必要はないのに…!」
額を、鉄柵に押し付ける。
「あたしが黙っていれば、ケンケンの中のお父さんは英雄のままで居られたのに…!」
「アスカ…」
「何も知らずにお父さんの死をただ悲しんでいるケンケンの姿が…、なんだかあたし…、許せなくて…!」
「アスカ!」
相手の心情の吐露をひたすら受け止め続けてきたケンスケの声が、初めてアスカの声を遮った。
その怒鳴り声にアスカは肩を震わせ、そして鉄柵に押し付けていた額を離し、ゆっくりと体を起こして隣に立つ青年を見上げる。
ケンスケの顔は、いつもと変わらない、2人の頭上で輝いているお日様のような、穏やかな笑顔。
いや、少しだけ緊張してるのか、笑顔の端っこで右頬が少しだけ引き攣っている。
「アスカ。俺はさ」
生唾を一つ飲み込んで、彼は話し始めた。
「一つだけ、決めてることがあるんだ。こんな、明日のことも分からないような世界でも、これだけは絶対にやり抜こうって」
アスカは端っこに微かな涙を滲ませた目で、「何を?」と問う。
「生きる、ことだよ」
そのケンスケの回答に、アスカはきょとんとした様子で目を瞬かせる。
「生きて生きて、生き抜いて。よぼよぼの爺さんになって、周りから「さっさとお迎えがきたらいいのに」なんて疎まれても、この世界にしがみ付いて、寿命が尽きるまで生き続けて」
話しているうちに熱気が帯びてきたのか、赤くなっていくケンスケの顔。
「それで、あの世に行ったら親父に会って言うんだ。どうだ。俺は生き抜いてやったぞ、って。親父が“地獄”と呼んで生きる価値がないと否定したこの世界を、最後まで楽しみ抜いてやったぞって」
体が温まって、緊張もほぐれたらしい。
「ありがとう、アスカ」
端っこにあった緊張も解け、顔全体に柔和な笑みを浮かべながら、彼女を見つめる。
「あの時、俺の命を救ってくれて」
一寸の濁りもない、本心からの感謝の言葉を、彼女に捧げる。
ストレートな気持ちをぶつけられることに慣れていない彼女の目は再び泳ぎ始め、そして彼女の顔もまた彼と同じように赤く染まっていく。
そんな彼女の両肩を、彼の両手がいきなりむんずと掴んだものだから、彼女は「ひっ」と短い悲鳴を上げてしまい、全身を硬直させてしまった。
ケンスケは顔を真っ赤にさせながら言う。
「アスカ! 俺はこの世界が大好きだ!」
相手に唾が飛ぶのもお構いなしに。
「みんなが生きてるこの世界が…、アスカが生きてるこの世界が大好きなんだ!」
そんなケンスケの剣幕に、ただただ圧倒されるばかりのアスカ。
「だから…」
続きを言おうとして、しかしケンスケは咄嗟に出かけていた次の言葉を飲み込む。
今、彼の右手が掴んでいる彼女の左肩。彼の左手が掴んでいる彼女の右肩。
14年前と変わらない、少女の姿で立つ目の前の女性。
とてつもなく、細い肩。
このまま力を込めて握ってしまえば、砕けてしまいそうな肩。
過酷な運命を背負わされるには、あまりにも脆い肩。
それでも。
やっぱりこの場で言葉を濁してはいけないと思ったから、ケンスケは飲み込み掛けていた言葉を言い放った。
「がんばれアスカ!」
これは彼女にとっての新たな呪詛になってしまうかもしれないけれど。
彼女の後ろにあったかもしれない退路を断ってしまうことになるかもしれないけれど。
「負けるなアスカ!」
すでに彼女の中で固まっている覚悟。その身を捨てでも課せられた任務をやり遂げると誓う彼女の覚悟を、せめて後押ししてやりたいから。
「この世界を守れるのは、君しかいない!」
どこからか飛んできたテントウムシが、ケンスケの頭のてっぺんに止まる。
ケンスケの頭で羽根を休めたテントウムシは、再び鞘翅を広げ、青い空へと飛び立っていく。
暫くの間ぽかんとした顔でケンスケの顔を見つめていたアスカ。
あんぐりと開いていた口の端が、小さく上がる。
「ふふっ」
その口から短い笑い声が漏れ。
「あ~も~」
