ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
全身を強張らせて、ジニーは頬に感じる熱と肌に感じる柔らかさにじっと耐えていた。
今この瞬間にも恥ずかしさに身悶えして飛び出しそうだ。
「――どうした、痛むか」
「ひぇ、いえ、大丈夫です!」
「そうか」
整った、少し幼い顔立ち。焦点の合わない空色の瞳が虚を見ているせいか、余計に幼く、どこか妖しく感じさせる美しさが、ジニーの吐息で前髪が揺れるほど目前にある。
胴に回された腕の細さとか、いつもより血色がいい頬とか、ふとした瞬間に香ってくる羊皮紙とインク、そしてアップルパイとダージリンの甘い匂いとか。
そういったすべてが今はジニーにとって凶器だった。
なぜベッドでプロメテアと抱き合っているのか。ここはどこで、二人は一体何をしているのか。
もし両親にバレたらどこから説明しなくてはならないのだろうかと、ジニーは現実逃避ぎみにここまでの道のりを思い返した。
ハリーに導かれてプロメテアの研究室に到着し、彼の持つ白枝によって研究室の扉が開かれたあと、一行は研究室の片隅に置かれたキャビネット棚へと入っていった。
ただのキャビネット棚ではない。夏休みにハリーが煙突飛行を失敗した際に偶然迷い込んだ、魔法のキャビネット棚だ。本来は入ったものを対の棚へと運ぶそれをプロメテアが修理し、移動手段として運び入れた。
女物のドレスが1ダースは入りそうなほど立派な、しかし4人が入るには少々狭いキャビネット棚の中で、否応なしに密着したハリーの心音にちょっとしたこそばゆさを感じながら、ジニーは
「おったまげー……」
ロンの田舎者丸出しな驚き方に同意するのは妹として癪だが、頷かざるをえない。
かつては広間を睥睨するように並んでいた蛇の彫像は砕かれたものや毒液に溶かされたものも含めて全てが撤去され、空いた台座には照明やコート掛けが設けられている。
元は下水道のパイプと繋がっていた空洞には手触りのいいウォールナット製の家具が収まり、金糸で縁取られた品のあるカーテンによって仕切られた。居心地の良い隠れ家といったところか。
冷たいシアンブルーの石畳には羊毛の柔らかなペルシャ絨毯が敷かれ、かつての寒々しさは覆い隠された。湿った冷気と悪臭がこの部屋を満たすことはもうないだろう。
ここがかつて「スリザリンの怪物」のねぐらだったサラザール・スリザリンの秘密の部屋だと言われて、誰が信じるだろうか。
「この部屋を継承していた家系はすでに途絶えていたらしいの。閉鎖することも提案されたみたいだけど、最終的に理事会は条件付きで開放することを決めた。素晴らしいことだと思うわ、学びの場が多くて困ることはないものね」
「君はあの化け物蛇と戦ってないからそういうことが言えるんだよ。僕は今にでも陰から血なまぐさいうねうねが飛び出してくるんじゃないかと心配でならないね」
「あら、蜘蛛の次は蛇がだめになったの? それは少し
「生憎だけど、そんな嫌味を言われずとも僕はあのグリフィンドールの剣をバークに返すつもりだからな。まあ、柄しか残ってないけど」
「ほんっとうに信じられない! 貴重な史料を炭にしちゃうなんて!」
ハーマイオニーはここしばらくロンに対してお冠だ。プロメテアから貸し出された魔法の道具が歴史的にとても価値のある遺物で、ロンがそれを使いすぎで炭にしてしまったらしい。
ただ、その剣がなければジニーは助からなかった。兄の勇姿を
口を挟むべきかどうか悩んでいると、隣でハリーが小さく笑った。
「なんか、うん。これがホグワーツなんだなって思うよ」
「そうなの?」
「多分ね。あの二人くらい気楽じゃないと、この部屋を生徒に使わせようなんて考えすらしない。そうじゃない?」
言外にハリーが緊張をほぐそうとしてくれていることに気がついて、ジニーは彼の優しい笑みに小さく頷きを返した。
バジリスクが討伐され、トム・リドルの日記帳に宿った存在が喪われた日のことを、ジニーは克明に覚えている。プロメテアに突き立てられようとしたバジリスクの牙が毒液で不気味に光っていたことも、そのときにトムが自分の口を通して何を語ったかも、そしてその後に秘密の部屋で起きた戦いも。
だから、ジニーはスリザリン生の嫌味や悪態に極力反撃しなかった。
「ハリーは、優しいね」
「えっと……ありがとう?」
「変なの。ハリーがお礼を言ったら、優しくしてもらった私は何も言えないよ」
困ったように右手で襟足をかく彼は、本当の意味でジニーにとっての英雄になってしまった。
いつの間にか紛れ込んでいた魔法の日記帳。そんなものを信用して心を開いた挙げ句、嫉妬と恋心を利用された愚か者が、自分だ。
ハリーも、ロンも、ハーマイオニーも、兄たちや同級生、先輩たち、先生方、みんなが優しい。誰もジニーに償いの機会をくれない。
その吐露を受け止めてくれたのが、ハリーだった。
