ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
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生徒のいない夏のホグワーツに、豪雨とともにもたらされた一枚の便り。それがアルバス・ダンブルドアにとって過去最大の衝撃だった。そして、ある意味では絶望とも言えた。
「……運命とは過酷なものじゃのう、リーマス。運命という言葉にティーンエイジャーのようなときめきを欠片も感じられないほど、儂は老いてしまったようじゃ」
所在なさげに佇むルーピンは、つい先日までダンブルドアの古い盟友――ニュート・スキャマンダーの下で働いていた。そのおかげか、前にホッグスヘッドで顔を合わせたときよりもいくらか健康的な顔つきになっている。コートも新調できたようだ。
いずれ来る戦いに備え、かつて共に戦った者たちとのつながりを強める必要があった。ルーピンとの顔合わせもその一環だった。
しかし、ニュートから彼が預かってきた手紙――アリアナのオブスキュラスについての情報は、ダンブルドアにそのすべてを放り出したいと思わせるほどに衝撃だった。
オブスキュラス。魔法族の子どもが抑圧の果てに力を暴走させる、あまりにも悲しい闇の力だ。かつてダンブルドアは長らく消息不明だった甥が内にオブスキュラスを宿すオブスキュリアルとして闇に堕ちかけるのを目撃した。
不幸のうちに没した末妹のアリアナは、確かにオブスキュリアルとしての条件を満たしている。精神的に不安定で、抑圧され、感情を暴走させた。
まだダンブルドアが幼稚で傲慢な若者だったころ、あまりにも愚かな争いの末にアリアナは
遺体はなかったが、誰もが彼女の死を確信した。せざるを得なかった。その戦いは若き日のゲラート・グリンデルバルドとアルバス・ダンブルドア、そしてアバーフォース・ダンブルドアによって行われた。被害者の生存を期待する余地などありはしない。
しかし――もし、愛が彼女を守っていたとしたら?
「スキャマンダー先生は後悔してらっしゃいました。密猟者を捕縛できなかったせいで、足取りが途絶えてしまった。私の責任でもあります」
「もちろん、君たちに責任はない。リーマス、この件について責任を負える者がいるとしたら、この世にいるのは3人だけじゃ。そしてそれは幸いにして君たちではない」
同封されていた写真に目をやる。持つ手が震えるのを隠しきれず、それでも節くれだった指が紙切れ一枚をひしゃげそうなほど強く掴んだ。
オブスキュラス特有の黒い靄に包まれて、そこに佇んでいるのは確かに最愛の妹――アリアナ・ダンブルドアだ。しかし、彼女がもう生きていないことは、その姿が髪型から服装まで当時そのままであることからはっきりと伺えた。
これほどの皮肉があるだろうか? ダンブルドアの愚かさによって死んだアリアナは、愛によってオブスキュラスという闇の残滓になって漂い続けていたのだ。そして、それを誰一人探そうとしなかった。消し飛んだ末の妹を探そうとする者は誰もいなかったのだ。
そして、ニュートが老体に鞭打って写真の現場に駆けつけたころには、アリアナのオブスキュラスは闇の魔術師と思しき誰かに回収された後だった。
「……リーマス。きっと、ニュートからは何も聞かされておらんじゃろう」
「ええ。これはダンブルドア先生にとって大切な話である、とだけ」
「彼は本当に偉大な魔法使いじゃ。儂などよりよほど沈黙の価値を理解しておる、誠に誠実な男じゃ」
若き日の記憶が蘇る。
愛ゆえに間違えた。
愛ゆえに戦った。
そして、愛の尊さを本当の意味で知ったと、そう考えていた。
自分は間違えたのだろうか。アルバス・ダンブルドアの愚かな過ちは、もうとっくに取り返しのつかないところまできていたのだろうか。
「先生。何か、私にできることはありますか?」
「……なんとも、温かい言葉じゃ。ありがとう、リーマス」
「とんでもない。先生は恩人ですから」
全身に回ろうとしていた冷たい毒のような絶望を食い止めたのは、皮肉にもダンブルドアを心から信頼しているかつての生徒からの視線だった。その厚い信頼がダンブルドアを苛む。
絶望か、苦痛か。どちらにせよダンブルドアは苦しまなくてはならない。
