月明かりが照らす夜道を歩く。
革靴の裏に感じる土の感触。鼻を擽る雑草の匂い。耳に響く虫たちの鳴き声。
それら全てが夜道を歩く彼にとっては14年ぶりに感じるこの惑星本来の姿の名残であったが、男性の表情に14年前を懐かしむような素振りはなく、未舗装の道には不向きな革靴で淡々と歩みを進めている。
空を見上げれば肥大化した月がぽっかりと浮ており、灯りのない夜道でも苦労しない。その月の近くでは、決戦を控える巨大な飛行戦艦が空中で停泊している。
虫の鳴き声。固い靴底が地面を踏みしめる音。それらの音とは明らかに違う、金属の軋む音がしたため、男性は歩みを止めた。
「それ以上進めば撃ちます」
声がした方へ目を向けた。
道の脇に生い茂る藪の中で、一人の少女が立っていた。ハーフパンツにパーカー。そんなラフな服装と幼さを残す容姿には不釣り合いな、厳つい拳銃を構えて。
拳銃を向けられた男性は眉根一つ動かさずに言った。
「君に私を止める権限などないはずだが」
少女もまたその顔に感情を宿さず、平坦な声音で言う。
「あなたが来たことがこの村の連中に知れ渡れば、あなたはたちまち血祭りに上げられることでしょう。あなたの身を案じてのことです。すぐにお引き取りを」
男性は目を瞑り、鼻先で小さく笑う。
「君たちの思想統制が行き届いているようだ。ここの村人たちの目には、我々が人類を滅ぼす悪魔の尖兵にでも見えているのかね」
「あなたたちのお住まいには鏡がないのですか? なんなら手鏡をお貸ししましょうか」
少女の皮肉に、男性は再び鼻先で小さく笑う。
「我々の目的は神が用意した2つの宿命のどちらかを選ぶしかない人類に新たな選択肢を与えるものであり、神の意志に対して叛逆を試みる真のレジスタンスだ。人類補完計画が人類の滅びに向けたロードマップであるという世迷言は、君たちが自らの立場を正当化するために用いた詭弁に過ぎん」
男性の発言を、今度は少女が鼻先で小さく笑う。
「おー怖っ。それこそカルト教団の世迷言にしか聴こえなないんですけど」
「いずれにしろ第2の少女。いや…、今は第9の使徒と呼ぶべきかな」
男性のその言葉に少女の眼帯で隠れている左側の眉が反射的にぴくりと動いたが、表情筋を総動員させて表に出ている右側の眉は動かさなかった。
「我々が望むのは人類の未来の恒久的な存続であって、滅亡などではない。争いや飢餓によって救済すべき魂が減少することは我々の望むものではない。故に、この村を始めとする世界各地の隔離地区の支援物資や技術供給の大半はネルフによるものだ。君たちはクレイディトなる団体による救済支援活動を殊更喧伝しているようだがね。式波・アスカ・ラングレー大尉」
「今は少佐よ」
男性の講釈を黙って聞いていた(聞き流していた)少女は名前を呼ばれ、すかさず訂正を入れるが、男性は無視して続ける。
「君がヒトの形を保っていられるのも、我々ネルフの技術が流用されていることを努々忘れぬことだ」
「で?」
少女は肩を竦める。
「ここから先はヴィレとネルフの間で結ばれた協定により定められた非武装中立地帯。ヴィレも、ネルフも立ち入ることは許されない。そんな場所に、何の御用かしら」
「我々のドローンによる監視によれば君は昨日、この村の中心部まで立ち入ったようだが」
「記憶にございません」
「君がその手に持っているものは何だね」
「ただのおもちゃよ。え? なに? 本物に見えた? へいへいビビってる~」
むしろ協定を破っている方である少女の厚顔さに、男性は呆れたように溜息を吐いた。
「綾波タイプ、ナンバーシックス」
男性が呟いたその言葉に、少女の顔から表情が消える。
「我々が所有する綾波タイプの生体反応がこの地区で消えた。おそらく活動限界を超え、固体を保てなくなったのだろう。私はその身柄と所持品を回収しに来ただけだ」
少女は構えていた拳銃を下ろす。
「もし君が保管しているのであれば、いずれも私たちに引き渡してほしい」
「嫌…、だと言ったら…?」
「「あれ」はネルフ所有のものだ。君に拒む権利はない」
「それでも嫌、と言ったら…?」
「その死体も、綾波タイプが着用していたプラグスーツも機密情報の塊だ。拒むと言うのであれば、協定に違反しヴィレに一方的に協力しているこの村ごと消すしかないが…」
少女の眼帯をしていない方の目の上にある眉の端が大きく吊り上がる。
「だったらなんであいつが生きてるうちに回収しに来なかったのよ…!」
男性は少女の怒りの矛先が「この村を消すこと」ではなく、「回収しなかったこと」に対するものであったことに些か戸惑いを覚えつつ言う。
「ヴィレが欧州で派手に騒ぎを起こさなければそうするつもりだったのだがね。何しろ私たちは人手不足なのだ」
舌打ちをする少女の後ろから足音がした。
振り返ると、メガネを掛けた青年が立っている。右手に以前は黒の、今は白に変色したプラグスーツを。そして左手にはオレンジ色の液体で満たされた大きな密閉瓶を抱えて。
男性は片方の眉を上げながらメガネの青年を見る。
「協定監査員か。君もとても中立とは言い難い振舞いをしているようだが」
青年は少女の横を通り過ぎ、男性のもとへと歩み寄る。
「彼女はあなたの言う綾波タイプを捕虜として丁重に扱いました。この村の中心部に入ったのも、捕虜を守るために身の危険も顧みずにとった行動です。賞賛されこそすれ、非難されるべきではない」
男性へと、持っていたものを差し出す。