照れ隠し丸出しの悪態を付きながら。
「ケンケンといい「そっくりさん」といい。結局この世界はこのアスカさまにおんぶにだっこか」
緋色髪をわしゃわしゃと引っ掻きながら。
「しっかたないな~」
一度視線を地面から空へとぐるりと巡らして。
「分かったわよ」
迷いのない、力の漲った目でケンスケを見た。
「この世界もあんたたちの命も。このアスカさまがまとめて背負ってあげようじゃないの」
そう宣言した彼女は、白い歯を見せて笑う。
「アスカ…」
ケンスケはこれから死地に赴く彼女の笑顔を、眩しそうに見つめていた。そんなケンスケに、アスカは桃色に染めた頬で言う。
「そんじゃさ、ケンケン」
「え?」
「ご褒美、ちょうだいよ」
「え? ご、ごほうび?」
「そっ。生きて帰れるかどうか分かんないだからさ。この世界を救ってくるあたしに、ご褒美の前渡し」
「うん…。俺に用意できるものなら…」
「あの歌」
「うた?」
「あの歌。聴かせてよ」
「え?」
「あのラジオで流した歌」
「え? あ、あれ、聴いてたの?」
「あんな薄い壁じゃあケンケンの声だだ洩れなんですけど」
「マジか…」
「ケンケンの声は聴こえたけど歌までは聴こえなかからさ。今、ここで聴かせてよ」
「あ~、でも」
「何よ。もったいぶらないでよ」
「いや、実は、あの音源が入った音楽プレイヤー、あの子に。「そっくりさん」に返しちゃったからさ…」
「ふーん」
「ごめん…、アスカ」
「じゃあさ」
「うん。他のだったら。俺にできることだったら何でもしてやるよ」
「じゃあケンケンが歌ってよ」
「え゛ッ?」
「今ここで、ケンケンが歌ってみせてよ」
「ちょ、そ、それは」
「何でもするってゆったじゃん」
「いや、で、でもさ~」
「そもそもあれはあんたがあたしに贈った歌なんでしょ? あたしに届いてなきゃ意味ないじゃん」
「そりゃそうだけどさぁ…」
「ほらほら~、早く~」
「え、ええ~~」
「あ~あ。後で後悔しないかな~。あたしがこの戦いで死んじゃって。あの時恥ずかしがらずに歌を聴かせておけばよかったって」
「その言い方はずるいんじゃないかな…」
「あたしはこれから死ぬかもしんないのよ? そりゃズルくもなりますって」
「…それじゃあ、約束しろよ」
「何を?」
「必ず、もう一度。君に向けて「おかえり」って、俺に言わせてくれるって」
「ええ。約束するわ」
「本当に?」
「信用ないな~。あたしが約束を破るように見える?」
「アスカと約束するのはこれが始めてだからさ」
「仕方ないな~。ほんじゃ」
アスカからケンスケに向けて差し出されたのは右手の小指。
「うん」
ケンスケもアスカに向けて左手の小指を差し伸べる。
2人の間で絡み合う小指と小指。
「指切った」
その言葉に合わせて、アスカは絡み合った2人の小指を縦に振る。
普通ならば、このおまじないはその言葉通り、そこで2人の小指は離れるはず。
しかしアスカは小指を鉤状に折り曲げ、ケンスケの小指を離さない。小指をぐいぐいと引っ張られ、固められてしまったケンスケが怪訝そうに指切りの相手を見ると、そこにあるのはにんまり意地悪く笑うアスカの顔。
つまり、こうだろう。
あんたが歌うまで、この小指は離さないと。
ケンスケは観念するしかなかった。
鼻孔を大きく広げて新鮮な空気を肺の中に取り込み、口を窄ませて、肺の中の空気を外へと吐き出す。
「サビしか歌えないけど」
「いいよ、それで」
「英語の歌詞だけど、発音はめちゃくちゃだよ」
「いいよ。あたしも英語はあんまし得意じゃないし」
「そもそも俺、歌はめっちゃ下手…」
「いいから早く!」
「はい!」
小指を四の字固めにするアスカに、ケンスケは悲鳴のような返事をしながら、姿勢を正した。
そして、彼は顔を真っ赤にしながら歌い出す。
初っ端からいきなり裏返ってしまうケンスケの声。雉の鳴き声のような、何とも情けないケンスケの歌声。鼻から下半分は真っ赤にさせ、鼻から上半分は青くなっているケンスケの顔。
