機甲少女の想いは一途   作:hekusokazura

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(67)You(We) Are Not Alone

 

 

 

 

 風に渦巻く砂塵の中に立つ少年。

 学校指定の白のワイシャツに黒の学生ズボンを着た少年。

 その右手に父親から譲り受けた携帯型音楽プレイヤーを握り締めて立つ少年。

 碇シンジは、彼の仲間たちが彼の父親の夢を打ち砕く様を静かに見届け、そして自分の夢が打ち砕かれていく様を見届ける彼の父親の背中を、静かに見つめていた。

 

 彼は口を開く。

 

「父さん」

 

 数多の星々が煌めき、オーロラが揺らめく夜空。その夜空を覆いつつある灰色の塵。

 その塵を見上げていた父親の背中に声を掛けると、父親の肩が僅かばかり震えた。

 

「僕と…」

 

 父親はゆっくりと振り返る。

 十字状に裂かれた父親の目を見つめながら、彼は呼び掛けた。

 

「話をしよう…」

 

 

 

 

 

 そんな彼の静かな呼び掛けを切り裂くように、それらは現れた。

 2人の頭上を2つの大きな影が飛び越える。

 そして大地を震わす2つの轟音。

 再び2人を突風が襲い、収まり掛けていた砂塵が勢いを増す。

 

 2つの影。

 2つの、エヴァンゲリオン。

 エヴァンゲリオン第13号機と、8号機。

 碇シンジの背後に降り立った2体の巨人。

 碇シンジの背中を見守るように、後押しするように、彼の背後に聳え立った2体のエヴァンゲリオン。

 

 しかしながら複座式の第13号機のパイロットの一人は、この状況を静観するつもりはさらさらないようで。

「さあ~この腐れヒゲ親父ぃ! 積もりに積もった積年の恨みぃ! ここでたっぷりと晴らしてやるっつーの!」

「スーパーアスカ…」

「2枚に下ろして3枚に下ろして、4つに畳んで5つに畳んでやるから覚悟しろっつーの!」

「スーパーアスカ…」

「何よ、ってかその呼び方止めてよ!」

 息まくアスカ・ラングレーは、そんな彼女とは正反対の冷めた声で呼びかけてくる隣のエントリープラグに身を置く淡い光の少女を睨んだ。

「もう戦う必要はない」

「あんたに必要はなくてもあたしにはあるっつーの!」

「もう戦うべき時は終わった」

「何よ! それもカヲルって奴がゆってんの!?」

 その問いに、淡い光の少女は小さく首を横に振る。そしてアスカに向けていた視線を外した。

「彼女が、そう言ってる」

 アスカはその声に促されるままに、淡い光の視線を追う。

 

 彼女たちが見つめる先には、地面を這う巨人。

 もはや跳ぶことも駆けることも歩くことも叶わなくなったエヴァンゲリオン初号機が、大地をどす黒い体液で汚しながら這い続け、碇シンジの背中を守るように立つ2体のエヴァンゲリオンの隣に並ぼうとしている。

 

「あとは、全てを碇シンジに任せよう」

 

 初号機の痛々しい姿に目を奪われていたアスカは、その声にはっとして、隣のエントリープラグに視線を戻した。

 

「「「綾波レイが、そう言ってる」」」

 

 その名前の持ち主とそっくりの3つの淡い光が、声を揃えて言った。

 

 

『そ~だよ~、姫~』

 彼女たちがいるコクピットに、のんびりとした口調の声が届いた。

 アスカはその声の持ち主が搭乗する機体。第13号機の隣に立つ、エヴァンゲリオン8号機へと向ける。

『親子喧嘩は犬も食わないってゆーでしょうが。外野は黙って見守るが吉だよん』

 

『そりゃ夫婦喧嘩でしょうが…』

 スピーカー越しに聴こえる、欧州育ちの割にこの国のことわざに造詣の深い相棒の声に「にゃはっ」と笑う真希波マリは、操縦席の背もたれに背を預け、足を伸ばし、肘掛けに頬杖を付くという、完全に臨戦態勢を解除した姿勢でその光景を見つめていた。

「男子、三日会わざれば刮目して見よ…、か」

 彼女たちが乗るエヴァンゲリオンの足もとで対峙する2人。そのうちの一人に目を向ける。

「ちょ~っと見ない間にカッコよくなっちゃってま~」

 拡大された少年の顔に見惚れるマリの膝に乗る小さな子供も、うんうんと頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 息子は黒曜石のような瞳で。

 父親は十字状に裂かれた目で、互いの顔を見つめ合っていた。

 10歩程度の距離を空けて。

 息子は右手に携帯型の音楽プレイヤーを握り締めて。

 父親は空手で。

 武器らしいものは一切持たず、時に拒絶し合い、時に激しく憎み合った2人は対峙していた。

 

 

 息子が彼の父親の背中に呼び掛け、父親が振り向き、そして互いの顔を無言で鑑賞し始めてから、どれくらいの時間が過ぎたことだろう。

 2人を見守る数人ばかりの立会人にとっては、永遠にも思えたような時間。数多の星々やオーロラ、円蓋の粒子化した破片が流星群のように舞っていた夜空はいつの間にか灰色の塵で完全に覆われ、怪しげな光を放つ虚構の世界の大地が2人の体を足もとから照らし出す。

