ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
パイプを通って這い寄るバジリスクから逃げ回りながら、ハリーはどうやってジニーを助けるか必死に考えていた。
トム・リドルの言葉通りなら、早く助けないと彼女の命は尽きてしまう。しかし、ジニーを助けるためにはバジリスクをやり過ごし、さらにリドルをどうにかして倒さないといけない。
情報が不足している。プロメテアなら「判断材料が不足している」と保留するのかもしれないが、今回は時間制限つきだ。
「さあ、せいぜい逃げ回れハリー! 歌い鳥と古い帽子だけを頼りに、終わりのない悪夢を彷徨うんだ!」
リドルの声が木霊する。入り交じるパイプの中をあちこち曲がったせいで、どこから彼の声が聞こえてくるのかわからない。
しかし、リドルが思っているほどハリーは絶望していなかった。
バジリスクと眼鏡越しに目を合わせたとき、ハリーは脳の奥が重くなるような感覚に陥った。咄嗟に目を逸らして走り出してから、親指に嵌めた指輪がその重さを吸っていくのを感じたとき、ようやくハリーはまたプロメテアに救われたことを理解した。
一人で戦っているわけではない。それがハリーにとって最大の勝機だ。
「トム! ひとつ確かなことがあるよ!」
向こうの声が届くなら、こちらの声も届く。
ハリーは目一杯声を張り上げた。フォークスに目を潰されたバジリスクがハリーの位置を容易に見つけられるくらい、目一杯に。
「パーセルマウスが遺伝する才能で、継承者の証なら、僕も君と同じ――継承者だ。違うかい!」
これは賭けだ。命をベットする最悪のギャンブルだ。
確証などなにもない。ただ、ハリーには時間が必要だった。勝利を掴むための、そしてジニーを助けるためのチャンスを見出すのに、まだ時間が必要だ。
湿ったパイプから外へ転げるようにして出ながら、ハリーは叫んだ。
「サラザール・スリザリンの正統なる継承者として命ずる! 汝、人を殺めるべからず!」
そして、ハリーの眼前でピタリと止まった大蛇の尾が示すのはたったひとつ。
バジリスクはハリーの命令に従った。
ハリーを主と認めたわけではないかもしれないが、少なくとも、殺すなという命令には今のところ従っている。
この可能性にたどり着いたときからずっと、ハリーは命令するならこの言葉しかないと考えていた。理由はバジリスクがサラザール・スリザリンの遺産だからだ。
蛇の王。そんな存在がどこまで理性的なのか、誰の命令に従うようになっているのか、それを教えてくれる情報はどこにもない。
しかし、サラザール・スリザリンについてなら、ハリーにも情報を集めることはできた。クリスマス休暇の間だけでハリーは魔法史の成績が少し上がるくらいの量を読破した。
「馬鹿な……そんなはずはない。偉大な純血の祖、サラザール・スリザリンの継承者は僕だ! 僕以外にありえない!」
「トム。君は50年前に首席だったかもしれないけど、魔法史は僕のほうが得意みたいだね。君はサラザール・スリザリンにはなれない」
砕けた石像をまたいで、ハリーは部屋の中央へ、サラザール・スリザリンの大きな石像の前に立ち尽くすリドルのほうへ進んだ。
怒りか、悲しみか。端正な顔を醜く歪めるリドルは、どこか怯えているようにすら見える。
「ホグワーツを作ったのは4人の仲間たちだ。ひとりぼっちの魔法使いじゃない。もし僕がスリザリンの血を引いてなくて、突然変異で蛇語を喋れるだけだとしても……きっとスリザリンは君より僕を選ぶよ」
「馬鹿げている……スリザリンがホグワーツを去ったのは、その愉快な仲間たちとやらに失望したからだ!」
「それはそうかもね。でも、サラザール・スリザリンはたとえマグル生まれでも絶対に生徒を殺したりなんかしない」
ハリーはようやく胸に渦巻く爆発寸前の感情を自覚した。
いま、自分は怒っている。これまでの人生で一番、激怒している。
それはきっと親友の妹を攫われたせいで、自分に冤罪をかけられたせいで、命を狙われたせいで、大好きなホグワーツでの日々を汚されたせいで、そして何より――
