機甲少女の想いは一途   作:hekusokazura

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(70)それぞれの旅立ち

 

 

 

 澄み渡った青い空の下、白い砂浜と透き通った海しかないこの場所で、子供たちの笑い声が絶えることはなかった。

 太陽のないこの場所で、どこから降り注いでいるのかも分からない柔らかな陽射しを浴びながら、海水で濡れた体を乾かす彼ら。全員の顔が見えるようにぐるりと車座になって座り、取り留めのない会話を交わしては、澄んだ笑い声を澄んだ空へと響き渡らせる。

 

 半分はこの日まで顔も知らないもの同士。

 彼らを繋ぐのは、エヴァンゲリオンと碇シンジという存在だけ。

 その碇シンジから時計回りで、綾波レイ、渚カヲル、小さな子供、真希波マリ、アスカ・ラングレーの順番に輪っかを作って座る彼らは、まるで旧来からの友人のように語り合い、そして笑い合った。これまでのすれ違いは、今この時、彼らと、彼女らとひと時を過ごすためとばかりに、時間を惜しむように思いつく限りのことを語り合い、失われた時間を取り戻すように笑い合った。

 

 皆の会話をリードするのはやはり真希波マリ。

 あることない事をテキトーに大袈裟に喋るマリに、鋭いツッコミを入れるのはアスカ・ラングレー。

 雑談の中で時折この世の影に隠匿されてきた真理を口走って皆を驚かせる渚カヲル。

 小さな子供の口からは意味を成す言葉は出てこないが、それでも短い手足をばたつかせながらきゃっきゃと声を上げて笑っている。

 碇シンジも皆の会話に耳を傾けながら、肩を揺らして笑っている。

 そして14年ぶりの肉体にまだ慣れず、声もまともに出せない様子の綾波レイの顔にも、溢れるような微笑みが宿っている。そんな彼女の砂の上に置かれた白い右手に、隣の彼の左手が重なっていることについてつっこむ者は、もはや誰も居ない。

 

 彼らが交わす会話は殆どが取るに足らない内容。きっと明日になれば、どんな話をしたかも、どんなことに笑ったのかも忘れてしまっていることだろう。それでも彼らは何年後も、何十年後も、その命数を使い果たす時に至るまで、彼らと過ごしたこの時間を、この場所を忘れることはないだろう。

 

 

 彼が。

 世界を書き換えるという二度目の暴挙を果たした彼が見たかった光景が、今ここに在る。

 

「ありがとう…、みんな…」

 

 碇シンジがぽつりと呟いたその言葉は、皆の笑い声で掻き消されたため、皆の耳に届くことはなかった。

 いや、その呟きに反応したものが、一人だけ居た。

 左手に感触。

 砂の上の彼女の右手に重ねていた左手が、彼女の手によって握られている。

 見れば、隣の彼女と視線が重なった。

 

「綾波も…、ありがとう…」

 

 彼のその言葉に、彼女は伸び放題の前髪から覗く2つの目を2回ほど瞬かせ、そしてその顔中に柔和な笑みを広げる。

 彼の左手を握る彼女の右手。

 そして彼女の左手が2人の間の砂地に降り立つ。

 ぴんと伸びた、白の砂地よりもさらに白い左手の人差し指。

 その指の先端が、砂の上を這う。

 指の先端が這った跡に現れる文字。

 ぎこちない筆跡で描かれた文字。

 

 

  ―――ありがとう いかりくん

 

 

 その文字を見た彼の目が瞬く間に潤んだ。

 鼻で大きく息を吸い、口で深く息を吐く。吐き出された呼気が、砂の上の文字に小さな砂塵を舞わせる。

 潤んだ瞳で彼女の顔を見つめ。

 彼女もまた、潤んだ瞳で彼の顔を見つめ。

 見れば、すぐ目の前にある彼女の、彼の唇。

 自然と近付いていく2人の顔。

 

 

「ああああああああ!」

 2人の顔の先っちょと先っちょが触れ合うまであと2センチメートルのところでマリが叫び声を上げてしまったため、シンジは慌てて彼女の顔から離れた。

「あいや、これは…!」

 しどろもどろに言い訳をしようとしたら。

 

