ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
熟れたイチジクの皮を剥くように、繊細で慎重な力加減。
プロメテアはジニーの体温を全身に感じながら、両手に伝う神経のすべてを彼女の最奥――ソウルに集中させていた。
ソウルとは、漠然と語られるような魂の枠に収まるものではない。意思、記憶、感情、力、そういったすべての根源だ。存在の中枢であるそこを軽度とはいえ蝕まれたジニーのソウルには、ナメクジが這った後のように淡い傷跡が刻まれている。
この傷を看ることができるのは、きっとこの世界ではプロメテアだけだろう。
「んっ……そこ、なんかぞわぞわします」
「やはりここか。少し強くする、気を強く持て」
左手に嵌めたダークハンドで傷跡の上に残る黒い澱を吸い上げると、ジニーが小さく引き攣るように息を吸った。
ダークハンドは本来であればもっと悍ましいことに使われる邪悪な武器だ。プロメテアが不死の刺客だったころに見聞きした限りでは、ダークレイスと呼ばれる闇の眷属が用いていた。この世界で最も近いのは吸魂鬼の接吻だろうか。
プロメテアはそれを治療具として用いている。ダークハンドの吸精によって吸い上げたソウルを濾過して与えなおす術がプロメテアにはある。
ソウルを力に換える英雄の傍人――火防女としての術だ。
ダークハンドから吸い上げたソウルを己の内にある火防女としての炉で濾過し、そして右手から与える。火防女であるプロメテアを通して色を失ったソウルで傷跡からの欠落を埋めるのだ。
この野蛮で原始的な行為を医療と呼ぶべきかは疑わしいところだが、少なくともジニーの傷跡を這う残滓が少しずつ減っていっているのは確かだった。
「……そういえば、ポッターのことだが」
「ふぇ? は、はい」
「懸想しているのか?」
ジニーが思い切り咳き込んだ。
慌てて吸精の手を止め、背をさすってやる。
別にいじめているわけではない。ジニー自身のソウルがしっかりと輪郭を保つために、彼女自身の自我を刺激し続けなくてはならないのだ。本当ならジニーが自分で自分のことを語ってくれればそれで済むのだが、妙に緊張しているようだった。
とはいえ、話題を間違えたかもしれない。
無神経さに関して人のことを言える身ではないが、それでも日記帳のソウルが彼女の口を介して語ったことがあまりにも残酷であることはわかった。ジニーがハリーに慕情の類を寄せていて、プロメテアが障害になっていたのだとすれば不憫にも思う。
「その……なんだ。私はあまりこういう話を得意としない。だから、いい言葉が浮かばないが……うまくやれよ」
「な、な、何を」
「私に気を使う必要はない。そういう感情を向けたことはないし、あれもそういうつもりはないだろうからな」
恋や愛が美しい感情であることは理解している。強く、熱く、そして硬いそれは、ある意味では最も古い魔法のひとつだろう。
しかし、理解と共感は別だ。プロメテアには恋に燃え、愛に浸る自分を微塵も想像することができない。
不死として長く生きすぎてしまった。
不死人とはただ死なない存在ではない。石や樹が風化していくようにソウルが欠落していき、果てには己の失ったソウルを求める亡者に成り果てる。
意思、記憶、感情、力。
プロメテアは確かにヴィンハイムのオーベックとして生きた記憶を有している。しかし、その記憶は完全なものではない。ところどころが
そして、感情もきっと少し足りない。
だからこそ、プロメテアはジニーが抱える恋という感情の大輪を美しいと思うし、その蕾が花開く助力くらいはしてやりたいと思う。もちろん、不器用な自分ができることなどたかが知れているが。
「……最初は、大した理由じゃなくて。兄の友達で有名人の彼がちょっと心配だっただけなんです。……重荷じゃないのかな、って」
ぽつり、ぽつりと吐き出されたその言葉は、恋の熱とはかけ離れた静けさに包まれていた。
「1歳しか、違わないんですよ。しかも、例のあの人を倒したときは赤ちゃんだったし……それなのに、英雄扱い。私だったら、しんどいです」
「そうだろうな」
「ちょっとしたことでいいから、支えになれたらなって思ってたんです。でも、ホグワーツに来たら……バークさんがもう、そこにいて。だから本当は、少し嫌いでした。……ごめんなさい」
ジニーが震える唇でこぼした謝罪に、プロメテアは返す言葉を持たない。
事実、彼女が早期にプロメテアを頼っていれば事件はもっと早く収束していた。怪しい魔法の道具を教師に突き出す勇気がないとしても、学年がひとつ上の専門家に相談するくらいのことはできたかもしれない。
純粋な恋心から来る隔意、嫉妬とでも呼ぶべき可愛らしいそれが、今回は彼女自身を傷つける結果となった。死者が出ていないのは奇跡的な偶然だ。
「それで、わからなくなっちゃって。……全部終わったら、私もハリーの重荷になっちゃってて」
「……まあ、否定はできない。あれはお前を助けるために命を賭けたわけだからな」
「そう、ですよね」
馬鹿だなあ、と己を卑下するジニーの声は、少し湿って聞こえた。
「だから、いいんです。好きですけど、きっとこの好きはハリーに迷惑だから」
プロメテアは再び吸精の手を止め、力いっぱいにジニーの身体を抱きしめた。
