ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
北海の孤島、アズカバン。この地はそもそも刑務所ではない。闇の魔術によって生み出されたとされる吸魂鬼がこの地に留まっているから刑務所として使える、ただそれだけなのだ。
ジェーン・コートにとってアズカバンは在学中からずっと興味の対象だった。いや、厳密に言えば流刑地に興味があった。
ジェーンはハッフルパフ出身だ。家族にも級友にも、その親族にすらも囚人はいない。温かな家庭で育ち、バターと蜂蜜の香りに満ちた寮で7年間を過ごした。優秀とは言えないが親を悲しませない程度の成績は取れたし、多くの級友と誼を通じた。ちょっとしたスポーツ感覚で決闘を嗜んでいた以外には刺激らしい刺激もなかった。
悪や闇と称される界隈とは縁遠い人生だ。口さがない者はジェーンを「没個性的でハッフルパフの典型のような生き物」と評した。
しかし、ジェーンもまたホグワーツ生であり、ホグワーツ生のほとんどがそうであるようにどこかしら大切なネジが抜け落ちていた。
「アズカバンにはどんな花が咲くと思いますか?」
この奇妙な質問に寮監であり薬草学の教授でもあるスプラウトは眉をひそめたし、軽い説教もされた。死人の眠る塚に芽吹く植物がないわけではない。しかし、それを好んで用いるのは多くが闇の魔術に長けた魔術師だ。だから教えられない、と。
意外にもと言うべきか、闇の魔術を学ぶこと自体は何の法にも触れていない。ただ、ジェーンがホグワーツで過ごした7年間はヴォルデモート卿の残した傷を人々が癒そうと励み、苦しんでいた最中のことだった。何の変哲もないハッフルパフ生に闇の魔術に類する知識を与えようなどと誰が思うだろうか?
そんな事情を理解しないまま、ジェーンはささやかな不満を抱えて卒業した。そしてその足で北海を渡り、アズカバンに無断で上陸し、ちょうど罪人を護送中だった闇祓いに見つかって失神呪文をたんまり打ち込まれた。
「いやあ、脱獄幇助に来たって思われたみたいでさ。取り調べもすごかったんだよね」
「それは……そうでしょうね」
目隠しで表情がわかりにくいが、どうやら呆れているようだ。
小さな客人、プロメテア・バークはジェーンがなぜアズカバンで勤務しているのか興味があるようだった。もしかすると社交辞令で尋ねてくれたのかもしれないが、しばらくアズカバンに詰めていたせいで喋り相手もほとんどいない生活を送っていたジェーンは会話に飢えていた。
今はこうして雑談を挟みながら散歩できるが、流刑地への不法侵入と公務執行妨害で牢に放り込まれたときは自分の愚かさを心から呪ったものだ。
数日間をアズカバンで震えて過ごした後、ジェーンの元に面会の知らせが届いた。家族でも友人でもなく、英国魔法界の実質的な頂点であるウィゼンガモットの高官が温かい部屋でジェーンを待っていた。
「それが閣下だったんだよ。びっくりしたなあ」
「アズカバンと一番縁の遠い魔女がアズカバンに興味を持っている、そんな愉快な話を聞いたらいても立ってもいられなくなってのう。それに、アズカバンはウィゼンガモットの管轄じゃ。それを若造どもが己の職務を邪魔立てされたからと勝手に裁くのは筋が通らん」
ジェーンが植えた彼岸花をしげしげと眺めながら暢気な口調で嘯くこの老人がジェーンを引き立ててくれた。
ウィゼンガモットの推薦という形でジェーンは魔法省に就職した。形式上の所属は魔法法執行部だが、基本的にはアズカバンに駐留しているため月に一回の定例会議でしか上司と顔を合わせることはない。
アズカバンの環境調査と改善、訪問者の対応。それがジェーンの仕事だ。
「監獄に環境の改善が必要ですか?」
「うーん、そうだね……メティちゃんは罪人に人権はないと思うタイプ? 健康とか、財産とか」
「……私は人権という概念をまだ理解しきっていないので、なんとも」
「あー、若いもんね。そっか。私はどんな罪を犯した人でも花を愛でる権利くらいはあると思っててさ」
魔法的な品種改良を駆使し、ジェーンはアズカバンを少しだけ華やかにした。特にマホウトコロのペンパルから送られてきた彼岸花の球根は土地と相性がよかったらしく、大繁殖を遂げている。
顔も知らなかった囚人たちになにか特別な感情があるわけではない。ただ、ジェーンが初めてアズカバンに上陸したとき真っ先に見えた囚人墓地はあまりにも寒々しかった。
「アズカバンの終身刑が事実上の死刑なら、死んだ時点で贖罪は済んだことになるわけでしょ? お墓に花くらいは添えられてもいいと思ったんだ」
「考えはわからんでもないが、どちらかと言えば墓が添え物じゃな、これは」
「はは……少し増えすぎました。日本ではこっちのハロウィーンにあたる行事の季節に咲く花らしくて、アズカバンとは相性がよすぎたのかもしれませんね」
一面に揺らぐ赤い絨毯。その中を駆けていくテンジクネズミの姿をしたジェーンの守護霊が振りまく青白い燐光と、はるか上空をさまよう吸魂鬼。