夜の談話室で、暖炉の薪が灰になっていく静けさの中、ハリーはジニーの自分勝手で情けない言葉を聞いてくれた。マグカップを抱える手が震えた。
クィディッチ選手らしい硬い手のひらがジニーの両手を覆ってくれたのは、きっと彼にとって本当に些細な気遣いだったのだろう。それでもジニーにはその温もりが必要だった。
「ありがとう、ハリー」
ジニーは何度口にしたかわからない感謝を改めて伝え、彼を残してロンとハーマイオニーに駆け寄った。
二人はいつの間にか白熱する議論の場をかつてサラザール・スリザリンの顔面が飾られていた広場へと移していて、内容もグリフィンドールの剣についてではなく一昨日提出だった天文学の宿題を丸写ししたことについてに移り変わっていた。
ハリーを置いていったのは兄とその女友達の口論をいち早く仲裁するためであり、どうせ負けるに決まっている兄の名誉を早めに回復してやるためでもある。彼の顔を見るのが気恥ずかしかったわけではないと自分に言い聞かせながら、それでも頬が緩むのはこらえきれなかった。
「常識的に考えて、夜は寝る時間なんだよ。わかるかいハーマイオニー、僕は健康を大事にしてるんだ」
「お言葉ですけどね、常識的に考えて宿題は自分でやるものなの。丸写しでへびつかい座の位置が覚えられるかしら?」
「空のどこにへびつかい座がいるかなんて重要かい? 僕らの身近なところにもっと頼りがいのある大切な蛇使いの友達がいるのに」
ジニーは確信した。兄は出世しない。そしてハーマイオニーは出世する。これは魔法省の官僚であり、冴えないが友人の多い男を父に持つ身としての確信めいた直感だ。
ロンの将来に妹としてささやかな哀れみを覚えながら仲裁に入ろうとしたとき、広場にほど近い脇道のカーテンがわずかに開かれた。
「……声が大きい」
心底不機嫌そうな表情でカーテンの端から顔を覗かせているのは、待ち合わせの相手――プロメテア・バークだ。
いつも通りの目隠しで顔の半分を覆っているが、普段よりも血色がいい。そして頬に枕の跡がついている。どうやらついさっきまで寝ていたようだ。
つまり、プロメテアはロンとハーマイオニーのくだらない口論に叩き起こされたらしい。
「バークさん! おはよう、でいいのかしら? そう、約束通り質問のリストを作ってきたんだけど、ちょっと絞り込みきれていなくて」
「質問は後、治療が先だ。入れ、ジニー・ウィーズリー」
「あっ、僕も一緒に」
「保護者の同席はお断りする、ロン・ウィーズリー。……ポッター、お前であってもだ。適当に寛いでいろ」
てっきり同伴するものだとばかり思っていた。
ジニーを囲むようにして――正確には二人に突っ込んでいったジニーの後を塞ぐ形でハリーが追いついてきたのだが――立っていた三人は困惑の表情を浮かべていたが、不承不承という様子でロンが道を開けた。
「行ってこいよ。待ってるから」
「……うん。行ってきます」
若干の心細さを感じながらカーテンをくぐる。
そこにあったのは寝室だった。
天蓋付きのベッドは寮の寝室に備え付けられているものよりも大きく、枕もひとつではない。まるで複数人で一緒に寝ることを前提としているような――
「えっと、まさか」
「横になれ。色々考えたが、これが一番早い」
緊張とか、不安とか、もはやそういう次元ではなかった。
「嘘……その、冗談ですよね? ほら、私たち女の子どうしですし」
「性別が女かそうでないかで言えば女だが、冗談かそうでないかで言えばそうでない。早くしろ、立ったままでは疲れる」
「立ったまま!? す、スリザリンってそういうのが流行ってるんですか!?」
「……ああ、何を勘違いしているのかと思えば」
よもや貞操の危機かと慌てふためくジニーをよそに、プロメテアは大きく息を吐いた。
ジニーにとっては軽率に片付けられる話ではない。日記帳のせいで、プロメテアにはジニーがハリーをどう思っているか知られてしまっている。そういう純情な生娘を手駒に取って誑かす趣味の変態もいると、母が購読している雑誌『週刊魔女』にも書いてあった気がする。
「それなりの長時間、両手をお前に当て続ける必要がある。お前のソウルに触れるためにな」
「え、あ……」
「座って向き合う姿勢を取るのは難しい。横になったほうが早い。わかったか、色ボケ娘」
そして、彼女の指がゆっくりと目隠しを解いた。
話通りならきっと何も映していないのだろう美しい瞳が、はっきりと「私は呆れています」と示しているのを見て取って、ジニーの羞恥心は限界に達した。
《キャビネット棚の鍵》
サラザール・スリザリンの特別教室につながるキャビネット棚の鍵
教育者としてのサラザールを尊重し、理事会から校長に託された
下水道からの不潔な道は封鎖され、秘密の貸し教室として生まれ変わった
その鍵は組み分け帽子が認めた創設者の継承者に貸し出されるだろう
今や継承者の途絶えたその部屋にもはや意味らしい意味などありはしない
サラザールが何を思って遺したとしても、死人に口なしというものだ