 

 

 止まった時間を動かしたのは、父親の方だった。

 

「何故だ…」

 

 口火を切った父親の口から、最初に出た言葉。

 それは問い質す言葉だった。

 

 先に沈黙を断ったのが父親であり、その一言目が問い質す言葉だったことに少しだけ驚いたのかもしれない。

 息子は、最後に口を開いてからずっと父親を見続けてきた目に、初めて瞬きをさせる。

 

「何故なんだ…」

 同じ言葉を繰り返す父親。

 

 ようやく始まった会話。

 息子が望んだ親子の会話。

 しかし父親から投げかける言葉は、まるでその2文字しか知らないとばかりに「何故・何故」と続く。

 「何故」と言われても、何を問われているかを理解していない息子は、その表情に少しばかりの困惑の色を乗せた。  

 

「お前にも私が得たものと同じ喪失を、幾度となく与えたはず」

 

 ようやく「何故」以外の言葉を紡いだ父親の口。

 息子は父親の問いの意味を瞬時に理解し、表情に宿していた少しばかりの困惑を捨てた。

 

「何故だ」

 父親は再び同じ言葉。

 まるで呪詛のように、その2文字を声に乗せる。

 そして十字状に裂かれた目から注がれる視線をほんの刹那、息子の顔から外し、顔のその下。首のその下。胴体のその下。怪しげな光を放つ大地を踏みしめる、少年の2本の足に向ける。

 

「何故、お前は立っていられる」

 

 息子の足に向けられた視線は、再び息子の顔へ。

 

「何故、お前は絶望しない…」

 

 

 

 父親の口から問いを投げ掛け続けられながら、少年は頭の中で記憶の箱の中身を探っていた。

 箱の中に蓄積された、父親との会話の記憶を。

 彼がこの世界に産み落とされてから今に至るまで、父親から投げかけれらた言葉の数々を。

 何しろ疎遠過ぎた間柄のため、交わした会話もほんの僅か。

 だから息子は、父親と交わした会話のほぼ全てを思い出すことができた。

 思い出してみて、そして改めて思う。

 

 今、対峙している男が。

 

 自分の父親が、ここまで自分に関心を持ってくれたのは、これが初めてではないか、と。

 

 

 だから碇シンジは少しだけ笑った。

 

 それは父親の関心を惹けたことを嬉しく思う子供の極々自然な反応に過ぎなかったのだが、自分の中に渦巻き溢れる疑問の答えを必死で求めている父親にとっては、さらなる混乱を掻き立ててしまう表情になってしまったに違いない。

 父親の右足が、ほんの半歩分だけ。

 まるで得体の知れない化け物とでも対峙してしまったかのように、半歩分だけ後ずさったのだ。

 

 

 そんな父親の混乱ぶりを察することができない息子は、その顔に僅かな微笑みを浮かべながら、首を左に向けて少しだけ捻ってみた。

 左側に移動する視界。

 視界の右隅っこに父親の姿が消え、代わりに視界の左隅っこから巨大な足が現れたため、息子は瞳を動かしてその足の持ち主の顔を視界の中央に迎える。

 

 彼の視界の中央に収まったもの。

 

 8つの目を宿す、異形の顔。

 

 エヴァンゲリオン8号機。

 

 黄金色に輝く8つの目が、静かに彼を見下ろしている。

 

 異形の顔を見上げる彼は顔だけでなく体の正面を8号機に向け、異形の顔に向けて微笑み掛けた。

 

 

 そして彼はさらに首を左側に捻る。

 左側に移動する視界。

 すると視界の隅っこにはまたもや巨大な足。彼はやはり瞳だけを動かして、足の持ち主の顔を視界の中央に迎える。

 

 そこにあるのは2つの眼孔を横に裂いた、4つの目を持つ顔。

 

 エヴァンゲリオン第13号機。

 

 黄金色に輝く4つの目が、静かに彼を見下ろしている。

 

 彼は体の正面と共に、笑顔を第13号機へと向ける。

 

 

 そして彼はさらに首を左側へと捩じった。

 左側に移動する視界の隅っこに入ってきたもの。

 それは今度も巨大な足。

 ではなかった。

 視界を左側に移動させるだけで、その巨人の全体像を収めることができてしまったのだ。

 

 彼は左側に捻った首を一度正面に。第13号機の足もとに戻してしまう。

 

 胸の鼓動が高鳴るのを自覚した。

 呼吸が切迫するのを自覚した。

 彼の顔から笑みが消えてしまう。

 額に大量の汗が滲み出て、その内の一粒が滑り落ち、彼の頬を伝い、顎から滴り落ちる。

 

 下唇を噛み締め、喉の奥から漏れかけた嗚咽を押し戻す。

 瞼を閉じ、涙腺から漏れかけた涙を押し戻す。

 

 一度大きく深呼吸をして、乱れた息を整えて。

 

