機甲少女の想いは一途   作:hekusokazura

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(69)ハッピーエンド

 

 

 

 

「で…」

 

 白い砂浜。青い海と空。

 この世に存在する色はその2色しか知らない、とばかりに。創造主の底が知れてしまうような、実にテキトーに作られたその空間に閉じ込めれて、どのくらいの時間が経過したことだろう。

「あたしたちは何時までこうしてりゃいいわけ?」

 砂浜に仰向けになって寝っ転がるアスカ・ラングレーは、左隣でうつ伏せになって寝っ転がっている真希波マリに尋ねた。

「さあ…。別にいいじゃん。今はこのバカンスを楽しもうよ…」

 シャリシャリとした砂浜の感触と、お天道様のないこの場所でいったい何処から降り注いでいるのか分からない陽射しの暖かさを楽しむような、うっとりしたマリの顔。

 アスカも最初のうちはこんなにのんびりできたのは何時以来だろうかと思いながら、戦いに明け暮れた自分に対するご褒美とばかりにこの退屈なバカンスを楽しんでいたが、さすがにそろそろぼちぼちいい加減飽きてきた。

 自分の問いに対する答えを求めて、今度は右隣で腰を下ろしている渚カヲルを見た。

 アスカの視線に気付いたカヲルは、「さあ」とばかりに肩を竦める。

「あいつら。今、どの辺りをうろついてんのよ?」

 その問いに対しても、カヲルは「さあ」とばかりに肩を竦める。

「見てたんじゃないの?」

 カヲルは顔を顰めた。

「ただ手を繋いで飛んでるだけの2人を見ていて何が楽しいってゆーんだい?」

「そりゃそっか」

 アスカは地面に投げていた両足をひょいっと空に向けて伸ばし、そして一気に下ろすとその反動を利用して立ち上がった。お尻に付いた砂を軽く払い落とすと両足を肩幅に開き、両手を腰に当てる。その肩に、黒っぽい奇妙な生物をちょんと乗っけて。

「このアスカさまを待たせるとはいい度胸ね。さっさと戻ってこいっつーの」

 雲一つない、どこまでも澄んだ空を見上げた。

 

 ふと。

 まるで亀の甲羅干しのように真希波マリの背中にくっ付いて日光浴をしていた小さな子供が、何かに気付いたように顔を上げた。マリの背中を離れた小さな子供は、とてとてと波打ち際まで歩くと、アスカと同じように空を見上げる。

 その無垢な輝きを放つ瞳が見つめる先。

 

 最初は小さな黒い点だったもの。

 その小さな点が、どんどん大きくなっていく。

 大きくなっていくと共に、ぴゅ~~という、大きなものが落下してくる時の風切り音。

 アスカの目にも、落ちてくる何かが人の形をしているとはっきりと分かった時。

 

 彼女らが居る浜辺の目の前の海が、大きく弾けた。

 海が割れ、巨大な水柱が噴き上がると共に、うねりを上げる津波が彼らの居る浜辺に押し寄せる。

「わわっ!?」

「ちょっ!?」

「うっひゃ~!?」

 カヲル、アスカ、マリがそれぞれの悲鳴を上げて、押し寄せた波によってひっくり返ってしまった。

 

 波が引き、濡れた砂浜に転がる彼ら。

「うへ~。鼻に水が入った」

「まいったね。これは」

「ちょっと優等生(エコヒイキ)! 何してくれてんのよ!」

 恨み節を言う彼らの視線の先には、青い海に立つ紫色の機体。

 海水を浴びてキラキラと光る鋼を纏った体。

 エヴァンゲリオン初号機が立っていた。

 

 

 

 突然空から降ってきた初号機。

 ようやく戻ってきたはいいが、膝上まで海に浸かった状態で立ったまま、その後の動きがない。

 いい加減痺れを切らした彼らは、初号機のもとまで泳いでいくと、その大きな足に取り付き、装甲の隙間に足や手を引っ掻け、えっちらおっちらと巨人の体を登り始めた。

 大腿部をよじ登り、腰の辺りまで辿り着くと、上の方から声がする。

 

 

 初号機の胸の辺りに据えられた初号機の左手。空へ向けられたその手の平に乗る一つの人影。

 碇シンジは、初号機の胸に埋め込まれた赤く光る大きな球体。初号機のコアに両手で張り付き、時にその手で球体の表面をコンコンと叩きながら、コアの中に向かって呼び掛けていた。

「綾波~」

 右耳をコアの表面に張り付け、中の音に耳を傾ける。時折、右手でコンコンとコアの表面を軽く叩きながら。

「綾波~、出ておいでよ」

 

「何やってんのよ、あんた」

 シンジが立つ初号機の大きな手のひらの端の下から、アスカがひょっこりと顔を出した。アスカに続いてマリ、その背中に抱き着いた小さな子供、そしてカヲルも次々と現れ、よっこらせと初号機の大きな手の上によじ登る。

