機甲少女の想いは一途   作:hekusokazura

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(68)空に虹を描こう

 

 

 

 

「シンジ。お前は何を願う」

 

 

 目の前の父親から放たれたその言葉は、まるで一陣の風のように少年の体内を駆け巡った。

 全身に漲る力を弾けさせるように、少年は身を翻し、そして口を大きく開けて叫ぶ。

 

「綾波!!」

 

 彼がそう叫ぶのとほぼ同時に、彼とその父親の上空を大きな影が横切った。

 続けて凄まじい衝撃と激しい地響き。

 もうもうと立ち込める土煙の中で、聳えるのは。

 

「綾波!」

 

 巨人の騎士。

 鋼鉄の守護者。

 エヴァンゲリオン初号機が、碇親子の傍らに跪いていた。

 碇シンジは空から舞い降りてきた初号機の足もとに向かって駆け寄る。

 碇ゲンドウはそんな息子の背中を見送り、そしてふと自身の右手に視線を落とした。その手には、いつの間にか彼が少年時代に愛用してきた携帯型音楽プレイヤーが握られている。

 

 

 近寄ればまるで小山のような巨躯を誇るエヴァンゲリオン。シンジはそんな初号機を見上げながら叫ぶ。

「綾波! 僕をあそこに…!」

 初号機の顔を見上げていたシンジは、その視線をさらに上へと向けた。

「僕をあの空に連れてって!」

 

 シンジの視線に誘われるように、灰色の塵で染められた空を見上げていた初号機。

 そしてシンジの願いを聞き届けた初号機は、足もとのシンジに視線を落とすと砕けた顎を下げ、低い唸り声を上げた。

 シンジに向かって、人差し指と中指を失った左手を差し伸べる。

 

 シンジが差し伸べられた初号機の左手の上に右足を踏み出した時、初号機の意識が視界の隅に立つ人物へと向けられた。

 

「レイ…」

 その人物は視線が交差した巨人に向けて呼び掛けた。

 初号機は左手に乗った少年の体を3本だけの指で優しく包み込みながら、一方で右手を碇ゲンドウへと差し伸べる。

 

 差し伸べられた、まるで丸太のような指に、ゲンドウの手が触れた。

 

「よくやった…、レイ…」

 

 彼の口から漏れる声が、震えていた。

 

「よくぞ…、私のもとに、シンジを導いてくれた…」

 

 巨人の口の両端から、静かにやや多めの蒸気が漏れた。

 

「レイ…。シンジのことを頼む…」

 

 巨人の口の両端から、大量の蒸気が勢いよく噴き出した。

 

 

 

 初号機が上空を見上げる。

 伸びた喉仏を大きく上下に動かしながら、空に向けて大きく開いた口からは咆哮。その咆哮は強烈な波動となって、空に立ち込めた灰色の塵を突き抜け、その先に広がる星々が瞬く濃紺の空を微かに覗かせた。

 2つの眼孔に宿る黄金色の瞳を煌々と輝かせながら、地面に付いていた膝を浮かせ、腰を浮かせ、光る大地を踏みしめる。

 

 初号機の左手の上には、初号機と同じように、これから向かうべき空を見上げていたシンジ。

「バカシンジ!」

 背中に声を掛けられ、振り返った。

 第13号機の頸部から天に向けて生えた2本の柱。パイロットを収めた、エントリープラグ。そのうちの1本の開いたハッチから、アスカ・ラングレーが顔を覗かせている。

「アスカ!」

 シンジは笑顔で手を振った。

「待ってて! 必ずみんなを迎えに来るから!」

 

 初号機の背中に大きな光の輪が現出する。

 両膝を伸ばし、立ち上がった初号機の足が、地面から離れ始める。

 大地に付いた2本の足の踵が離れ、そして爪先が離れ。エヴァンゲリオンの巨体が、地上から完全に浮遊する。一度地上から解き放たれた初号機の体は、まるで自由を謳歌する若鳥のようにぐんぐんと上昇していく。

 

「あんまり待たせるんじゃないわよ!」

 顔だけでなく、体もエントリープラグから出したアスカ。深紅のプラグスーツに身を包んだ彼女もまた笑顔で手を振り返したが、その時点で初号機は地上から遠く離れ、その手に乗る少年の姿はアスカの位置からは見えなくなってしまっていた。

 

 

 

 深青色のプラグスーツを着た渚カヲルが複座式であるエントリープラグの、もう一つの搭乗口から顔を出した頃には、光の帯を引きながら空へと向けて飛翔する初号機の姿は豆粒のように小さくなっていた。

「あ~あ、行ってしまったか」

 見れば、隣のエントリープラグの搭乗口に立つ緋色髪の少女が両手を腰に当てて、初号機が空に描いた光の軌跡を見上げている。

「君は行かなくて良かったのかい」

 その問いにアスカは振り返り、肩越しにカヲルを見る。そして「ふん」と小さく鼻を鳴らながら視線を空へと戻した。

「碇シンジの罪は綾波レイの命を救おうとしたあの時から始まったんでしょ」

 顔は空へと向けたまま、エントリープラグの外壁に腰を下ろし、そしてゴロンと横になる。

「綾波レイの命が、碇シンジがこの世界を犠牲にした上で成り立っているというのなら、碇シンジがこれからすることの顛末を見届けなくちゃならないのは綾波レイしかいない。それに…」

 両拳を頭上に突き上げ、両足を思いっきり突き出し、うんと伸びをしながらカヲルを見た。

「あいつにガキのお守りはもう必要ないっしょ」

 口角が上がっているアスカの顔を見るカヲルは、どこか不満顔。

「君はいいさ。僕はこれで2度目だよ」

 搭乗口の縁に頬杖を付き、不満顔のまま空に残る光の軌跡を見上げる。

「綾波レイが碇シンジくんを連れ去っていくのを見るのはさ」

「はは」

 何かを思い出したようにアスカは笑う。

「そう言えばあたしも見たっけ。綾波レイによく似た子があのバカを連れ去っていくのをさ」

 