そんな情けない歌声と情けない顔を目の前で披露されたアスカは、吹き出しそうになる口を懸命に噤む。
そんな今にも笑ってしまいそうなアスカの顔に、ケンスケはむっとしたような顔。不機嫌さをアピールするように眉根を寄せつつ、そしてそんなアスカの顔を見ないようにしつつ、それでも健気に歌い続ける。
その歌のサビは同じ旋律を2度繰り返す。
ケンスケがまだ学生服を着ていた頃の、海の向こうの国の男性歌手が歌っていた歌。自分を卑下する女性を男性がひたすら甘い言葉で褒め捲る歌。節の最後は、必ずある一言で閉められる歌。
30間近の平凡な声域の持ち主であるケンスケには少々キツめのハイトーン。それでも目の前の彼女がねだるから。これから死地に赴く彼女がせがむから。
多少の恥なんてこの際頭の隅っこに追いやるしかなく、背けていた視線を彼女に向けて、ケンスケは懸命に歌い続けた。
時間にすれば30秒にも満たない。
それでもケンスケにとっては永遠のように感じられたサビの時間が、ようやく終わる。
大した運動をしたわけでも激しくカロリーを消費したわけでもないのに、肩を上下させながら荒い呼吸を繰り返す。
そんなケンスケの前に立っているアスカはと言うと、今にも吹き出しそうだった口はぽてっと半開き。どこか呆けた顔でケンスケの顔を見上げている。
どうせ笑い出したり揶揄ったりするのだろうと半分覚悟していたケンスケは、そんなアスカの態度に戸惑い気味。恥ずかしさを懸命にねじ伏せて歌ったのに、何かしらの反応を見せてくれないと、無理に抑えていた恥ずかしさが込み上げてきてこの体が爆発してしまいそうだ。
「え、えと…」
我慢できず、声を掛けてみたら。
「もう一回…」
かすれ気味のアスカの声が重なる。
「え?」
「もう一回…、歌ってよ…」
「え?え~?」
「早く…」
「え? ちょ…、えっと」
アスカの顔は意地悪く笑っていない。
至って真面目なアンコール。
ケンスケは今日何度目かの覚悟を決める。
そしてアスカの小指によって絡め取られている自身の左手の小指を強引に動かし、解くと、そのままアスカの右手をそっと握った。
「え?」
そんなケンスケの意外な行動に、今度はアスカが戸惑う番となる。
アスカがあたふたしている間に、ケンスケの右手はアスカの左手も握ってしまった。そのまま、両手を肩の位置にまで上げてしまう。
お互い半歩もない距離で、両手を握り合って対峙している。
状況が飲み込めてない様子のアスカに、ケンスケは相変わらず恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながら言った。
「じゃあさ」
「え?」
「俺と踊ってよ」
「え? え~?」
ケンスケの突拍子もない誘いに、今度はアスカが素っ頓狂な悲鳴を上げてしまう番だった。
「ちょ、ちょっとケンケン! 何言い出すのよ!」
とアスカが抗議の声を上げる間もなく、歌い始めてしまったケンスケ。
歌の拍子に合わせて、彼は右へとステップを踏む。
彼の動きに引き摺られて、彼女の足も左へとステップを踏む。
歌に合わせて彼が左へステップを踏めば、彼女の足も右へとステップを踏んで。
お互い誰かとダンスをするなんて初めてのこと。ぎこちない足取りで踏まれるステップは、時に相手の爪先を踏んでしまい、時に互いに別々の方向に進んでしまい。
「えっと、えっと」と声に漏らしつつ足もとを見ながら、相手の足を踏まないよう必死にステップを踏んでいた彼女。4回5回と刻んでいくうちに、少しずつ慣れてきて、相手の足に合わせることができるようになって。
ふと顔を上げてみれば、そこには相変わらず頬を真っ赤に染めながらも、必死に歌い続けている彼の顔。
その顔がやっぱり可笑しくて。
それでいて、彼の歌と体の動きに合わせて刻むステップがとても心地よくて。