異様な光景だが、何もなかったころよりは幾分ましだとジェーンは思っていた。先月の給与明細に刻まれていた数字が先々月より少ないところを見ると上司はあまり満足していないようだったが、現地に来ない人間の評価を気に病むなとアブラクサスに諭されてからは好きなようにやっている。
そのアブラクサスに手を引かれてやってきた少女。もちろん興味はある。
目を覆う暗い色の包帯こそ異様なものの、そこを除けばどこからどう見ても名家のご令嬢らしい身なり。もこもこに着ぶくれするまで着せられた防寒具からは保護者の過保護な顔が容易に想像できる。発する言葉のひとつひとつからにじみ出る教養には、ジェーンとの住む世界の違いを実感させられる。
その一方で、というべきか。ジェーンは彼女の家名に聞き覚えがあった。もしくは見覚えがあった。アブラクサスからふくろう便を受け取ってすぐに場所が思い出せる程度には鮮明に。
ジェーンが初めて埋葬に立ち会った遺体だったのだ。
墓地の中を進んでちょうど50の列を抜けたところで、ジェーンは立ち止まった。並んだ質素な墓石のひとつ、いや、ふたつを指し示す。
「ここだね。イアペトス・バーク、カリナ・バーク。……本当は部外者の私がいないほうがいいと思うんだけど、規則で私が立ち会うことになってるから。ごめんね」
「いえ……。ここに、両親が」
ジェーンが手を離すと、プロメテアはゆっくりと墓石へと歩み寄った。
小さな手が墓石に刻まれた名をなぞる。これまで参列者もおらず、苔に覆われつつある湿った墓石が彼女の指先を濡らしていく。
静かな声で父の名を、母の名を読み上げたあと、プロメテアはそっと己の胸に手を当てた。
「不思議だ。……本当に、不思議だ」
プロメテアが泣き出すと予想していたジェーンは、まとまりかけた慰めの言葉を飲み込む羽目になった。
墓参りに来れるだけの権力を持った親族は決して多くはないが、いないわけではない。数少ない訪問者の対応もジェーンの仕事だ。
その中には親の顔を知らないまま育った子どももいる。そういった訪問者はほとんどが墓前で感情を爆発させる。
コートの裾が汚れるのも厭わずに膝をつくプロメテアは、とても落ち着いて見えた。
「あなた達の死を悲しむことはできない。あなた達の生を望むことも。私はあなた達を知らないのだから。だが、そうだな……」
顔くらいは見せに来た。
そう言って、プロメテアが目隠しを解く。衣擦れにも似た軽い音とは裏腹に重みのある包帯が地面に落ちようとして、ふわりと宙に浮いた。隣に目をやれば、アブラクサスが静かに杖を振るっていた。
魔法事故によって視力を失った少女の悲劇はジェーンも日刊預言者新聞の小さな記事で目にしたことがある。きっと多くの人々が彼女の素顔を知らないのだろう。
どんな表情を浮かべているのか、覗き込むこともできた。しかし、そうするという考えはジェーンの頭にはなかった。故人だけが知っている。それが一番いい気がしたのだ。
***
些細な義理立てとちっぽけな感傷がプロメテアに目隠しを取らせた。
この目隠しは火を拒むものだ。ただの火ではない。ただ寒く暗かった灰色の世界、竜が支配していた世界でおこった原初の火だ。
かつてソウルの神話に語られた火と闇。その全貌について理解している者はプロメテアの知る限り誰もいなかった。ただ、唯一の弟子との思い出がプロメテアに火を拒ませていた。
かつて栄光の時代と謳われた神々と英雄の物語があった。火によって力を得た偉大なものたちが竜を討ち、世界に繁栄をもたらしたのだ。
しかし、火が陰れば闇が蔓延るのが自然の摂理。火を継ぐために薪が焚べられ続けた。
弟子である彼女が苦しみながら戦い続ける姿は今も目に焼き付いている。ずっと見てきたのだ。眩しさに焦がれるほどに。
「――不思議だ」
だから、本当であればプロメテアは火を拒む目隠しをしたまま一生を終えていたのかもしれない。しかし、プロメテアは外すことを選んだ。あり得たかもしれない愛情のぬくもり、その手向けとして。
それに応えるようにして光るものがあった。2つの墓を包むようにして留まっていた、白く淡い光の塊。それがプロメテアの胸へと移り、そして吸い込まれていく。
「まったく、不思議だよ」
プロメテアは理性を尊ぶ。だからこの光が両親の霊だなどとは主張しない。
しかし、プロメテアの視界には確かにソウルとして見えているその光がとても優しいぬくもりに満ちていたという事実を否定する気もない。
心の奥底でなにかの枷が外れる音がした。
《死血の彼岸花》
死者の眠る地にのみ大輪を咲かせる赤い花
儀式の供物として古くから東洋の呪術に用いられる
その蜜は悪夢を見せ、根には苦痛が潜んでいる
マホウトコロを追放され忌むべき白を纏った魔術師の手によって株分けされた
男はかつて罪人として故郷を去り、遠い地で主を見出したという
主に世界一美しい花を捧げたいという狂気は今も彼を生かしている