ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
ドラコ・マルフォイにとって、ハリー・ポッターが「気に入らないやつ」になったのはそれほど前のことではない。昔はもっと純粋に彼のことを想像していた。
生き残った男の子。闇の帝王を滅ぼし、両親を失った赤子。その存在を聞かされたのは、ドラコがまだ3歳のときのことだった。
「母上、僕、その子に会いたい!」
「そうね、私もそう思います。せめて、どこで生きているのかだけでもわかれば」
母のナルシッサはハリーに感謝していた。彼のおかげでルシウスが救われたからだ。
マルフォイ家は闇の帝王に屈していない。これは帝王の全盛期に先代当主である祖父アブラクサスが家長を務めていたおかげで掲げられる看板だ。愛すべき父、ルシウスは帝王の傘下にいた。
ドラコが生まれるよりも前に英国魔法界を包み込んだ暗雲を、文字通り吹き飛ばしたのがハリーだ。闇の帝王を滅ぼしたことについて、多くの魔法族が多かれ少なかれ彼に感謝していた。
彼を憎んでいるのはおばのベラトリックスのような信奉者とその身内だけだろう。もっとも、彼女たちがアズカバンから出所することはないが。
長きに渡って魔法界を支えてきた純血の旧家であり、ウィリアム1世に封ぜられた土地を今も預かる英国貴族であるマルフォイ家にとって、彼が起こした変化の影響は計り知れない。
だから、ドラコはいつもどおりの無邪気さで母にねだった。
「その子には親がいないんですよね? うちに来ればいいのに。そうしたら、僕にも弟ができます。ね、いいでしょう?」
「あら、それは素敵ですね。お兄さんになったら、お手本になるためにも今まで以上にお勉強を頑張らなくてはいけませんよ、ドラコ」
「それは、ちょっと嫌だけど……」
それを聞いてクスクスと笑っていたのが、当時まだ目隠しをしていなかったプロメテアだ。
贔屓にしている古物商の養い子である彼女はドラコにとって妹分のようなものだった。男勝りな彼女は他の女の子のように泥だらけになって遊ぶのを嫌がらないし、勉強好きで本をよく読む彼女の話は面白かった。時折一緒に悪さをしてはナルシッサを困らせた。
「お前に弟ができたら、ルシウス様はますます政務が手につかなくなるだろうな」
「どうして?」
「二人より三人のほうができる悪戯は多いだろう?」
「わあ……!」
「まったく、そうやってすぐに悪さを唆すのはいい趣味とは言えませんよ。ほら、二人で遊んでらっしゃい」
「はい、母上! 行くぞ、プロメテア」
小さな手を引いて、庭へと駆けていく。反対の手にはバケツと釣り竿。湖で釣りをするにはぴったりの陽気だった。
マルフォイ家は貴族だ。その跡取り息子が子分の面倒を見るのは当然の義務だと、そう教えられてきた。
だから、もし可哀想な「生き残った男の子」が今もどこかにいるのなら、自分の子分になればいい。そうすれば、何でもほしいものを好きなだけ買ってやって、一緒に沢山悪いことをするのだ。
庭師の畑から勝手にスモモを取ったり、嫌な親戚のかつらをパーティー中に落としたり。顔も知らないハリー・ポッターを引き連れて、ドラコは想像の中で大冒険をしていた。
「いい考えだろ、プロメテア」
「さあ、どうかな。お前がいい兄かどうか、私は考えたこともない」
釣り竿を垂らした湖面に視線を向けながら悪戯げに微笑む妹分は、言葉とは裏腹にドラコの語る最高の計画に目を輝かせていた。
「お前だって姉貴分になるんだからな」
「そうはならないだろう。私は商売人の娘だぞ」
「でも、僕の妹分だ。僕がそう決めたんだから、そうに決まってる」
愉快げに笑うプロメテアはそれ以上否定せず、屋敷しもべ妖精が用意したバスケットからリンゴを取り出して一口かじった。
魔法界を救ったハリー・ポッターを弟として迎え入れる。いい考えだと、そのときは本気で思っていた。いや、それどころか、貴族として成し遂げなくてはならない義務だとすら考えていた。
***
「ハリー・ポッターを養子に?」
家族だけの――つまり、社交の介在しない久しぶりの食事の場で、ドラコは温めていた案を父に伝えた。
ドラコはもう5歳になっていた。多くの旧家がそうしているように、ドラコも複数の家庭教師をつけられて忙しくなっていたし、計画を手伝ってくれていたプロメテアが盲目になったことで少し疎遠になっていたのもあって、当時からあまり計画に変化はなかった。
