ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
守護霊を放って忌々しい看守を追い払った後、リーマスは冷や汗をかいて震えるハリーに視線を向けた。つい先ほど意識を取り戻したばかりで、まだ悪夢の余韻に蝕まれている。
胸が締め付けられるようだ。
吸魂鬼は人の温もりを奪う。幸せや喜びといった熱を食らい、魂の奥底にある湿った冷たい絶望をこみ上げさせる。そして、その絶望に眠る記憶が暗ければ暗いほど、吸魂鬼の冷気によって負う傷は深くなる。
親友たち――ジェームズとリリーの忘れ形見だ。ハリーが吸魂鬼の冷気にあてられてどんな絶望を呼び起こされたか、その想像は容易についてしまう。きっと彼はリーマスが守れなかった命よりも大切な宝物の最期を見せられている。
だからこそ、絶対に守らねばならない。
「さあ、食べるといい。気分がよくなる」
チョコレートを割って差し出すと、ハリーたちはおずおずとそれを受け取った。
まだ皆が震え、怯えている。生徒たちの目に光が戻るまで少し時間がかかるだろう。
「私は機関士と話してこなくてはならない。……大丈夫、チョコレートに毒は入っていないよ」
少し冗談めかして微笑みかけると、生徒たちはゆっくりとチョコレートを食べはじめた。吸魂鬼の冷気にチョコレートは即効性がある。彼らの頬に血の気が戻ったのを確認してから、リーマスは不自然にならない程度に急いでコンパートメントを後にした。
ホグワーツ特急には特別な防衛機構が備わっている。万が一にも生徒が吸魂鬼のキスを受けることはないだろうが、それでも急いで確認するに越したことはない。
客車をつなぐ扉を3つほど跨いだところで、リーマスはコンパートメントに押し入ろうとしている吸魂鬼を見つけた。リーマスには目もくれず、コンパートメントの扉に節くれ立った指をかけている。よほど吸魂鬼を惹きつける存在がいるようだ。
リーマスは杖を構えたが、その必要はなかった。
それよりも早く、中から守護霊が飛び出してきたからだ。
「――去れ。お前たちの望みが何であれ、私を前にしてそれが叶うと思うなよ」
凛とした、力強い声が中から聞こえる。
まだ有体ではないが、薄っすらと翼のようななにかを生やした銀の靄が吸魂鬼へと食らいついた。たまらず追いやられた吸魂鬼はリーマスのほうに顔のない顔を向けたが、先ほど放った守護霊の残滓を感じ取ったのか、嫌そうに逃げていった。
吸魂鬼が逃げていった方角にはホグワーツ特急最強の防衛者である「車内販売の魔女」がいる。ホグワーツ特急の開通以来存在する魔法の存在である彼女は、通常通りの運行を妨げる存在に容赦しない。その理不尽な強さは学生時代に体験済みだ。
コンパートメントの中から漏れ聞こえるやり取りから、リーマスは守護霊の呪文を放った少女の正体を察した。プロメテア・バークだ。
ノックをすると、やや間があってから返事があった。
「ミス・バーク、ルーピンだ。入っても構わないかな」
「……ああ、なるほど。どうぞ」
どこか安堵したような声。彼女は優秀だと聞いていたが、それでもこの状況で
扉を開くと、中には眠るように失神している生徒が一人、引きつけを起こしたように震えて意識のない生徒が二人。重症だが、何か手当ては施したようで、室内から冷気は消えている。
コンパートメントの奥で失神している大柄な生徒を起こそうとしていた気の強そうな黒い髪の少女が、リーマスを警戒するように睨んだ。
「チョコレートの処方は済んでいます。彼女たちももうすぐ目を覚ますかと」
「それはよかった。君たちも災難だったね、もう奴は去ったから大丈夫。今から機関士のところに状況を確認しにいくところだ」
「そうでしたか。……遅れましたが、闇の魔術に対する防衛術の教授職への就任、おめでとうございます」
プロメテアの言葉に小さく微笑むと、目の前にいるのが教師だとわかってか、奥でリーマスのことを何者かと訝しんでいた少女が小さく頭を下げた。
不審に思うのも無理はない。吸魂鬼などというおぞましい未知の襲撃があったあとだ。
それに、リーマスは自分の風貌がお世辞にも「温厚で誰にでも好かれる」という感じではないことを自覚している。リーマスの負った傷跡は初対面で好感を持たれるには少々醜い。
顔を合わせるのは初めてだったが、プロメテアとは何度か手紙のやり取りがあった。夏休み期間が終わるぎりぎりまで、リーマスはダンブルドアとともにある人物を探していた。そのためにプロメテアの知識を借りていたのだ。
