ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
「どうして魔法族とマグルが対立してるか、ね。魔法史の範囲だったかしら」
「違うと思う、たぶん」
唐突に尋ねられたハーマイオニーは訝しげに眉をひそめたが、「本を取ってくる」と席を立った。
クリスマス休暇中の談話室はいつもの騒々しさからは想像できないほどに閑散としていて、暖炉で薪の爆ぜる音とスキャバーズのいびきを除けばほとんど何も聞こえないほどだ。少し前まではフレッドとジョージがロンに軟膏のような魔法薬を練らせていたが、二人とロンが完成したペーストを瓶に詰めて意気揚々と出ていってからはハリーたちが談話室を独占していた。
スリザリンの継承者がマグル生まれを殺して回るという噂が実際の事件によってある程度裏付けされてしまったことで、多くの生徒がクリスマスを実家で過ごすことを選んだ。たとえホグワーツに残ったとしても、継承者の有力候補とされているハリーと一緒に過ごしたいと思う生徒は少ないらしかった。
しかし、継承者がなぜマグル生まれを殺すのかという疑問は今のところハリーの中で解決していない。スリザリンはマグル生まれを嫌っている、なぜならスリザリンはマグル生まれを嫌っているから。プロメテアが言うところの「唾棄すべきトートロジー」が常識として流布されていて、その常識に「なぜ?」を唱える人はほとんどいない。
ただ、ハーマイオニーが寝室から抱えてきたカビ臭い大きな本を目にしたときばかりはさすがに尻込みした。ハグリッドの手のひらよりも大きくて分厚い本を読まないと解決しない疑問だとは思わなかったのだ。
「バチルダ・バグショットの『魔法族史』よ。だいぶ前に絶版になってるから、私のお小遣いで買えるのだとあんまり状態がよくなくて」
「『魔法族史』? バグショットって魔法史の教科書を書いてる人だよね?」
「そう、その人。ただ……あまり期待はしないほうがいいかも」
「バグショットは教科書を書いてる先生で、君はハーマイオニーだ。僕が期待するには十分すぎる条件が揃ってるよ」
ハーマイオニーは少し照れくさそうにはにかんだ。
「ありがとう。でも、そうじゃなくて……まあいいわ。魔法族とマグルの対立について言及してるのは14世紀だから、このあたりね」
開かれたページにはびっしりと細かい文字が刻まれている。ざっと流し見た限りでも疫病、暗殺、傀儡といった言葉が並んでおりあまり平和な時代ではなかったとわかった。
その中にごく当たり前のような顔をして登場した家名がある。マルフォイ。
「黒死病を装った呪いによって多くの非魔法族が殺害された。魔法族の多くがニコラス・マルフォイを疑ったが、魔法評議会はニコラスを非難しなかった……これって、そういうこと?」
「まあ、昔からマルフォイは疑われるだけのことをやってたってことね。でも、非難しなかったのは魔法評議会、つまり今の魔法省にも理由があるの。続きを読んでみて」
そこに書かれていたのは魔女狩りの歴史だった。
マグルが魔法族を恐れた末に集団パニックを引き起こし、魔法を使った者や疑わしい者を拷問の末殺害するという残虐非道な行い。まるで狂気が感染するかのように流行した魔女狩りは、魔法族の歴史にも記録されている。
授業ではそこまで深く扱われなかったし、魔法族は「いくらかの愚か者」を除いてほとんど犠牲にならなかったと教えられた。火あぶりや水責めは魔法族にとってそれほど脅威ではなかったし、姿を隠して逃走したりマグルの警戒心を解いたりするのも難しいことではなかったからだ。
「私もこの本をちゃんと読むまではそう思っていたの。でも……」
「そうだね。それで身を守れるのは
たとえば自分と親しくしていただけのマグルが「魔女だ」とされて拷問にかけられようとしていたら、その人を見捨てて自分だけ逃げることはできるだろうか?
もしくはフィルチのようにスクイブだったり、まだ魔法を使いこなせていない子どもや若者だったりしたら、どうやって自分の身を守れるだろうか?