「それがさ、綾波が出てこないんだよ」

 アスカの問いに答えながら、シンジはコアに向けて「彼女」の名前を呼び続ける。

「はあ? この期に及んでなに引き籠っちゃってんのよ、あいつは」

 そうぼやきながらアスカもシンジの隣に立ち。

「ほら、さっさと出てきなさいよ。あたしたちを待たせるなんて100年早いっつーの」

 右の爪先でコアをゲシゲシと小突き始めた。

「くすぐったりしたら出てくるんじゃないかにゃ~?」

 マリもコアに張り付くと、実際に両手でコアの表面をこそこそとくすぐり始める。

 

 一人は爪先でコアを小突き、一人は両手でわしゃわしゃとコアをくすぐっている。そんな2人の女性の背中を、呆れるように見ているのは渚カヲル。

「まったく。この場には2人も乙女が居るというのに、何故そんな貧困な発想しか生まれないのだろうか」

「何よ」

「棘のある言い方だね~カヲルっち」

 2人の乙女が振り返り、カヲルを睨んだ。

 そんな2人に対し、カヲルはどこか得意げな顔で言う。

「お姫様の眠り起こすのは王子様の口付け。古から人々の間ではそう相場が決まってるらしいじゃないか」

 そう言って、シンジの横顔を見た。

 

「うん。それはもう試したんだけどさ」

「え゛っ!?」

「え゛っ!?」

「え゛っ!?」

 

 3人の視線がいっぺんに集まる中で、シンジは相変わらずコンコンとコアを叩きながら「彼女」の名前を呼び続けている。

 

「うわっ、ひっくわ~」

 アスカはシンジの隣から半歩離れた。

「さっすがは童貞。怖れを知らぬ…」

 マリも眼鏡越しに冷たい視線をシンジに送る。

「ご、ごめんシンジくん。僕も今日から人々と共に生きていく身だ。だから、人間たちを真似て僕なりのジョークというものを言ってみたつもりだったんだ。まさか…そんな…。君がそんな恥ずかしいこと臆せずするなんて…」

 大切な人に恥をかかせてしまったと、彼にしては珍しくオロオロしているカヲル。

「もう。好きに言ってたらいいよ。それよりも綾波。どうしたの? 出てこれない理由でもあるの?」

 シンジは3人には取り合わず、コアの中の「彼女」に呼び掛け続け、そしてコアに耳を引っ付けてコアの中の「彼女」の声に耳を傾ける。

「うん…、うん…」

 耳を傾けながら、何度か頷くシンジ。

「どうやって会話してんのよ、こいつら」

「むっふふ~ん。心が繋がった者同士、通い合うもんがあるんじゃにゃいの~? 愛だね~」

 

「なんだ、そんなことか」

 コアから耳を離したシンジは、コアの中の「彼女」に向かって微笑み掛けると、コアから半歩ほど離れた。

 コアの表面に向けて両手を伸ばす。

「何時か何処かで誰かに言われたことがあるんだ。その人の形作ってるのは人の心だって」

 シンジの両手がコアに到達し、手のひらがコアの表面に張り付く。しかしその手はそこで止まらず、まるで水の中に沈むように周囲に波紋を広げつつ、コアの中へと吸い込まれていく。

「自分の力で自分自身をイメージできれば、誰もがヒトの形に戻れるよ」

 

 シンジの両腕は二の腕辺りまでコアの中に沈んだ。

 そこでシンジは前進を止め、瞳を空に向けながら、コアの中にある「何か」を手探りで探す。

 

 10秒ほど経って。

 

 シンジの顔が、にこっと笑った。

「捕まえた…」

 そう呟いたシンジは視線をコアに戻すと、ゆっくりと後退し始めた。

 

 1歩、2歩と慎重に。

 シンジの動きと共に、少しずつコアの中から出てくる彼の腕。

 肘が現れ、前腕が現れ、手首が現れ。

 そしてシンジの腕全てがコアから抜き出された。

 

 そのシンジの両手が、何かを握っている。

 それは手。

 シンジの2つの手それぞれが、コアから出てきた2つの手を握っている。

 

 シンジは後退を止めない。

 さらに一歩後退する。

 するとシンジに握られた細い手に続いて、細い手首が現れた。

 さらにもう一歩後退すると、今度は細い前腕が現れた。

 そして細い肘も外に出たところで。

 

 今度は足。

 シンジの左のつま先の前に着地した、コアの中から伸びてきた足。

 さらにもう一歩後退すると、今度はもう片方の足がコアから現れる。

 

 ここまで来たのならと、シンジは2歩、3歩と一気に後退してみた。

 すると、シンジの手に引かれたそれは、二の腕、肩、膝、太腿と、コアの外に露出する箇所を一気に増やしていく。 

 

 そしてコアの中から最後に現れたもの。

 

「ようやく君に会えたね。綾波…」

 

 シンジは、コアから最後に現れた顔に向かって優しく語り掛けた。

 

 相手の体全てをコアから連れ出したところで、シンジの足は止まった。

 彼の両手は、相手の両手を握ったまま。

 間近で、お互いの顔を見つめ合う。

 

 

「え…」

 アスカは呻くように呟いた。

「これって…」

 マリはメガネの奥にある目を険しくさせる。

 カヲルもまた、彼にしては珍しく深刻そうにその眉根を寄せた。

 