 そして一度は消えた笑みを、再びその顔に宿し。

 

 そして再び視界を左側へと移動させ、その巨人を視界に収める。

 

 

 エヴァンゲリオン初号機。

 

 14年前まで、彼が専属パイロットを務めていた機体。

 

 先の2体の巨人が直立していたのに対し、その巨人は両膝を地面につき、両手を地面に付き、蹲っていた。

 第13号機との激闘によって体中に開いた大小様々な孔は今も夥しい量の体液を垂れ流し続け、体内に溜まった膨大な熱を逃すためにあらゆる装甲の隙間から幾筋もの水蒸気を燻らせている初号機。

 下顎を砕かれた口では、苦し気に濁った呼吸が浅くゆっくりと繰り返されている。

 

 そんな状態でもなお初号機は顔を上げ、2つある目をまっすぐに彼に向けてくれている。

 見守るように、後押しするように。

 そのひたむきな瞳を碇シンジに向けてくれている。

 

 彼は体の正面を初号機へと向ける。

 そして半ば強引に宿らせた笑顔を、初号機へ送った。

 

 

 そして彼は首を左側に捩じった。

 左側に移動する視界。

 視界の片隅に現れた人物。

 それは、彼の父親。

 

 

 

 息子が体をぐるりと一回転させて、彼を囲むように立つ(蹲る)3体の巨人の顔を一つ一つ見つめていく。

 そして再びこちらに向けられた息子の顔。

 その顔に宿された笑顔。

 父親の混乱は深まるばかりだった。

 

「父さん」

 そんな父に、息子は静かに語り掛ける。

 

「これが答えだよ」

 相手の耳にではなく、心に語り掛けるような声音で。

 

「確かに僕は何度も打ちのめされた」

 息子の顔から笑みが消える。

「突き付けられた運命は、ただの弱い人間でしかない僕には、あまりにも過酷過ぎたんだ」

 喪失したもの。そして自分自身が犯してしまったあまりにも大きな罪。それを頭に思い描く彼の握り締められた左拳が微かに震え、伏せられた目から放たれる弱々しい視線は父親の足もとへと注がれる。

 

「でも…」

 しかし彼はすぐに視線を彼の父親の顔へと戻した。

「でも僕が殻の中に閉じこもり、外の世界のあらゆるものを拒絶していた時。あの時弐号機に乗っていた君は、君が寄せてくれた甘く厳しい声で、閉じていた僕の心の扉を開いてくれたね」

 彼の視線は彼の父親の顔に注がれたまま。しかし彼の口から紡ぎ出される声は、明らかに父親以外へと向けられている。

「君のお陰で、僕は逃げようとしていた現実に、もう一度目を向けることができたんだ」

 彼の顔に、再び笑顔が宿る。首だけを捻り、彼の左手に立つ巨人の顔を見上げる。

「あの時はありがとう。マリさん」

 8つ目の巨人。8号機は、「どういたしまして」とばかりに肩を竦めてみせた。

 その仕草はその巨体を操るパイロットそのもののようで、彼は「ふふ」と口の端に小さな笑い声を乗せる。

 

 彼は父親の顔に視線を戻し、言葉を紡ぎ続ける。

「僕が犯した大き過ぎる罪を僕自身が背負いきることが出来ずに打ちのめされていた時。ピアノの弾き方と、誰かと繋がることの楽しさを思い出させてくれた君は、僕を希望の光で照らしてくれたね」

 そこまで言って、彼の顔に再び暗い影が差した。

「そして僕が犯した2度目の大きな罪を、君は一人で引き受けてくれた…」

 自身の顔に差した影を短く瞬きを繰り返すことで追い出す。首だけを左側に捻り、肩越しに背後に立つ4つ目の巨人の顔を見上げる。

「ありがとう。カヲルくん。そしてごめん…、カヲルくん…」

 彼の背中を見下ろす4つの目を宿した巨人は、「気にしないで」とばかりに深く頷いた。

 その仕草もまたその巨体に宿っているはずの誰かを想起させ、彼はやはり「ふふ」と小さな笑い声を口ずさんだ。

 

 彼は父親の顔を視線を戻し、言葉を紡ぎ続ける。 

「そして絶望に浸っていた僕をプラグの底から引き摺り出してくれた君。僕をもう一度大地に立たせてくれた君。僕の手を引いてくれた君。僕の口に食べ物を押し込んでくれた君。僕を見捨てずにいてくれた君」

 息継ぎなしで喋り続けた彼は、一度言葉を区切るとふうと溜息を吐く。今度は右側に首だけを捻り、右肩越しに背後に立つ4つ目の巨人の顔を見上げる。

「ありがとう、アスカ」

 するとその巨人はまるで照れたように顔をそっぽに向けてしまった。

 それはもはやまんま巨人に乗る元同居人の普段通りの仕草だったので、彼は口を開いて「ははっ」と笑い声を上げてしまった。

 

 