「まあまあ」

 今度は背後から声が聴こえ、アスカとカヲルは振り返った。

「ワンコ…、じゃなかった。碇シンジくんは言ったじゃないか。必ず迎えにくるってさ」

 第13号機の頸部から突き出たプラグのタラップを上ってきたピンク色のプラグスーツを着た真希波マリは、寝っ転がっているアスカの頭の近くに腰を下ろし、胡坐を掻いた。

「あたしたちはここであの2人の帰りをのんびり待っときましょうや」

 そう言いながら、両手でアスカの乱れた髪を梳き始める。

「アスカ・ラングレー」

「ん?」

 アスカから差し伸べられた手を、カヲルはきょとんとして見つめている。

「自己紹介まだだったでしょ」

「あ~」

 搭乗口から顔を出しただけのカヲルは身を乗り出すと、上半身と腕をうんと伸ばして、アスカの手を握る。

「僕は渚カヲル」

「真希波マリだにゃん。よろぴく~」

「よろしく」

 マリもカヲルと握手を交わす。

 

 マリの背中に抱き着いていた小さな子供は、ぴょんと飛び降りると、アスカと同じように空を見上げた。

 その幼い目にはスピードを上げ、眩い光を纏いながら無数の塵が立ち込めた空へと突入していく初号機の背中が映っていた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 赤く爛れた大地を。赤く染められた海を。

 南極から溢れ出た無数の塵たちは、赤い星を灰色で上塗りするように広がっていく。

 塵たちは、分厚い層となって大気圏を埋め尽くす。

 

 地上から見上げた時は小さな粒にしか見えなかった塵の正体。

 近付けば塵の一つ一つは、エヴァンゲリオン初号機に匹敵する巨躯の、頭部が欠けた灰色の巨人たちだった。

 その無数の巨人たちが織り成す層の中を、真っ白な光を纏う初号機はぐんぐんと上昇していく。

 乱気流が渦巻く高高度。隙間もない程に犇めく巨人たちの群れ。

 初号機は凄まじい気流に煽られ、巨人たちと何度も激しく接触する。

 その度に傷付いた初号機の装甲が剥がれ、肉片が零れ落ちていくが、それでも初号機は上昇することを止めない。

 

 灰色の巨人で埋め尽くされた暗い世界。

 その中を突き進む初号機の目指す先に、光が見えてきた。

 光はやがてさなぎから羽化したばかりの蝶々の翼のように大きく広がっていく。

 大きく広がった光の翼は、傷ついた初号機を癒すように優しく包み込んでいく。

 

 

 赤い星の南半球をすっぽりと埋め尽くしてしまった分厚い塵の層。

 その層の中心から、ぽん! と。

 南極点から、ぽん! と。

 まるでこの星から。

 赤と灰色の丸い卵から産まれ出た雛鳥のように、それは宇宙へと飛び出した。

 

 

 

 

 縦に揺れ、横に揺れ。

 大きな手の中で護られている碇シンジのもとにまで、不規則で激しい振動が伝わってくる。

 立て続けに鳴り響く、この大きな手の持ち主を襲う衝撃音。

 途切れることのない振動と衝撃音からこの手の外で起きていることは容易に想像できるが、それでもただの人間でしかないシンジは、大きな指にしがみ付きながら激しい揺れと全身を束縛する凄まじい重力に耐えることしかできない。そのシンジの周りを、無数の光の粒、ATフィールドの結晶たちが優しく包み込んでいる。この手の持ち主は、今も全身を傷付けながらもなお、シンジの身を護ることを最優先にしている。

「ごめん…、綾波…!」

 シンジの頭の中には、この場所に辿り着くためにこの手の持ち主が払った犠牲が映像となって駆け巡っていた。

「僕は、僕の願いを叶えるために、君を傷つけた…。君を犠牲にした…」

 シンジは彼の父親と正面から対峙しながらもその視界に隅に映る、この大きな手の持ち主と第13号機との間で繰り広げられた死闘をつぶさに脳裏に焼き付けていた。

「僕が居なければ、君はこんなに傷付く必要はなかったかもしれないのに…。僕が願わなければ、君はこんなに苦しまずに済んでいたのかもしれないのに…」

 しがみ付いた指の腹に額を押し付ける。

「それでも綾波…!」

 振動が一際激しくなり、自分自身の声すらも聴こえなくなった。

「僕はそれでも…!」

 

 

 

 唐突に、振動が止まった。

 

 

 

 振動の世界が去り、そして訪れたのは静寂の世界。

 

 彼を護るために大量に溢れていたATフィールドの結晶も消えた、暗闇の世界。

 

 

 

 そして体中を襲っていた衝撃も消え失せ。

 体中を束縛していた重力も薄まり。

 そして体を包み込んだのは奇妙な浮遊感。

 

 

 

 

 

 あらゆるものから彼を護るために固く閉じられたいた大きな指に、隙間が生じた。

 その隙間から漏れ入るのは、柔らかな光。

 その隙間から見えてきたのは、濃紺の空。そして瞬く星々。

 

 

 かつて彼は心許した少年に言った。どんなに時間が経過したとしても、変わらずそこに在る夜空の星々が好きだと。

 しかし大きな指の隙間から見える星々。

 彼の知らない輝き。知らない配置。見慣れぬ星々。

 彼を包み込んでいた大きな指が開いていく。

 彼の頭上に、無数の星々を抱く空が広がっていく

 母国の夜空しか知らない彼は、見慣れない星々が輝くその濃紺の空を、不思議そうに見上げた。

 

 そんな彼の横顔を、強烈な光が襲った。

 彼はあまりの眩しさに目を細め、顔に手を翳しながらも光の正体を探るべく、光が差す方へと視線を向ける。

 翳した手の指の隙間から彼の目に飛び込んできたもの。

 それは水平線。

 丸い水平線。

 綺麗な円を描く水平線。

 

 彼の顔を襲った強烈な光の主は、丸い水平線の彼方からその半身を覗かせ始めていた。

 

 一日の始まりを告げる朝日が、丸い水平線の彼方から昇り始めている。

 

 

 

 見慣れない星々。

 丸い水平線。

 自身の目線よりもずっと下から昇ってくる太陽。

 

 

 ようやくシンジは、自分が宇宙に居ることを理解した。

 

 