自然と笑みが綻ぶ彼女の顔。
そんな彼女の顔を見つめながら、ケンスケは思う。
ああ、やっぱりこの歌の歌詞の通りだ。
君の顔には笑顔が一番似合ってる。
君が一度笑顔を見せれば、世界中の時が止まり、世界中の人々が足を止めて振り返ることだろう。
君は何も変わらなくていい。
アスカはアスカ。それで十分じゃないか。
だって君はとっても素晴らしいんだから。
作業に勤しむ夫に、我が子を抱いた鈴原ヒカリは家から持ってきたお弁当とお茶が入った包みを渡す。
ふと、遠くに視線をやった。
その視線の先にある光景に、あまりの「突然の別れ」に一晩中泣いて腫れてしまったヒカリの目がまん丸に開き、ぱちぱちと瞬きをしている。
シャツの袖をくいくいと引っ張られ、鈴原トウジは隣に立つ妻の横顔を見る。
妻の目は、遠くを見つめている。
その視線を追ってみると、そこには村の外れにある高台。
その高台に立つ、2つの人影。
妻と同様に「突然の別れ」に消沈していたトウジの顔に笑顔が広がった。
「ははっ。なんやあいつら」
そう呆れたように呟きつつ、口の周りに両手を添えて、そして高台の2人に向けて声を張り上げる。
「お前ら! 公衆の面前で何乳繰り合っとんのや!」
トウジのその大声に周囲に居た作業員全員が手を止め、トウジが見ている方を向いた。
「朝からお盛んやのお!」
更なるトウジの追い打ちに、周囲のそこかしこから笑い声が湧き出す。
トウジの冷やかしに高台の2人は一瞬硬直し、そして慌てて繋いでいた手を離して距離を取った。
2人の片割れが鉄柵から身を乗り出し、緋色の髪を乱しながら拳を振り上げてわーわー喚いている。金切り声がトウジの居るところまで届くが、何を言ってるかまでは分からない。おそらくトウジに対して抗議しているのだろう。
中学生時代の友人の慌てふためきように、トウジの妻は口許を押さえながら笑いつつ、そして夫と同じように口の周りに両手を添えて声を張り上げた。
「アスカー! 頑張れぇーー!」
彼女なりの精一杯のエールを送りながら、友人に向かって手を振る。
すると高台の友人は胸を張ると、左右に伸ばした腕を折り曲げ、その細い腕に力こぶを作ってみせた。そしてまた何やら喚ているが、今度も何を言ってるかまでは分からない。おそらく、「任せなさい」とでも言っているのだろう。そんな友人の様子に、ヒカリはくすくすと笑い、そしてもう一度手を振ると、友人は両手を空に掲げて大きく手を振り返してくれた。
鈴原夫妻の後ろを一台のトレーラーが横切った。トレーラーはその場で停車し、運転席から「Wille」のロゴが入ったキャップを被った作業員が顔を出す。
「式波少佐ーー!」
高台の人影に向かって叫ぶ。
「これ! 本当にヴンダーに積んじゃうんですかああ!?」
作業員は荷台の積荷を指差す。
高台の人影は、顔を上下に大きく振って、遠くからでも分かるように頷いてみせた。
「ちゃんと検疫は通してるんでしょうね~!? 艦長の許可は得てるんですかあ~!?」
高台の人影は、両腕を天に向け、そして頭の上に大きな輪っかを作ってみせる。
「ほんとかな~?」
「なんやねん、これ」
トレーラーの側に立つトウジは作業員に声を掛ける。
「あん? あっ、あなたは!」
トウジの顔を見た作業員は慌てて運転席から降りてきた。
「サクラさんのお兄さまじゃないですか!」
「誰がお兄さまや誰が! けったくそわるい」
不穏な熱量が籠った目で握手を求めてくる作業員から距離を取りつつ、トウジは再度訊ねる。
「これ、なんやねん」
「ああ、これですか」
作業員は荷台の積荷を見上げた。
「パリ・カチコミ作戦でエヴァのパーツと一緒にわざわざ持ち帰ってきたものらしいんですがね。何でも式波少佐のたっての希望とかで」
「中身は?」
「さあ。それが誰も知らないんですよ」
荷台に積載された積荷。
横積みされた、タンク型コンテナ。