差し出されたもののうち、まずは白のプラグスーツを受け取った男性。次にオレンジ色の液体で満たされた密閉瓶に手を伸ばそうとして。
「碇シンジが…、泣きながら回収したものです…」
青年のその言葉に、男性の手が止まる。
「第3の少年…は、…今…」
「ひたすら悶えてますよ。泣き腫らして苦しんで…、それでも必死に乗り越えようと藻掻いてる」
「ふむ…」
男性は、改めて密閉瓶を受け取った。
2人の会話を聴いていた少女が口を開く。
「そいつは…」
少女の青い瞳から注がれる視線は、男性が持つ密閉瓶の中身へと向けられている。
「そいつは、本当にこの村を愛してた…。あんたやあたしなんかより、よっぽど人間らしく生きてたわ…」
視線を、男性の目へと向ける。
「モノとしてじゃなくて、ちゃんと人として葬ってあげて…」
* * * * *
自室に戻った男性は部屋の中央に置かれた一人掛けのソファに深く腰掛け、足を組みながら壁に映し出される映像を眺めていた。
ソファの前に配置されたセンターテーブル。そのテーブルの上にあるのは投影機。
目的のものを回収した彼が、彼が所属する組織の本部に帰着した時にはすでに深夜を回っていた。夜が明ければこの本部を丸ごとこの惑星の極地へと移動させるという大仕事が待っているため、寝る前に回収した物品の確認作業を済ませることにした彼は、白に変色したプラグスーツから抜き取ったメモリーチップを投影機に差し込み、そのチップに記録されている映像を再生させていた。
着用者が活動を開始する(起床する)と同時に撮影が開始される仕組みの、プラグスーツの襟元に仕込まれた極小カメラによる映像。
その映像に記録された光景は、この国の原風景と言えるものだった。
広場に並ぶ前世紀の鉄道車両。六畳一間に一家が揃って食べる食卓。薄い障子や襖で仕切られた部屋。棚に置かれた黒電話に、天井近くに吊るされた神棚。土間の端にあるモザイク柄のタイル流し台の前に立つ、赤ん坊を背負った女性の後ろ姿。
それらはいずれも、この国の地方の片田舎出身である男性の幼少期の頃に見た光景を想起させるものだったが、男性の目は壁に映し出されるそれらの映像を無感動に見つめている。
男性の指が投影機のコントロールパネルに触れる。すると壁に映し出される映像は通常の数十倍の速さで流れ始めた。目まぐるしく変わっていく映像の中の風景。突然現れては、あっという間に消えていく人々。
極小カメラの着用者は家屋の外に出る。長屋が並ぶ居住区を抜け、郊外へと出ると、見えてきたのは豊かな水を湛えた田園風景。どうやら極小カメラの着用者はこの村に拘留されている間、農作業に従事させられていたらしい。強制労働と呼べるほどの過酷なものではないようで、食事が与えられ、定期的に休憩が与えられ、着用者はこの村でそれなりに人道的な扱いをされていたようだ。
一人称視点で綴られる映像記録。泥水の中にはまるで手品のように稲の苗が次々と並んでいったり、視点が泥水の地面から突然空へと切り替わったり、村の女性たちが視界に収まってはすぐに消えたりと、通常の数十倍で流れていく映像は落ち着かない。
鉄道車両の下に住み着いた大きなお腹をした猫。鉄道車両を利用して運営されている図書館で広げた絵本。卵を奪いにきた人間を警戒する鶏。着用者の前をはしゃぎながら走り回る子供たち。「再教育」でも受けさせられていたのだろうか。時折学校の教室と思しき場所で、長机の端からメガネの教師が立つ黒板を見ている映像も入っている。
何処を切り取っても長閑な田舎の風景。夜が更ければ布団に入り。夜が明ければ布団から出て、朝ごはんを食べ、労働に出かける。同じことを淡々と繰り返す極小カメラの着用者の日々を、高速で再生される映像は慌ただしく映し出していく。
そんな時間の流れを凝縮させたよな世界の中で、とある場面だけはまるで映像の中の時が止まったかのような。慌ただしく流れる時の中で、そこだけを静止画として切り取ったかのような。そんな場面が繰り返し現れるようになった。
それは朽ちかけの廃墟の中。
前面の壁は綺麗に崩れ去っており、その先には翠玉色に輝く静かな湖が広がっている。
その崩れかけの廃墟の床に座る人影。
着用者に向けられた、項垂れた小さな背中。
投影機が誤作動を起こしているのではないか。そう勘違いしてしまうほどに、高速で流れているはずの世界の中で、その廃墟の場面だけが数十秒間だけ静止している。
映像上では数十秒間。しかし実際の世界では数十分間、あるいは数時間の時を刻んでいるはず。
それでも、小さな背中。少年の後ろ姿を映し出すその場面だけは、時が止まったかのように動かない。
映像の中に映っている唯一の人物である少年も、背を向けたまま動かないし、その少年の背中を映し出している極小カメラの着用者も身じろぎ一つする様子がない。極小カメラは、ひたすらじっと、少年の背中を見つめ続けている。
静止した映像の中で動くものは、映像の上半分を占める空に浮かぶ雲と、太陽の動きによって角度と長さを変える影だけ。
もう一つ、気になる場面があった。
所謂ウェアラブルカメラで記録された映像。一人称視点で映し出される映像には、当然ながらカメラの着用者の顔が映ることはない。
それでもその時だけは。
鏡の前に立った時だけは、着用者の顔が映像の中に現れることになる。
鏡に映るのは黒のプラグスーツを纏った、空色の髪の持ち主の少女。
そこは少女が滞在した家の脱衣所だろうか。
洗面台の大きな鏡の前に立った少女。