しかし、覚悟はもう済ませた。
「リーマス、君には2つほど酷なことを頼むことになる」
「何なりと」
「では、来期の闇の魔術に対する防衛術の教授を頼みたい。……大丈夫じゃ、幸いにして今のホグワーツには君の小さな問題について理解のある優れた相談員がおる。君のよく知る魔法薬学の教授も、のう」
「それは……わかりました。謹んでお受けします」
「そして、もうひとつ」
罪と向き合う時が来たようだ。
「急なことじゃが、旧友を訪ねねばならん。ニュートの名代として、儂と一緒にヌルメンガードへ小旅行に付き合ってくれんか」
***
白く豊かな髭を蓄えた父は、昔から月の光がよく似合う人だった。
だから、彼を殺すのは満月の日にしようと決めていた。
「――来たか、ルシウス」
庭を一望できる二階の窓際で、アブラクサスは肘掛椅子に揺られていた。
まるでルシウスが今日来ることを確信していたかのような、穏やかで静かな瞳。何の驚きもない、何の期待も越えられていないことを示すその目が、小さい頃からずっと苦手だった。
父の鼻をあかすため。闇の帝王に従ったきっかけは、そんな幼稚なものだったようにも思う。それほどにルシウスは父親としての彼を苦手としていた。
だからこそ、政治家としてのアブラクサスはルシウスの憧れだった。ずっと彼の背を追ってきた。聖俗、貴賤を問わず、ありとあらゆる力を駆使して、それでも追いつかない。時の流れよりも早くアブラクサスの白い面影は遠ざかっていく。
「父上。ひとつ、強請ってもよろしいでしょうか」
「言ってみよ」
「お命を」
「よかろう」
差し出した小瓶をアブラクサスは躊躇せずに受け取る。この不可思議極まりない自信は一体どこから来るのだろうか。彼に恐怖はないのだろうか。
貴族とは何者か、それをルシウスに教えてくれた人だ。その偉大さはルシウスが一番理解していた。だからこそ、彼個人の輪郭が見えない恐怖は、いつもルシウスを苛んできた。
それでも当主として、ドラコの父として、彼を直視しようと歯を食いしばった。
「痛みはありません。眠るように死ぬ薬です」
「それはいい。今夜はいつになったら眠れるのかと待ちぼうけを食らっておったところだ」
「……父上は」
怖くないのですか、と問おうとした。しかし、その言葉は喉でとどまった。
ルシウスは当主だ。マルフォイ家というイングランド貴族の、そして純血の旧家の長なのだ。たとえ父の前であろうと、子に戻ることは許されない。それが最後の対面であっても。
代わりに口をついて出たのは、もっと価値のある問いだった。
「父上は未来を重んじてらっしゃる。それは承知しております」
「左様」
「そして……闇の帝王が君主足りえない、単なる破壊者であるとお考えなことも」
「そうとも。お前の口からそれが聞けるとは思わなんだ」
「では、なぜ闇の帝王の未来をお考えにならなかったのですか。導こう、操ろうとは思われなかったのですか」
アブラクサスは闇の帝王――トム・リドルと学友だった。
闇の帝王に仕える死喰い人たちの中で、彼の本当の名を知る者がどれだけいただろうか。同世代の者を除けば、大半が彼を「神秘的な純血の帝王」として信奉していた。
ルシウスが彼に仕えながらも一歩引いた目で見ていられたのは、アブラクサスから彼の学生時代について聞かされていたからだ。そして、その記憶を守るために閉心術と記憶の偽装を訓練させられたからでもある。そのおかげで
しかし、全てが終わってみてから奇妙な事実に気がついた。アブラクサスは自らの学友であるトム・リドルが闇の帝王ヴォルデモート卿を名乗って以降、彼の進歩に一切の期待を寄せていない。導こうとも、操ろうともしていない。
「ま、よかろう。置き土産じゃ。一度変わりきってしまったものを見るとな、せめてそれ以上変わらないことを祈りたくなる。あれは可能性を使い果たした。そうあれかしと、儂は祈った」
「祈り、ですか」
「まあ、あれを信じきれなかったとも言える。信じておれば変わったのかもしれんが、終わった話を考えても詮無きことじゃ」
「……終わった話とおっしゃいますがな。終わるのは貴方だけです、父上」
「そうかね? 儂には全てが終わって見える」
「父上はずっとそうでした。ずっと