 マリは2人の方を見ていなかった。

 マリだけではない。

 アスカもカヲルも小さい子供も、2人以外の全員が、海の方を見ている。

 

 シンジも、そして綾波レイも、皆が見つめる海へと視線を向けた。

 

「あっ…」

 

 その光景を見て、シンジは立ち上がった。

 

 

 海の中に立っていた巨人。

 碇シンジの願いを世界へと届けた翼。

 碇シンジと綾波レイを、この場所へと導いたエヴァンゲリオン初号機。

 

 その初号機が、海の中へと沈み始めている。

 

 シンジだけでなく、綾波レイを除く全員が立ち上がった。

 

 無数の気泡を発生させながら沈んでいく初号機。

 

 膝の位置にあった海面が腰を越え、胸を飲み込み、さらに首までも浸かり。

 

 海の中へとその姿を消そうとしている初号機。

 

 碇シンジは、浜辺から初号機を見送る。

 

「ありがとう…、初号機…」

 

 顔も半分までが海の下へと消え。 

 

 初号機の水没が大きな波を引き起こす。

 打ち寄せた波が、浜辺に居る子供たちの膝を濡らす。

 

「さよなら…、全てのエヴァンゲリオン…」

 

 ついに最後まで残っていた頭部の角までもが、海の下へと沈んだ。

 

 後に残ったのは、何処までも澄み渡った空と、何処までも透き通った海。

 

 

 

 

 「全ての終わり」を見届けた子供たち。

 誰もが、その後ろに続く果てしない空と海に目と心を奪われていた中で。

 

 

「んんんんんんーーー!」

 

 

 最初に声を発したのは真希波マリだった。

 彼女は両腕を天に向け、大きく伸びをすると、コキコキと首を鳴らす。

「さってと」

 皆の方へ顔を向けた。

「初号機も行っちゃったし。あたしもそろそろドロンしちゃおっかにゃ」

 

 マリはすらりとした足を伸ばしてスタスタを歩き始める。

 彼女が向かった先に居たのは小さな子供。

 体を屈めて、小さな子供に手を伸ばす。その手は小さな子供の両肩を越え、背中に回され、そして小さな体を抱き寄せる。

「誰だか知らないけど、ありがとね。助かったよ。おちびちゃん」

 抱き締められた小さな子供はくすぐったそうに肩を竦めながら、マリの腕の中で笑っている。

 

 小さな子供から離れて、次に向かったのは渚カヲルの前。

 マリから差し出された右手を、カヲルは素直に握る。

「君が一体何者なのか。実は君自身、分かっていないんじゃないかな?」

「へっへっへ…」

 マリは誤魔化すように笑いつつ、空いた左手をカヲルの背中に回す。カヲルもまた、空いた左手をマリの背中へと回す。

 

 カヲルから離れたマリが次に向かったのは碇シンジの前。

「マリさん。色々とありがとう」

「ふっふーん」

 握手を求めてくるシンジを、爪先から額まで舐めるように見つめるマリ。

「少しだけ匂い、変わったね。大人の香りってやつ?」

 「やめてくださいよ」と照れたように笑っているシンジの手をマリは握り、そして彼の体を抱き寄せる。

 彼の耳もとに口を寄せて。

「お母さんもきっと喜んでいるよ…」

 そう囁き掛けた。

 

 シンジが驚いたように「えっ?」と短い声を上げている間にマリはシンジの体から離れ、シンジの足もとに座っている綾波レイに視線を落とす。何を考えているのかよく分からない目で見上げてくるレイに、マリはくすりと笑った。

「あんたも遂に最後まで意地を張り通しちゃったねぇ。見上げた根性だ」

 差し伸べられたマリの手を、レイは握る。

 そしてマリは身を屈め、レイの背中に空いた腕を回した。

「さっすがは「あの人」の……おっと」

 何かを言おうとして、咄嗟に口を噤むマリ。

「ごめんごめん。意地を張り通したのは誰でもない、あんた自身だった」

 身を起こしたマリは、レイのもじゃもじゃの頭をぽんぽんと軽く叩いた。

 