先ほどの廃墟の場面ほどではないにしろ、この洗面台に立った時も、まるで静止画のように数秒間だけ映像の流れが止まるのだ。
映像上では数秒間。しかし実際の世界では数分間だろうか。空色髪の少女は脱衣所の鏡の前で、数分間という決して短いとは言えない時間を、顔を洗うでもなく、歯を磨くでもなく、自分自身の顔をただ見つめ続ける作業に費やしている。
廃墟の中の静止画も、洗面台の前の静止画も毎日繰り返し。日々のルーティーンのように、スクリーンの中に現れるようになった。
やがて背を向けて座り込むだけだった廃墟の中の少年に、変化が訪れる。
座り込むだけだった少年が、廃墟の床の上で立っている。カメラの着用者に背を向けているのは相変わらずで、どこか頼りない後ろ姿も相変わらずだったが、それでも少年は2本の足で立っている。
そして少年はただ立っているだけではなかった。
その手には、釣竿が握られている。
釣竿の先端から伸びる細い釣り糸は、廃墟の前に広がる湖の中へ。
鏡の前の一幕。一家で囲む食卓。田畑での農作業に教室での勉強。図書館での一時。そして釣り竿を構える少年の後ろ姿。
映像の中で、単調な日々が過ぎていく。
そしてそれは突如として起こった。
廃墟の場面の唯一の登場人物である少年の姿が、見えなくなってしまったのだ。
静かな湖を背に佇む、空っぽの廃墟。
誰も居ない廃墟。
少年は何処に行ってしまったのだろうか。
薄暗い部屋の中では、いつの間にか壁に映し出される記録映像を熱心に見ている男性の姿があった。ソファの背もたれから背中を離し、身を乗り出して、少年の姿を求めて視点の変わらない映像の中を隈なく探す始末である。
廃墟の前に広がる翠玉色の湖だけをひたすら映す映像。
しかしその映像の中に、一瞬ノイズのようなものが走ったことに気付いた男性は、慌てて映像を停止させた。映像を少しだけ前に戻し、今度は通常の速度で再生させてみた。
相変わらず湖だけを映すカメラ。
しかし目を凝らせば、視界の隅から湖の水面に向けて伸びる一本の釣り糸が見えた。
そして映像は先程一瞬だけノイズの走った場面に差し掛かる。
ノイズの正体。それは視点の移動。
カメラが、ゆっくりと右側に振られたのだ。
右へと動く視界。正面にあった湖が消え、廃墟の床や壁が現れ、そして。
そして画面を一杯に占拠するのは、カメラの着用者のすぐ隣に腰を下ろしていた少年の顔。
カメラの着用者のすぐ隣で釣竿を構えながらずっと座っていたらしい少年の顔。
そんな少年の横顔をジッと見つめる、極小カメラのレンズ。
カメラの視線に気付いたのか、構えた釣竿の先端から垂れる糸と浮きを見つめていた少年の目が、ちらりとこちらを向こうとした。
カメラは慌てたように左側へと振られ、映像の中に収まるのは代わり映えのしない翠玉色の湖だけ。
男性は投影機を操作して、映像の再生速度を再び数十倍へと上げる。
ソファの背もたれに背を預け、足を組む。
肘掛けに頬杖を付き、映像を見つめ続ける。
もう一つの気になる場面。
洗面台の鏡の映る、少女の顔。
毎朝の起床直後に現れるこの映像。
じっと、鏡に映る自身の顔を見つめる少女の赤い瞳。
この場面が現れる度に、ソワソワしてしまう。まるで鏡の中の少女がカメラを通してこちらを見ていてるような気がして、男性の心拍数が僅かばかり上昇するのだ。
極小カメラは少女が着るスーツの襟元に仕込まれている。そのため、少女が鏡の中の彼女の顔を見つめれば、自然とカメラそのものを見つめているように見えてしまうのだろう。それは男性にも分かっていることだが、この場面が映し出される度に、鏡の中の少女に見つめられているような気がして落ち着かない。
それにしても、少女は毎朝この洗面台の鏡を見つめ続けて、一体何をしているのだろうか。
次に映像上に鏡に映る少女の顔が現れた時、男性は今度もまた再生速度を通常の速さまで落としてみた。
四角く縁取られた鏡の中に映る少女。
所々がひび割れ、汚れている年季ものの鏡の中に映る少女。
少女は、ただ鏡の中に映る彼女の顔を見つめている。
自分自身の顔を見つめて、突っ立っている。
ひたすら、自分の顔を見続けている。
自分の顔をじっと観察している少女。
自分の顔と向き合ったまま、微動だにしない少女。
そのまま4分が過ぎた。
鏡と少女を淡々と映したまま、何の変化も現れない映像。
映像の再生速度を上げようと男性が投影機に手を伸ばそうとした、その時。
男性はようやく気付いた。
4分も同じ静止画を垂れ流し続けてきた映像の中にあった、僅かな変化に。
その変化が表れたのは彼女の顔。
少女の、口もと。
少女の小さな口の右端が、僅かばかり上がったのだ。
ほんの微かに上がった少女の口の右端は、しかしすぐに元に戻り、少女の口は普段の横一文字に結ばれる。
暫くして、再び少しずつ上がっていく少女の口の右端。右頬を、微かにひくひくと痙攣させながら、歪な曲線を描いていく少女の口の右端。
しかし少女の口の端は見えない糸。普段使い慣れていないのであろう凝り固まった口角下制筋によって望む方向とは逆に引っ張られ、元の位置に戻ってしまい、少女の口は普段の横一文字に戻ってしまう。
同じことを何度となく繰り返すが、彼女の口もとは、彼女自身が望んでいるらしい形を描き、維持しようとはしてくれない。
自分の試みがなかなか身を結ばないことに、少女は肩を大きく上下させて、溜息を吐く。
鏡に映るのは、何となく落胆したような、そんな少女の表情。
