ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
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記憶2
ブーツの隙間から入り込んだ雪の冷たさも気にならないほど、オーベックはひたすらに前を目指していた。
吹雪と幽鬼の群れを抜け、狼を出し抜いてたどり着いた、ここはアリアンデル。偉大な魔術師にして法王であるサリヴァーンの故郷だ。
弟子から「アリアンデルに行った、正気の鴉人を見つけたから話してみたら学者さんだった、お願いしたらくれた」とスクロールを差し出された時、オーベックは常の冷静さをかなぐり捨てて彼女に掴みかかった。
アリアンデル。実在すら疑われた、古き魔術の地。竜の学院に住まう碩学たちもその魔術を欠片も知らない。
「――おお、来たのか。では、あんたが灰の言う先生かい」
「突然の訪問、ご容赦いただきたい。俺はオーベック、ヴィンハイムの学徒だ」
「竜の学院か、なるほど。それは必死になるわけだ」
ほとんど廃墟と化しつつある村の片隅、まだ人の温もりを感じる小さな家の中で、鴉頭の男はオーベックを歓迎し、座るよう促して茶を淹れはじめた。
鴉人。忌み人とも呼ばれる彼らは、白教によって迫害され世界を去った。彼らまつろわぬ民は異端の伝承としてだけ知られていて、アリアンデルと同様に実在を疑われていた。
アリアンデルが忌み人の地であるのなら、両者が伝説の中にのみ存在するとされたのも納得がいく。彼らが秘匿していたのだろう。おそらく、自分たちの生存のために。
オーベックは今日、その秘匿を暴こうとしている。それなのに歓迎されているのは、一体どういうことだろうか。
「すまんが、砂糖とミルクはずっと切らしてるんだ。茶葉も少し湿気てるが、まあ気にするな」
「……どうも」
温かい。
不死になって長く、味などとうに忘れてしまった。それでも茶を喫するという行為が心を安らげるものであることはぼんやりと覚えている。
「それで、あのスクロールだが。あれはアリアンデルの魔術なのか」
「まあ落ち着け。あんた、ここがどこなのかもピンときていないだろうに」
「……予想はついている。絵画世界、そうだろう?」
見つからないアリアンデルについて、オーベックはひとつの論文を読んだことがあった。
いや、厳密に言えば論文ではない。あれは未完成のメモ書きだった。指導教官が入れた無数の赤線に心が折れたらしく、図書館に廃棄前の裏紙として置かれていたのだ。
しかし、論文としてまとめようとする学徒がいるくらいにはまことしやかに囁かれる噂があった。絵画世界の噂だ。
特別な画家がソウルを顔料として描いた絵画は、描かれた世界とつながる門となる。
論拠に乏しく、再現性もない。描かれた世界がもとから存在するのか、それとも描かれたことで世界が生まれるのかも定かではない。妥当な論理を伴った議論を展開できるほどの噂ではなかった。
ここが秘匿されたアリアンデルで、鍵として弟子に渡された布切れが絵の切れ端でなければ、オーベックも信じはしなかっただろう。
「なるほど。失礼、あんたのことを低く見積もっていた」
「いや、偶然心当たりがあっただけだ」
「そうか。そう、ここは絵画世界だ。だからアリアンデルという呼び名は適切ではないんだろうな。俺が生まれる前はエレーミアスとか、ジェレマイアとか、そんな呼び方をされていた」
「では、アリアンデルというのは……」
「修復者の名前だ。黄の王ジェレマイアの死後、教父アリアンデルが跡を継いだ」
「待て、黄の王ということは……ウーラシールの関係者か?」
「ウーラシールを追放された呪術師だった。あんたたちヴィンハイムのやる、純粋なシースの結晶を追究する学問とは反対だな。我々の学問はあらゆる異端を取り込んで膨らんできたのさ」
くつくつと愉快そうに笑う鴉人は、おそらくかなりの老齢だ。人とは到底思えない異貌にも関わらず、オーベックにそう悟らせる聡明さが瞳に宿っていた。
竜の学院の名の通り、ヴィンハイムは白竜シースを源流とする結晶の魔術を追究してきた。結晶はより純粋で、洗練されたソウルの姿だと教えられた。
しかし、結晶の魔術は万能ではなかった。ウーラシールの奔放な黄金の魔術が気まぐれに操る光、時、そういったものをヴィンハイムの魔術師は操れすらしない。
目の前にそのウーラシールをも超える未知が坐している。
学院の老人たちも知らない、全くの未知を。
オーベックは興奮を抑えきれなかった。
「我々の知恵はここで途絶えると思っていた。アリアンデルが修復者の役目を放棄し、この絵画世界はもう手遅れになりつつあるんだ」
「手遅れ……」
「あんたもここに来る途中で見なかったか、おぞましい蠅どもを。この世界は修復されなくなったことで熱を失い、深みから絵画の腐食者どもが這い出てきた」