残念ながらその人物は発見できなかったが、その代わりにプロメテアという優秀な魔女と知り合うことができた。このまま生徒たちを残していくのは心苦しいが、彼女が適切な処置を行えるのなら大丈夫だろう。
「そちらの君も、チョコレートを食べておいたほうがいい。一番効くからね」
「……わかりました。先ほどは失礼しました、ルーピン先生。スリザリン3年、パンジー・パーキンソンです」
「気にしないでくれ、ミス・パーキンソン。吸魂鬼を目の前にした直後に友達を守ろうと思えるだけでも、君は素晴らしく立派だよ。学期前だから加点できないのが申し訳ないくらいだ」
薄っすらと顔を赤らめてわたわたとなにか言い訳のようなものをしようとする様子を見て、改めて問題がなさそうだと確信したリーマスは彼女たちのコンパートメントを後にした。
吸魂鬼たちの目的はシリウス・ブラックだろう。彼がブリテン島に上陸していることは目撃情報から明らかになっている。そして、多くの人々は彼の目的が「ハリー・ポッターの殺害」だと信じてやまない。
しかし、このような臨検があるという話は聞いていない。ダンブルドアが把握していれば事前に伝えられるはずだ。
アズカバン島で造られた吸魂鬼は並大抵のことでは故郷から離れない。そこが彼らの餌場だからだ。吸魂鬼を動かすことができる人物は限られている。魔法大臣、ウィゼンガモットの評議員、場合によっては魔法法執行部の重役……。
守護霊にダンブルドアへの伝言を託しながら、リーマスは考えに耽っていた。
シリウスの脱獄は一体何のためなのか。なぜ今だったのか。彼は今どこにいて、親友の忘れ形見をどう思っているのか。脱獄できたのは、彼が未登録の動物もどきだからなのか。
もし、シリウスが動物もどきとしての力を使って脱走したのなら、彼が大勢のマグルを巻き添えにピーターを殺したとされているあの日、ピーターが動物もどきとしての力を使っていないと――生き延びていないと言えるだろうか?
「――よくもそのようなことを、ぬけぬけと」
車両の前方、機関室から聞こえた静かな怒号がまるで自分に向けられたような気がして、リーマスは頭を上げた。
上等なベージュのスリーピーススーツの肩を雨で濡らして、ローブを着た壮年の魔法使いを睨みつけている男がいる。革靴にはねた泥から見て、最寄りの駅から駆けてきたのだろう。
「しかしねバーティ、これは上の要請なんだ。私だってあんなおぞましいものを子どもたちに近づけたいとは思わんが……」
「上の要請であろうと関係はない。ホグワーツ特急は法的にも慣例的にもホグワーツの管轄だ。私の耳にすら入っていないぞ」
「そうなのか? 俺はてっきりあんたが許可を出したものだとばかり」
「それはどういう意味だ」
「上からは教育文化局の陳情があって動員をかけたって聞いてる。俺にわかるのはそれくらいだ。すまんがもう行くよ、看守どもをアズカバンに返してこなくちゃならん。前任の派出員がこいつらとどう付き合ってたのかは知らんが、俺はあまり仲良くなれてなくてね。なる気もないが」
ローブの魔法使いは心底嫌そうな顔で吸魂鬼が数体収まった大きな鳥かごの取手を掴み、姿くらましした。
どうやら揉め事があったようだ。
スーツの男――クラウチは眉間に皺を寄せてしばらく魔法使いのいたところを睨んでいたが、機関室の隅で青い顔をしていた機関士に軽く声をかけて進行を再開するよう命じた。そして、それからようやくリーマスに気づいて小さく会釈した。
「ミスター・ルーピンとお見受けするが」
「どうも、ミスター・クラウチ。ここに来るまでに生徒たちの様子を見てきた。幸いにして被害はなかったけど、それなりの人数が吸魂鬼の冷気にあてられている。症状のひどい子にはチョコレートを渡しておいた」
「的確な処置だ。駅からホグワーツ特急が通過しているはずの時間に通過していないという連絡が受けてすぐに駆けつけたが……君が同乗していてくれたのは幸運だった」
握手を求められて、リーマスは内心驚きながらもそれに応えた。
バーテミウス・クラウチ・シニアという男の冷淡無情ぶりはリーマスの世代なら誰でも知っている。かつては魔法法執行部の部長として悪という悪に鉄槌を下す、剃刀のような鋭さがあった。
彼がリーマスの抱える
リーマスが世間から離れているうちに、時代は見えないところで移り変わりつつある。
ホグワーツに向けて汽車がゆっくりと進みはじめた。リーマスはクラウチとともに光の戻った客車へと引き返し、生徒たちに声掛けを行いながら、1年間と定められた教員生活が決して安心できるものではないということを悟った。
***
その牢獄は薄暗く、そして湿っていた。しかし、冷たくはなかった。