そして少女は両手の人差し指を、自身の口の両端に当ててみた。
その人差し指で、口の両端をそっと押し上げてみる。
2本の人差し指に支えられて、少女の口はようやく曲線を描いた。
少々歪ではあるものの、間違いなく緩やかな曲線を描いている自分の口を、少女は鏡を通して見つめる。
指によって強引に押し上げられた口の端がその上にある両頬も押し上げ、頬の上にある両目も押し上げ、その目までもが緩やかな曲線を描いているように見えた。
口の両端を押し上げたままで、顔を鏡に近付ける少女。
人の手によって無理やり作られた表情。
それでも少女の2つの赤い瞳は、その表情をどこか満足そうに見つめている。
突如、カメラが左に振られた。
少女の顔が消え、鏡が消え、映し出されたのは脱衣所の入り口。
入り口の戸が開き、赤ん坊を抱いた女性が入ってくる。
女性と一言二言言葉を交わしているらしいカメラの着用者。
再び視点は鏡へと戻る。
そこに映るのは、いつもの仏頂面の少女の顔。
ソファの肘掛けに頬杖を付きながら、その場面を見ていた男性。
映像に現れた変化に気付いた瞬間から止まっていた呼吸を、思い出したように再開させた。
映像は進む。
いつもの外に出ての農作業。
繰り返し見ている内に、毎回出てくる年配の女性たちの顔も覚えてしまった。
カメラを見る女性たちの顔はみんな笑顔。
カメラを囲む子供たちの顔もまた、みんな笑顔。
そしていつものように農作業が終わった後は湖の畔の廃墟で、あの少年と一緒に動く気配のない水面の浮きを見つめ続ける。
そして夜が更けて。
朝が来て。
いつものように洗面台の鏡の前に立つ少女。
いつものように、口の端を上げる練習を始める少女。
繰り返し繰り返し口の右端を上げ。
この日は12回目の挑戦で、ようやく口の右端を上げたまま維持することができた。
少女の挑戦は終わらない。
右端を上げたままで、すぐに左端も上げることにチャレンジする。
左頬をひくひくと動かしながら、少しずつ上がっていく口の左端。
やがて左端も上がった少女の口は、綺麗な曲線を描くことになる。
少女はとても疲れたように肩を上下させて鼻から大きな息を吐くが、それでも口もとに描いた曲線は壊れない。
そんな鏡の中の少女の顔を、目を輝かせて見つめる少女。
少女は、少女を見ている。
鏡に映る、少女の顔を見ている。
彼女自身の表情を、見つめ続けている。
男性の心臓が一気に跳ね上がった。
鏡の中の少女を見つめ続けている少女。
その少女の目が、自分の目とはっきりと合ったような気がしたからだ。
いや、彼女が見つめているのはあくまで鏡に映る彼女自身の顔。
こちらと目が合ったと感じるなど、気の所為のはず。
そう自分に言い聞かせるが、しかし映像に映る、鏡越しの少女の目。
その赤い双眸から、目を離すことができない。
その赤い瞳が、鏡越しに。そしてカメラのレンズを通して、この映像の前に居る人物を見つめているような気がしてならない。
少女の表情は変わらない。
口の両端を上げたまま、鏡を見つめ続けている。
やがて少女は口を開いた。
薄桃色の唇で縁取られた口が、小刻みに開閉される。
少女は何かを喋っている。
誰かに向かって、話し掛けている。
彼女自身にではない。鏡に映る彼女にでもない。
彼女以外の誰かに向かって、語り掛けている。
少女の顔は鏡に向けられたまま。
少女の瞳は、鏡に映る少女の顔に向けられたまま。
しかし少女の瞳が見つめているのは、本当に鏡の中の少女の顔だろうか。
少女は口を開け閉めして何か言葉を発し続けているようだが、映像を見ている男性のもとまでその声は伝わらない。この極小カメラが記録するのはレンズを通して撮影された映像のみで、音声までは録音されていないのだ。
そのことを、少女は思い出したらしい。
少女の右手の指が、襟元の極小カメラのレンズに触れた。
もはや間違いない。
少女は、カメラに向かって話し掛けている。
少女の赤い瞳は、鏡に映る少女が着る黒のプラグスーツの襟元に仕込まれたカメラのレンズに向けられている。
少女の顔が鏡へと近付いていく。
体が鏡に間近に迫ったため、極小カメラが映し出すのは鏡に映った少女の胸元だけとなり、顔は映像の外へとはみ出てしまった。
3秒後。
少女の体が鏡から離れる。
四角くに縁取られた洗面台の鏡。そこに、少女の顔は映っていない。
なぜなら、鏡の真ん中が白く霞んでいたから。
どうやら、少女が吐く息で鏡を曇らせてしまったらしい。
その曇った部分に向けて、少女の右手が伸びる。
曇った箇所に、人差し指の先端を這わせ始める。
男性の呼吸が一際大きく深く、そして乱れた。
少女が鏡の曇った箇所に書いた文字。
ふゆつき せんせい
鏡の上に、お世辞にも上手とは言えない、ぎこちない筆跡で書かれた文字。
やがてその文字は、鏡に曇りを生じさせている鏡の表面に付着した微小な水滴と共に消えていく。
曇りが消えた鏡に映るのは、少女の顔。
「こちら」を見つめている、少女の顔。
その少女の顔が再び鏡に近付いていく。
少女の顔が消え、少女の胸元だけが映し出される。
3秒後。
少女の体が鏡から離れ、真ん中を曇らせた鏡が大きく映し出される。
そして鏡に向けて伸びる少女の右手。
鏡の曇った箇所を這う、人差し指。
わたし
すき
わかりました
鏡の表面に付着した微小な水滴と共に消えていく文字。
曇りが消えた鏡に映る、少女の顔。
そして鏡に近付く少女の顔。