確かに魔法族の犠牲者はごく少数だった。しかし、その親族、友人、恋人、子どもは勘定に含まれていない。
ハリーはなんとなくドラコがこぼしたあの言葉の意味がわかった気がした。
「ニコラス・マルフォイも誰かを喪ったのかな」
「どうかしら、そこまでは書いてないからわからないわね。それに……バグショットはこの本を出版したことを後悔しているらしいの。買うときに古書店の店主さんが教えてくれたんだけど、この本はだいぶ魔法族贔屓に書かれてるんですって」
「……そっか、そうだね。マグル側の事情がほとんど書いてない。これじゃいきなりマグルがイカれて魔女狩りを始めたみたいだ」
「たぶん、いろんな理由があるんでしょうね。宗教とか、経済とか。私たちがするような喧嘩だっていくつもの理由が重なっているんですもの、こんな規模の大きい争いが簡単に説明できるとは思えないわ」
ハーマイオニーがぱたんと本を閉じると、よれたページの隙間からわずかに埃が舞い上がった。
「バグショットの大甥に、この本の内容みたいなことを言ってマグルやマグル生まれを殺した犯罪者がいたらしいの。だから内容は疑って読めって言われたわ」
「それって……ヴォルデモートだったりしないよね?」
「たぶん違うわね、例のあの人よりは
「そっか。……ありがとう、少し詳しくなれたよ」
「どういたしまして。もしかしたらロンのお父さんとか詳しいんじゃないかしら? 魔法省でマグル製品のお仕事をされてるんですもの」
「そうだね。それに車のこと謝らなきゃ」
ホグワーツまでの旅を共にした空飛ぶ車は現在禁じられた森で野生化した姿が目撃されている。夏休み中はとてもお世話になったのに恩を仇で返してしまったことをハリーはいまだに申し訳なく思っていた。
ずっとテーブルの上でいびきをかいていたスキャバーズがぱちりと目を覚まし、談話室の出口へと素早く駆けていく。どうやら飼い主が帰ってきたようだ。
「まったく、フレッドとジョージったら信じられないよ。ロックハートにクリスマスプレゼントだって言って塗ると虹色に光るポマードを渡したんだ」
「そんな! 先生は無事なの?」
「髪の毛が1280万色に光るだけの状態を無事じゃないと言うなら今すぐホグワーツの教師を辞めるべきだと思うね、僕は。そんなメンタリティで生きていけるほどホグワーツって城は優しくないんだ」
「先生は誰かさんと違ってちゃんと身だしなみに気を使う人なの! 毎朝ボサボサの髪を整えずにあくび混じりで談話室に降りてくる人と同じ基準で語らないで!」
どうやら歴史書を疑って読むことはできても、ハンサムな作家の作品を疑って読むのにはまだ時間がかかるようだ。いつも通りな口喧嘩の仲裁に入りながら、ハリーは思わず小さく笑った。
***
魔法で自動操縦された最新型のクルーザー、ウィスキーと葉巻の揃った優雅なキャビン、温かいココアとメイプルビスケット。冬の北海とは思えない快適な船旅を提供されようとも、プロメテアの機嫌はよくならなかった。
「そろそろ着くぞ。いい加減に半べそをかくのをやめてくれんかね、現地の役人に無用な心配をかけることになる」
「……条件に入れるべきでした。死ぬような思いをするのも御免です」
「死にはせん、儂は何事においてもやりすぎないのが肝心だと心得ておる」
吸魂鬼をアズカバンから攫ってきて13歳の少女にぶつけるのは世間の基準では間違いなくやりすぎなのだが、アブラクサスに常識は通用しないらしかった。
これからアズカバンに行くから、本物の吸魂鬼を相手に守護霊の呪文を練習しろ。そう伝えられたときにプロメテアは確信した。この老人は気が狂っている。
結局プロメテアが出せたのは頼りない霞だけだが、それでも十分すぎるほどだ。有体守護霊はそう簡単に創り出せるものではない。
「どうにも頭でっかちでいかん。守護霊の呪文に必要なのは理屈や数式ではなく強い気持ちじゃ」
「その手の魔法は苦手なんです。ご存知かと思いましたが?」
「ご存知じゃとも。お主が呪文学を不得手とするせいで初年度の学年主席を取り逃したことは儂にとっても記憶に新しい」
大変不愉快なことに、事実だった。
アブラクサスが指摘するとおり、プロメテアは理屈で魔法を扱う。そして呪文学で扱う類の魔法はその多くが「はっきりとしたイメージと強い気持ち」という漠然とした力が理屈の代替として機能している。
守護霊の呪文は呪文学系統の魔法の極地と言ってもいい。そんなプロメテアが実体を伴わなくとも守護霊を出せただけ僥倖というものだろう。
「まあ、あとは反復練習じゃな。ホグワーツでも練習するように。お主のためにもなることじゃ」
守護霊は役に立つ。なんといっても吸魂鬼を撃退する唯一の方法だし、姿形が固有であるために本人証明に使うこともできる。アルバス・ダンブルドアが開発した技術を用いれば守護霊に伝言を託すこともできるらしい。
確かに使えたほうがいいのだろう。必要に迫られて練習するほうが身につきやすいのも事実だ。しかし、死ぬような思いをしながら苦手なことをさせられる不快感は凄まじいものだった。