 理解した途端、シンジの体がふわりと浮き、足が大きな手の上から離れてしまう。

「わっ、わっ」

 シンジは慌てて大きな指にしがみ付こうとするが、どんどん浮き上がっていく彼の体は大きな手から離れるばかりで、しがみ付こうとした大きな指にも手が届かない。

「わっ、わっ」

 必死に足をばたつかせ、犬掻きをするが、彼の体は体の持ち主の意に反してくるくると回り出し、進みたい方向とは逆の方向へと向かっていく。

「あ、綾波~…」

 自力ではどうすることも出来ない状況に陥り、シンジの口から情けない悲鳴が漏れる中、そんな彼の背中にふわりと柔らかい感触。そして彼の体を、無数のATフィールドの結晶が包み込む。

 

 左手の中から浮き上がってしまい、どんどん離れていくシンジの体を、初号機は緩衝材となるATフィールドの結晶を溢れさせた右手でそっと受け止めた。危うく宇宙で迷子になり掛けたシンジはふう、と安堵の溜息を漏らしながら、もう2度と離れないぞとばかりに初号機の右手中指にしがみ付く。

 顔を上げれば、そんな自分を心配そうにのぞき込んでいる初号機の厳つい顔。

「ありがとう、綾波」

 そう語り掛けると、シンジの目には初号機の厳つい顔が微笑んでいるように見えた。

 

 初号機の頭越しに見えるのは、彼の故郷。

 赤い星。

 赤い大地。赤い海。

 大気の層に包まれて薄く光りを放つ地球。

 

 地球に向けて頭を向けて。地球を中心に考えれば、逆さまの状態で浮いている初号機の体は、ゆっくりと縦に回転していく。

 

 赤い山脈、赤い大河、赤い高原、赤い砂漠、赤い大海原が、視界の中を上から下へとゆっくりと過ぎ去っていき、そして次に見えてきたのは丸い水平線。そしてその水平線の彼方からは昇ってきたばかりの太陽。太陽から伸びる強烈な光が地球の形を縁取り、まるでこの星全体が大きな宝石を戴いた指輪のように輝いている。

 

 ゆっくりと回転する初号機は地球と太陽に背を向けた。

 シンジの眼前に広がるのは、素のままの宇宙空間。

 どこまでも無限に広がる闇を埋め尽くす星々の群れ。

 大気というすりガラス越しの地上からでは見ることができない、小さな星々までもが鮮明に輝く煌びやかな宝石箱。

 

 その宝石箱が上から下へと過ぎ去れば、次に見えてくるのは薄く輝く惑星。

 

 

 母なる地球。

 

 母なる恒星。

 

 母なる宇宙。

 

 

 移り行く壮大な光景に目を奪われていたシンジは、ふと視線を初号機の顔へと向けた。

 その初号機もまた、目前に広がる光景に心を奪われている様子で、眼孔の奥に収まる黄金色の瞳に、大気に包まれた惑星や恵みの光を発する恒星、そして瞬く無数の星々を次から次へと輝かせている。 

 そんな初号機の様子にシンジはくすりと笑いながら、視線を壮大な光景へと戻した。

 

 

 「彼女」と共に見下ろす星空。

 「彼女」と同じ目線で見上げる地球。

 「彼女」に寄り添いながら見つめる夜明け。

 

 

「初めてのデートが宇宙ってのも、悪くないな…」

 

 

 独り言として呟いたその言葉は、どうやら「彼女」の耳にも届いてしまったようだ。初号機の厳つい顔が、シンジへと向けられる。

 どこか首を傾げているようにも見えるその仕草は、「デートってなに?」とでも問い掛けているようにシンジには思えた。

 シンジは少し赤らんだ頬を人差し指でぽりぽりと掻きながら言う。

「デートってのはつまりその…。好き…な…子と…」

 ごにょごにょとどさく紛れに「それ」をしようとしたら。

 

 ドン

 

 シンジの両脚を支える初号機の手が大きく揺れたため、シンジは慌てて大きな指にしがみ付く。

 「何か」と衝突したらしい初号機の体はくるくると回転し、シンジたちが見ていた惑星から恒星、そして宇宙と、ゆっくりと移ろっていた風景が、目まぐるしく変わっていく。

「うわわわわ…」

 初号機は指にしがみつくシンジが何処かに飛んで行ってしまわないように、空いた指でそっとシンジの体を包みつつ、回転する方向に向けて勢いよく吐いた息をスラスター代わりにして姿勢を制御する。

 なんとか回転が収まり、初号機の体は眼下の惑星に体の正面を向けて静止する。ほっと安堵の溜息を吐くシンジは、大きな指にしがみ付きながら顔を上げ、初号機の体にぶつかった「何か」に視線を向けた。その「何か」は重力の影響の薄いこの空間をぷかぷかと漂いながら、初号機から離れていっている。

 

 それは赤い惑星の表面を覆いつつある灰色の塵の一つ。

 首の欠けた、灰色の巨人。

 惑星の表層から溢れ出た巨人の一つが宇宙空間を彷徨い、衛星軌道上にある初号機にぶつかったのだ。

 

 「せっかくいい雰囲気だったのに」とばかりに、恨めし気に首の欠けた灰色の巨人を見ていたシンジ。

 灰色の巨人に生じた、ある変化に気付いた。

 

 ぶつかった拍子にだろうか。

 灰色の巨人の体が、まるで砂糖菓子のように、ボロボロと崩れていく。

 巨人の脚が、臀部が、背中か、肩が、腕が。

 あらゆる個所に幾筋ものひび割れが生じ、巨人の体が分解していく。

 幾つかの大きな塊に別れ、その塊もまた無数のひび割れを走らせながらボロボロと崩れ去り、小さな塊に別れ、その塊もまた粉々に弾けてさらに小さな粒に分裂し。

 

 シンジはその小さな粒を目を細めて凝視した。

 

 

「ひと…?」

 

 

 灰色の巨人が幾度も分解を繰り返した末に辿り着いた小さな粒。

 その粒の形に最も近い象形を持つ生物の名を、シンジは口にした。

 

 その粒は、シンジの目にはヒトに見えたのだ。

 

 ヒトだけではなかった。

 

 灰色の巨人が幾度も分解した末に成した極小の粒。その一つ一つが違う形をしており、ある粒は大地を駆け回っていた四つ足の獣だったり、ある粒は翼を使って空を自由に飛び回っていた鳥だったり、ある粒は尾ひれをばたつかせて大海原を回遊した魚だったり。