 彼らが、碇シンジの肩越しに見たもの。

 碇シンジがその手を引いてコアの外へと導いたもの。

 碇シンジが対面しているもの。

 

 少女の姿をした、淡い光。

 

 胴体のようなものから腕のようなものが生え、足のようなものが伸び、頭部のようなものが乗っているので、その淡い光が人の形をしていると分かるし、丸みを帯びた肩や腰、膨らんだ胸元から淡い光が象っているのは女性、少女だと分かる。

 

 ヒトではない、ヒトの形をした淡い光。

 シンジが握った淡い光の手。その前腕からポタポタと滴り落ちる光の雫。

 肘からも、顎からも、大量の光の雫が零れ落ちている。

 淡い光の足もとでは、その体から溶け出た雫が集まり、まるで水溜まりのように広がっている。

 

 それを認めたカヲルは、目を閉じ、軽く溜息を吐きながらシンジの耳元に囁き掛けた。

「シンジくん…。早く「彼女」をコアの中へ…」

 

 カヲルが最後まで言い切る前に、シンジは「彼女」に向けて微笑みながら語り掛けた。

 

「よく頑張ったね。綾波」

 

 シンジは半歩前へ歩み出る。

 

「大丈夫だよ。綾波」

 

 近づく彼と「彼女」の距離。

 

「僕もイメージするよ。君を」

 

 握っていた「彼女」の両手をそっと離した。

 

「「あの日」。世界と引き換えにしてでも助けたいと思った君のことを」

 

 自由になった両手を、「彼女」の両肩へと差し伸べる。

 

「「あの日」、強く抱き締めた君のカタチを…」

 

 「彼女」の肩に触れた手を、そのまま背中へと滑らせる。

 

「大好きな君のことを…」

 

 さらにもう半歩「彼女」に近付き。

 

「だから大丈夫だよ。綾波…」

 

 彼の両腕にすっぽりと収まる淡い光の細い体。

 

 彼は、少女の姿をした淡い光を力強く、それでいてそっと抱き寄せる。

 

 

 

 人目も憚らずに始まってしまった彼と「彼女」の熱い抱擁に、外野たちは立ち竦むことしかできない。

 彼が淡い光を抱き締めてから無言の時間が淡々と過ぎ、マリとカヲルが「どうしよっか」と目配せしていたら。

「あーもう。何ちんたらしてんのよ」

 沈黙を破ったのはアスカだった。

「は? なに? こいつに自分自身のイメージを思い出させりゃいいわけ?」

 ずかずかと彼と淡い光の近くまで歩み寄る。

「だったらあたしもあんたにそっくりな奴に何度も抱き着かれてメーワクしてたっつーの」

 などと不機嫌そうに言いいながら両腕を広げたアスカは、淡い光と淡い光を抱き締めている彼の肩にそっと触れた。そしてそのまま、淡い光を彼ごと抱き締める。

 

 2人での抱擁にもう一人加わり、3人での抱擁になって。

 憎まれ口を叩きつつも、2人を抱き締めるアスカの横顔。その頬にちょっとばかりの赤みが差しているのを見たカヲルは、にっこり笑う。

「それらなら僕も、君とよく似た子たちを何度も抱っこしたっけ」

 カヲルもまた長い腕を大きく広げ、淡い光を、彼とアスカごと抱き締めた。

 

「だったらあたしはあんたのオリジナルと何度もハグしたよん!」

 ぴょんぴょんと飛び跳ねながら淡い光の背後に回ったマリが、その背中に勢いよく抱き着いたため、その拍子で全員が倒れそうになってしまう。アスカはわーわー喚き散らしつつ、一番外に居るカヲルが踏ん張ってみんなの体を支えたおかげで、辛うじて転倒は免れた。

 計10本の足が一カ所にぎゅっと集まる中、その隙間に入り込んだ小さな子供も、淡い光の片方の足にぎゅっと抱き着いている。

 

 いつの間にか仲間たちの腕に囲まれてしまったシンジ。

 左肩から背中に掛けて感じる彼女の腕。右肩から背中に掛けて感じる彼の腕。そしてみんなの背中越しに回された彼女の腕。ついでに「彼女」の足に抱き着いた小さな体からも。

 それぞれの体ら感じる極上の温もりに包まれる彼は顔に蕩けたような笑みを浮かべつつ、自分の中にある「彼女」のイメージを自分の温もりを通して「彼女」に伝えるため、ただひたすら淡い光を抱き締め続けていた。

 

 

 

 

 エヴァンゲリオン初号機の手の上で、彼らが一つになってからどのくらいの時が経っただろう。

 

 抱擁の中心に在る者の右足に抱き着いていた小さな子供は、少し体を離し、その無垢な瞳で自分が抱き着いていた右足の持ち主を見上げた。

 

 

 仲間たちをいっぺんに抱き締めることの心地よさにうっとりとしてしまい、ずっと目を閉じていた。

 誰かにお尻をぺしぺしと叩かれ、閉じていた目を開く。

 見ると、小さな子供が自分のお尻を軽く叩いていた。

 「何?」と目で尋ねると、子供は答える代わりに何かを指差す。

 子供が指差したものを見て、マリは「あらま」と小さく笑った。

 そしてマリは皆の背中に回していた腕を解き、一歩、抱擁の輪から遠ざかる。

 