アブラクサスはずっと次を、その次を考えていた。今のことなど彼にはどうでもよかった。
どんな成績を取ろうとも、どれだけよい契約を取り決めてこようとも、父は興味を示さなかった。ただ、その次に起こることだけを見ていた。
アブラクサスの世界でルシウスが生きていたことなど、一度たりともありはしなかったのだ。
「私は貴方ほど、今を諦められない」
「ほう。それほどにドラコが大事かね」
「当然です」
断言する。
世間がルシウス・マルフォイをどう見ているかなど、世間そのもの以上によく理解している。金で無罪を勝ち取った悪人、そのとおりだ。使える手段を使った結果の風聞で思い詰めるほどルシウスは愚かではない。
ルシウスが無罪を求めて水面下で動きはじめたのはナルシッサが身籠ってすぐのことだった。血を分けた我が子。新たな生命。その儚い存在を守るために、ルシウスは闇の帝王が敗北した際の保険を何重にもかけ、そして戦後になってそれを手繰り寄せた。
結果として訪れた平和な時代に、ルシウスは我が子を当然のような顔をしてホグワーツへと送り出すことができた。これはひとつの勝利だ。
しかし、まだ足りない。
最も尊敬した政治家と同様、ルシウスも未来を見ている。マルフォイ家のさらなる栄達、そして闇の帝王が帰ってきた際の保険を求めて、日々奔走している。
最も理解できなかった父とは反対に、ルシウスは今を大切にする。妻を愛し、息子を愛し、家族を幸せにするために躊躇なく選択する。
旧き時代の象徴、魔法界の白い蜘蛛が今夜死ぬ。その死を号砲として、ルシウスは大海に漕ぎ出すのだ。
「さようなら、父上」
「おやすみ、ルシウス」
小瓶の毒を呷ったアブラクサスは、肘掛椅子の上で緩やかに瞼を下ろした。
天窓から月の光が差し込んでいる。柔らかく透き通ったその光は、彼の美しい寝姿を穏やかに、静かに照らしている。
あまりにも完璧なその美しさだけは、幼い頃からずっと好きだった。
***
杖を振るう腕がそろそろ重くなってきている。
魔法法執行部アズカバン管理局付派出員。そのような仰々しい肩書きとともにアズカバンの管理人として押し込まれたジェーンにとって、かつて嗜んだはずの決闘はあまりにも久しぶりすぎた。ましてや命のやり取りをするものなど、錆びついた腕では抱えきれないほどに重い。
その侵入者たちは海から突然現れた。まるで幽霊船のように、水面下から船ごと。
奇妙な協力者と背中を預けあっていなければ、ジェーンは今頃とっくにアズカバンの無縁墓地に眠る死体の仲間入りを果たしていただろう。
「賭けてもいい、ダームストラングの連中だ!」
「根拠は?」
「闇の魔術、幽霊船、だんまり!」
「随分な名推理ですね、ブラック先輩!」
シリウス・ブラックが一番嫌がる呼び名で呼びかけると、彼は襲撃者から奪った杖を手ににやりと笑ってみせた。彼くらいになると、囚人生活で痩せ細っていてもハンサムさを残せるようだ。
「その通り。少なくとも私をこの監獄にぶち込んだ無能どもよりはいくらか、私は名探偵だ!」
彼の放った失神呪文がまた一人敵を海に追いやった。あれでは溺死するだろうが、残念ながら襲撃者の生存確認はジェーンの業務に含まれていない。
襲撃者たちは一様に髑髏の仮面で顔を隠している。悪党が顔を隠すのは今に始まったことではない。しかし、彼らが時折味方同士で発する言葉は非常に奇妙だった。
「スペイン語、ドイツ語、あと中国語ですか?」
「なんとも腹の減るラインナップだな。今のところロシア語が聞けていないのが不思議なくらいだ」
「ああ、ブラック先輩がいたから英語もですね」
言語が入り交じっている。まるで複数の国家から人員を募った即席の混成部隊のようだ。
しかし、それにしては装備が統一されていた。あまりにも不自然。彼らは何の目的で、誰によって送り込まれたのだろうか。
「もし調書に書くなら正確に頼む。我が一族は完璧なクイーンズ・イングリッシュの教育を施されているとね」
「書かなかったら?」
「実家で母が憤死する。まだ生きていればの話だがね。なるほど、どうやら書かないほうがよさそうだ」
ジョークを挟みながらも襲撃者の放つ呪いを避け、守り、打ち倒していく。即席のコンビとしては十分によく連携が取れていた。腹立たしいほどだ。