3秒後。
現れるのは、真ん中を曇らせた鏡。
鏡に向けて少女の右手が伸ばされ、そして人差し指が鏡の曇った箇所に文字を…。
少女の人差し指は文字を書かなかった。
文字の代わりに、少女の人差し指が書いたもの。
描いだもの。
曇った箇所を大きく使って描かれたもの。
それは「愛」を表す世界共通のシンボルマーク。
そのシンボルマークもまた、鏡の表面に付着した微小な水滴と共に消えていく。
曇りが消えた鏡に映るのは少女の顔。
目を細め、頬を緩め、口に緩やかな曲線を描いた少女の顔。
すでに内臓バッテリーの残量が尽き欠けていたらしい少女が着る黒のプラグスーツ。残された全ての電力を生命維持機能に回すため、それ以外の機能が全てオフになる。
投影機を使って壁に映し出された映像。
1月以上に渡って、一人の人物が経験した物事を収め続けた記録。
世界の歪みから生まれ、世界に翻弄され、世界から見放されたはずの一人の少女が精一杯生きた日々を綴った記録。
その記録映像に最後に映っていたもの。
それは、鏡に映る少女の満面の笑顔だった。
照明が全て切られた執務室。
壁に映されていた色鮮やかな映像は途切れ、投影機の投写レンズから壁へと伸びる頼りない光のみが部屋の中を照らしている。
ソファに座る男性。
両膝に両肘を立て、組んだ手に顎を乗せる彼。
彼の視線の先にあるのは、何も映し出さない壁。
鼻孔を通して深く長く出し入れされる空気。大きく上下する肩。
彼の耳に届くのは彼自身の呼吸の音と、胸の中で激しく鼓動する心臓の音。
まるで熱にうなされたような体。
体を支配する変調を意識せざるをえない中で、彼の視線が見つめる先。
何も映し出さない壁。
映像が途切れてから、一度も瞬きをしていなかったことを思い出す。
1度、2度と、意識的に瞬きを繰り返してみる。
瞼によって塞がれる視界。
瞼が上がれば、現れるのは壁。
瞼によって塞がれる視界。
瞼が上がれば、現れる壁。
しかし彼の網膜には、壁は投影されていない。
壁に代わって彼の網膜に投影されているもの。
それはあの子の笑顔。
最後に映った、少女の笑顔。
空色髪の彼女の笑顔が、残像のように彼の網膜に焼き付いていた。
今度は長めに瞬きをする。
次に彼の瞼が開いた時、その中に収まる老いた瞳は、別のところに向けられていた。
そこは彼の執務用テーブル。
そのテーブルの脇に添えられた、丸椅子。
誰も座っていない、空っぽの簡素な丸椅子。
瞼を閉じる彼の目。
暗くなった視界に残るのは、執務用テーブルと、その脇に添えられた丸椅子。
その丸椅子に座る、一人の少女。
細い背中。空色の髪。黒に染められたプラグスーツ。
膝の上に開いていた文庫本を熱心に読んでいた少女は、こちらの存在に気付き、慌てた様子で立ち上がり、閉じた文庫本で顔の下半分を隠してしまう。
―――ここに無断で入ってはいかん。君には何度も言っているはずだが。
叱責を受けた少女は言う。
―――ここ。とても静かで…。落ち着いて本、読めるから…。
瞼を開く。
そこに在るのは、執務用テーブルと、その脇に添えられた丸椅子。
誰も座っていない、空っぽの簡素な丸椅子。
空っぽの丸椅子を見つめる彼の瞳は、まるで何かに導かれるように、彼が座るソファの前にあるセンターテーブルへと向けられた。
センターテーブルに置かれた投影機。
投影機の横に置かれた密閉瓶。
オレンジ色の液体で満たされた、ガラス製の器。
彼は組んでいた手に乗せていた顎を浮かせ、膝に乗せていた肘を浮かせ、その背中をゆっくりとソファの背もたれへと預ける。
その間も、彼の視線は密閉瓶に釘付けになったまま。
一人掛けのソファの肘掛けに両手を乗せて、床に付いた足を少し前に出す。
密閉瓶を見つめ続ける。
「ユイくん…」
自室に戻って以来、初めて彼が発した言葉。
それは、今も網膜に焼き付く笑顔の少女によく似た女性の名前。
「私は…、本当にこのままでよいのか…」
必要最低限の灯りしか点いていない長大な廊下を歩く。
その手に、オレンジ色の液体で満たされた密閉瓶を携えて。
無限に続くような階段を、一定のペースで下り続ける。
扉を開き、とある部屋に足を踏み入れた。
広大な部屋の中央には、円筒形の柱が4つ立っている。
柱の全面はガラス張り。
ガラスの中は空洞になっていて、その中は半透明のオレンジ色の液体で満たされている。
4つ並ぶ、円筒形の水槽。
水槽の中を満たす液体の中を揺蕩う人影。
4つの水槽それぞれに、小さな子供が収まっている。
液体の中に浮いている子供たち。
同じ姿形、同じ顔をしている子供たち。
目を閉じ、最初の目覚めの前の深い眠りの中にいる子供たち。
些かの穢れも知らない子供たち。
まだ何ものでもない、無垢な生命体。
男性は4つ並ぶ水槽の、左から2番目の水槽へと歩みを進める。
水槽の背面に設置された梯子を上り、水槽の天井に立つ。
跪き、天井に設置されたハッチを開いた。
開いたハッチから見える、液体の中を揺蕩う子供の髪。
男性は手に携えていた密閉瓶を見た。
密閉瓶を満たす、オレンジ色の濁った液体を。
密閉瓶の蓋を開く。
密閉瓶を、開いたハッチの上に掲げる。
密閉瓶を、ひっくり返す。
密閉瓶の口から零れ落ちる、オレンジ色の濁った液体。
濁った液体が、水槽の中の澄んだ半透明の液体の中に広がっていく。
澄んだ半透明の液体の中を揺蕩う穢れのない小さな子供を、濁った液体が包み込んでいく。
この行為に何の意味があるのか。