 マリの気配が少し離れたことを感じたカヲルは、閉じていた目を開ける。

 それに気付いて「ふふ」と小さく笑ったカヲルもまた、皆の背中に回していた腕を解き、一歩、抱擁の輪から遠ざかった。

 

 カヲルとマリの気配が離れたことに気付いたアスカもまた目を開くと、それを見て「ははっ」と小さく笑い、彼らの背中に回していた腕を解き、彼と彼女から一歩遠ざかる。

 

 

 仲間たちが抱擁の輪から遠ざかったことを感じた。

 そして抱き締めていた「もの」の感触が明らかに変わったことも感じた。

 あやふやでない、明確に感じる存在。

 そして温もり。

 

 錨シンジもまた、相手の背中に回していた腕を滑らせ、その手を相手の両肩に乗せ、そして半歩ほど後ろに下がった。

 

 

 

 シンジの体が離れ、ようやくアスカたちの目にも、彼が抱き締めていたものの全体像が確認できるようになった。

 

 

 

「ぷっ!?」

 

 真っ先に噴き出したのはやっぱり今度もアスカだった。

 そして一度蒔かれた笑いの火種は、瞬く間に周囲に延焼していく。

 

「ははははは!」

「くくくくくっ!」

「あーはっはっはっ!」

 

 アスカもカヲルもマリも、肩を揺らしながら笑う。

 

 彼らを爆笑の世界に誘ったもの。

 碇シンジがその肩に両手を乗せて対面しているもの。

 

 

 地面に向けて伸びるしなやかな足。

 ゆったりとした曲線を描く腰。

 慎ましく膨らんだ胸。

 小枝のような細い首の上に置かれた顔には、2つの紅玉の瞳。

 

 

 綾波レイが、彼らの前に立っていた。

 

 

 その身に一糸も纏わず。

 

 

 その頭から、足もとまで届きそうなほどの尋常ではない量の空色の髪を広げて。

 

 

 

「あ、あんた。それ何処の呪いの人形よ…!」

 アスカは今も腹を抱えて笑っている。

「綾波レイ。君はいつも僕の予想の斜め上を行くね」

 カヲルは右手で顔半分を覆いながらこみ上げる笑いを押し殺そうと頑張っている。

「体張ってまで笑いを取りに来るとは! 師匠ぅ! 師匠と呼ばせて下さい!」

 マリはゲラゲラ笑いながら綾波レイの肩をびしばし叩いている。

 

 

 彼の両手によって外の世界へ導かれた綾波レイ。

 自分のイメージを彼の温もりを通じて形作った綾波レイ。

 そして目の前に在る碇シンジの顔を、ひたすら見つめていた綾波レイ。

 マリに肩をびしばし叩かれ、そのもじゃもじゃの髪が伸びた頭が首振り人形のように右に左にふらふらと揺れ。

 目をぱちくりと瞬きして。

 ようやく自分と碇シンジ以外の存在に気付く。

 

 彼らの顔を一つ一つ、不思議そうに見ていく。

 ケラケラと笑い続けている彼らの顔を。

 見れば、足もとでは小さな子供までもがきゃっきゃと笑い転げている。

 

 ようやく、自分が彼らに笑われていることに気付いたらしい。

 彼女の唇が「へ」の字に曲がり。

 彼女の眉尻が「ハ」の字に下がり。

 彼女の頬と額がぽっと赤くなり。

 

「わー待った待った待った!」

「なに戻ろうとしてんのよ! バカ!」

 踵を返してコアの中に戻ろうとした綾波レイを、マリとアスカが慌てて止めるなか。

 

 

「綺麗だ…」

 

 

「え?」

「え?」

「え?」

 

 誰かがぽつりと呟いたその言葉に、その場に居た全員の動きが止まる。

 彼らの視線が、その呟きを漏らした人物の顔に集中した。

 

 周囲の爆笑も喧騒も何処か別の世界での出来事。

 

「綺麗だ…、綾波…」

 

 何処か呆けた声音でそう呟く碇シンジの視線の先には、乱れた空色の髪を足もとに届くほどの勢いで伸ばした一人の少女。

 

「とても綺麗だ…、綾波…」

 

 頬と額を赤く染めていた綾波レイの目が、まん丸に広がる。

 

「綺麗だ! 綾波!」

 

 

 もう辛抱堪らんとばかりに叫んだシンジは、彼女の腰に両手を回すと、彼女の体をひょいっと抱き上げてしまった。

 彼女の両足が浮くと同時に彼女の口からは小さな悲鳴が漏れたが、シンジは構わらず彼女の体を抱え上げたまま、胸の内からこみ上げてくる感情を体全体で表現するかのようにくるくると回り始める。

 シンジを軸にくるくると回る彼女の体。遠心力に引かれる彼女の足が、彼女のもじゃもじゃの髪が外に伸びて、シンジを中心に大きな円を描く。

 彼女の体に引っ張られるように、シンジの足が右に左に大きくよたつき、そして。

 