細い。食に無頓着で生きることを疎かにしてきたプロメテアにもわかる。ジニーは痩せすぎだ。ホグワーツの豊かな食事を毎食しっかり食べていればこうはならない。
相当なストレスを抱えて過ごしてきたのだろう。
ハリーが重圧を感じるように、ジニーもまた背負うものがあった。
教師は皆、優秀で快活な兄たちを知っている。人によっては両親とも付き合いがあっただろう。そしてひとつ上の兄であるロンは英雄の親友としてこれ以上なく注目されてきた。
加えて、グリフィンドールの純血であるウィーズリー家、もしくは旧家である母方のプルウェット家としての素質も求められる。
それを重荷と呼ばずして、他に重荷があるだろうか。
「よく聞け、馬鹿者。何も終わってなどいない。そう、何もだ」
「……でも」
「いいから聞け。……昔、貧しい生まれの大馬鹿者がいた。身の程を知らず、魔術を学ぶことを求め、貧しい身なりのまま学び舎の門を叩いた」
腕の中で震えるジニーに語り聞かせているのは、
もうはっきりとは覚えていない。色褪せ、霞んでしまった。それでも、門が開かれたときの感動と、そこから広がる大海のような絶望はまだはっきりと刻まれている。
「学びを得るには貧しすぎた。下賤な、卑しい仕事を与えられ、いいようにこき使われ、最後には放逐された。……しかし、その大馬鹿者は最期に学びの友を得た」
「学びの、友」
「……その大馬鹿者にとって、それがきっと最初で最後の愛だったのだろう」
死にたくないと呟いた、大書庫での今際の際。あの時思い浮かべた面影は、誰よりも愚かで誰よりも聡い弟子だったように思う。
「私は人の心というやつに疎い。だからお前を安らげる言葉を持たない。しかし、学びを共有することはできる。……本当に終わるまで、お前は終わってなどいない」
ローブの背を握りしめるようにして掴む手が震えている。
指先の感覚を頼りにジニーの頭を抱きかかえてやると、押し殺した泣き声がプロメテアの胸に響いた。シャツが涙で汚れるだろうが、それくらいは構わない。
一度は絶望の果てを彷徨った先達として、これくらいの導きを与えるのは当たり前のことだ。
「お前の物語はまだ続いている。贖罪に紙面を割こうとも、恋物語を繰り広げようとも、それに変わりはない。お前の望む物語を、お前自身の手で紡げ」
「……優しく、ないですね。やっぱり嫌いです」
「そうか。私は存外、お前のことが嫌いではない」
そう、プロメテアはジニーのことが気に入っていた。ジニーの愚かしいほどに誠実な態度が、ともにソウルの業を学んだどこかの誰かと重なるのか。もしくは、境遇に絶望し彷徨う姿がかつての自分と重なるのか。
しゃくりあげるように泣くジニーが眠りに落ちるまで、さほど時間はかからなかった。
プロメテアは少しだけ目が見えないことを惜しく思った。彼女が安らかに眠れているか、知る術を持たないのは残念だ。
***
ドラコは憤慨していた。
この際、秘密の部屋を開放するというのはいい。結局はホグワーツ城の部屋でしかないそれを本来の目的で使うという父の判断は支持できる。
しかし、その条件が組み分け帽子に認められた者だけというのがまず納得できない。あのカビ臭いおんぼろ帽子に何がわかるというのか。
そして、何より気に入らないのが――
「やあ、ポッター。ダンブルドアの贔屓があると、ホグワーツにスイートルームを持てるのかい?」
スリザリンの秘密の部屋が、ハリー・ポッターに貸し出されたという事実だ。
すべてが気に食わない。自分の誘いを袖にしておいて、プロメテアとは懇意にし、挙げ句の果てにあらゆるスリザリン生を差し置いてサラザール・スリザリンの秘奥を預かるなどと、馬鹿にされているとしか思えない。
上等な革張りのソファに腰掛け、両隣に取り巻きの二人を座らせてこちらを見つめるハリーが言い返してこないのも気に入らない。
来るのが当然とばかりに準備が整えられ、ローテーブルを挟んで向かい側に自分のためのソファが用意されているのも気に入らない。
仮にもスリザリン生でマルフォイ家の食客であるにも関わらず、中立面をしてお誕生日席に座っているプロメテアも気に入らない。
父の言葉、そして祖父の言葉がなければ、全部むちゃくちゃにしてしまいたいくらいだ。
「お疲れ様です、メティ。なんだかワクワクしますわね」
「お前はドラコ側なのだから、浮かれていないでしっかり支えるんだぞ」
「もちろんです。パンジーもそうでしょう?」
「私は今すぐ帰りたいわよ。ちょっと前まで化け物がいた部屋で子どもだけの魔法史討論会なんて、冗談じゃないわ、まったく」
いつものクラッブとゴイルではなく、パンジーとダフネを引き連れているのは場に合わせてのことだ。しかし、その人選が本当に妥当だったのかもドラコには確信がなかった。
純血の旧家として、ものの見方を教えてほしい。
父親づてにドラコへと届いたハリー・ポッターからの招待状は、今この瞬間もドラコの思考を乱し続けている。
《プロメテアの呪抵抗》
ホグワーツの幼き学徒として知られる火防女
光なきプロメテアの魔術
呪いの蓄積を減らし、ソウルに刻まれた癒えない傷を埋める
存在の根本を蝕む呪いを紐解く唯一の知恵
色のないソウルを注ぐことによるそれは、竜の学院が求めた魔術の根源に限りなく近い
しかし、他者への誠実を忘却した学院はこの魔術をついぞ知り得なかった