 そして彼は4つ目の巨人に向けていた視線を下ろし、一度地べたを見つめ。

 そして目を閉じ。

 心を落ち着けようと深く静かに息を吐き。

 目を開け。

 その顔に笑みを宿し。

 そして4つ目の巨人に向けていた視線を正面に戻す過程で、もう一つの巨人の姿を視界の中央に収めた。

 

 血だまりの中で蹲り、顔だけをこちらに向けてくれている初号機。

 

 その姿を見た途端、落ち着けたはずの心が掻き乱されるのを、彼は自覚した。

 

「綾波…」

 

 彼の震える口から掛けることが出来た言葉は、それだけだった。

 

 目を伏してしまった彼。

 

「ありがとう…、綾波…」

 

 口の中で呟かれたその声が外界に響くことはなかった。

 

 彼はこの場には必要ない情動を、それでも体の奥底から溢れ出てきそうな感情を胃の中に押し込めるように奥歯を噛み締めつつ、顔を彼の答えを待っている男の方へと向ける。

 

 

 

 父親は、黙って息子の答えを待っていた。

 息子は、目尻に浮かんでいた小さな雫を拭いながら言う。

「彼らだけじゃない。ミサトさんやリツコさん、加持さん。トウジに洞木さんに、…って、違った。今は鈴原ヒカリさんだ…。それにケンスケ」

 頭に浮かぶ顔の名前を次々と口に出す彼。

「そして…」

 そして彼の頭の中に最後に浮かんだ顔。

 

 彼は自身の両手を見つめる。

 

 「彼女」を、一瞬だけ抱き締めたその両手を。

 

 一瞬だけ抱き締め、そして次の瞬間には泡となって消えてしまった「彼女」の最後に見た笑顔を思い浮かべて。

 

 その両手を、右手に持っていた音楽プレイヤーごと。

 「彼女」が持たせてくれた音楽プレイヤーごと包み込むように絡め、額に当てる。

 

「ありがとう…、みんな…」

 

 目を閉じ、この場に居ない彼ら彼女らへ心からの感謝の言葉を捧げた。

 

 

 額から手を離した。

 

「僕の傍には、いつも誰かが居てくれた」

 

 組んでいた両手を解いた。

 

「絶望の底に沈んでいた僕に、手を差し伸べてくれる人が居たんだ」

 

 瞼を開き。

 

「僕は、一人じゃなかったんだ…」

 

 父親の顔を、正面から見据える。

 

「それなのに…、僕は…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある研究所の研究棟。

 数分前に、とある悲劇に見舞われた場所。

 実験房の中で、一人の女性が消えた場所。

 

 モニター室と実験房を隔てる大きな強化ガラス。

 その前に立つ長身の男。

 長身の男の足もとには、複数の男たちによって床に取り押さえられた人物。

 

 突き付けられた「現実」を否定するために。覆すために取り乱し、暴れ続けた末に同僚に取り押さえられた男。

 父親。

 

 長身の男から「現実」を告げられて以来、この世の終わりでも見たような喚き声を撒き散らしていた父親。

 その喚き声も何時しか大人しくなり、父親が漏らす弱々しい小さな嗚咽のみがモニター室の中を漂う。

 

 長身の男が父親を取り押さえている同僚たちに指示を出すと、同僚たちは一人、また一人と、父親の背中から離れていく。

 全員が背中から退き、拘束から解放された父親。

 のそりのそりと、まるで生ける屍のように、ゆっくりと立ち上がる父親。

 彼は目の前の強化ガラスにへばり付き、中を覗き見る。

 長身の男から告げられた事実をまだ信じ切れないとばかりに。

 彼の愛する人が消えていった実験房の中に、隅々まで視線を這わせる。

 

 

 大きな悲鳴。

 

 父親が上げる大きな悲鳴に同僚たちは身構えたが、長身の男が視線で彼らを制止する。

 

 父親は癖のある髪を両手で引っ掻き回し、意味を成さない喚き声を上げ続けながら、一歩二歩と、ゆっくりと強化ガラスから遠ざかった。

 

 そしてふらりと振り返る。

 

 

 振り返った父親。

 

 目から大量の涙を溢れさせる父親。

 口の端から大量の泡を吹く父親。

 額から大量の血を滲ませる父親。

 

 絶望に打ちひしがれた父親の顔。

 

 その父親が、一歩二歩と、こちらに近付いてくる。

 

「シンジ…」

 

 こちらに向けて、縋るように手を差し伸べてくる。

 

「母さんが…」

 

 それはまるで地獄の底から這い出てきた亡者のよう。

 

「ユイが…」

 

 地獄の底へと誘う化け物のよう。

 

 

 堪らず息子は身を翻す。

 

「待て!」

 

 大人たちの足を掻き分けて、走り出す。

 

「待ってくれ!」

 

 ドアに辿り着くと、腕を伸ばしてドアノブを掴み、捩じった。

 

「行かないでくれ! シンジ!」

 

 ドアを開け放ち、転がるように廊下へと飛び出す。

 

「私を見捨てないでくれ! シンジ!」

 

 短い両腕を交互に懸命に振って、廊下を駆ける。

 

「シンジィィィーーーーーーーー!」

 