牢の主はそこでただ、静かに微睡んでいた。彼女は投獄されたわけではない。長い放浪の果て、終の棲家として自ら潜るべき牢を見出したのだ。
深淵の忌み子、カルラ。そう呼ばれることもなくなって久しくなり、記憶も薄れつつある。それでもカルラはずっと前からカルラだった。
かつてはゲラート・グリンデルバルドの師であり、そのさらに前は火のない灰の師であった魔女。深淵より生じ闇と戯れる彼女は世を離れ、深い地の底に眠っていた。
「――やあ、魔女」
カルラはかけられた声にゆっくりと目を開いた。
その存在がいずれ己の前に現れることは予見していた。
鮮烈な紅い髪、身震いするほど美しい少年が鉄格子の向こうで微笑んでいる。病床の友人を見舞いに来たかのような気軽さで彼はカルラを囲う鉄格子に指を触れ、そして瞬く間にそれを錆びさせてしまった。
「腐食者か」
「僕はその呼び名が好きじゃないんだけど……特別に許すよ、僕は君が気に入っているから」
「私は貴公を好かん。蝕む蛭、熱にたかる蟲めが」
カルラがわずかに語気を荒げると、あたりを漂っていた黒くおぼろげな影――人間性が威嚇するように震えた。
人間性とは、人を人たらしめる根源だ。そしてそれは温かく湿った深淵から生じる。ただの人間性に自我らしい自我などありはしないが、それでも唯一それらと戯れるカルラを母と思うのだろうか、健気にもその身を盾にしようとしている。
しかし、腐食者はそれすらもたやすく崩してしまう。
ただ、触れただけ。それだけで人間性は熱を失い、冷たく爛れた膿のようになって地に落ちた。牢の内に甘く饐えた腐臭が漂う。
「僕の名はハーポ。腐食の君と崇められたこともあるし、腐ったハーポと恐れられたこともある。でも、僕はただのハーポだ」
「私にとって、貴公は腐食者以外の何者でもない。……ここは馬鹿弟子が見思い描いた最後の夢だ。貴公なぞに腐らせるものか」
長杖を手繰り寄せる。
人の内には温かく湿った闇がある。闇とは人の故郷なのだ。人間性は闇から生じ、ソウルを得て人となり、ソウルを失って闇に帰る。それはどんな世界であっても変わらない。
しかし、目の前で淫靡に微笑むハーポは違う。彼の故郷はもっと冷たく、深く、爛れている。
ハーポは元より人の子などではない。深淵のさらなる底、深海から這い出た冷たい蟲。それこそが腐食者ハーポの正体だ。
生まれながらの腐食者である彼は、この世界には生じるはずのなかった冷たさを己の故郷から呼び込んでいる。
冷たさは人間性に澱みを生む。人の内から人間性の膿を生じさせる。
冷たさは人間性を凍えさせる。人間性を冷たい接吻によって奪われたものは、熱に飢える悪鬼となる。
「誰もが闇を恐れ、闇を憎んでいる。闇をも腐らせ尽くす僕を、かつて人々は神と崇めた。闇と戯れる君が僕を悪く言うのは、人々から見れば滑稽かもしれないね」
「そして貴公の神殿は打ち壊された。信徒たちは貴公が腐らせたものの本性を知った。己の故郷が失われたことを知り、お前は信仰を失った」
「物知りだね。じゃあやっぱり、修復者のことも知ってるのかな」
返事の代わりに、カルラは闇の刃を振るった。
同じ弟子を持つ魔術師の男、ヴィンハイムのオーベック。彼がこの世界に役目を負って生まれ落ちることをカルラは知っていた。そして、この世界に生まれ落ちる彼が腐食者にとってひどく都合が悪い存在であることも。
彼のことを教えるわけにはいかない。
ここまでずっと待っていたのは弟子との約束を守るためなのだから。
ハーポの肉を斬り裂いたはずの闇が熱を失い、腐り果てて澱みとなる。宙を漂う冷たい影を打ち払って、カルラは再び長杖を構えた。
「やはり刃は通らない、か」
「わかっててやってるでしょ、ひどいなあ。痛くないわけじゃないんだよ、僕もさ。無駄なことはやめて、一緒に来てくれないかな」
「……貴公、覚えておくことだな」
カルラが己の長杖を胸へとあてがったとき、初めてハーポは表情を変えた。
「人の内には闇がある。それゆえに迷い、焦がれる。貴公の内にはないそれが、人を英雄たらしめるのだ」
迷うことなく、カルラは己の命を断ち切った。
怯えたような、理解しがたいものを見るような目。ハーポの白く透き通った肌に、カルラの胸から吹き出た血が跳ねる。
「待って、いるぞ……貴公が深淵をこぼれ落ち、冷たい故郷へと転げ落ちるときまで……」
その血の温かさも、きっとハーポは知らない。
《カルラの遺灰》
深淵の忌み子カルラの遺灰
かつて偉大な魔術師を導いた彼女は
その終わりを見届けて姿を消した
誰よりも闇を知る彼女の愛は深く、温かい
深淵の忌み子は決して死なず
いつかどこか、深淵の縁に現れるという
あるいは探す者もいるのだろうか