「立派な先生というのはね、トム。教え子を大事にするものなんだ。僕はそう思ってるよ」
ハリーはずっとプロメテアに助けられてきた。彼女が嫌がるのでそう呼ばないだけで、ハリーはプロメテアを先生として心から尊敬している。
皮肉屋で、偏屈で、面倒くさがりで、実は少し世間知らずの、大事な友だち。
何も知らない目の前の「過去」が、自分の大切なものを汚すことが許せなかった。
「その先生とやらはどこにいる? 誰も君を助けに来ていない! ホグワーツの教師は僕が操るゴーストを突破することすらできない!」
リドルがジニーの杖を構え、複雑で長い呪文を唱えはじめた。きっと何か、ハリーを殺すための奥の手を出すのだろう。
この戦いを終わらせるために、ハリーは胸元にしまったお守りをローブの上からぐっと握りしめた。
「先生はいるよ。僕には頼れる先生がたくさんいる。でも、君にはいないみたいだね、トム」
ハリーの言葉に呼応するようにして立ち昇った白い燐光が形をなしていく。
『霊体「光なきプロメテア」を召喚しました』
『霊体「幼獅子の騎士ロン」を召喚しました』
***
日記帳に分けられた魂として、リドルが記憶しているのは5年生のころまでだ。つまり、監督生として過ごしつつ、分霊箱の作り方を理解し、実践するまでの記憶しかない。
しかし、当時の時点で自分に敵う生徒など一人もいなかったし、一部を除けば教師すらたやすくあしらえるという自信があった。
それでも慢心せず、監督生の地位と信頼を活かして閲覧禁止の棚で古い魔術を学んだ。
その中で見つけた魔術を試し続け、実体のない影法師や被造物に偽りの意思を植え付ける古の術を使ってホグワーツに策を残した。いつか凱旋するための布石の数々だった。
間違いなく勝った。その確信が砕かれつつある。
「うわあ……これ大丈夫なの? 僕、ゴーストみたいになってるけど」
「間抜けな声を上げるな、大丈夫だ。……おい、怪我はないか」
「なんとかね。ジニーは奥。バジリスクには誰も殺すなって命令したけど確実かどうかはわからない。あいつが継承者で、ヴォルデモートの記憶だって」
「そうか。よく頑張った」
なるほど、認めざるをえないだろう。
リドルも知らない魔術でこの場に現れたプロメテア・バークは、予想していたよりもはるかに厄介な敵だ。地下牢の戦闘で殺しきれなかったのが悔やまれる。
しかし、リドルはプロメテアが弱っていることを知っていた。
「ミス・バーク。聖鈴を持たない君がどこまで僕に抗える? 盲目で非力な君ができるのは、そうやって助言者ごっこをするだけだ。違うかい?」
ゴーストのうち、とりわけ強い力を込めておいたものに命令しておいたのだ。プロメテア・バークの鈴を必ず破壊しろ、と。
プロメテアが魔法の鈴を視界代わりに頼る盲人であることはジニーから聞かされていた。だからハリーを独り占めしているのが妬ましくても強く出れない、などというくだらない愚痴には微塵も興味がなかったが、そこに含まれている情報はとても価値のあるものだった。
さらに、今完成した魔法でバジリスクは蛇としての自我を失い、変身する。もはや蛇語の命令も通用しない醜く無様な怪物になるが、自分に従わないバジリスクに用などない。
何がどう間違っても、勝つのは自分だ。
「……ジニー・ウィーズリーは私が必ず救出する。お前たちは退路を確保しろ」
「これを相手しろって? この剣、そろそろ芯まで炭になっちゃうぜ」
「出世払いにしておいてやる」
バジリスクが己の鱗と表皮を突き破り、毒液でぬらぬらと光る骨を剥き出しにして咆哮しても、彼らは怯みすらしない。
理解できなかった。ただ同じ年齢の子どもが二人やってきたというだけで、どうしてそこまで落ち着けるのか。なんの役にも立たないものをどうして助けとして頼れるのか。
目の前をゆっくりと、しかし着実にリドルのもとへ歩み寄ってくる小娘が見た目通りの小さな存在には思えない。
ざり、と砂を踏むような音で思わず視線を下に向け、自分の足が後ずさりしたことに気づいた。
不愉快だ。