しもべが作ったスープを銀のスプーンで口に運びながら、アブラクサスが豊かな白い眉を興味深げに上げた。
「ほほう、バーク家の娘となにやら悪巧みをしているとは聞いていたが、それか」
「その……可哀想な生き残った男の子を助けるのは、貴族であるマルフォイ家の義務だと思って……」
祖父のことは苦手だった。大好きな父に相談役として厳しい指南をし、そのままの表情でドラコに優しい言葉をかけてくる。彼はまるで人形のように美しい怪物だった。
だから、この計画が父よりも先に祖父の興味を引いてしまったのは、あまり嬉しくない。
誤魔化すようにちぎったパンをスープに浸すと、母の鋭い視線が刺さった。
「ドラコ」
「すみません、母上」
「……面白い一致があるものだな、ドラコ」
萎縮して背を丸めそうになっていたドラコにかけられた父からの言葉は、予想よりもずっと穏やかだった。
「私もそのことを考えなかったわけではない。ハリー・ポッターを養子にと望む家は少なくないが、彼の身分に相応しい環境を与えられるのは当家くらいのものだ」
「じゃあ……!」
「しかし、そうはならなかった。闇の帝王が去り、彼の消息が途絶えて4年経ったが、その間に誰も彼を迎え入れることができなかった。それが事実だ」
「どうしてですか? 居場所もわからないなんて、変です」
「ダンブルドアだ」
父の硬い表情がすべてを物語っていた。
社交界デビューを済ませたドラコは、もうアルバス・ダンブルドアがただの校長ではないことを知っている。彼は想像もつかないほど大きな白い渦の中心にいて、そこからすべてを見通しているのだ。
そして、限りなく黒いグレーであるマルフォイ家はその渦に触れることすらできない。
「情報が一切流れてこない。合衆国のポッター家にも、本邸があったスティンチクームにも人をやったが、わからずじまいだ。ダンブルドア派の誰かが匿っているか、あるいは……」
「母方か。厄介じゃな」
ハリー・ポッターの母方の家について、社交界では話題にならない。
彼は
このころのドラコはそれを純粋に信じていた。純血は正しく、正しい者は純血であるという教えを素直に飲み込んで、ハリー・ポッターという純血の英雄を案じていたのだ。
まさかこの警句で重要なのは後半で、純血というステータスが極めて政治的に柔軟なものであるなどとは知りもしなかった。当然、彼の母親は穢れた血なのだ、などとは思いもしなかった。
「とはいえ、ホグワーツには入学してくるであろうよ。その時には学友として最大限目をかけてやればよい」
「親がいなくてもホグワーツには入れるのですか?」
「そうとも。儂の知る
「父上、それは」
「おや、儂は誰のこととも言っておらんぞ、ルシウス」
父と祖父のやり取りが一体何を意味しているのかはわからなかったが、ドラコはスープを飲み干した。いい加減デザートに運ばれてくるはずのアップルパイが恋しくなってきたからだ。
カスタードアップルパイが大好きな妹分は、今頃何をしているだろうか。
ハリー・ポッターもアップルパイは好きだろうか。
母におやすみのキスをしてもらったあとも、ドラコはまとまらない考えに頭を占領されて何度も寝返りを打った。
***
その日のことは今でも夢に見る。
「付き合う相手は選んだほうがいいよ。――僕が、教えてあげよう」
「いいよ。友達なら自分で選べる」
差し出した手を彼は取らなかった。
ハリーはドラコではなく、よりにもよってウィーズリーを選んだのだ。これに勝る屈辱をドラコは知らなかった。
血を裏切る者と蔑まれるウィーズリー家は、純血の旧家たる聖28に列されることを拒んだ。彼らは自らの先祖にマグルがいると主張し、聖28の正統性を否定したのだ。これは純血という魔法界の礎を担ってきた者たちへの無礼に他ならなかった。
それどころか、同じ聖28の旧家であるプルウェット家の末裔で、婿を取らねばならないモリー・プルウェットがウィーズリー家に駆け落ち同然で嫁いだことで家としてのプルウェット家が永遠に失われた。
マグルびいきで、独善的で、慈善家気取り。愚かな貧乏人のウィーズリー家は、家長のアーサーが父との因縁を抱えているせいか、何かにつけてマルフォイ家を嗅ぎ回っていた。
そんな連中にハリーを取られた。
「どうした、ドラコ」
書くべき手紙が進まないまま机の前で羽ペンを遊ばせていると、プロメテアに声をかけられた。