「あ」

「あ」

「あ」

 

 アスカ、カヲル、マリの目の前で、2人の姿が消えた。

 3秒後、下の方からざぶんという水の打ち立てる音と共に、彼らの元まで舞い上がる大きな水柱。

 

「なにやってんのよ、あいつら…」

 水飛沫を被ったアスカはおでこの隅っこに軽く青筋を浮かべながら呟いた。

「シンジくん、舞い上がり過ぎて、訳分かんなくなっちゃってる感じだね~」

 彼らの足場である初号機の手の縁に跪き、彼と彼女が落ちていった方を覗き込んだマリ。

「あの男前シンジくんは一体何処へ行っちゃったんだい」

 

 初号機の手から数メートル下にある海面には、おそらく2人が落ちた場所を中心に広がる波紋が広がっている。暫くその波紋を見つめていたら、やがて短く摘まれた黒い髪と、もじゃもじゃに伸びた空色の髪が海面へと浮かび上がってきた。

 ぷはっという呼気の音と共に、海面に顔を出した2人。

 空色髪の持ち主は伸びに伸びた前髪が顔面に張り付き、前が見えなくなってしまって右往左往している。

 黒髪の持ち主はそんな空色髪の子の様子にふふっと笑いながら、彼女の体を側に手繰り寄せると、顔面に張り付いた前髪を梳いてやった。もじゃもじゃの前髪の向こうから現れたのは、海水に濡れてキラキラと輝く宝石のような紅玉の瞳。

 瞳だけでなく、彼女の空色の髪が、髪と同じ色の長い睫毛が、白磁のような白い肌が。

 彼女の全てがキラキラと光り輝いている。

 そんな光の結晶を纏う彼女を眩しそうに見つめる彼。

 彼女もまた、間近にある彼の顔を、普段よりも少し大きく広げた目で見つめ返している。

 そのまま、2人はずっと見つめ合っている。

 

「ありゃま。完全にお2人さんの世界」

「ところでさ」

 野次馬根性丸出しのマリの背中にアスカは声を掛けた。

「な~に~?」

「さっきからさ」

「うーん。…おっ、おっ。そうだシンジくん、いっちゃえ!」

「ず~っと気になってたんだけどさ」

「行け! そのままチューしちゃえ!」

「あんたのその背中にいるちっこいの」

「あちゃ~…! 何やってんだあのヘタレは!」

「そのガキんちょ誰?」

「へ?」

 アスカのその問いに、ようやく顔を上げたマリは一度アスカを見ると、首を捻ってその視線をそのまま自分の背中へと向けた。

「あ~こいつ?」

 マリの背中に抱き着いていた小さな子供は、マリの背中から身を乗り出しながら、海面の2人を覗き込んでいる。

 マリの視線はアスカへと戻って。

 そして首を傾げるマリ。

「さあ?」

「さあって…」

 マリから返ってきた要領を得ない答えにアスカはずっこけてしまう。

「気づいたら居たのよ。こいつ」

「何よそれ。ホラー以外の何物でもないんですけど」

「使徒を肩に乗っけてるアスカに言われたくないんですけど」

「ば、バルディエルちゃんのこと悪く言わないでよ」

 マリの指摘に、咄嗟に右肩に乗っていた奇妙な生物を庇うように抱き締めるアスカである。

「まあいいじゃんいいじゃん。こいつもこんなに可愛いんだし」

 そう言いながら頬を寄せ、頭をぐりぐりと掻き混ぜてくるマリに、小さな子供はくすぐったそうに首を竦めながら、きゃっきゃと笑い声を上げている。

 一頻りマリにじゃれついた小さな子供は顔を上げると、アスカを見た。

「な、何よ」

 穢れを知らない無垢な瞳に見つめられて、思わずたじろいでしまう齢28のアスカである。小さな子供は無言のまま、短い指で海面の2人を指した。

「なに? あいつらの所に行きたいの?」

 こくりと頷く小さな子供。

 小さな指に導かれるように、アスカも初号機の手の下の海面を覗き込んだ。

 アスカの目に見えたのは、海面で完全に2人だけの世界に没頭している黒の髪と空色の髪。

「おう、行ったれ行ったれ。ちびっこ爆弾投下~!」

 

 アスカのその掛け声と共に、小さな子供はマリの背中の上でぴょんと跳ねると、マリの頭を飛び越えた。小さな子供の小さな体が何処から降り注いでいるかも分からない陽射しを浴びながら、数メートル下の海へと向かってお尻からダイブ。小さな子供の小さな体は海面の彼と彼女が張り巡らせていた、2人だけの世界を守っているいちゃいちゃATフィールドをいとも簡単にぶち破って、彼らの側に大きな水柱を舞い上がらせた。

 彼は間近で上がった派手な水飛沫にびっくりしつつ、その水飛沫から守るべく彼女の頭を抱き寄せている。

 