行為者である彼自身も分からなかった。
この行為が何かに変化を齎した時。
その変化が周囲に及ぼす影響もまた、彼には予測できなかった。
男性は25年前の出来事。
彼の盟友が失われた愛する人を、空色髪の少女として蘇らせた時のことを。
彼自身が、彼の盟友に対して言った言葉を思い出す。
―――その変調がいつかお前の足もとを掬うのではないかと、
俺は不安で仕方が無いのだよ。
* * * * *
轟沈した2隻の超大型飛行戦艦がまき散らす猛烈な黒煙の中を、静かに航行するネルフ艦隊旗艦エアレーズング。その超大型飛行戦艦に一人乗り込む、ネルフ副司令官冬月コウゾウ。
エアレーズングが向かう先にあるのは、宙を漂うヴィレ旗艦ヴンダー。ネルフ艦隊との間で死闘を繰り広げ、ネルフ3番艦・4番艦と刺し違えた末に、3つある船体のうち1つを失い、残った船体の機関部も破壊され、航行能力を完全に失った敵艦は、ただ宙を漂うことしかできない。
そのヴンダーは鯨を思わせる中核船体の長大な船尾を自ら切り落とし、その船尾は直下にある巨大なブラックホールの奥に向けて降下している。それは彼らヴィレにとっての切り札。彼らが鋳造した、新たなる槍。
冬月はすぐに手を打ち、破壊された2隻の艦から主機として搭乗していた2機のエヴァンゲリオンを切り離し、槍を追わせていた。
そして冬月に残された最後の仕事。
それはヴンダーの撃沈だった。
上甲板に搭載された4つの砲塔。船底に搭載された4つの砲塔。艦尾に搭載された1つの砲塔。
エアレーズングに搭載された9つ全ての主砲は、すでにヴンダーに向けられている。エネルギーの充填も済ませてある。
あとは、冬月が艦に命じるだけだ。
最初に戦火を交えて以来、10年に渡って抗争を繰り広げた相手。主だった構成員はかつての部下。
躊躇いが些かも無いと言えば嘘になるが、彼らの優秀さ故に、冬月は手を下さざるを得なかった。
「さらばだ。葛城大佐」
艦に、主砲一斉射撃の指示を下そうとした、その時だった。
突然、冬月が立つ艦橋の全ての照明がダウンした。
照明だけではない。
艦橋を覆うように設置された全周囲型モニターの全てがブラックアウトし、あらゆるコンソールの明かりが落ち、艦橋を満たしていた全ての機械音が一斉に鳴り止む。
艦に供給される全てのエネルギーが断たれたことに気付いた冬月は、胸中を渦巻こうとする混乱を抑え込みつつすぐに予備電源に切り替えさせた。
全周囲型モニターが回復し、艦周囲の映像を映し出す。
艦の表面に現れていた異変にすぐに気づく。
冬月は振り返った。
彼が向いた先にあるのは、この艦のエネルギー供給の大半を賄う主機が積まれた艦尾。
その艦尾に生える人影を、冬月は目撃した。
あまりにも巨大過ぎる戦艦。
その艦尾の甲板からにょきにょきと生えてくる人影。
まるで厚い卵の殻を内側からかち割って、この世界に産声を上げた雛鳥のように這い出てきた人影。
あまりにも大きい人影。
巨人は艦体に埋まっていた足も一本ずつ引き摺り出すと、甲板の上に蹲る。
大きな卵から生まれ出た巨人。
丸めた背中に広がるのは、光の輪。
その光の輪に引っ張られるように、巨人の体がふわりと浮き上がる。
赤と濃灰色のカラーリング。
エヴァンゲリオン・マーク10。
母艦から離れた機体は生まれたばかりの小鹿の足取りのようにふわりふわりと宙を舞うと、艦の中央にある艦橋へ向かう。
艦橋の天窓に張り付いた巨人。
巨人の顔が、艦橋の中を見下ろす。
艦橋の中に立つ人影。冬月は、巨人の大きな顔を見上げた。
巨人の顔面に刻まれた十字の奥から覗く瞳もまた、艦橋の中の冬月を見つめている。
交差する2つの視線。
冬月は静かに口を開く。
「それが「君」の選択かね…」
この場で呟いたとて、「相手」に届くはずのないその声。
しかし、冬月の目には艦橋に張り付いた巨人の頭部が微かに上下に動き、頷いているように見えた。
あの時を。
4つ並んだガラス製の柱。
半透明の澄んだ液体に満たされ、その中にまだ何者でもない小さな子供を閉じ込めていた水槽。
その中に、オレンジ色の濁った液体を垂らしたあの夜のことを思い出す。
この行為に何の意味があるのか。
この行為が齎す変化が、周囲にどのような影響を及ぼすのか。
あの時の自分は、本当にその答えを持ち合わせていなかったのか。
本当に、この事態を予測していなかったのか。
冬月は目を閉じ、小さく笑った。
「君のよしなにしたまえ…」
巨人の体が艦橋から離れた。
その背に背負う光輪が、一際大きく、輝きを放ち始める。
それはまるで、飼い主の手から羽ばたき、自由の空へと飛び立とうとしている若鳥の姿のよう。
空中で倒立する巨人の体。
その頭部は、直下に広がる巨大なブラックホールへと向けられる。
そして一気に加速したマーク10の巨体は、瞬く間にブラックホールの深い闇の中へと消えていった。
扉を開けば、それはもはや見慣れた風景。
本棚から溢れ出したありとあらゆる書籍が山積みにされた小さな部屋。
その山積みの本の中に埋もれるように置かれたくたびれた事務デスク。
そのデスクの脇に置かれた簡素な丸椅子。その丸椅子に座る人影の背中を見て、彼は溜息を吐いた。
「ここに無断で入ってはいかん。君には何度も言っているはずだが」
そう忠告するが、忠告を受けた相手からの反応はない。
丸椅子の側に立つ。
丸椅子に座る人物。
白衣を着た女性。
栗色の髪を、襟元よりやや下で摘んだ女性。