側面には「EURO NERV」のロゴ。
そのロゴの下には小さな文字で「CODE:02」と刻印されている。
* * * * *
円筒状の閉鎖空間。
魂の座。
エヴァンゲリオンのコクピットである、エントリープラグ。
そのパイロット座席に、2人の少女が横たわっている。
2人とも背中まで伸びる緋色の髪。
2人とも蒼い瞳。
顔の造形から背丈まで、全てが同じの2人の少女が、絡み合うようにコクピットの操縦席に横たわっている。
もっとも一方の少女は全身が弛緩したように腕も脚も力なく伸び切っており、もう一方の少女が腕を弛緩している少女の胸と背中に、脚を弛緩している少女の脚に回し、一方的に絡み付いているのだが。
相手に一方的に絡み付いている方の少女は、一方的に絡み付かれている少女の顔を薄い笑みを浮かべながら覗き込んでいる。
「バカみたい…、まだ抵抗してる…」
そう揶揄された少女。
首から下と同様に、顔も頬が垂れ、唇が垂れ、目尻が垂れ、顔のあらゆる筋肉が弛緩している少女。
垂れた瞼で潰れ掛けた目に微かに覗く瞳。瞳孔が散大した青色の瞳は、虚ろな視線を天井に向けて注いでいるだけ。
その姿はあたかも宿主に寄生し、その養分を吸い尽くす寄生植物のよう。自分とうり二つの少女に絡まれた少女にはもはや生命力など感じられないが、それでもなお、絡み付く側の少女は相手が完全に自分の支配下に収まったとは感じていない。
「あなたもさっさと、神の愛に身を委ねればいいのに…」
相手に囁き掛けながら、弛緩した頬を指でなぞる。
触れた頬に反応があった。
頬が、微かに動いている。
見れば、絡み付いた相手のだらりと垂れた上唇と下唇が、小さく開閉していた。
何かしら言葉を発しているらしい。
発しているらいしのだが、その内容までは聴き取れない。
少女は相手の声を拾うべく、相手の口に耳を近付けてみた。
「い…や…ぁ…、まい…、った…、な…ぁ…」
鼻から漏れる吐息の音に混じって、微かに聴こえる掠れた声。
「す…べ…て…が…、し…く…ま…れ…て…た…、ん…だ…」
途切れ途切れの声。発する音、その一つ一つに、体中のありったけの呪詛を詰め込んだような声。
「あた…し…たち…が…、や…って…きた…こと…。ち…へど…を…、はき…な…がら…、じべた…、はいずり…、まわり…ながら…、やって…き…た…こと…。ぜ…ん…ぶ…、あの…、バ…カ…おや…じ…の…、て…の…ひら…の…、う…え…、だった…、ん…だ…」
その言葉を聴いて、少女は口許に歪な笑みを浮かべる。
絡み付いた相手が歩んできた、闘争に塗れた半生を嘲るような笑みを。
「お…ま…け…に…、あ…た…し…ん…、な…か…の…、使…徒…、ま…で…、り…よう…、する…なん…て…」
絡み付いた相手の垂れた瞼が、完全に閉じた。
「こ…りゃ…、い…ぽっ…ん…、とら…れ…た…、な…ぁ…~」
そして再び開いた瞼の向こうから現れた瞳は、弱々しくエントリープラグの天井を見上げている。
それを相手の「敗北宣言」と捉えた少女。
口許に手を当てて、くすくすと声に出して笑う。
「なんてゆーとでも思ったかあああ!!」
その怒鳴り声が一体何処の誰から発せられたものなのか。
少女はすぐには理解できなかった。
目の前の少女。
髪の色から瞳の色。顔の造形から背丈まで何もかも一緒の目の前の少女。
体中の筋肉を弛緩させ、顔からも生気が失せていたはずの少女が、いつの間にか顔をこちらに向けていた。
歯を力強く食いしばり。
その蒼い瞳を爛々と輝かせて。
先ほどの怒鳴り声が、この目の前にいる少女から発せられたものと気付いた時。
背後から誰かに肩を、とんとんと叩かれた。
肩を叩かれた少女は、背後を振り返った。
振り返った先に少女が見たもの。
背中まで伸びた緋色の髪。
蒼玉のような瞳。
自分と顔の造形から背丈まで何もかもが一緒の少女。
その少女が、握った右拳を大きく振りかぶっている。