どうやら誰かに背中を預けて戦うことに慣れているらしく、目の前の敵を利用してジェーンの援護までこなしてくれる。
最後に立っていた襲撃者を仕留める光は、二本の杖から同時に放たれた。
一際大きな人影が意識を失って地に伏せる。半ば吹き飛ばすような形になってしまったせいで、あたりのヒガンバナは全滅だ。
「おっと。気が合うな」
「残念ながらそのようです。さて、唯一正気な囚人である先輩にこんな当たり前のことをお願いするのは奇妙に思われるかもしれませんが――」
二人の間で赤い閃光が弾けた。
背筋を冷や汗が伝う。
両者が放った失神呪文はほぼ同時だった。12年間投獄されていた人間の動きとは思えない。いくら錆びついていたとはいえ、ジェーンはこれでも学生時代は決闘巧者で知られたほうだ。
「ミス・ジェーン。我々には話し合いの余地があると思わないか?」
「ミスター・ブラック。私があなたに提示できる選択肢は、素直に監獄に戻るか、痛い目を見て監獄に戻るかです」
「まあ聞け。君には散々言っているが、私は冤罪でここにいる」
「ええ、その主張は耳にタコができるほど聞かされてますよ」
杖を向けあったまま、互いに隙ができるのを待ち続けている膠着状態。時間が進めば吸魂鬼がシリウスを狙う。有利なのはジェーンだ。
それゆえにジェーンは彼の言葉に耳を傾ける余裕があった。彼がどうやって脱獄したのかのヒントがそこにあるかもしれない。
「本来なら今日はファッジが査察に来る日だった、そうだろう?」
「ええ。アブラクサス閣下が亡くなられて、その関係で取りやめになりましたけど」
アブラクサスが死んだ。ジェーンにはまだ受け入れきれていない事実だった。
日課だった月光浴の最中、静かに息を引き取っているのが屋敷しもべ妖精によって発見された。政財界は上から下まで大騒ぎだっただろう。事実上の支配者が一人この世を去ったのだ。
ジェーンはアブラクサスの口利きがあってアズカバンに勤務できた身だ。彼の死を心から悼むとともに、彼が与えてくれた仕事を最後まで全うするためここに残っている。
「君が差し入れてくれた日刊予言者新聞のおかげで、多くのことがわかった。ピーター・ペティグリューは生きている」
「はあ? 何を言って」
「奴が本当の裏切り者だったんだ。これを見ろ」
シリウスが放り出した新聞を、慎重に拾い上げる。
きっと何度も読み直したであろう癖の付いた部分に掲載されていたのは、とても小さな記事。ウィーズリー家という勤勉な一家がガリオンくじに当選し、エジプト旅行に向かったというささやかな幸せの話だ。
これのどこにピーター・ペティグリューの影を見出したのか、ジェーンには皆目見当がつかなかった。もしかすると、会話が成立するだけで彼はとっくに狂ってしまっていたのかもしれない。
「少年の肩に乗っているネズミがいるだろう。指が一本欠けているのがわかるな」
「ええ、まあ」
「奴は未登録の動物もどきだ。ネズミの、動物もどきなんだ!」
「そんなこと言われても、証拠は――」
狂人の戯言。そう受け流そうとしたジェーンは、次の瞬間には唖然としていた。目の前でシリウスが大きな黒い犬に姿を変えたからだ。
再び人の姿に戻ったシリウスは、ジェーンの前で懇願するように膝をついた。
「かつて私は友人たちとともに動物もどきになった。とある小さな問題に対処するため、必要に迫られてね。その一人が奴だった」
「な、な、なんてことを」
「どのみち、この襲撃者たちを報告しに本土に戻るんだろう? 頼む、私を連れて行ってくれ」
「……もし、連れて行かないって言ったら?」
「君がいないうちにもう一度脱獄して、北海を泳いで渡る。君は監督責任を問われてクビ、私は北海の荒波に揉まれておさらばだ」
「……ああ、もう! ほんっとうに最悪!」
ジェーンは杖を振って気絶した襲撃者たちを縛り上げながら、大きく溜め息をついた。
亡き恩人から授かった仕事を今日付で失うことになりそうだ。
《動物もどき》
古くから伝わる高度な変身術
己の肉体を変成し、獣と人の二相を得る
極めて複雑かつ悪用が容易であり、法で登録が義務付けられている
準備に失敗すれば恐ろしい結果が待っているだろう
どの獣になるか選ぶことはできず、取り消すこともできない
であれば、きっとその姿は魂の運命を映している