談話室でプロメテアが一人なのは珍しい。彼女は何かと人に可愛がられているし、彼女自身誰かの宿題を手伝っていることが多いからだ。
1年生のころはハリー・ポッターたちとともにトロールを撃退した小さな英雄だった。バジリスクを倒し、ジニー・ウィーズリーを奪還したころには、彼女の小ささを侮る者はいなくなっていた。かつて妹分だった彼女も、いつの間にか遠くへいってしまったようだ。
目が見えなくなって、彼女はますます不思議な存在になった。昔の彼女を知っているからこそ、妙に近寄りがたく感じてしまう。
「筆の進みが悪いようだな」
「お前が派手にやるせいで父上に報告しなくちゃいけないことが多いんだよ。少しは加減しろ」
「相手が加減してくれる日は私も加減するさ」
遠くで悲鳴と歓声が聞こえる。今日はゴブストーンの寮内試合があったのだったか。
あの臭液を吹きかけられる遊びがどうしてあれほど好まれるのかドラコには想像もつかなかった。特に綺麗好きのダフネとパンジーが熱中しているのが不思議でならない。
やるならクィディッチに限る。空を舞う快感とひりつく興奮。あれこそが紳士の嗜むべきスポーツだ。
「プロメテア、お前もそろそろ自分の箒くらい持ったらどうだ」
「冗談はよせ。それなら飛翔呪文の研究をしたほうがマシだ」
かつて、自力での飛翔を可能にする魔法は不可能だと言われていた。今はその定説は覆されているが、ホグワーツで教えられることはない。なぜならば、その飛翔を可能にした偉大な研究者は
プロメテアは「だからって車輪の再発明を強いる道理はないだろう」と文句を言っていた。こればかりはドラコも同感だった。
「それで、何の報告をしようとしていたんだ?」
「……報告じゃない。あの、招待状についてだ」
ポッター家の紋章で捺された封を切ると、封筒の中から出てきたのはマルフォイ家が使っているものと同じ様式の招待状だった。
ひと目見てわかった。父が口添えしたのだと。
大好きな父も、妹分のプロメテアも、皆ハリー・ポッターを気にかけている。それなのにハリーは自分が何者なのか、本来どのように振る舞うべきなのかについてあまりにも無頓着だ。
彼はフリーモント・ポッターの孫だ。偉大な魔法薬の研究者であるフリーモントの名は今も英国魔法界で語られているというのに、ハリーはそれを気にもとめない。祖先を鼻にかけないのと、祖先を尊重しないことの間にある隔たりを彼は理解していない。
ずっと腹立たしかった。伝統を軽視する態度も、驚くほどの無知も、無礼そのものだ。
それでも、教えることはできない。一度差し伸べた手を袖にされておいて、もう一度というのは貴族の礼儀に反する。
「あれはどういう意味なのか、父上に伺おうとしていた。いい言い回しが思いつかなかったからやめるところだった。それだけだ」
「いい加減仲直りをしろということだと思うが」
「うるさい、お前が知ったような口をきくな」
自分の癇癪が幼稚であることくらい、わかっている。父にも母にも散々窘められた。
意図せずとはいえ、マダム・マルキンの洋裁店で彼を傷つけたのは確かだ。気が急くあまり悪い印象を解消する前に関係を築こうとして、そして失敗した。
だからといって、頭を下げる気にはならない。
父やプロメテアから見れば下らない意地なのかもしれないが、ドラコにもドラコなりの怒りというものがある。先に頭を下げるべきはハリー・ポッターであって、自分ではない。
だから、この招待状が怖くて仕方がないのだ。
「その会だが、私も進行役として参加することになっている。中立の立場としてな」
「ふん、そういってまたポッターの贔屓をするつもりなんだろ」
「私が贔屓するとしたら魔法史そのものか、バチルダ・バグショットに対してだ」
純血の旧家としての史観、価値観。そういったものを教えてほしい、対等な語らいがしたい。
その招待状は礼儀に即していた。軽率に断ることはできないし、断る理由もないはずなのに、どうしても気が乗らないのは、なぜだろうか。
対等。その言葉がドラコにはわからなかった。
《彷徨者の指輪》
ポッター家の印章が彫られた銀の指輪
薬草籠を手に歩き回る薬師の意匠が刻まれている
薬師として人々に愛されたリンフレッドを祖とするポッター家の証
はるか昔に失われたそれは、ようやく主のもとに戻った
わずかだが、スタミナの回復速度を上げる効果がある
歩き回る者とあだ名された祖にちなんでいるのだろうか