 レイから離れたマリはアスカの前に立った。

 腕組みという、あからさまにハグを拒否する姿勢で立っているアスカ。

「ひーめ」

「何よ。あたしはごめんよ。別れのハグなんてそんな恥ずいこと」

「寂しいことゆーなー、姫は」

 いつもなら問答無用で相手に抱き着きじゃれ付くマリだが、この時ばかりは堪えた。両腕を広げ、相手の方からこの胸の中へと飛び込んでくるのを、辛抱強く待った。

 そっぽを向いているアスカ。下唇を、薄く噛み締めている。

「だって…、今あんたとそんなことしたら…。あたし…、きっと…、泣いちゃうし…」

 相手の方からこの胸の中に飛び込んでくるのを辛抱強く待とうと思っていたマリだったが、そのアスカのセリフと横顔に浮かぶ表情に、彼女の欲望の堰はあっさりと崩壊してしまう。

「ひぃーーーめぇーーー!」

「ああもう! 鬱陶しい!」

 全身を使って抱き着いてきたマリに対してアスカはそう言いながらも、その両腕はしっかりとマリの背中へと回されていた。

「あんたは最高の相棒だよぉ~~~!」

「はいはい。あんたはあたしの”Schatz”だよ、”Schatz”」

 

「そんじゃ皆さん、お達者で~~! 歯磨けよ! 風邪引くなよ!」

 大海原に向かって駆けていくマリの足が、海面に大きな水飛沫を弾き出す。ピンク色のプラグスーツを腰まで海に浸からせたマリは振り返り、浜辺の仲間たちに向かって手を振った。

 シンジたちもまた、マリに向かって大きく手を振った。

 大きくなっていく波。波間の中に在るマリの姿が遠のいていく。

 2度3度と手を振っていく内に、一際大きな波が彼らの間を通り、マリの姿を遮る。

 そして大きな波が過ぎ去った後に、マリの姿は見えなくなっていた。

 

 

「僕もそろそろ行こうかな」

 海に向かって手を振っていた渚カヲルは、手を下ろすとシンジたちに顔を向けた。

 しなやかな足を前に出し、歩き始める。

 アスカ・ラングレーの前に立ち。

「君はどうかな。自分の幸せは見つけたかい?」

 右手を差し出す。

「幸せなんて見つけるもんじゃないわ。この手で掴み取るものよ」

 そう言って、アスカは不敵な笑みを浮かべつつ差し出された手を力強く握り返した。

「ふふっ。君らしいね」

「あんたの乗り心地、悪くなかったわ」

 それぞれの手を相手の背中に回し、軽くハグする。

 

 小さな子供の前に立ち、その場に跪いた。子供の無垢な瞳と目線を合わせる。

「誰だか知らないけれど、君も自分の幸せを見つけるんだよ」

 両腕を伸ばし、その小さな体を抱き寄せる。

 抱き寄せて、子供の温もりと息吹を体で感じて。

 そして目を何度も瞬かせるカヲル。

 一度体を離し、小さな子供の顔を見つめる。

 ははっ、と小さく笑った。

「なんだ。君だったのか」

 小さな子供は、カヲルに向けてにっこりと笑った。

 

 碇シンジと綾波レイの前に立つ。

「綾波レイ」

 シンジの足もとに座るレイを見下ろした。

「君には色々と言いたいことがあるけれど…」

 カヲルの赤い瞳からレイの赤い瞳へと注がれる、穏やかならざる視線。

「でも…」

 ちらりとレイの隣に立つシンジの顔を見る。「様々な」シンジとの巡り合いを重ねてきたカヲルでも見たことがない、満たされたようなシンジの顔を。

 レイへと視線を戻し。

「彼のこの顔に免じて、今は何も言わないでおくよ」

 彼女の顔の前に、手を差し出す。

 彼女の白い手がおずおずと伸び、差し出されたカヲルの手を握った。

 カヲルは身を屈め、彼女の背中に腕を回す。

「これで3度目だけど…。碇シンジくんのこと…、頼んだよ…」

 