 ドアが閉じてもなお聴こえてくる父親の悲鳴。

 

 堪らず両耳を塞いだ息子は、短い両足を懸命に動かしながら、必死で父親の叫び声から遠ざかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうなんだ…」

 

 十字状の目を宿す父親の顔を見つめながら、息子は呟く。

 

「父さんが僕から離れたんじゃない。僕が、父さんから逃げたんだ…」

 

 変わり果ててしまった父親の姿を見つめながら、息子は呟く。

 

「みんなはずっと、僕のことを見守ってくれていたのに…」

 

 体中を蝕む哀しみを克服するために変わらざるをえなかった父親の顔から視線を外し、父親の足もとを見つめ。

 

「それなのに僕は…」

 

 唇を噛み締め。

 拳を握り締め。

 

 

 

 

 この日、この時。

 碇シンジが碇ゲンドウと相対し、彼の父親に直接伝えたかったこと。

 直接会って、伝えなければならなかった2つのこと。

 

 その1つ。

 

 

 

 

「それなのに僕は…」 

 

 彼は伏せていた目を上げ、父親を見た。

 

 その視線の鋭さに、父親は反射的に身構えた。

 

 

 

 

「ごめん…! 父さん…!」

 

 

 

 

 息子は肚の底から絞り出すよに叫んだ。

 

「ごめん…、父さん…。あの時…、父さんから逃げ出してしまって…」

 

 息子は最初に発した叫び声に釣られて身を乗り出すように、右足を一歩前に出していた。

 すると父親は見えない手によって肩を突き飛ばされたかのように、半歩後ずさりしてしまう。

 

「ごめん…。父さんが一番必要としていた時に、僕は父さんから離れてしまって…」

 

 さらに一歩前へ。今度は左足を前に出す息子。するとやはり父親は半歩、後ずさりしてしまう。

 

「ごめん…。父さんが悲しみに打ちひしがれている時に、僕は何もしてやれなくて…」

 

 息子が近付く度に、遠ざかる父親。

 

「ごめん…。僕が、母さんの代わりになれなくて…」

 

 それでも息子は大股気味に一歩前へ。そして父親は躊躇うように半歩後ろへ。

 

「ごめん…。あの日の僕が…、まだ子供で…」

 

 息子が一言発する度に、近付いてく2人の距離。

 

「ごめん…。何もできない、ただの子供のままでいてしまって…」

 

 父親は顎を引き、顔を俯かせる。

 

 

「よせ…」

 

 

「ごめん…。あの時…、母さんが消えたあの瞬間から、僕は大人になる努力を始めなくちゃいけなかったのに…」

 

 

「よせ…」

 

 

「ごめん…。父さんが望む子になれなくて…」

 

 

「よせ…」

 

 

「ごめん…。父さんが望んだ大人になれなくて…」

 

 

「よせ…」

 

 

「ごめん…。父さんが負った心の傷の深さに気付ける大人になれなくて…」

 

 

「よすんだ…」

 

 

「ごめん…。父さんの心に刻まれた傷を癒すことができる大人になれなくて…」

 

 

「よせと…」

 

 

「ごめん…」

 

 

「僕が…」

 

 

「よせと言っている…」

 

 

「僕のような人間が、碇ユイと碇ゲンドウの間に生まれてしまって…」

 

 

 

 いつの間にか、2人の間は互いが手を伸ばせば触れることができる距離まで縮まっていた。

 

 

 

「ごめん…、父さ…」

 

 

「やめろおおおおおおおおおおお!!」

 

 

 そして父親は手を前に出した。

 手を伸ばせば触れることができる位置に立つ息子に向けて。

 

 いや、突き出した。

 

 両手を、息子に向かって突き出した。

 

 両手を、息子の首に向かって突き出した。

 

 父親が突き出した両手は息子の首に絡みつく。

 

 突き出した勢いをそのまま息子の首にぶつける。

 

 息子の細い首が、「く」の字に曲がる。

 

 突き出した手に、全体重を乗せる。

 

 息子の体を突き倒す。

 

 息子の体を、息子の首を絞めながら地面に押し倒す。

 

 

 背中と後頭部に響く鈍痛。

 そして首に感じる強烈な圧迫感。

 薄れゆく視界一杯に広がるのは、父親の顔。

 

 

 まるであの時のように。

 

 彼の父親が変わった。

 

 変わらざるをえなかったあの日のように。

 

 

 ひどく歪んだ父親の顔。

 

 

「やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろおおおおおおおおお!!」

 

 

 気道が塞がれ、頸動脈が圧迫され。

 紫色に変色した顔で、父親の十字状に裂かれた目の奥に灯された鬼火のような鈍い光を見つめながら、それでも息子は続ける。

 

 

「ごめん…。僕が父さんのもとに残された…、唯一の家族なのに…」

 

 

「やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ………」

 

 

「ごめん…。家族は…、傍に居なくちゃ…、いけないのに…」

 

 

「やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ…」

 

 

「ごめん…。父さん…」

 

 

「やめろ…、やめろ…、やめろ…、やめろ……」

 