 シンジの足もとにある赤い惑星で、かつて溢れていた多種多様な生命。

 様々な生命の形をした粒が、砕けた巨人の残骸からボロボロと零れ落ち、惑星の地表へと向かってゆっくりと降下していっている。

 

 シンジは大きな指の隙間から顔を出し、足もとを覗いた。

 すでにこの惑星の3分の2を覆いつつある膨大な量の塵。

 分厚い層となった塵の中を、虚構の世界の入り口である南極点から飛翔してきた初号機が駆け抜けた場所だけが、ぽっかりと穴を開けている。

 

 シンジはその穴を凝視する。

 そこでもまた、今シンジが目にしたものと同じ現象が起きていた。

 

 分厚い塵の層を駆け抜けた初号機と何度も衝突を繰り返した塵たち。灰色の、巨人たち。

 その巨人たちもまた、ボロボロと崩壊していき、砕けた塊は白い粒となって、まるで雪のように地上へと降り注いでいく。

 

 

 その光景を見つめていたシンジは、はっとして初号機の顔を見上げた。

 

「綾波…!」

 

 呼ばれた初号機もまた、シンジの顔を見下ろし、そして深く頷いた。

 

 

 初号機は重ねた両手の上にシンジを乗せると、視線を丸い水平線の上に浮かび煌々と輝く太陽へと向ける。

 初号機の背中が少し仰け反り、張った胸が大きく膨らんだ。

 初号機の口が大きく開く。

 

 初号機の口から、特大の咆哮がこの惑星に向かって放たれた。

 

 それはまるで夜明けを告げる鐘の音のような。

 

 それはまるで新しい世界の到来を告げる角笛のような。

 

 この惑星上に在るものにあまねく齎される福音のような。

 

 

 初号機の頭上に、大きな光の輪が現出する。

 さらに大きく露出した胸のコアから四方八方に向けて幾つもの光の筋が迸った。

 光の筋たちは初号機の体を包み込むように背中へと伸びる。

 それらはまるで鳥の羽根のような姿を形作り、初号機の背中に12枚の翼を背負わせた。

 

 初号機の頭上に冠した光の輪や、背中に広がる光の翼だけではない。

 初号機の体全体が、淡い光を帯び始めている。

 

 その姿に、シンジは懐かしさを感じた。

 

 「あの時」。この機体は「彼女」を救いたいと強く願う少年の心に共鳴し、現実を改変し、世界を塗り替えた。

 そして今もまた、「彼女」を乗せたこの機体は、少年の願いを叶えるべく、「あの時」と同じ姿に変容を遂げようとしている。

 その機体は、少年の願いと今再び共鳴するのを待っている。

 

 何を思ったかシンジは彼が立っていた初号機の手を蹴った。

 重力の影響が薄いこの場で、足場を蹴ったシンジの体はふわりと浮き上がる。

 手から零れてしまったシンジを、光に包まれた初号機は慌てて拾い上げようとするが、シンジは初号機に顔を向けながら首を横に振り、初号機の手の中に戻るのをやんわりと拒否する。

 

 ふわりふわりと浮遊するシンジの体は、初号機の顔の前にまでやってきた。

 手から離れてしまった少年を見つめる初号機。厳ついその顔貌に何処か心配そうな表情を浮かべている初号機の姿に、シンジはくすりと笑う。

 そんな初号機に向けて、彼の右手がゆっくりと差し伸べられた。

 

 

 それはまるで、待ち合わせのベンチに座る彼女のもとにやって来た恋人のような仕草で。

 

 

「さあ、行こう。綾波」

 

 

 ダンスホールの隅に所在なく立っている女の子を誘うような声音で。

 

 

 その少年が差し伸べた手は、差し伸べられた相手に比べてあまりにも小さい。

 そんな小さな手を、きょとんとした表情で見つめている初号機。

 少年はふふ、と笑う。

 

「ほら。綾波」

 

 微笑む少年の体は慣性の法則に従って、等速度で初号機から離れていく。

 

「早くしないと離れ離れになっちゃうよ」

 

 少年のその言葉に弾かれたように、初号機は慌ててその大きな手を差し伸べられた少年の手に伸ばす。

 

 初号機の大きな手。

 大きな指。

 その指の、ヒトでいう爪の部分にあたる無骨な装甲の隙間に、シンジは差し伸べていた手を滑り込ませた。

 高層ビルの高さに匹敵する初号機の巨躯に比べれば、碇シンジの体躯は豆粒のようなもの。

 傍から見れば、それは巨大ロボットの指に小さな少年がぶら下がっているようにしか見えないだろう。

 

 それでもシンジはついつい想像してしまう。

 そこは青い空、燦燦と輝く太陽の下で。

 白い砂浜の上で。青い海の波打ち際で。

 

 手を繋いで歩く「彼女」と自分の姿を。

 

 

 少年はエスコートする。

 

 自分よりも遥かに大きな体を持つ「彼女」を。

 

 

 彼らが生まれ育った、故郷の惑星へと。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 アスカ・ラングレー、真希波・マリ・イラストリアス、そして渚カヲルは気が付けばこの場所に立っていた。

 足もとはさらさらとした白い粒が敷き詰められた砂浜。視線を上げれば澄み渡った青い空。そして少し視線を下げれば、浜辺に静かな白波を寄せる青い海。

 なぜ。いつ。どのようにして。自分たちがどのような経緯でこの場所に来たのか。連れられたのか。

 彼らには分からなかったが、それでも何となく彼らは理解している。

 自分たちは、「彼」によってこの場所に導かれたのだろうと。

 

 砂浜。青い空。青い海。

 その3つしかない、奇妙な空間。

 この場所を作り上げたものはその3つしか知らないとばかりに。まるで作り物のような。例えば写真でしか見たことがない光景をそのまま再現したかのような。

 振り返れば遥か彼方まで、途切れることなく続く白い砂地。

 空を見上げれば、一つの雲も浮かんでいない。こんなに明るいのに、太陽さえない。

 海は空とのつなぎ目である水平線が微かに見えるだけで、あとはただひたすら浜辺に穏やかな波を寄せることを繰り返すだけ。

 