 体を起こしたカヲルは、碇シンジを見た。

「シンジくん。君は、君の幸せを見つけたようだね」

 シンジはカヲルに向けていた視線を一度レイへと落とし、そして再びカヲルに向けると、照れ臭そうに鼻先を指で掻いている。

 そんなシンジの顔を何処か面白くなさそうに見ていたカヲルだが、すぐに柔和な笑みを表情に戻した。

「シンジくん。今までも、これからも。世界がどのように変わろうとも、これだけは変わることのない。世界の真理というものがあるんだ」

「それは何だい? カヲルくん」

「君の幸せは僕の幸せってことさ」

 カヲルの右手が、シンジの方へと差し伸べられた。

「君の幸せが。僕の幸せが、恒久的に続くものであることを心から願ってるよ」

「カヲルくん…」

 差し出されたカヲルの手を握り締めるシンジの手。

 どちらからともなく腕を相手の背中へと回し、互いの体を力強く抱き締め合った。

 

 カヲルは優雅な足取りで波間の中を進んでいく。

 深青色のプラグスーツが腰まで浸かったところで振り返り、浜辺に残ってる仲間たちに向かって手を振った。

 浜辺に残っているシンジたちも、カヲルに向けて手を振り返す。

 大きくなっていく波。波間の中に在るカヲルの姿が遠のいていく。

 2度3度と手を振っていく内に、一際大きな波が彼らの間を通り、カヲルの姿を遮る。

 そして大きな波が過ぎ去った後に、カヲルの姿は見えなくなっていた。

 

 

「んじゃ、あたしもそろそろお暇しましょっか」

 そう宣言したアスカ・ラングレーは足もとに居た小さな子供の両脇に手を滑り込ませると、ひょいっと抱え上げ、そしてその小さな体を抱き寄せた。

 抱き締めて、そして目を何度も瞬かせるアスカ。

 一度体を離し、小さな子供の顔を見つめる。

 ふふっ、と小さく笑った。

「なんだ。あんただったの」

 小さな子供は、アスカに向けてにっこりと笑い掛けた。

 

 小さな子供を足もとに下ろしたアスカは、碇シンジと綾波レイの前に立ち、シンジの足もとに座るレイを見下ろした。

「あたしが「自分も笑えるんだ」って初めて知ったのは、あんたからのあの電話だった」

 いつもの不機嫌顔で見下ろしてくるアスカを、いつもの何を考えているのかよく分からない顔で見上げるレイ。

「あんたはどう? あんたはちゃんと笑えてる?」

 そのアスカの問い掛けに対し、レイは言葉ではなく、実践で答えることにした。

 レイの顔に広がっていく、花が綻んだような慎ましい微笑み。

 誘われるように自らも微笑んだアスカは、レイから差し伸べられた手を素直に握る。

 そしてアスカは身を屈め、そしてレイの背中に腕を回し、体を寄せることで近づいたレイの耳もとに囁いた。

「あんたが作ったご飯。食べてみたかったわ」

 

「んで?」

 体を起こしたアスカは碇シンジを見た。

「え?」

 ジロリと見られ、反射的にたじろいでしまうシンジである。

「え? じゃないわよ。あんたの返事、まだ聴いてないんだけど」

「返事って?」

「出撃前にゆったでしょーが!」

「え? あっ、あ、あ~~」

「あ~じゃないわよ」

 シンジのお尻に右中段回し蹴りを浴びせるアスカである。

 シンジは蹴られたお尻を摩りながら、照れ臭そうに言う。

「う、うん。もちろん僕だって、アスカのことは好きだったよ」

「へ~、そ~なんだ~」

 今度はシンジのお尻に左中段回し蹴りを浴びせるアスカである。

「にっしっし」

 おかしな笑い声を残しながら、一歩、二歩と跳ねるように後ずさっていくアスカ。

「でも残念。あんたたちより先に大人になっちゃったあたしには、ガキんちょたちと付き合ったげる時間はないのでした」

 べっ、と舌の先を出す。

「あんたたちがもうちょっと大人になったらまた会いましょ。んじゃね」

 そしてシンジたちに向けて1度だけ手を振って軽やかに踵を返すと、海に向かって走り出した。

「ほら! バルディエル!」

 アスカに呼ばれ、奇妙な形をした生物は何とも形容のし難い動作で砂の上を跳ねて行き、そしてちょこんとアスカの右肩に乗っかる。

 

