ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
悪魔の罠を枯らし、飛翔する鍵を掴み、チェスでチェックメイトを宣言し、トロールの死体を登り、論理パズルの解を導いて、ハリーはついに真の敵と相対した。
「あなたが?」
クィレル教授。闇の魔術に対する防衛術の教師として志願しておきながら、あまりにも退屈な授業とひどい吃音、そしてなにより臆病な振る舞いからほとんどの生徒に嘲られていた彼が、なぜ?
ハリーの問いに答えるクィレルは自信に満ち、尊大で、冷笑すら浮かべている。
杖も使わずに宙空から縄を呼び出し、ハリーの体を拘束して、クィレルはみぞの鏡に向かいあった。そこに賢者の石が隠されているという彼は、まだそれを手に入れていないようだ。
時間稼ぎでしかないとわかっていて、それでもハリーは彼に呼びかけた。
「あのトロールはただのトロールじゃないって、僕、そう聞きました」
「ああ、あれは見事な改造だった。ご主人様の力をお借りしたのだ」
「改造?」
「そうだともポッター、生命の改造だ。通常、生物は改造の過程で痛みに耐えかねて命を捨てる。あるいは改造を終えてからでもいい。しかし、感覚が鈍麻していれば改造後も動き続ける……」
語りはじめたときは上機嫌だったクィレルは、次第に声を小さくしていった。
震えている。
「ご主人様の力は果てしない。だからこそ、私はご主人様に律されて正しい行いを選択できるのだ……」
声ににじむ恐怖がはっきりと感じ取れる。
プロメテアの研究室で会ったスリザリン生の女の子、ダフネはクィレルを「一筋縄ではいかない魔術師」と評していた。事実、ハリーは手も足も出ずに拘束されてしまった。
しかし無敵ではない。
勝機がないわけではないはずだ。クィレルから聞こえる奇妙な声に促されて立ち上がった時、ハリーの心は勇気で満たされていた。
熱。ハリーの体を、魂を揺らす衝動はまるで奥底に宿っていた小さな燻りが火となったかのような、力強く輝かしい感覚だった。
「何が見える?」
「僕がダンブルドアと握手しているのが見える」
嘘をついた。解決策が見つかるまで、なんとしてでも時間を稼がねばならない。すでにハリーは
「僕の努力がグリフィンドールの寮杯につながったんだ。それに……うわあ、魔術師の決闘でチャンピオンになった!」
しかし、ハリーの思惑を嘲笑うかのように、クィレルから聞こえる声がハリーの嘘を暴いた。
クィレルがターバンを解く。
「そんな……」
クィレルの後頭部を歪めて取り憑いたような、不気味な顔がハリーを睨んでいた。
蛇を思わせる鼻孔、血走った眼、蝋を溶かしたような白い顔。まったく知りもしないのに、ハリーの本能が彼の正体を告げている。
ヴォルデモート卿。ハリーが記憶にもない赤子のときに消し飛ばしたという、闇の帝王だ。
「ハリー・ポッター……」
「ヴォルデモート」
「なんとも勇ましいな。俺様の名を口にすることができる少年がこの世にどれだけいることか……しかし、俺様が石を手にしてもその勇気が挫けないとは思えんが」
「石は渡さない! お前なんかにはもったいない!」
ハリーは叫び、この部屋に入るために抜けてきた炎の壁へと走った。
炎が身を焦がすかもしれない。そんな恐怖よりも優先すべき気持ちがハリーを突き動かしている。
「捕まえろ!」
クィレルがハリーの腕を掴んだ。
貫くような痛みがハリーの額に走る。額の傷痕が割れそうだ。
痛みにすくんだ体が咄嗟にクィレルの腕を振り払った。砂を払うような軽さだった。
振り返ると、クィレルの体が崩れはじめていた。まるで石像が風化する様子を早送りしているような、もしくは卵の殻が朽ちていくような……。
「愚か者め、少しは役に立つことをしろ……!」
悲鳴とともに崩れ去るクィレルを目の前にして、ハリーはどこか終わりを感じていた。あるいは油断だったかもしれない。
黒く淀んだ爆風がハリーを吹き飛ばした。
石の柱に頭をぶつけた痛みで視界が揺れる。ぼやけた世界で、クィレルの内側からヘドロのようなドロドロが這い出てくるのが見えた。