 渚カヲルは砂浜に腰を下ろし。

 アスカ・ラングレーは砂浜にごろんと寝そべり。

 真希波マリは小さな子供と一緒に波打ち際で足踏みをしてちゃぷちゃぷと水飛沫を立てながら。

 交わす言葉もなく、ただぼんやりと青い海の畔で佇んでいる。

 

 ふと、カヲルは肌に表れた痺れるような感覚に気付いた。

 痺れが走る右手を、不思議そうに見つめる。

 その痺れの正体に気付いた彼は、ふふと、声に出した小さく笑った。

 

 砂浜に寝っ転がっていたアスカの耳にその小さな笑い声は届き、アスカはカヲルを見る。

「どうかした?」

 カヲルはそのやや大き目な口に緩やかな曲線を与えながらアスカを見る。

「どうやらシンジくんによる世界の改変が始まったようだ。君も感じないかい?」

「そう言えば…」

 アスカは空に翳すように上げた手を見つめる。肌の表面に感じる、微かな痺れ。

「なになに。どーした?」

 小さな子供と波打ち際で遊んでいたマリが振り返る。

「あのバカが始めたらしいわ。何を始めたかまでは分かんないけど」

「ふーん。カヲルっちは何が始まったのか分かるのかい?」

 問われたカヲルは何処か不愉快そう。

「君に下の名前で呼ばれる筋合いは無いんだけどな」

 マリはイシシと笑う。

「いーじゃんいーじゃん」

 カヲルは肩を竦めながら言う。

「そもそもこの戦いは、生命の実を与えられた僕たち使徒と…」

「え? あんた、使徒だったの?」

 アスカの驚きの声を無視してカヲルは続ける。

「知恵の実を与えられた君たちリリンとの生存競争という原始的な、根源的な争いから始まったものだ。彼は。碇シンジくんは、その争いのもとそのものを消そうとしているらしい。そして争いの火種が無くなれば、争いのための道具も必要なくなるというわけだ」

 

 

 作り物のような砂浜。作り物のような空。作り物のような海。

 そこに、彼らが乗ってきたエヴァンゲリオンは存在しなかった。

 

 

「え? それじゃあ知恵の実を失っちゃうリリンたちはみんなお馬鹿さんになっちゃうってこと?」

 マリの疑問にカヲルは微笑みながら首を横に振った。

「それはないだろうね。知恵の実は所詮、リリ…、ヒトの進化を促すために神が与えたきっかけに過ぎない。現に君たちは人の意志だけで、神の意志をも越えたあの槍を作り上げたじゃないか」

 カヲルの賞賛に、マリは鼻を高くしながら「えっへん」と胸を張っている。

「そして僕たち使徒は、有限の時の中に身を委ねることになる。無限という名の牢獄から解放される僕たちは、初めて孤独という苦しみから解放されるんだ」

 カヲルは微かに疼く、情報が上書きされていく手の甲を見つめる。

「使徒も、ヒトも、共に同じ時を生きて欲しい。きっとそれが、シンジくんの願いなんだ」

 その手を、青い空へと翳した。

「これが君の、幸せの形だったんだね…」

 その目尻に、小さな水滴を浮かべて。

「ありがとう、シンジくん…。僕は今、君の優しさに包まれて、とても幸せだよ…」

 

「ああああああ!」

 突然、マリが大声を上げた。

「なーによ」

 砂浜に寝っ転がるアスカは、鬱陶しそうにマリを見た。

「アスカ、それ…」

 アスカに向けられたマリの人差し指。

「あーん?」

 マリが指差すもの。

 アスカの、右肩。

 

「あれま」

 大声のマリに比べれば拍子抜けようなする声を上げつつ、アスカも自身の右肩を見て目を丸くした。

 アスカの右肩に、奇妙なものが乗っかっている。

 

 黒っぽい何か。

 形容しがたい形状をした何か。

 拳大の大きさの何か。

 

「あんた、もしかしてバルディエル?」

 

 アスカの右肩に乗っかった奇妙なものは、アスカの問い掛けを肯定するかのように奇妙な鳴き声を上げた。

「あーん、バルディエルちゃんだ~」

 そして急に猫なで声になったアスカは、その奇妙な生物を胸の前まで手繰り寄せるとひしと抱き締めた。

「おーよしよし。ようやくあんたを抱き締めることができたわね」

 奇妙な生物の頭(と思われる部分)をわしゃわしゃ掻き混ぜながら、そのお腹(と思われる部分)に頬を寄せる。

 

「いや、バルディエルちゃんって。それ使徒じゃん…」

 アスカのその様子を、完全に引いた目で見るマリである。

「何よ。こちとら14年も文字通り一心同体で過ごしてきたのよ。もう肉親のようなものよ」

「へー…」

 そんなアスカを冷めた目で見るマリは、気を取り直してアスカのもとに駆け寄ると。

「あたしだって10年来の相棒だよ。ひ~め!」

「あーもう、鬱陶しい」

 抱き着いてきたマリと小さな子供を足蹴にしながら、アスカはカヲルを見た。

「これもあのバカのおかげ?」

「そうだろうね」

「あのバカ、何処で何してんのよ」

「さあ。何をしてるんだろうね」

 どこか含みを持ったカヲルの顔。

「カヲルっちなら見えてんじゃないの?」

「僕に「彼」と「彼女」の初デートの窃視をしろとでも言うのかい?」

 アスカに顔を踏まれながら訊ねてくるマリを、カヲルは呆れたように見る。マリはにししと笑った。

「若い2人が過ちを犯さないようにしっかりと見守る。それも大人なあたしたちの義務ってもんじゃないのかな~」

「それもそうだね」

 あっさりとマリの意見に同意したカヲルは、空を見上げた。

 彼の赤い瞳の瞳孔が、大きく広がる。

 

 暫く作り物のような青い空を見つめていたカヲル。

 ふふっ、と小さく笑った。

「なになに。どーした? ちゅーくらいはしてたか?」

 マリが身を乗り出しながら訊ねてくる。

 

「虹を…」

 

 カヲルは空を見上げたままぽつりと言う。

 

「空に虹を、描いているよ…」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 渚カヲルが言うように、それを虹と呼ぶのならば、この日から人々は「虹」の定義を書き変えなければならないかも知れない。