 

「ごめん…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 すでに首への圧迫感は消えていた。

 父親の口から呪詛のように繰り返されていた「やめろ」という3文字も消えている。

 

 父親は息子の首から手を離していた。

 その手を握りしめ、自身の額に当てていた。

 自身の額に当てた両拳を、息子の胸に押し付けていた。

 その角ばった肩を、小刻みに震わせていた。

 その口から漏れるのは、激しい嗚咽。

 

 首を絞めながら押し倒した息子に馬乗りになっていた父親。

 

 その父親が、今は息子の胸を借りながら泣いている。

 涙を流すことも叶わなくなった体で、泣いている。

 

 

 

「ごめん…、父さん…」

 

 

 

 そんな父親に向けて、息子はそっと両手を伸ばした。

 

 まだ幼さを残した少年の華奢な手は、父親の広くて大きくて、それでいてとても脆い背中へと回される。

 

 

 

 

「父さんを…、一人にしてしまって…」

 

 

 

 

 息子の胸を借りて泣く父親の嗚咽が一段と激しくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 立位した巨人の視線から見る、遥か下の地上の2人。

 押し倒した息子の首を絞め続けた父親。

 その父親の体を、そっと抱き締める息子。

 地上の2人の姿を、身を乗り出して食い入るように見つめていた小さな子供。

 その子供の体を、背後から伸びた2本の腕がそっと包み込む。

 背後から抱き寄せられた子供は、自分を抱き寄せた人物の顔を見ようと首を捻った。

 肩越しに見える、女性。

 メガネを掛けたその女性は、顔を俯かせ、唇を噛み締め、微かに肩を震わせながら、小さな子供の体を抱き締めていた。

 身近にある人肌の温もりを確かめるかのように。あるいは、縋るように。 

 

 

 

 

 スピーカー越しに聴こえる男の嗚咽。孤独に塗れた嗚咽がエントリープラグの中を満たしていく。

 その赤毛の少女は凍えたように身を震わせ、胎児のように体を丸め、胸の前で腕を交差させ、自分自身を抱き締めていた。

 ふと、自分が搭乗するプラグの隣のプラグに視線をやる。

 そこには操縦席に屯する、3つの少女の形をした淡い光。淡い光たちはまるで暖を取るかのように、そして互いの存在を確かめるかのように、身を寄せ合ってる。

 隣のプラグからの視線に気付いたらしい。3つの淡い光の1つが、赤毛の少女が居るプラグに向けて手を差し伸べた。

 赤毛の少女もまた、淡い光に向けて手を伸ばす。

 2つの手は、エントリープラグの隔壁越しに重なり合った。

 

 

 

 

 地上の親子を見つめ続ける2つの目。

 彼らが会話を始め、父親が息子の首を絞めながら押し倒し、息子はそんな父親の体を抱き締め、そして父親の口から漏れる嗚咽が静寂に包まれた虚構の世界を満たしていく間も、片時も離さずに2人を見守り続けた2つの目。

 エヴァンゲリオン初号機。

 体中から燻らせていた水蒸気の筋は消え、その口から漏れ続けていた苦し気な呼吸も止まり、今はただ静かに、地上の彼らを見守り続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「シンジ…」

 

「うん…」

 

「母さんが…、ユイが…」

 

「うん…」

 

「何処にも居ないんだ…」

 

「うん…」

 

「私には…」

 

「うん…」

 

「俺には…、ユイの居ない世界なんて…、耐えられない…」

 

 

 息子は目を閉じ、眉間に皺を寄せながらも、うんうんと。

 父親の口から吐き出された弱々しい声に寄り添うように、2度ほど小刻みに頷く。

 

 

「僕もだよ…、父さん…。僕も…、アスカを見捨ててしまった時や…、カヲルくんが目の前で消えてしまった時…、「あの子」がこの腕の中で消えてしまった時…。そして綾波を救えてなかったと知らされた時…。気が狂いそうになったよ…。本当に…」

 

 喪失が齎す絶望の肌触りを思い出し、父親の背中に回された息子の手の先が微かに震えた。

 

「でも…、乗り越えなきゃ…」

 

 震える手を握り締める。

 

「父さん。僕は、多くの喪失を抱えながらも、それでも力強く生きてゆく人たちにたくさん出会ったよ」

 

 終末へと向かいつつある世界の片隅で、なおも明日を信じながら生き続けてきた人たちの顔を思い出す。

 

「特別な力を持たなくても。エヴァに乗れなくても。たくさんの絶望を乗り越えて、懸命に生きてゆく人たちと、出会ったよ」

 

 

 父親の背中に回された息子の両手。その右手に握られた、携帯型の音楽プレイヤー。

 父親から息子へと譲られた、音楽プレイヤー。

 息子の右手の親指が、その音楽プレイヤーの側面にある再生ボタンを押す。

 プレイヤーの中のマイクロテープが回り出し、内臓された小型スピーカーが音を奏で始めた。

 

「聴こえるかな? 父さん」

 

 小型スピーカーから漏れ出る音。それは音楽ではなかった。

 