 急に彼の胸元に押し付けられた彼女の顔が真っ赤になってることを想像するマリは、ニヤニヤ顔でアスカを見上げた。

「おうおう。アスカもやるねぇ。じれったい2人に援護射撃かにゃ?」

「べっつに」

「へへ。んじゃ、うちらも行こっか」

「へ?」

 いつの間にか、マリの手に握られていたアスカの手。

 マリは、アスカの手を握ったままその体を一気に初号機の手の外へ向けて傾ける。

「ちょ、何すんのよ!」

 マリの手に引っ張られたアスカの体も、初号機の手の外へと大きく傾いてしまった。

 マリの両足が初号機の手から離れ。アスカの両足も初号機の手から離れ。

 その3秒後。

 盛大に舞い上がるのは、2つの大きな水柱。

 

 小さな子供が空から落ちてきた時にはひたすら戸惑っていた碇シンジは、マリとアスカが落ちてきた時にはさすがにちょっと怒ってしまったらしい。綾波レイをその手で抱き締めつつ、マリとアスカに向けてわーわー喚きながら抗議の声を上げていると、マリがけらけら笑いながら碇シンジとその腕に抱かれている綾波レイに向けて両手を振り回しながら海水を掛け始めた。

 マリに対して抗議の声を上げているのはシンジだけではない。彼女に引っ張られて一緒に落っこちてしまったアスカも、その前髪から海水をポタポタと落としながら両手を振り翳してわーわー喚いており、そして両足をばたつかせてマリに盛大に海水を飛ばし始めた。

 シンジも反撃を始めたため、2人から同時に海水を掛けられる羽目になったマリは、ひーひー言いながら顔を両手で覆うと、それを見ていた小さな子供も全身をばたつかせてシンジとアスカに向けて海水を掛け始めている。

 

 

 足もとの海面で繰り広げられている不毛な争いを、呆れた様子で見下ろしていた渚カヲル。初号機の手の端に立ち、彼らの様子を冷めた眼差しで観察する。

 最初、笑っているのはメガネのコと小さな子供だけだった。

 しかし次第に緋色髪のコにも笑顔が見え始め。

 そして碇シンジも声に出して笑い始め。

 碇シンジの首にしがみ付いている綾波レイの顔は見えないが、おそらくきっと彼女も。

 

「笑顔は人を幸せにするおまじない…か…」

 

 そう呟いたカヲルの顔にも、何時の間にやら笑顔が浮かんでいる。

 カヲルはその場で膝を曲げ、腰を落とした。

 そして一気に膝を伸ばし、腰を上げると。

「ひゃっほ~い!」

 陽気な歓声と共に足場を蹴り、空中へと飛び出した。

 

 

 すぐ側で盛大に舞い上がる水柱。

「もう! カヲルくんまで何すんのさ!」

「はははっ」

 海面にひょっこりと顔を出したカヲルは、陽気な笑い声を上げながら両手を交互に振り回してシンジたちに向けて海水を弾き飛ばす。

「もう!」

 シンジも口では不満を表しつつも、カヲルに向けて笑顔で海水を掛け返す。

「ほら! 綾波も!」

 碇シンジの首にしがみ付いている綾波レイは最初、その言葉が自分に向けられたものだとは気付けなかったようだ。

 シンジが、カヲルたちに向けて懸命に海水を掛け返しながら、横目でレイの顔を見ている。

 目をぱちくりとさせているレイ。

 シンジはそんな様子のレイに苦笑しつつ。

「僕を助けてよ、綾波!」

 その言葉に、レイは2度、目をぱちくりとさせた。

 見れば、いつの間にか結託したらしいカヲル、アスカ、マリ、そして小さな子供の4人が、碇シンジ包囲網を狭めつつあるではないか。

 レイはシンジの首に絡めていた両手のうちの左手を離し、おずおずと海面へと伸ばす。

 そして。

 

 

 ぴちゃ

 

 

 手首のスナップを効かせただけの、何とも慎ましやかな援護射撃。

 レイの左手で僅かに弾かれた水飛沫は、誰のもとにも届くことなく海へと戻っていった。

 

「なんだそりゃ! 蛙の逃げションか!」

 その様子を見てけらけら笑うマリは、これがお手本とばかりに海に深く沈めた両手を一気に振り上げ、大量の海水を押し出した。

 塊となった海水が宙に放物線を描き、そしてレイの頭上へと降り注ぐ。

 海水の塊に襲われる前に咄嗟に目を閉じてしまったレイ。

 海水の塊が過ぎ去って3秒後、おそるおそる閉じた目を開く。

 

 もじゃもじゃの前髪が張り付いた顔面。

 その前髪や睫毛の先からぽたぽたと落ちる水滴の向こうに見える人影。

 マリも、アスカも、カヲルも、小さな子供も、そして碇シンジまでもが、濡れ鼠なレイの有様を見て大声を上げて笑っていた。

 

 その赤い瞳を、ぐるりと動かして彼らの顔を一つ一つ確認していったレイ。

 その小さな口もとが、「へ」の字に曲がる。

 

