ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
ダンブルドアは自身の激怒を、この校長室を満たす大気を震わせるような激情を理解していた。
問題は、ダンブルドアがその矛先をどこにも向けられないという事実を理解できる程度に聡明であることだった。
吸魂鬼によるシリウス・ブラックの捜索は、厳密に言えば魔法省が主導しているわけではない。アズカバンを管理しているのは魔法省の成立以前から司法として機能する賢人議会――ウィゼンガモットの下部組織だ。魔法省の魔法法執行部はあくまで囚人に対してのみ権限を有する。
では、ウィゼンガモットの長官に相当する主席魔法戦士、その職を任ぜられているダンブルドアが吸魂鬼によるホグワーツ特急の調査を追認させられる羽目になったのはなぜか。
「すまないがアルバス、私のほうでも情報が錯綜しているんでね……アブラクサスがいなくなってからというもの、どこもかしこもだよ」
「そうじゃろうとも。君を責める気はない、コーネリウス」
青い顔をして何度も頭を下げるファッジ、眉間に皺を寄せて何通ものふくろう便を飛ばすクラウチ、いずれにも責任を負わせることはできない。
事の顛末は、こうだ。
発足したての組織である魔法省教育文化局は、各方面からの引き抜きを行った関係で魔法省の他部署と浅からぬ関係を有している。それもひとつではなく、複数の部署とだ。
その中のどこかから「治外法権になっているホグワーツにシリウス・ブラックが潜伏する可能性はないのか、教育文化局の管轄ではないのか」という遠回しな突き上げがあった。
これを受けた教育文化局の人間がファッジに「ホグワーツの安全を確保するため、必要な人員を外部の協力を得て派遣する」という旨の提案を出し、ファッジは魔法大臣としてこれを認可した。
ところが、この「必要な人員」をアズカバンから確保しようとした者がいた。
事実上の姿なき長であったアブラクサスが逝去したことで不在となり、権力闘争が再開されたウィゼンガモットの中で、吸魂鬼の派遣を提案した派閥があった。新興だが決して無視できない力を持っている層で、その提案はダンブルドアが旧交を温めているうちに可決されてしまった。
さらに、本来であれば教育文化局の局長として咎める立場にいるクラウチはダンブルドアの依頼で新年度の授業を準備するために離席していた。
ダンブルドアとクラウチ、もしいれば絶対に反対するであろう両名が不在の隙を狙って、「脱獄囚の捜索における吸魂鬼の運用」が始まってしまったのだ。
「儂が不思議に思うているのはむしろ、ウィゼンガモットの皆がなぜ子どもたちの傍に吸魂鬼を置くと決めたかじゃ」
「尤もですな。我々が未だに新たな監獄を用意しようとしないのは、吸魂鬼を刑罰の一環として扱っているからだ。それを学校に持ち込むなどと……正気の沙汰ではない!」
「落ち着くのじゃ、バーティ。脅威が迫っているときこそ、我々は落ち着いていなくてはならぬ」
半ば自分にも言い聞かせるつもりで、ダンブルドアは呟いた。そしてゴブレットのぬるい水で煮えくり返る臓腑をなんとか冷やそうとした。
今、ダンブルドアから見て一番疑わしいのはルシウス・マルフォイだ。ここしばらく彼の行動には不審な点が多い。父親の死とともに始まった動乱を彼が見事に乗りこなしているのだとすれば、
しかし、ウィゼンガモットの権力闘争で吸魂鬼を持ち出してきたのは、少なくとも明らかになっている範囲ではルシウスではない。どちらかと言えばマルフォイ家と敵対的な新興の家だった。
そもそも、ルシウスにはメリットがない。息子の近くに吸魂鬼がうろつくのは彼にとっても本意ではないだろう。
魔法法執行部にアズカバンへの派出機関を成立させたのは彼の父であるアブラクサスだ。その
「――失礼、遅れました」
ダンブルドアの思考は、他ならないルシウスの声によって途切れた。
表情に余裕がない。いつも艶のある長いブロンドの髪は汗で額に張り付き、コートの裾には跳ねた泥がついたままだ。
この焦りと苛立ちまで全て演技なのだとしたら、ルシウス・マルフォイという政敵の評価を変えねばならないだろう。
安心した様子でルシウスを迎え入れるファッジと、複雑そうな視線を向けるクラウチをよそに、ルシウスはダンブルドアの座る執務机へと歩み寄った。そして、彼は一枚の羊皮紙を放った。
丸めた羊皮紙を留めているのはグリンゴッツの蝋封だ。訝しみながらも、ダンブルドアはそれを指先でそっと剥がした。
「……なるほど。買収があったと、そう言いたいのじゃな?」
「ウィゼンガモットの一部で、例の脱獄囚について強硬的な捜査を行うべきだという意見が高まっていることは把握していました。しかし、彼らの意見はウィゼンガモットの多数派ではなかった」
ガリオン金貨は時に理性すらも眩ませる。