どこか蛇を思わせるそれは歪な腕を胴から生やし、半端に残ったクィレルの体を引きずって、ハリーへと迫ってくる。赤い眼光に睨まれて体がすくんだハリーにできることは、助けを求めて祈ることだけだった。
「お願い、誰か……誰か……!」
這って柱の裏へと下がったハリーの指が、白く朧げに光るサインに触れた。
『霊体「光なきプロメテア」を召喚しました』
燐光が形をなしていく。
ハリーの胸元にしまわれた
「助けて!」
ハグリッド、マクゴナガル、ダンブルドア。
今この状況で、その誰よりも心強く感じる味方の細い腕が、強引にハリーの体を起こした。
「――立て、ポッター。お前はまだ生きていいはずだ」
ゴーストよりははっきりとした、しかし白くぼやけた彼女。プロメテア・バーク。
何が起きているのかわからない。間違いないのは、彼女がハリーの声に応えてくれたということだ。
***
プロメテアはハリーを勇気づけるように不器用な微笑みを向け、それからクィレルだったものへと体を向けた。
「人の膿とは、厄介な相手を……」
「バークさん、これって一体」
「質問はあとでゆっくり答えてやる。奴は見た目より機敏だ、私から離れるなよ」
そう口にした直後、プロメテアはハリーの腕を引いて駆けだした。小さな歩幅だが、これまでに見たことがないほど全力だ。そしてその全力をもってしても、ハリーを押しつぶそうとする牙と爪からは逃れられない。
ハリーはようやく頭がはっきりしてきて、この死地を生き延びるために考えを巡らせはじめた。考えなければ命はない、その程度のことは理解している。
悪魔の罠もそうであったように、強大な存在でも弱点さえ突くことができれば対処できるかもしれない。そして、ハリーの手を握っているのは叡智そのものだ。
「バークさん、あいつの弱点は!」
「火だ!」
「じゃあ、火の魔法!」
「私には使えない、領分が違うからな!」
巨大なヘドロの腕がハリーの背をかすめる。
風圧によろめいたとき、ハリーの視界に強い明かりが飛び込んだ。
火の壁は少しも乱れることなく、部屋を封じ続けている。あれは魔法の火に違いない。
「バークさん、こっち!」
「何か見えたのか?」
「火の壁は魔法の火だ、きっと力になる!」
プロメテアが袖を振るい、細長い枝のようなものを取り出した。先端には布が巻かれている。松明だ。
投げ渡されたそれをハリーがつかみ、そして火の壁から火をこそぎとった。
熱さで指がなくなりそうだ。
ようやく武器を手に入れた。反撃しなければならない。そう思って振り返った瞬間、ハリーの視界を覆い尽くすようにして肥大したヘドロの蛇が襲いかかった。
負けたくない。
「――投げろ!」
プロメテアの小さな手に握られた鈴を中心に広がる護りが、ハリーに一瞬のチャンスを与えた。
ハリーは握った松明を投げつけた。
「いけッ!」
松明が蛇の口に吸い込まれる。
そして、黒く淀んだ蛇は一瞬にして炎に包まれた。
「やった……」
蛇の奥から悲鳴が聞こえる。もはや獣とすら思えない軋んだ音で、苦悶を訴えている。
ひょっとして、これはクィレルの悲鳴なのだろうか。ヴォルデモートの魔法で怪物にされてしまったクィレルが、最後の声を発しているのだろうか。
焼けた蛇がしぼんで消えていったあと、そこには死体も残らなかった。
「やった……やった!」
勝利だ。
緊張の糸が切れたハリーは、体中の痛みと疲れに崩れ落ちた。もう一歩も動けそうにない。松明を握っていた手は焼け落ちたのではないかと思うほどだし、肋骨が折れているような気もする。
「よくやった、ハリー」
薄れゆく意識のなかで、ハリーは誰かがそっと自分の頭を抱く温かさを感じた。
《紫紺のターバン》
闇に湿った古いターバン
妄執の殻となったクィレルが巻いていたもの
正体を隠すために施された秘匿の術はもはや機能しない
あるいはささやかな学びの糧となるだろうか
内に溜まっていた人の膿は、しかし確かに封じられていた
臆病であるがゆえに人を捨てられなかったのだ
そしてそれは、本来誇るべきことのはずだった