 不機嫌顔になった彼女の頭部が、ゆっくりと海の中へと沈んでいく。

「わあ綾波! 怒んないでよ!」

 海の中に沈んでいったレイの体を、シンジが慌てて引き揚げようとしたが、レイの顔はすぐに海面に戻った

 海面から顔の鼻から上半分だけ出して、自分を笑いものにした彼らを恨めし気に見るレイ。

 マリもアスカもカヲルも小さな子供も、そしてシンジもすでに笑い声は上げていないが、海の中から顔半分だけを覗かせているレイの姿がまた可笑しくて、その顔は決壊寸前であり、今にも噴き出してしまいそうだ。

 鼻から上半分だけでなく、下半分も海面から出し、さらに肩まで出したレイ。

 その肩を、左右交互に前に後ろにと激しく振り始めた。

 

「ど、どうしたの? 綾波…」

 

 突然の彼女の奇行に戸惑う様子のシンジ。

 肩だけではない。肩に引っ張られる形で、彼女の頭部も時計周り、反時計回りと、交互に激しく回転し始める。

 頭に引っ張れる形で、彼女の伸びに伸びた髪も、彼女を中心に円を描くように振り回され始めた。

 

 彼女の豊富過ぎる髪。

 もじゃもじゃの髪が、彼女が頭を振り回す度に、海面を激しく叩く。

 もじゃもじゃの髪に叩かれた海面は大きく弾け、大量の水飛沫を周囲に向けて撒き散らし始めた。

 

「うひゃ~!」

「何すんのよバカ~!」

「この戦いおける武器の使用は、紳士協定に反するんじゃないかな?」

「や、やめてよ! 綾波~!」

 

 

 足もとで湧き上がる悲鳴。

 しかしその悲鳴も3秒後にはすぐに笑い声へと変化する。

 彼らが立てる大きな水飛沫の音。

 彼らが奏でる大きな笑い声。

 静かな波の音に混じって聴こえるそれらに耳を傾けながら、エヴァンゲリオン初号機は足もとではしゃぎ回る子供たちの姿を静かに見守っていた。 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 雲一つない、澄み渡った青い空の下に広がる白い砂浜と、透き通った青い海。その青い海からぽつぽつと現れた人影たちは、陸の方へと向かい始める。陸に近付くに連れ、この世界を支配する重力なるものの存在を思い出し始めるその体は、右に左にふらつく足跡を波打ち際に残しながら陸へと上がっていく。

 最初に浜辺に辿り着いた真希波マリは両手を万歳しながらその場にゴロンと寝ころんだ。それに続く小さな子供もマリの側で疲れ切ったように尻餅を付く。渚カヲルは一度大きく背伸びをした後でゆっくりと腰を下ろした。

「わあ~、髪の毛がベトベトになっちゃった」

 アスカは背中まで伸びる緋色の髪の毛を束ねると、ぎゅっと絞って海水を落としている。

 

 最後になってしまった碇シンジと綾波レイ。

 浜辺に近付くにつれ、ようやく足が海底に付くようになった。

 さらに浜辺に向かって海底を蹴りながら歩いていくと、少しずつ海面が下がっていき、やがて首から上しか見えなかった2人の肩が現れ、胸が現れ。

 ここに来てようやく彼女がまっ裸であることを思い出した彼は慌てて歩みを止めると、着ていた学校指定の白いワイシャツを脱いで袖を彼女の腕に通させた。水を十分に吸った服を水の中で着るのは容易ではない。右腕に袖が通ったら、シャツを彼女の背中に回して肩に羽織らせ、たくし上げていた左袖を彼女の左腕に通してやる。両袖に両腕が通ったところで、彼女は開いた前ボタンを上の方から留めてようとするが、一つ目がなかなか上手く留まらない。どうやら、右側にボタンがあることに、戸惑っているらしい。

 そんな彼女の手に彼の手が重なる。彼の手は彼女からボタンを受け取ると、それを左襟にあるボタン穴に通してやった。1つ目のボタンが留まったら2つ目へ。

 

「あ、ごめん、あやなみ…。胸に触っちゃった…」

「いやん。いかりくんの、エッチ」

 

 全てのボタンを留め終えた彼は、彼女の手を引いて歩き始めた。

 海が浅くなるにつれ、少しずつ海面の上に出る2人の体の面積が大きくなる。腰が現れ、太腿が現れ。

 そしてそろそろ膝が現れそうになったところで。

 

「きゃっ」

「大丈夫かい? あやなみ」

 

 膝が折れてその場に崩れ落ちてしまった彼女の体を、彼が慌てて支えた。

 

「ええ。自分の体。久しぶりだから」

「そうだったね。立てる?」

「ええ」

 

 彼に両手を引っ張られて膝を伸ばそうとした瞬間に、彼女の膝は再び折れ、彼女は小さな水飛沫を立てながら尻餅を付いてしまった。

 

「ごめんなさい…」

「いいよ。気にしなくて」

 

 左手は彼の手と繋いだまま。空いた右手で浅瀬を押して、腰を上げようとして。

 しかし彼女のお尻はすぐに浅瀬の中に引き戻されてしまう。

 

「無理しなくていいよ、あやなみ」

「でも…」

 