この絵画世界はもう燃やすしかない。
そう吐き捨てて、鴉人は欠けたカップをぐいと煽った。
「だから灰が来てくれた時、俺は心底喜んだ。ようやくこの絵画世界に火をもたらす者が現れた」
「……あいつは能天気で呆れるほどお人好しな女だが、一応、過酷な使命を背負っている身でな。お前が望んでいる結果になるとは保証できない」
「はは、師として心配か。何、急ぐ話じゃあない。我々は随分長く待った。もう少し待つくらい、なんということもないさ」
そのとおりだ。オーベックは師として弟子を案じていた。
火のない灰はただでさえ薪の王たちを殺して連れ帰らなくてはならない。ファランの不死隊を屠り、深みの聖堂に眠ると噂される神喰らいのエルドリッチを目指していた最中のことだ。
それなのにあの女と来たら、あちこちで人助けをして余計な傷を負っている。
カタリナの騎士と背中を預けあってデーモンを倒し、聖職者の国カリムからやってきた盲目の尼を牢から引きずり出し、アストラなどという辺鄙な亡国の騎士を名乗る若造に手を貸し、今度は絵画世界で忌み人の手伝いときた。
「……あいつにできて、お前にできない役目というわけでもないだろう」
「本来はそうだったかもしれないんだがなあ。教父アリアンデルがフリーデとかいう修道女に誑かされて、お嬢様も幽閉されちまったんだ」
「お嬢様というのは、この世界の主か」
「ある意味ではそうだ。絵画世界の画家さ」
「いるのか、画家が!」
「そりゃそうだろう、描くやつがいるから絵があるんだ。まあ、気持ちはわからんでもない」
鴉人は一度静かに目を瞑ると、ゆっくりとした口調で歴史を語りはじめた。
忘れ去られた者たちが流れ着く、絵画世界の歴史だ。
最初の火から王のソウルを見出し、古竜を打ち破って火の時代を築いた薪の王、グウィン。その末子であるグウィンドリンは父に似ず、醜くひ弱であった。
グウィンドリンは男として生を受けたにも関わらず女として育てられ、陰の太陽、暗月を司るものとなった。
そのグウィンドリンこそが異端と忌み人の守護者だった。
白竜シースと神族の間に生まれた不義の子、半竜プリシラに安寧の地を与えた。安寧などという絵空事は所詮幻でしかなく、それゆえに幻を己の領分とするグウィンドリンはそれを描くことができた。
忌み人たちを住まわせ、代わりに絵画の修復を命じた。
世界は火と闇でできている。それは絵画世界も同じだ。しかし、火は燃料を必要とする。絵画世界において、それは人の血だった。
自らの血で絵画世界に熱をもたらす。それが修復者の役目だ。
そして、いつか絵画が朽ち果てたときのために、火と闇を顔料として絵画を描く者が必要だった。
「お嬢様は次の絵画を仕上げようとしていた。だというのに、あの女が来て……」
「フリーデ、といったか」
「そうだ。……修道女のなりをしちゃいるが、俺にはわかる。あれはロンドールの出だ。それも黒教会の化け物だ」
これまで聞かされた全てがつながった。
ロンドールは亡者と老人のための国だ。行き場のないものを受け入れているという意味では絵画世界と同じだが、根本的に異なるのはその姿勢だろう。
黒教会とはロンドールの中枢で、亡者の世界を求めて暗躍する者たちだ。亡者の世界とはすなわち神代から続く火継ぎの終わり、神の力が完全に失われた時代を意味している。
オーベックはそれが悪いことだとは思わない。少なくとも理屈は理解できる。
神が原初の火で力を得た者なら、人はその陰、闇から生まれた者だ。神がいて火継ぎが続く限り、人の時代はやってこない。
フリーデという修道女が鴉人の推測どおり黒教会から来たのなら、いつまでも冷たく優しい絵画世界の有り様は到底認められるものではないだろう。
そして、火のない灰は安寧を乱された人々から助けを求められれば、二つ返事で承諾する。そういう女だ。
「なるほど。事情は理解した。……あの馬鹿が首を突っ込みそうな話だ」
「よろしく頼む。礼はするさ、俺のとっておきがこっそり残してあってな。あんたには……そうだな、何か礼を考えておこう」
「いや、ここまでの話で十分報酬は受け取った」
オーベックは立ち上がり、腰から使い慣れたダガーを抜いた。
外の気配が騒がしい。正気を失った亡者か、化け物か、それともフリーデの使い走りか。
いずれであろうと構わない。いつだってヴィンハイムの刺客は殺す相手を選べるほど立派な身分ではなかった。
仕事の時間だ。
《アリアンデルのスクロール》
忌み人と異端たちのスクロール
絵画世界で生じ、失伝した理なき理
魔術師に渡すことで絵画の魔術を学べるようになる
幻の彼方、陰の奥に秘匿されていた、ありえざりし知恵
それはきっとありえざりし運命の主だけが手にするのだろう