「多分、「もう一人の綾波」が残したものだと思う…」

 

 プレイヤーの中に内臓された小型マイクロフォンで録音された音。

 息子は父親の頭越しに見える灰色の塵で覆われた空を見上げながら言った。

 

「「あの子」は本当にこの世界が大好きだった。この世界を心から愛してた。だからだと思う。残された時間とこのプレイヤーを使って、この世界が奏でるあらゆる音を記録していたんだね」

 

 

 

 内臓スピーカーから微かに聴こえる音。

 

 チョロチョロと。

 

 それは父親が、世界が赤い大地で閉ざされた日から久しく聴くことのなかった、小川のせせらぎの音。全ての生命の源となる水を大地の隅々へと行き渡らせる小川の音。

 せせらぎの音に混じって、水面をぱしゃぱしゃと叩く音。その音に混じって、女性たちの声。

 

『ほら、そっくりさん。何ぼーって突っ立ってんの。ちゃっちゃとやんないと洗濯終わんないよ』

 

『うん、わかった…』

 

 

 音は途切れる。

 少しの空白を挟んで、プレイヤーは次の音を奏で始める。

 サラサラと。

 木々の枝が揺れ、葉っぱたちが揺らぐ音。それは母なる星の息吹。この惑星の至る所に行き渡る、風の音。

 優しくそよぐ風の音に混じって、女性たちの声。

 

『休憩時間は終わりだよ。そっくりんさんもほら、起きた起きた』

 

『うん、わかった…』

 

 

 音は途切れる。

 少しの空白を挟んで、プレイヤーは次の音を奏で始める。

 ザク、ザク、と。

 周囲からは、蛙の鳴き声の大合唱。田んぼの近く。畦道だろうか。その畦道の上を歩く音。地上のあらゆる生命の営みを支えてきた大地の音。

 土の音に混じって、今度は子供たちのはしゃぐ声。

 

『そっくりさん。あしたもあそぼーねー』

 

『うん、わかった…』

 

 

 音は途切れる。

 少しの空白を挟んで、プレイヤーは次の音を奏で始める。

 パチパチと。

 何かが引っ切り無しに小さく弾ける音。弾ける音を包み込むように、ゴーっと小さな上昇気流の音。かこんかこんと薪をくべる音。人類に自然界を生き抜く力を与えた、炎の音。

 釜土に灯された火の音に混じって、若い女性の声。

 

『そっくりさんもだいぶ火を起こすのが上手くなったわね。今度からお料理も手伝ってもらおうかしら』

 

『うん、わかった…』

 

 

 

 水の音。風の音。土の音。火の音。

 小さなプレイヤーが奏でる、この世界を彩る多種多様な音たち。

 それらの音に耳を傾けながら、息子は言う。

「「もう一人の綾波」は本当に何も知らない、純真な子供だった」

 「彼女」とはまた違う無垢な瞳の持ち主だった「あの子」の顔を思い浮かべる。

「そんな彼女の目を通して見た世界。それが、この音たちを聴いていると見えてくるような気がするんだ。そして思うんだ」

 目を閉じた息子は、その瞼の裏に「彼女」が見た世界の姿を思い浮かべる。

 

 

「ああ、世界はなんて素晴らしいのだろう、と」

 

 

 そして眉根を寄せて、苦笑いした。

「彼女が本当に色んな音を記録してくれたものだから、僕がテープに入れておいた"お気に入り"が沢山消えちゃったけど。でも…」

 息子はボタンを押して再生を停止すると、テープを早回しさせる。

「彼女が残してくれたプレイリストの中に、新しい"お気に入り"を見つけることができたよ」

 そして任意の場所で早回しを止め、再生を開始させた。

 

 

 小さなノイズに混じって聴こえる小さな音。

 

 それは鼻歌。

 

 それは自然の音や人々の話し声を延々と記録してきたテープの中において、唯一の楽曲。

 

 囁くような歌声。

 聴く者の体を温かい羽毛で包み込むような歌声。

 聴く者の心を柔らかい綿毛で包み込むような歌声。

 聴く者の心身を、夢の国へと誘うかのような歌声。

 

 それは子守唄。

 

 若い女性の口から。

 母親の口から奏でられる、子守唄だった。

 

 その子守唄に混じって聴こえる、もう一つの声。

 

 短い声。

 単純な声。

 意味の成さない声。

 それでも、子守唄を歌う声の持ち主に、一分の迷いもなく信頼を寄せていることが分かる声。

 

 それは赤ん坊の声。

 

 

 碇シンジのお気に入り。

 

 それは母と子の音。

 

 

 赤ん坊に。抱いた我が子に子守唄を歌い聴かせる母親。

 母親の歌声に寄り添い、少しずつ眠りの国へと誘われている子。

 そんな母と子の姿を、聴く者に容易に想像させる音。

 

 

「この子守唄を歌ってる人…」

 

 息子はスピーカーから聴こえる鼻歌が掻き消えてしまわない程度の声で父親に囁き掛ける。

 

「鈴原ヒカリさん、ってゆーんだ」

 