 奇妙な生物を右肩に乗せたまま、アスカは海へと向かって走っていく。浅瀬の中をばしゃばしゃと水飛沫を立てて走り、そして海面が腰にまで迫ってきたら海底を蹴って飛び跳ね、海の中へと飛び込む。両腕を交互に動かして水を掻き、両足をばたつかせて水を蹴る。

 振り返ることなく、一度も息継ぎをせずに泳いでいくアスカの姿は、あっと言う間に波間の中へ消えていった。

 

 

 アスカに向けて手を振っていた碇シンジの右足に感触。

 見れば、小さな子供がシンジの右足に抱き着いている。シンジはふふっと笑って、小さな子供の背中とお尻に両腕を回し、ひょいっと抱き上げた。抱き上げられた小さな子供は嬉しそうに顔全体を使って笑いながら、その柔らかな頬をシンジの頬へと摺り寄せる。

「誰だか知らないけど、君もありがとうね」

 シンジにそう言われた小さな子供は、返事をする代わりに摺り寄せていた頬を離し、とんがらせた唇をちょんとシンジの頬にくっ付けた。

 頬に感じた小さな感触に、一瞬きょとんとした表情を浮かべるシンジ。しかしすぐに笑みを取り戻し、そしてシンジも軽く唇をとんがらせ、ちょんと小さな子供の柔らかなほっぺにくっ付けた。

 するとたちまち子供の瞑らな目が真ん丸に見開かれ、真っ白な肌があっという間に真っ赤になる。

 小さな子供は全身をぶるぶると震わせながら、そして短い腕を一度大きく開き、そして小さな体をぶつける勢いでシンジの頭を丸ごと抱き締めた。

 ちょっとばかし荒っぽい抱擁にシンジは苦笑しつつ、小さな子供の小さな体を抱き締め返す。

 そのシンジの目が、何度か瞬きをし。

「あれ…? 君って…」

 小さな子供は何かを言い掛けたシンジの腕の中からぴょんと飛び降りると、綾波レイの前に立った。

 小さな子供のつぶらな赤い瞳が、レイの赤い瞳を見つめる。

 すー、と小さな鼻で大きく息を吸い。

 

「いち、にぃ、さん、だあああ」

 

 舌足らずな掛け声と共に、振り上げられる小さな子供の右手。

 

 ぺしっ

 

 振り下ろされた右手は、綾波レイの左頬に着地する。

 

 レイはぶたれた左頬を手で押さえながら、驚いたように目をぱっちりと開いて小さな子供を見つめている。

 そんなレイの顔を満面の笑みで見つめ返した小さな子供は、小さな体を目一杯伸ばして砂地の上を跳ね、海へと向かっていく。海から吹く風に空色の髪をなびかせながら、新しく与えられたこの体を思う存分楽しむように、全身を躍動させて海へと走っていく。

 波打ち際までやってきたら体の正面をシンジらの方に向けて、海へ向かって後ろ向きに走っていく。シンジたちに向けて、天に向けて目一杯伸ばした両手を振って。

 一際大きな波が打ち寄せ、小さな子供の体を攫う。

 その大きな波が消え、次の波が打ち寄せる時には、小さな子供の姿は消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 広大な砂漠を思わせる地肌が剥き出しになった丘陵。その表面に整然と立ち並ぶ、無数の墓標。その一角に立つ、人影。

 時折吹き寄せる風によって揺れるチェック柄のプリーツスカート。白のブラウスに緑色のネクタイ。

 

 真希波・マリ・イラストリアスは一つの墓標の前に跪いており、手にしたダガーナイフの切っ先で地面に埋められた墓標の表面に文字を刻み込んでいた。

「ごめん、碇シンジくん。これは本来君の仕事なんだろうけどさ…。こればっかりはあたしにさせてほしんだにゃ~…」

 刻み終えると立ち上がり、一歩引いてみて自分の作品の出来栄えを確認する。

「うーん…」

 何となく物足りなさを感じてしまう。

 何かを思い付いたようでにんまりと口の端を上げ、もう一度跪いて墓標の表面にナイフの切っ先を立てた。

 ガリガリと石板の表面を削っていく。

 刻み終えて、石板の上に残る削りカスを手でぱっぱと払った。

 立ち上がり、一歩引いてみて、改めて自分の作品の出来栄えを確認する。

「ふっふ~ん」

 満足したようで、人差し指で鼻の下を擦った。 

 