 彼女は何度も自力で立ち上がろうとするが、その度にワイシャツの裾で隠れた彼女のお尻は海の中に戻ってしまう。

 

「あやなみ。もういいから」

「え? きゃっ」

「ほら。こうすれば大丈夫だろ?」

「でも…。これじゃ、いかりくんが…」

「はは。僕は平気さ。それよりも君も協力してくれないと、君をまた海の中に落としちゃいそうだ」

「……こうすれば…、いいの…?」

「うん。そうだよ」

「…わたし、重くない?」

「どうってことないさ」

「すてき。いかりくんって、力持ちなのね」

「ははっ。あやなみは軽いなぁ。まるで鳥みたいだ……、って、かあああああああ! なんじゃあの甘酸っぱい空間はぁぁぁ!」

 

 砂浜に寝そべりながら浅瀬に居る彼と彼女のセリフを一人で勝手にアテレコしていたマリは、碇シンジが取った行動にいい加減胸焼けを起こしそうになってしまい、アテレコを途中で放棄してしまった。

 

 

 波打ち際の二人。

 碇シンジは綾波レイの両膝の下に右腕を回し、その背中に左腕を回して抱きかかえている。

 綾波レイもまた、その両腕をしっかりと碇シンジの首に絡めている。

 所謂お姫様抱っこしている彼と、お姫様抱っこされている彼女。

 

 

「あんた。一人でそんなことやってて空しくなんないの?」

 マリの側に立つアスカから冷めた声が降ってきた。

「いや~。彼らからビシバシ伝わってくる青春オーラにお姉さんのキャパがオーバーしちゃって取り乱しちゃったよ~。いいね~。若いってえのは。見境が無さ過ぎて見てるこっちが恥ずかしくなっちゃうわ。……アスカはいいのかにゃ?」

「は?」

 波打ち際の2人を見ていたアスカは、自分の足もとで寝そべっているマリを見下ろした。眼鏡越しのニヤニヤとした目が、アスカを見上げている。

「アスカもあいつらに混ざって、今からでも青春を取り戻して来たらん?」

「ふん」

 アスカは鼻を鳴らすと、視線を波打ち際の2人に戻す。

「ずっと初号機の中に引き籠ってたあいつらと違って、あたしはこの10年間、あたしなりに地に足付けながら一所懸命生きてきたっつーの。戦いに明け暮れた10年間だったとしてもいい。これがあたしの青春だって、今なら胸張って言えるから。それに…」

 お姫様抱っこする碇シンジとお姫様抱っこされる綾波レイ。2人で一つの人影に、アスカはぷぷっと噴き出してしまう。

「今更あんなこっぱずかしい青春なんかできるかっちゅーの」

 マリはひょいっと身軽な動作で立ち上がった。そして。

「ひぃ~めぇ~」

「あーもう、鬱陶しい!」

 絡みついてくるマリを押し返そうとするアスカに、マリは強引に体をすりすりと寄せてくる。

「あたしは嬉しいよ。アスカがあたしたちとの10年間を青春だったと言ってくれたことにさ」

「いいから離れろ。ちゅーかちびっこ! あんたも邪魔しようとしないの!」

 アスカが波打ち際の2人のもとへ駆け寄ろうとする小さな子供の首根っこを掴んでいたら、そのアスカにじゃれつくマリが、目を丸くしながら波打ち際の2人を凝視していた。マリの表情に気付き、アスカも波打ち際の2人に目をやる。

「あ~らら。やっちゃった」

 呆れたように溜息を吐くアスカの隣では、マリが一人で荒ぶっている。

「かああああああ甘じょっぺえ甘じょっぺえ! おーいちびっこぉぉぉ! テキーラだぁ! テキーラ持ってこーい!」

 

 

 わーわー喚いているマリたちの隣では、砂浜に腰を下ろした渚カヲルが波打ち際の2人を見つめている。

 立てた右膝に頬杖をつき、口を「へ」の字に曲げ、眉を「ハ」の字に下げ、目を細め、つまらないものでも見ているかのような表情で。

「シンジくん…。それが君の望んだ幸せの形…、とでも言うのかい…」

 カヲルの赤い瞳から注がれる視線。

 その視線の先に立つ2人。

 

 

 波打ち際の2人。

 陽光に照らされてゆらゆらと光を反射する波。

 綾波レイの豊富な髪の毛からポタポタと落ちる、煌めく雫たち。

 海水を浴びてキラキラと光る綾波レイの体を、同じく海水を浴びてキラキラと光っている碇シンジが抱きかかえ。

 

 

 それは低俗な恋愛映画や小説などで100万回は繰り返されたであろう光景。

 

 平凡で在り来たりで何の工夫もない、手垢塗れのラストシーン。

 

 

 それでも。

 

 

 見せつけられる渚カヲルは「降参」とばかりに、「へ」の字に曲げていた口を逆方向に曲げざるをえなかった。

 

 

 

 

「なるほど…。確かにこれは最高のハッピーエンドだ…」

 

 

 

 

 全身に光を纏う波打ち際の2人。 

 

 

 

 

 彼女の顔に、彼の顔が今、重なっている。

 

 

 

 

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