「儂に言わせれば、魔法を理屈で扱おうというのが見当違いじゃよ。理屈や技術は所詮合理化された不自然に過ぎん。魔法という現象が先立ち、解釈は遅れてついてくる」
「御高説をどうも。いかがです、死ぬ前にホグワーツで教鞭をとられては」
「不良中年のダンブルドアがいたころならともかく、作家気取りが座らされるような席に自ら就くのは性に合わん」
不良中年のダンブルドア。想像もつかないが、あの髭老人にも若い頃があったのだろう。
プロメテアが視界を閉ざして以来、ダンブルドアとは奇妙な縁が続いている。ホグワーツでは研究室を訪ねてくることもあるし、ヴォルデモートの件ではプロメテアから協力を申し出ることもある。
ダンブルドアのことは嫌いではない。変身術の学術雑誌である『変身現代』に掲載されていた動物もどきに関する論文を読解していたとき、ふらりと現れたダンブルドアがちょうどプロメテアの詰まっていたところを解説してくれたこともあった。
学びに専念できる環境を手配してくれたことにも感謝している。しかし、彼が演じているおちゃめで愛嬌のある老人という仮面にはどうも慣れないし、それどころかたまに胡散臭いと感じる。
ダンブルドアがプロメテアを警戒していると感じさせられることもある。寮監のスネイプは明らかにプロメテアを監視している。色々とわがままを言ってダンブルドアを困らせたプロメテアにつけられたお目付け役だろうとプロメテアは予想していた。
どうにも生まれ育った環境と刺客としての記憶が邪魔してしまって中々気づけなかったが、プロメテアは一般的な子どもとしての常識の範疇に収まらないせいで周囲に心労をかけているらしい。
プロメテアが興味を示したのをこれ幸いと、アブラクサスは愉快そうにダンブルドアの昔話を語りはじめた。
「あれは奴がまだ変身術の教授だったころの話じゃ。悪童の心をつかむコツをわきまえておった。とはいえ、よく仕事をサボってヨーロッパ中をほっつき歩いておったが」
「ゲラート・グリンデルバルドの時代ですか」
「そうとも。ダンブルドアとグリンデルバルドは思想的に対立していたわけではない。グリンデルバルドの過激なやり方が反感を買って、ダンブルドアという英雄に退治される悪役という構造に持ち込まれたというだけじゃ」
「しかし、なぜダンブルドアが?」
「私情じゃよ。二人はプライベートで深い仲じゃった。両者の信奉者が躍起になって過去を抹消したが、そう簡単に歴史はなかったことにできん」
スコッチで口を湿らせて、アブラクサスは息を吐いた。自分の学生時代にでも思いを馳せているのだろうか。
「あれからもう50年も経つのか。まだディペットが校長をやっていたころの話じゃ」
「アーマンド・ディペットですか。誕生日パーティー中に事故で亡くなったそうですが」
先代の校長であるアーマンド・ディペットは今年度を迎える前に他界した。人望がないわけではなかったが、あまりに長く生きたせいでそれほど惜しまれる最期というわけではなかったとプロメテアも耳にしている。
1637年生まれだ。どんな心境で生き、どんな心境で死んだのか、プロメテアには想像もつかない。
「事故、か。そうじゃろうとも。355年生きたディペットでも死からは逃げ切れんということじゃ。……さて、到着したぞ」
ほとんど揺れもなく、船が停まった。
差し出された手を取り、船から桟橋へと渡る。磯臭さでは到底隠しきれないおぞましい存在の気配。目隠しの下でプロメテアの眉間に皺が寄った。
陸地の方角から少し慌てたような足音が近づいてくる。アズカバンに人間の獄吏がいるという話は聞かないから、わざわざアブラクサスのために待機していた出迎えの役人だろうか。
「お待ちしていました、閣下」
「苦労をかけたな、ミス・コート」
「いえいえ、他ならない閣下のご用命ですから。えっと、お連れの方は……」
「ああ、これは弟子のようなものじゃ。今のうちにここを見学させておくのも悪くないと思ってな」
誰が弟子だ、と毒づきたいくらいだが、どうやら出迎えに来ていたミス・コートという役人はアブラクサスに心酔しているようで、羨ましそうなため息をこぼしていた。
「わあ……じゃあ、将来有望ですね! はじめましてお嬢さん、私はジェーン・コート。魔法省の魔法法執行部でアズカバン関係の仕事をしてるの」
「……どうも、ミス・コート。プロメテア・バークです」
「ジェーンって呼んで、メティちゃん」
「では、遠慮なく」
わざわざ身長の低いプロメテアに合わせて膝をかがめ、握手の勢いでハグまでしてくるフレンドリーさはあまりアズカバンの陰鬱な空気とは噛み合わない。
それでも彼女は溌剌とした声で、アズカバンへようこそと笑った。
《接吻》
吸魂鬼を吸魂鬼たらしめる邪悪な業
生者に一方的な接吻を交わし、すべての幸福とともに魂を抜き去る
犠牲者の多くは廃人となるが、ごく稀に吸魂鬼として再誕すると噂される
ゆえに食餌であり、生殖であるそれは邪悪な不道徳として忌避されるのだ