 しかしそれは、見る者に虹を思わせる。この日から「虹」の定義が変わっても仕方がないと思わせるような、そんな光景だったことだろう。

 

 それは空を駆け巡る光の筋。

 灰色の塵で埋め尽くされた空を駆け巡る光跡。

 

 光の中心に在る巨人の背中から広がる12枚の光の翼。

 その光の翼が触れる度に、塵の一つ一つが細かく砕け、分裂し、弾け、そして様々な生物の形となって地上へと降り注いでいく。

 最初は灰色だった生物の形をしたそれらは、地上が近付いていくごとに徐々に色彩を帯びていく。

 灰色だったそれは、やがて白と黒の縦縞模様の獣に変わり。

 灰色だったそれは、やがて嘴の大きな極採色の鳥へと姿を変え。

 灰色だったそれは、8本の足を持つ真っ赤な軟体動物へと変化し。

 地上に降り注ぐ様々な生物たちが、それぞれの進化を遂げた末に獲得したそれぞれの固有の色で、空を色鮮やかに彩っていく。

 

 巨人の背中から大きく広がる12枚の翼の半分は、惑星の表面にも接触する。

 光の翼に触れられた瞬間に、赤く爛れた地上は豊かな緑へと。赤く染まった海はどこまでも透き通った青へと上書きされていく。

 

 

 この惑星の空を。

 世界中の空を駆け巡る光の翼。

 その光の中心に在る巨人。

 その巨人の手を引くのは。

 世界の空へと「彼女」をエスコートするのは、一人の少年。

 少年は「彼女」の手を引きながら、世界中の空を駆け巡る。

 

 「彼女」の背から伸びる光の翼に触れる度に、14年前にこの地上から姿を消したものたちに姿を変えていく塵たち。28年前に海の中から姿を消したものたちに姿を変える塵たち。

 生物の姿を形作り、色彩を帯びながら海へと、地上へと降り注いでいく塵たちを、少年は目を輝かせながら見送っていた。

 

 

 生物の中にはもちろんヒトもたくさん居て、そのヒトの中には地上へ向かってゆっくりと降下していく中で、少年と「彼女」の存在に気付くものたちも居る。

 地上にゆっくりと舞い降りていく彼ら。彼らの故郷へと、生きてゆくための場所へとゆっくりと戻っていきながら、彼らは少年と「彼女」に向かって手を振った。

 

「ははっ」

 

 それは地上へと降り注ぐ虹の背に咲いた、無数の小さな花のよう。

 花びらのような彼らの手に向かって、少年も微笑みながら手を振り返す。

 

「ほら」

 少年は彼が手を引く「彼女」の大きな手をくいくいっと引っ張った。

 「彼女」は「なに?」と彼に顔を向ける。

「綾波も」

 彼はそう言いながら、地上に戻っていく彼らに向かって手を振り続けている。

 

 「彼女」は少し戸惑ったように彼と彼らとを交互に見比べて。

 そして自分の手を引く彼の見よう見まねで。

 おずおずと、彼に引かれてない方の右手を上げ。

 地上に戻っていく彼らに向かって、その大きな手を振ってみた。

 

 いかにも慣れない様子で手を振る「彼女」。

 そんな「彼女」のぎこちない動作を見てふふっと小さく笑った彼は、「彼女」が手を振った方に視線を戻すと今度はははっと大きく笑った。

 

 地上に戻っていくみんなが、諸手を上げて「彼女」に向かって手を振り返してくれている。

 口々に。声までは伝わってこないが、その表情から見て明らかに「ありがとう」と言いながら、「彼女」に向かって手を振り返してくれている。

 それは地上へと降り注ぐ虹の背に咲いた、無数の大きな華のよう。

 

 そんな彼らを、穏やかな、あるいは今にも泣いてしまいそうな潤んだ目で見送る彼。

 繋いだ「彼女」の大きな手を、ぎゅっと強く握りしめる。

 

 

「綾波…」

 

 地上に戻っていく彼らに向けて躊躇いがちに手を振り続けていた「彼女」は、その手を止めた。

 自分の手を引く彼の横顔を見つめる。

 

「ありがとう…、綾波…」

 

 彼の黒曜石のような瞳に映る景色。

 

「僕をこの景色に導いてくれて…」

 

 彼の瞳の中を、虹のような様々な色彩が踊り、輝き、満たしている。

 

「僕はきっと、この先、何年、何十年、何百年経っても…」

 

 そこまで言って、彼は一度目を閉じ、首を横に振る。

 

「また生まれ変わったとしても…」

 

 目を開け、「彼女」を見た。

 

「この日のことを忘れないよ…」

 

 虹によって彩られた瞳で「彼女」を見た。

 

「君と見たこの景色のことを、決して忘れないよ…」

 

 虹によって彩られた「彼女」の瞳を見た。

 

 

 

 巨人は右手を動かした。

 とても大きな右手は、とても大きな左手の先っちょを握る彼のもとへと。

 人差し指だけを伸ばして、彼の顔のもとへと。

 その動作を1センチメートルでも誤れば、人間の頭など簡単に圧し潰してしまいそうな「彼女」の大きな指。

 それでも彼は、近付いてくるその大きな指を身じろぎ一つせずに待つ。

 

 彼の顔まで辿り着いた大き過ぎる指。

 その指の先端が、極めて繊細な動きで、彼の右頬に触れた。

 

 その瞬間、彼の右の目尻から、数粒の水滴が弾け、「彼女」が背負う光の翼に照らされて輝く飛沫となって空中へと消えていく。

 それを見て、彼は初めて自分が涙を流していることに気付いた。

 

 「彼女」の大き過ぎる指は、今度はやはり極めて繊細な動きで左頬に触れ、彼の左目から溢れていた数粒の涙を拭う。

 

 分厚い装甲と人工筋肉に覆われた「彼女」の指。

 

 その指から伝わる、「彼女」の温もり。

 

 その温もりを確かめるように、彼は「彼女」の指に頬を摺り寄せ、そして左手で「彼女」の右手を握る。

 