 人の腰の高さほどある円柱の下に埋まる石板。

 その石板の表面に専用の石材用カッターで丁寧に刻まれたのは、「IKARI YUI」の文字。

 「IKARI YUI」の文字の下に、ナイフの切っ先によって雑に刻まれたのは、「IKARI GENDOU」の文字。

 その2つの名前を囲むように刻まれたのは、「愛」を表す世界共通のシンボルマーク。

 

「にゃっはは」

 嬉しそうに笑うマリは青く澄んだ空を見上げた。

「ゲンドウくん。ユイさんとは会えたかな?」

 視線の先には一羽の鳥が舞っており、青い空に大きな円を描いている。

「会えたよね。んじゃなきゃ、この物語はハッピーエンドじゃないもん」

 視線を墓標へと戻し、胸の前で両手を合わせ、瞼を閉じる。

「ユイさん…。これであたしの…。イスカリオテのマリアの罪は赦してくれるかな…?」

 閉じられた瞼の隅から、一滴の水滴が流れ落ちた。

 

 踵を返したマリは墓標から少し離れた場所に停めていた年季ものの原付バイクに向かって走っていく。バイクの荷台にはキャンプ道具一式が積まれている。ハンドルにぶら下げていた半帽ヘルメットを被ると、シートに跨った。

「んじゃ、手始めに国会図書館から攻めますかね」

 マリを乗せた原付バイクは軽快なエンジン音を響かせながら、丘陵の坂道を下っていく。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 狭い視野。

 朧げな視界。

 

 何度か瞬きを繰り返していくうちに、視野は少しずつ広がっていき、その目に映る朧気だったものの輪郭が少しずつはっきりとしてきた。

 

 長い長い眠りから目覚めた一人の男性。

 その男性の視界の真ん中に映る、一人の人物。

 白のワイシャツと黒の学生ズボンを着た少年。

 少年は目覚めた男性に向けて微笑み掛ける。

 

「やあ、起きたかい?」

 

「え…?」

 

 戸惑いの声を上げる男性。

 どうやら自分は地面に寝っ転がっているらしい。こちらを覗き込む少年の背には、広々とした空が広がっている。最後に見た時は赤銅色に染まっていたはずの空が、今は何処までも澄み渡った青い空へと姿を変えて。

 

 男性は地面から背中を離し、ゆっくりと上半身を起こした。

 まだぼんやりとした頭を右から左へと動かし、まだぼんやりとしている目で周囲を伺う。

 

 何処までも澄み渡った青い空。

 豊かな緑を抱える丘陵。

 その丘陵を切り拓いて作られた段々畑。

 丘陵の麓から先は、太陽の光を浴びてキラキラと光る大きな湖が広がっている。

 

「ここは…?」

 

 事態を飲み込めてないらしい男性の横顔を、少年はくすりと笑いながら見つめている。

「君が老後のために密かに作っておいた農園、ではないのかな?」

「はあ…。いや。でもあそこは確かニアサーの時に…、ん?」

 周囲を見渡していた男性の目に、あるものが映る。

 

 丘陵の麓に広がる大きな湖。

 その湖の真ん中に、何本かの大きな円柱形の柱が立っている。いや、突き刺さっている。

 その柱の水面より上の部分には扉があり、その扉から続々と人が出てきている。

 その柱と、湖畔とを行き来する数隻のゴムボート。

 湖畔では、柱の中からボートによって運ばれた人たちと思われる黒山の人だかりができている。

 