「いいだろう、小娘。僕が直々に相手してやろう……」
しかし、視線を上げた時、もうそこに彼女の姿はなかった。
ありえない。杖を抜いた音すらしなかったというのに。ほんの一瞬、一秒にも満たない時間目をそらしただけで姿を消すなどと。
背後に気配を感じたときにはもう、硬い異物がリドルの腹を貫いていた。
「馬鹿、な」
背後を取られた。通り抜ける風すら感じなかった。
リドルはほぼ実体化しているが、肉体を持つわけではない。その気になればいつでも霊体に戻ることができる。
それなのに、この腹を食い破るようにして刺さった
釣り針につながったロープをプロメテアが引っ張り、リドルはまるで市場の塊肉のように手近な石像に吊るされてしまった。
もがけば針が食い込んで力を奪われる。しかし、自重で食い込んでいく針が少しずつリドルを食い破る感触で気が狂いそうになる。
「よし。さて……ジニー・ウィーズリーは……ああ、これか。なるほど」
プロメテアの指先が無造作に日記帳を拾い上げ、横たわるジニーの隣に腰を下ろして表紙を撫でる。
「……ああ、わかったぞ。お前、ソウルを分割したのか」
「何者なんだ、お前は……」
「しかし、随分と雑な分け方をしているな。分けた後のことも考えていない。若さに身を任せたか」
「何者なんだ、お前はッ!」
ゆらり、と顔を上げたプロメテアは、顔の半分を目隠しで覆っているにも関わらず、はっきりとリドルを視線で射竦めた。
リドルは直感で理解した。これは人間ではない。もっと悍ましい何かだ。
自分は踏んではならない獣の尾を踏んだ。
「私は学徒だ。学びを愛し、平和の中で友と知恵を磨くことを尊しとする者だ。……そうだな、お前にも知恵を分けてやろう」
リドルは必死になってジニーにつながった魂の糸から力を引き出した。このままでは消えてしまう。目の前の化け物のせいで、永遠の命が終わってしまう。
こんな終わり方は認められなかった。自分はいつか帝王として世界に君臨する男だ。こんなくだらない形で消えるはずがない。
「お前が求めたのはきっと不死なのだろう。保険感覚でソウルを分割し、死出の旅路を逆走するための命綱を作ったつもりだった。そうだろう?」
「……お前のようなちっぽけな存在と違って、僕にはやることがたくさんあるんだ。不死を望むのは僕の権利であり、義務だ!」
「目的は別にどうでもいい。私には関係がないことだ。しかし、この術はどうやら、そもそも
「は? ……何を、言って」
「いや、とても興味深くはある。確かに自分が死のうとも、魂を分けて自我をそちらに移せば、不滅の存在になることができる。私は好まないが、この術を考えた魔術師は凄まじいな……」
言っていることの半分も理解できない。
怒りと痛みに歯を食いしばりながら、リドルはジニーの魂からありったけの力を吸い上げた。それこそ、命が失われるほどに。
目の前の愚かな小娘は、ジニーが死ぬ瞬間を見てすらいない。その愚昧さをわからせるため、リドルは己の腹を食い破った針を外そうと手をかけた。
「――ああ、それから。その吸精も中々興味深かった。
釣り針を掴もうとした指先がない。
細工されたのだ。ジニーから力を引き出していると錯覚させられていた。
腕が消えていく。肩の感覚が失われ、腹に感じていた熱すらどこかへ消えていく。
湿った床へ落下したリドルは、もはや声も失い、目の前の少女が日記帳を放り投げるのを見ることしかできなかった。
「吸精で自壊するソウルというのは初めて見た。得難いサンプルに免じて、ここで終わることを許してやろう」
ハリー・ポッターが倒れ伏すバジリスクを背に、光り輝く銀の剣を掲げ、投げられた日記帳を見事に両断した。
その光景を最期に、トム・リドルは終わりを迎えた。
《終わりなき苦悩の針》
肉を削ぎ魂を砕く歪曲した針
人造の魔法生物から作られた残忍な拷問器具
苦しみを与え力を奪う悍ましい力は闇に類するもの
ゆえに生物の合成は今日まで魔法法で禁じられている
かつての持ち主は武器として振るっていたが、紐をつければ釣り針にもなるだろう
とはいえ、まともな漁に使う代物ではない