 彼の右手は「彼女」の左手(の先端)を。彼の左手は「彼女」の右手(の先端)を。

 お互いの両手を握り合いっこしたため、お互いの両腕で一つの輪っかを作ることになった彼と「彼女」。

 一方の腕はとても短くて。そしてもう一方の腕はあまりにも長過ぎて。

 

 そんなとてつもなく不均衡な腕の長さで作られた一つの輪っか。

 

 それは空から見下ろせばあまりにも歪な形をした輪っか。

 

 しかし地上から見上げれば、その輪っかはきっと。

 

 底辺が少年の体で窄まり、そして頂点は巨人の頭と2つの肩で双丘の形を成すその輪っかはきっと。

 

 

 この空間を満たす「それ」を象徴する形に。

 

 

 彼と「彼女」がこの惑星の隅々に行き渡らせる、「それ」を象徴する形に。

 

 

 彼と「彼女」の間で行き交い溢れる「それ」を象徴する形に。

 

 

 

 

 「愛」を表す世界共通のシンボルマークに見えたに違いなかった。

 

 

 

 

 そのマークの底辺のとんがりの位置にいる彼は、そのマークの頂点の2つの丸い丘を形作る「彼女」の顔を見つめながら、微笑み掛けた。

 

 

 

 

「好きだよ…、綾波…」

 

 

 

 

 まるで熱にうなされたように発せられたその一言。

 それはこの雰囲気に乗せられて勢い任せで言った一言に過ぎないが、それでも彼にとっては明確な意志を籠めた、一世一代の一言。

 彼にとって、「彼女」へ溢れるあらゆる感情を、何とか4文字に絞り込み、詰め込んで、送り届けた告白。

 

 

 告白の時くらいはカッコつけたいと常々思っていた彼は、勢い任せではあっても、表情筋を総動員させて、その顔に彼にとっての最高のキメ顔(のつもり)を宿しながら言ったのだが。

 

 

 

 

 目の前にあるのはきょとんとした「彼女」の顔。

 

 

 

 

 「何を言っているの?」とでも言いたげな、小首を傾げた巨人の顔。

 

 

 あれ?

 もしかしたら聴こえなかったのかな?

 

 

 様々な経験を経たことで、大人になることを恐れなくなった彼。

 大人にならなくちゃと決意した彼。

 そんな彼でも一朝一夕で酸いも甘いも噛み分ける大人になれるはずもなく、根はまだまだウブな少年のまま。

 

 一世一代の告白が肝心の相手に伝わっていないことを知るや、急激に高まる気恥ずかしさは彼の中の覚悟をあっさりと上回ってしまう。

 彼の顔が、まるで瞬間湯沸かし器のように真っ赤になってしまった。

 

「え、えっと…」

 

 

 

  ―――やっぱ今のなし。

 

 

 

 と口走ってしまいそうになった口を、必死で噤む。

 

 

 

  ―――男になれ!

 

     碇シンジ!

 

 

 

 そう自分に言い聞かせた彼は、真っ赤な顔のままで鼻の孔を大きく開け、この惑星の全ての酸素を奪う勢いで息を吸い、大きく口を開いて。

 

 そして。

 

 

 

 

「僕は!!」

 

 

 

 

 相手の耳にこの声が届くように。

 

 

 

 

「君のことが!!!」

 

 

 

 

 世界中にこの声が届くように。

 

 

 

 

「大好きだあああああああああああああああああああ!!!!」

 

 

 

 

 その語尾を、息が続く限り目一杯伸ばした。

 伸ばして伸ばして。

 肺の中の空気を全て吐き出す勢いで伸ばし続けて。

 

 ようやく声が途切れた彼は。

 

「すぅぅ…」

 

 酸欠状態の体内に慌てて息を送り込み。

 

「はあぁ~…」

 

 そして息を吐く。

 

 息を出し続けてしまった所為で軽く眩暈がする。

 視界がぼやけてしまい、「彼女」の顔がよく見えない。

 僕の告白に、「彼女」はどんな反応をしてくれるのだろう。

 

 

 

 彼の「告白」に対する最初の反応は、意外なところから現れた。

 

 「わっ」という歓声。

 その歓声は、「彼女」の方からではない。

 彼と「彼女」が形作る、世界共通の「愛」のシンボルマークの下の方から聴こえてくる。

 

 酸欠から脱し、ようやく視界が定まった彼。

 歓声がする方を見れば、そこには地上へと降りていくたくさんのヒトたち。

 彼らが皆、こちらを見上げている。

 

 ある者は目を輝かせ。

 ある者は両頬に手を当て。

 ある者は両手を叩いて拍手し。

 中には指笛を鳴らす者も居たりなんかして。

 

 まるで舞台劇の終幕を見た観客のような。

 最高のハッピーエンドを見届けた観客のような。

 彼らは口々に何かを言っている。

 今回も何を言っているかまでは伝わってこないが、きっと彼らは「ブラボー!」とでも言ってくれているのだろう。

 

 たくさんのヒトたちだけではない。

 四つ足の獣たちははしゃぐように空を駆け回り。

 尾ひれをもつ魚たちは見えない水飛沫をあげるように空を泳ぎ回り。

 平和を象徴する鳥たちは白い翼をはためかせながら空を駆け巡り。

 

 それはまるでこの惑星にあまねく降り注ぐ虹全体が2人を。

 この惑星全てが2人を祝福してくれているような。

 

 

 

「ま、まいったな…」

 そんな彼らを見下ろす少年。

 図らずも公衆の面前での公開告白になってしまった。

 彼が酸欠で青くなっていた顔を再び赤くしていたら。

 

 

 ボン!