 その様子を見ていた男性の視界を、白い手が覆った。

 見れば、少年が男性に向けて手を差し伸べている。

「それじゃ行こっか」

「行くって…、何処へ…?」

 戸惑いながらも少年の手を握る男性。

「決まってるじゃないか。君の奥方さんを迎えに…、だよ」

 少年は握った男性の手をぐいっと引っ張り、男性を立たせる。

「え?」

 男性が自分の足で立ったことを確認した少年はすでに男性から手を離し、歩き始めている。

「ほら。早く来ないと置いていってしまうよ?」

 少年の足は湖の方へと向いている。

「え、ちょっ。待ってくださいよ、渚司令」

 男性は慌てて少年の背中を追い掛け始める。

 

 少年がのんびりとした足取りで向かう先。

 目的地の湖。

 その湖との間に広がる段々畑。

 その段々畑の畦道に立つ、3つの影。

 空色の髪を湖から吹く風で揺らせる彼女たちが、少年と男性に向かって手を振っている。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 自宅の一室で無線機の前に座っている相田ケンスケは混乱の最中にあった。

 この10年間、呼び掛け続けても限られた相手以外は殆ど応答が返ってくることのなかった無線機。それが、数時間前を境にありとあらゆる周波数帯でありとあらゆる言語が引っ切り無しに飛び交っているのだ。彼らの交信の中に混じって情報の収集をしたいのに、乗り遅れたケンスケには踏み込む隙間もない。

 

 トントン、と背後で音がした。

 無線機のつまみを回し、スピーカーから流れるノイズ混じりの音声の音量を絞る。

 再度、トントン、とドアを叩く音。

 

 ケンスケは椅子から立ち上がり、ドアへと向かった。

 

 何となく、予感めいたものを感じていた。

 

 ドアの前に立ち、ごくりと生唾を呑み込む。

 ドアノブに手を掛け、捻る。

 ゆっくりとドアを押すと、ギギギという錆びた音と共に、ドアが少しずつ開いた。

 

 最初に見えたのは地面に立つ2本の素足。

 その細い体を包み込むように羽織った緑色のパーカー。

 そして背中まで伸びた緋色の髪。

 

 

 ドアの向こうに、彼女が立っていた。

 

 

 パーカーのポケットに両手を突っ込み、視線をそっぽに向けながら、彼女は言う。

 

「帰って…、きちゃった…」

 

 ケンスケは一度大きく深呼吸をした。

 深呼吸しないまま喋り出すと、すぐにでもこの目から涙が溢れ出し、まともに声を出すことも出来なくなってしまうだろうから。

 一度だけなく二度。

 三度目の深呼吸にして、ようやく心を落ち着けたケンスケ。

 あの夜以来10年ぶりに目にした彼女の左目を見つめながら口を開いた。

「そうじゃない、だろ?」

 

 ケンスケの指摘を彼女はすぐには理解できず、そっぽに向けていた視線を彼へと向け、きょとんとしてしまう。

 しかしすぐに思い当たることがあるらしく、目を伏せ、頬を仄かに赤く染めて、そして人差し指で右頬をぽりぽりと掻きながらこう呟いた。

 

「ただい…ま…」

 

 いかにも慣れない様子でぎこちなく呟いた後、上目遣いでケンスケを見つめた。

 ケンスケも些か照れがあるようで、髪の撥ねた頭を掻きながら答える。

 

「おかえり…、アスカ…」

 

 そしてにっこりと彼女に向けて笑い掛けた。

 そのケンスケの笑顔に誘わるように。

 

「えっへっへ…」

 

 彼女も歯を見せて笑った。

 

「ははっ…」

「えへへ…」

 

 その後の言葉が続かず、お互い半端な笑い声を漏らしながら足もとを見つめていたら。

 

 

 ぐ~~~~~

 

 

 ケンスケは最初、その音が何処から漏れたのか分からず周囲をきょろきょろと見渡してしまった。

 

 

 ぐ~~~~~

 

 

 その音が目の前の彼女から発生したものだと分かり、ケンスケは目を丸くして彼女の顔を見つめる。

 

 その彼女もまた、目を丸くしてケンスケの顔を見つめていた。

 

 

「お腹…、空いた…」

 

「え?」

 

 

 彼女は目を瞑り、そして深く呼吸を吸い、そして大きく口を開けて。

 14年ぶりに味わうその感覚を目の前の彼に向けて目一杯訴えた。

 

 

 

 

「お腹空いたああああ!」

 

 

 

 

 

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