デスクの上につっぷして、くーくーと寝息を立てている女性。
この大学で教鞭をとるようになってから二桁の年数が過ぎた。
学生からは変人呼ばわりされ、同僚からは敬遠される彼に与えられた、研究棟の隅っこにある一室。
そんな、訪れる者など皆無であったはずのこの部屋にこの頃毎日入り浸っては、惰眠を貪っている彼女。
くたびれた事務用椅子に腰を下ろすと、擦り切れたスプリングが盛大に軋む。
その軋む音で目を醒ましたらしい。
彼女が、口の端から涎を垂らしながら、ゆっくりと顔を上げた。
朧げな眼差しを周囲に彷徨わせた後、ようやくその瞳を目の前に座る彼へと向ける。
「へ…? 何かおっしゃいましたか…?」
彼女のその間の抜けた顔と間の抜けた口調に、彼は苦笑いをするしかない。そして30秒前に言った言葉を、そのまま繰り返す。
「ここに無断で入ってはいかん。君には何度も言っているはずだが」
彼女は寝癖の付いた前髪を梳きながらはにかんだ。
「ここ。とても静かで誰も来ないから、よく眠れるんです」
巨大過ぎる戦艦に一人乗り込んでいた冬月。
彼以外誰も居ない艦橋の床に腰を下ろしていた冬月は、ジャケットのポケットの中に忍ばせていた一枚の写真を手に取って眺めていた。
エアレーズングから離艦したマーク10。
ブラックホールの中へと急降下する機体の航跡を、艦のレーダーは捕捉していた。そのマーク10は瞬く間にブラックホールの最深部に到達すると、ブラックホールのさらにその奥を目指す巨大な槍を追撃していた僚機。マーク12と合流する。
合流してから3秒後。
マーク12の反応が消えた。
マーク10の反応が、槍へと近付く。
その4秒後。
マーク10の反応が消えた。
レーダー上に残るのは槍。そしてヴィレ所属の8号機の反応。やがてその2つの反応も、ブラックホールの最深部の、さらにその奥へと消えていった。
槍の反応が消えてから3分後だった。
漆黒の闇のブラックホール。
そのブラックホール全体がガラスのように砕け散り、その中から3本の槍が強烈な光を纏いながら飛び出してきたのは。
光を纏う3本の槍はやがて1つの光に融合すると、光煌めく彗星となって赤銅色の空を切り裂き、宇宙空間へ向けて突き進んでいく。その彗星はこの惑星の最南端に宇宙に向けて聳え立つ、12枚の翼を背負った白い巨人。女性の姿をした白い巨人の首から離れ、宙を浮遊する少女の顔をした頭部に向けて真っすぐに飛んでいく。
その彗星はやがて白い巨人の頭部へと到達し。
下顎に深く突き刺さり。
勢いを留めず巨人の頭部の中を突き進み。
左目へと。
赤く輝く瞳へと到達し。
その赤い瞳を穿ち。
白い巨人の頭部を貫いた彗星は、数多の星々が瞬く無限の宇宙へと、音もなく消えていった。
頭部のない女性の姿をした白い巨人の体が、大きく仰け反っていく。
背負った12枚の翼が、少しずつ消滅していく。
そして彗星によって貫かれた白い巨人の頭部は、一度大きく煌めき、そして次の瞬間、無数の塵へと分解していった。
彼の夢が。
彼らの希望が砕け散っていく様を、冬月は見ていないかった。
ある変化が周囲に及ぼす影響を正確に予測していた彼は、わざわざその様子を目視で観察する必要がなかったから。
だから彼は、誰も居ない艦橋の床に腰を下ろし、手にしていた一枚の古びた写真を見つめていた。
「すまんな。碇…」
彼の盟友の名を口にする。
「お前と同じ夢を追い続けるには、私は些か歳を取り過ぎてしまったようだ…」
全周囲型モニターの一角が光り、そこにとある映像を映し出された。
その映像の中に映るのは、一人の女性の顔。
血を滲ませた包帯を頭部に巻いている女性の顔は、艦橋の床に腰を下ろしている冬月を見ている。
『冬月副司令…』
スピーカーを通して、女性の音声が艦橋の中に響き渡った。
冬月は顔を上げず、写真を見つめ続けている。
『私たちは脱出艇にてこの宙域からの離脱を図ります。副司令は…?』
冬月はその問い掛けに対し、左手を頭上に掲げることで答えた。
ジャケットの袖から覗く彼の手。
その手がまるで炎に炙られた蝋のように溶け、オレンジ色の液体へと変化し始めていた。
モニターに映る女性は冬月のその手を見て、目を閉じ、そして眉間に皺を寄せる。
冬月は左手を下ろし、写真を見つめたまま言った。
「すまなかったね、葛城くん。君たちを年寄の道楽に付き合わせてしまった」
女性は目を閉じたまま、男性に向けて敬礼をする。
『おさらばです。冬月副司令…』
その言葉を最後に、女性の顔がモニター上から消えた。
そして冬月は一人になった。
一人になった冬月は写真に写る女性の顔を見つめながら、考え事をしていた。
本を与え。
食事を与え。
仮初めの名を与え。
そして新しい肉体を与え。
何故、どうして自分はあの少女に。この写真に写る女性とよく似た少女にここまで。結果的に彼の、彼らの夢を挫かれる羽目となるまでに、肩入れしたのだろうか。
彼の盟友と同じように、彼女によく似た少女を愛でることで、彼女との思い出に浸ろうとでもしたのだろうか。
いや。
「そうか」
冬月は笑った。
「私にもし家族というものがあったならば、あれくらいの孫がいてもおかしくなかったな…」
瞼を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、あの記録映像の最後に映った笑顔。
それはきっとあの笑顔の持ち主にとっての初恋。
初めての感情に胸躍らせる、少女の笑顔。