 

 

 それはまるで圧縮された水蒸気が破裂したかのよな音。

 

 そんな音が間近で鳴ったので、驚いた彼は音がした方向。

 「彼女」の顔の方に視線を戻した。

 

 そこにある「彼女」の顔。

 口を、あんぐりと開けた「彼女」の顔。

 顔に纏った鎧兜が溶けてしまいそうな程に真っ赤になった「彼女」の顔。

 その頭上に、大量の水蒸気を立ち昇らせている「彼女」の顔。

 

「綾…、波…?」

 

 呼び掛けた「彼女」の体が、右に大きく泳ぐ。

 

「あ、綾波?」

 

 分厚い装甲を全身に纏った「彼女」の体が、まるで芯が抜けたようにふにゃふにゃに萎びていく。

 

「えええええええ!?」

 

 その巨体が、地上へと墜落を始めてしまった。

 

 

「わわわわわ! 綾波! しっかりしてぇぇ!」

 

 まるで熱にのぼせて昇天してしまったかのような「彼女」。

 墜落していくその巨躯を、必死に引き上げようとする彼だが、如何せんその体格差は象とミジンコだ。

 「彼女」の体に引っ張られるように、彼も墜落していく。

 

 

 それを見て大慌てしたのは彼ら。

 地上へとゆっくりと降下していたたくさんのヒトたちは、今しがた祝福したばかりの彼と「彼女」が地上へと墜落していく様を見て、慌てて2人のもとへと飛んでいく。そしてのぼせてしまった「彼女」の巨体のあちこちに取り付き、その体を引っ張り上げ始めた。

 たくさんのヒトたちだけでなく、翼を持った沢山の動物たちもやってきて、それぞれの翼を懸命にはためかせ、みんなで協力して大き過ぎる「彼女」の体を引っ張り上げる。

 

 彼らの懸命の救出活動?は実を結び、やがて「彼女」の体はふわりふわりと上昇を始め、近付きつつあった地上から少しずつ離れ始めた。

 

 みんなの協力で、なんとか安定した高度を保つことができるようになり、「彼女」と一緒に地上と激突し掛けていた彼はほっと安堵の溜息を吐く。そして「どうもすいません」とばかりに、大き過ぎる「彼女」の体を引っ張り上げてくれたみんなに向けて頭を下げた。

 墜落している間も離すことはなかった「彼女」の両手を握る手に、力を籠める。

 

「大丈夫? 綾波」

 

 そう呼び掛けるが、「彼女」の顔は口をあんぐりと開けたままで呆けたまま。

 すると地上へと降り注ぐ虹の一角からある一団が離れ、「彼女」に近付いてきた。空を泳ぐその一団。地上へと還っていく様々な生命たちの中でも一際大きな個体を誇る生物の一団。優雅な動きでゆったりと空を泳いでやってきたその一団は、呆けたままの「彼女」の顔の前を遊泳し始める。

 この惑星の海全てが血の色に染まってしまったあの日まで、この惑星の最大の生物として世界中の海を巡っていた彼ら。その巨体は、大き過ぎる「彼女」の前であっても見劣りしない。

 そしてその一団は「彼女」の顔の周りを囲んでしまうと、それぞれの個体の頭部にある穴を彼女の顔へと向けた。

 そしてその穴から勢いよく噴き出す空気と共に大量の水が飛び出て、「彼女」の顔を盛大に濡らした。

 

 顔に水を引っ掛けられて、ようやく正気を取り戻したらしい。

 目を醒ました「彼女」は、きょろきょろと周囲を見渡す。何故か自分の顔の周囲を遊泳する大きなクジラたち。そして体に取り付いているたくさんのヒトたちや動物たちを不思議そうに見渡しつつ、そして最後に「彼女」の両手を握る彼の顔を見つめる。

 そして「何があったの?」とばかりにくてんと首を傾げる「彼女」。

 そんな「彼女」の仕草を見て彼は「あ~なんて可愛いんだろう~」と心の中で悶えつつ、あまり不用意なことを言ってまた彼女を失神させてしまったらいけないと反省もしつつ。

 

 見れば、大き過ぎる「彼女」の体を引き上げてくれたみんなが彼女の体から離れ、地上への降下を再開している。「彼女」の目を醒ましてくれたクジラたちも、地上へと降り注ぐ虹へと戻ろうとしている。

「ありがとう」

 彼がみんなにお礼を言うと、クジラの一団の長だろうか。一際大きなクジラ。頭部の皮膚がゴツゴツとした岩のように変色したクジラがみんなを代表して甲高い鳴き声を上げ、彼のお礼に答えてくれた。

 

 彼は彼女の右手と繋いでいた左手を離すと、地上に戻っていく彼らにもう一度手を振り、そして「彼女」と肩を並べた。

「行こっか。綾波」

 「デートの続きをしよう」と促す彼。

 すると、「彼女」は彼の右手と繋いでいた左手をふるふると揺すった。揺すられてしまったため、「彼女」の指(の装甲の隙間)を握っていた彼の右手が解けてしまう。

「え?」

 離れ離れになってしまった彼の右手と「彼女」の左手。「彼女」の方から一方的に手を離されてしまい、彼は驚きと共に少しだけ悲しそうな顔をする。

 一方で、「彼女」の方は彼の手から振り解いたばかりの左手の人差し指を、何故か再び彼の体へ近付けようとしている。しかし彼の体に触れそうになる寸前で、引っ込められる「彼女」の人差し指。

 大き過ぎる人差し指を彼の体に近付けては引っ込め。近付けては引っ込め。行き場を失ってしまっている「彼女」の人差し指。

 

 彼がこの「彼女」の行動の意図をようやく理解できたのは、「彼女」の指が近付けては引っ込めを繰り返して5回目の時だった。

 くすりと笑いつつ、自分の右脇を大きく開いてやる彼。

 すると「彼女」は、大きく開いた彼の脇に向けて、人差し指を近付ける。

 ぴとっ、と彼の脇腹にくっつく「彼女」の大き過ぎる指。

 彼はくすぐったそうに「うひゃっ」と言いつつ、開いていた脇をそっと閉じた。

 「彼女」の大き過ぎる指は、無事に彼の脇に収まることになる。

 

 

 それは傍から見れば、華奢な少年がその細い腕で、バカみたいに大きな指の先っちょを抱えているようにしか見えないだろう。

 しかし当事者の彼。そして「彼女」の頭の中では、彼らの姿はこう描かれているに違いなかった。

 まだまだ初々しくも、仲睦まじく歩く2人。

 寄り添い合いながら、腕を組んで歩く恋人同士の姿に。

 

 

 巨人が背負う12枚の光の翼はますますその輝きを強めていく。

 彼と「彼女」はこの惑星全てをキャンバスにして、世界中の空から地上へと、海へと、山へと、街へと、森へと、川へと、草原へと、砂漠へと。

 

 この惑星の隅々に、光り輝く虹を描いていった。

 

 

 

 

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