 鼻歌の持ち主の名前を父親に紹介する。

 

「僕の中学の同級生。クラスの委員長だった」

 

 髪をおさげにしていた「あの頃」を思い出しながら言う。

 

「ちなみに旦那さんは鈴原トウジ。僕の親友だよ」

 

 初対面でいきなり校舎裏に呼ばれ、いきなり殴られた「あの頃」を思い出しながら言う。

 

「分かるかな、父さん」

 

 息子は、世界が一変する前の「あの頃」を。自分が一変させてしまった前の「あの頃」を思い出しながら父親に語り掛ける。

 

「僕の同級生だった子たちが、今はもう誰かの父親だったり母親になってたりしてるんだ」

 

 そして息子はくすりと笑った。

 

「もしかしたら…。僕がもうちょっとまともな人生を送ってたら。父さんだって、誰かのお爺ちゃんになっていたかも知れないんだよ…」

 

 口にしてしまって、ついつい想像してしまう。自分と、そして誰かとの間に出来た小さな幼子が、自分の父親の体にじゃれ付き、自分の父親を困り果てさせている光景を。

 

 

「父さん。世界が立ち止まることはなかったんだよ」

 

 僕たちの時間は止まってしまっていた。

 

「僕が消えていた14年の間も…」

 

 僕がこの世界を壊してしまった14年前から。

 

「母さんが消えた、25年の間も…」

 

 母親を失ってしまった25年前から。

 それでも世界は。

 

「世界は変わらず動き続けてたんだ。僕が壊してしまったこの世界でも、彼らは生き続けて、そして新しい命を紡いでくれたんだ」

 

 プレイヤーの停止ボタンを押す。

 

「世界中が混沌としていた中でも僕を産み、育ててくれた父さんと母さんのように…」

 

 プレイヤーの中のカセットテープの回転が止まる。

 

「父さん。僕はそんな世界が、たまらなく愛おしい」

 

 女性の声で奏でられる子守唄が消え。

 

「父さんと母さんのように、こんな世界でもなお、生まれてくる子を祝福できた彼らが、たまらなく愛おしいんだ…」

 

 無邪気な赤ん坊の声も消え。

 

「どうしたらいい? 父さん」

 

 少年の声だけが響いた。

 

「どうしたら、僕はこの世界を守ることができる…?」

 

 父親に教えを乞う、息子の声だけが響いた。

 

「教えて…、父さん…」

 

 

 

 

 

 

 息子の腕の中で泣いていた父親。

 25年ぶりに誰かの。他者の腕に抱き締められた孤独な男。

 そんな彼の震えていた肩が、止まっている。

 頑なに外の世界を拒否していたその体は、聖なる鍵によるものでもなく。聖なる槍によるものでもなく。人の温もりによってその扉は開かれ、上書きされ、他者による抱擁をありのままに受け入れている。

 

 

 

 

 

 

「私はアディショナルインパクトを起こすために、2本の槍を使った」

 

 腕の中の父親から漏れ聞こえる、低い声。

 

「しかしインパクトはお前たちが齎した3本の槍によって、強制停止させられた」

 

 父親の右手が少年の頭部のすぐ側の地面に着地する。父親が身を捩り始めたため、彼の体を抱き締めていた息子はその抱擁を緩めた。

 息子の腕から解放された父親は、ゆっくりと上半身を起こす。そしてそのまま、顔を頭上へと向けた。

 

「インパクトの強制停止により、堰を失った虚構と現実は混ざり合うことも隔たれることもなく、極めて不安定な状態で互いを貪り合っている」

 

 父親が見上げる先を、地面に寝転がったままの少年も見上げる。

 この場所に辿り着いた時は、作り物のように黄金色に塗り固められていた空。そして一瞬だけ垣間見えた無数の星々とたなびくオーロラを抱えた濃紺色の空は、今は灰色に染まっている。

 女性の姿をした白い巨人の弾けた頭部が灰色の塵となって空を、いや、世界全てを覆いつつある。

 

「このままだと世界は…」

 

 息子のその呟きに、空を見上げていた父親は顔を下げ、息子を見つめた。

 

「インパクトはまだ終わっていない。アディショナルインパクトに続く、新たなインパクトが執行者を待っている」

 

 父親は右膝を起こし、腰を浮かせ始める。

 

「執行者による導きを、世界が待っている」

 

 息子に向けて差し出される父親の右手。 

 

「シンジ。お前が新しいインパクトを起こせ」

 

 息子は差し伸べられた父親の大きな手を、素直に握った。

 

「でも…、どうしたら…」

 

 父親は立ち上がりながら、握った息子の手を引っ張り上げる。

 

「儀式とは虚構と現実の間を隔てた扉を開けるための鍵だ。そしてその扉はすでにない。故に、儀式はもはや必要ない」

 

 父親の大きな手に引っ張られ、息子の腰が地面から浮いた。

 

「必要なもの。それは執行者の願いだけだ」

 

 立ち上がった少年の顔を正面から見据えながら、父親は問うた。

 

 

 

 

「シンジ。お前は何を願う」

 

 

 

 

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