10年前に人格を消去され時、調整された感情も初期化されたはずの少女が至った、真の恋。
瞼を開く。
瞼の裏に宿る少女とよく似た女性が写る写真。
写真を見つめる冬月の顔は、満足そうに笑っていた。
金属製の床の上に、はらりとジャケットが落ちた。
宙を舞う飛沫。
ジャケットを中心に広がる、オレンジ色の液体。
舞い降りた一枚の古びた写真が、オレンジ色の液体の上を静かに揺蕩う。
* * * * *
慌ただしく出発の準備を整えた鈴原トウジは勝手口にある靴を履いて外に飛び出そうとしたところで、部屋の奥から彼の愛する妻、鈴原ヒカリに呼び止められた。
「あなた。相田くんから電話よ」
「ケンスケ? おうケンスケか。ちょうど良かった」
トウジは靴を脱ぎ捨てると、電話の前に駆け込んだ。妻から受話器を受け取り、耳に押し当てる。
「ケンスケ。今お前んところに行こう思うとったところや。お前の車、出してくれへんか? 街の方に行きたいんやが。は? なんやお前。もちっと落ち着いて話せや」
トウジ自身、自分の気持ちが逸っていることを自覚していたが、受話器のスピーカーからはトウジ以上に彼の親友の慌てた様子の声が鳴り響いている。
「は? わいんところの食料を分けてくれ、やと? そりゃ構わんけど。お前何しとん? は? 料理? てんで追い付かない? なんやお前。パーチーでもやっとんかいな? あ? ようやく彼女が寝たところ? でも起きたらまたべらぼうに食い始めるから今のうちに食い物こさえとかなあかん? 奇妙な生きもんも連れてて、それがまたやたらと食う? おぉぉぉぉ、なんやよう分からんが忙しそうやの。ほんまはお前にも一緒に付いてきて欲しかったんやがしゃーないな。とりあえず、お前んとこの車貸してくれな。ええな? おうおう、米でも芋でも何でも持ってったるさかい。ほなな~」
電話相手に約束した通り、食料が入った麻袋を抱えながら再び靴を履き始めるトウジにヒカリは声を掛ける。
「あなた。気を付けてね」
夫を心配する言葉掛けの割に、妻の顔はいたって晴れやか。
「おう。しっかしほんまなんかのう。街に人が戻り始めたっ、ちゅうのは」
「あなたも見たでしょう、あの虹」
ヒカリは夫に弁当が入った包みを渡しながら微笑む。
「これからはきっと、良い事ばかりが起こる。そんな気がするの」
トウジも包みを受け取りながら笑った。
「おう。ほんまにそうやったらええのう。ほんじゃちょいと様子見てくるわ」
慌ただしく出ていった夫と入れ替わりに、ヒカリのママ友である近所の女性が鈴原家の勝手口に顔を出す。遠ざかっていくトウジの背中を見送りながら女性は言う。
「先生も忙しそうね。うちの旦那も渡り鳥が来たとか騒いで、朝早くから湖の方に出かけてしまったわ」
「まるで昨日のあの虹が差してから、世界が生まれ変わったようね…」
「ふふっ、あたしも今朝から何だか元気だし。腰痛で寝込んでたうちのおばあちゃんも鍬持って畑仕事に出かけてしまうし。うちが飼ってる牛なんて、おっぱいじゃぶじゃぶ出して幾ら搾っても追い付かないんだからまったく…。あれ?」
女性は、ヒカリの肩越しに部屋の奥を見る。
「あれ? あんたのところ、2人姉妹だったかしら?」
ヒカリは女性の視線を追い掛けるべく、振り返った。半分開いた襖の隙間から、隣の部屋に敷かれた布団が見える。
「ああ、あれ?」
布団の上に寝ているのはヒカリの一人娘。
「いいえ。うちはツバメだけよ」
「え? じゃああの子は?」
鈴原家の一人娘が寝ている布団に、もう一つの人影。
赤ん坊に寄り添うように寝ている、小さな子供。
「さあ」
ヒカリは自分の一人娘の隣で寝ている小さな子供を、我が子を見るような眼差しで見つめつつも、不思議そうに首を傾げている。
「さあ…って」
「今朝起きたら玄関の前で眠ってたのよ」
「もしかして捨て子? 今時珍しいわね」
「見てよ。まるでずっと前から姉妹のようよ。あの2人」
布団の上で寄り沿い合いながら眠る赤ん坊と小さな子供。2人とも小さな口もとからむにゃむにゃと寝息を零しながら、幸せそうに夢の世界に身を委ねている。
ヒカリの笑顔に誘われるように、女性の顔にも笑みが宿った。
「本当ね」
「ねえ? 思わない?」
「え? 何が?」
「あの子見てると、なんだか「そっくりさん」が戻ってきたような感じがするのよね」
布団の上で身じろぎする小さな子供。隣で寝ている赤ん坊に腕を伸ばし、まるで湯たんぽ代わりのようにして抱き締めると、赤ん坊もまた短い腕を伸ばし返して、小さな子供に抱き着く。
ヒカリが言う「そっくりさん」に幼い娘と揃って何度もハグされた経験のある女性は、ヒカリの一人娘に抱き着いている小さな子供を見て微笑んだ。
空を見上げれば、まるであの子の髪の色のような、明るい青。
そして視線を落とし、鈴原家の奥の部屋を覗き込めば、まるで今日の空のような髪の色の小さな子供。
女性は鈴原ヒカリの言葉に心から同意する。
「ええ。本当にそうね」
☆このお話でやりたかったこと☆
☑ 碇くんがもう、エヴァに乗らなくて、いいようにする。
☑ 食事会の実現。
☑ とりあえずゲンドウ。お前は一発殴られろ。
☑ 黒波生存。
☑ ほかのキャラもなるべく生存。
☑ アスカさんの咬ませ犬人生をどうにかしたい。
☑ カヲルくんの生き様がもうちょい報われてほしい。
☑ 散々引っ張ったS-DATにもうちょい活躍してほしい。
☑ チルドレン全員が揃う。
□ LRSエンド ←あとココォ!!