羊皮紙の口座リストに列されているのは、今回の吸魂鬼による捜査に賛同した議員のうち中道に属していた者たちだ。いずれもここ一年以内に大きな金額を受け取っている。この入金記録は絶対に正しい記録であることをグリンゴッツの焼印が示している。
では、入金者は誰だったのか。誰が彼らを頷かせてまで吸魂鬼をホグワーツにねじ込んだのか。
そこに刻まれているのは、明らかに不自然な名前だった。
「前校長、アーマンド・ディペット。……故人の口座ですが、遺言により孤児や寡婦のための福祉基金として財団が管理する予定だったため凍結されていませんでした」
「おお……なんということじゃ、アーマンド。お主の穏やかな良心を冷たく汚れた手が鷲掴みにしたようじゃのう」
校長室に並ぶ肖像画のひとつ、ディペットのそれが椅子の上で居眠りしている。
アーマンド・ディペット。1637年生まれ、355歳で昨年他界した異例の存在だ。ダンブルドアの前任者であった彼とは、それなりに長い期間を同僚、もしくは上司と部下として過ごした。
決して有能な人物ではなかった。長い時の中で判断能力が衰え、生きた大樹のようになっていった。その結果、かつて秘密の部屋が開かれた際には、犠牲者の死はハグリッドという間違った犯人を裁くことで処理されてしまった。
しかし、同時に温厚で植物を愛し、慈愛に満ちた人物だった。孤児で優秀なトム・リドルのことをとても気にかけていた。それこそ、彼が卒業したあともずっと。
その彼が蓄え、孤児やひとり親のための基金として遺した富を、あろうことかホグワーツを汚すことに使った者がいる。
「とんでもない話だ……アルバス、これはホグワーツへの冒涜じゃないか」
「そうじゃのう、愉快なお友だちというわけにはいかんようじゃ」
これが本当であるのならば、だが。
一連の出来事にはまだ明らかになっていない部分がある。結局誰がディペットの口座からガリオン金貨を引き抜いたのか。ルシウスは何を疑って彼らの口座について調査したのか。調査の権限を有する人物との間に一体どのようなやり取りを行ったのか。
そして、こうなってくるとさらなる疑問が生じる。355歳の誕生日パーティーの準備中、目撃者によれば「実験的な飛行魔法の失敗」で落下死したというディペット。彼の死は本当に事故だったのか。
ただでさえダンブルドアは耐え難い苦痛を抱えて
ファッジはシリウス・ブラックの脱獄に強い責任を感じている。もし何か責任感と罪悪感を刺激されるようなことがあれば、彼はあっさりと暴走するだろう。
クラウチの有能さは十分に体感したが、彼はルシウスが用意した駒だ。彼がどんな人物であろうとも、信を置くことは正気ではない。
そして、ルシウスは言うに及ばず。
「腹立たしいが……たとえ魔法大臣である私であっても、ウィゼンガモットが通した法を取り消すのには時間と根拠がいる」
「時間であれば、幸いにしてなんとかなるじゃろう。ホグワーツの盤石な守りに加えて、今はバーティもおることじゃ」
「……できる限りの協力はしましょう。状況を考えると、下手な人員を呼び込むわけにはいきませんが」
クラウチが一瞬、苛立たしげな視線をルシウスに向けた。
彼もまた自身の所属する教育文化局を信用していないのだろう。実情はこれから明らかになるとはいえ、吸魂鬼の一件には間違いなく教育文化局の誰かが関わっている。そしてそれを設立したのはルシウスだ。
しかし、古巣である国際魔法協力部にその手の人員はいないし、放逐された魔法法執行部など頼れるはずもない。
それを知ってか知らずか、ルシウスは涼しげな表情のまま頷いた。
「では、根拠はこちらで。基金を運用する予定だった財団の人間に声をかけてみましょう」
「なんとも頼もしいことじゃ。そういえば、その財団について詳しいことを聞いていなかったようじゃのう」
わずかに、ルシウスの眉間に皺が刻まれた。
「ザビニ財団です」
***
我慢の限界を迎えたジェーンは、脱獄囚の顔面に靴下を投げつけた。
「自分の靴下くらい自分で畳んで!」
「それは私の仕事じゃないだろう……わっ、こら、そんなに投げなくてもいいじゃないか」
寝不足の表情で靴下を避けているのは、目下指名手配中のシリウス・ブラックだ。
そして、洗濯魔法があまりに下手な彼を見かねて多少手伝っているうちに仕事量が増え、とうとうストレスの限界を迎えたのが死亡届の出されているジェーン・コートだ。
二人は奇妙な運命共同体だった。
片や自身の無実を訴える脱獄囚、片や本島に帰還して新聞を買ってみれば自分の訃報が載っていた監獄の管理人。そんな二人がホグズミード村にある廃墟「叫びの屋敷」を拠点にしているなどと、誰が考えるだろうか?
「ああもう、最悪……一緒に来るんじゃなかった」
「そう嘆かなくてもいいじゃないか。一人より二人、杖も一本より二本だ」
「それならその杖で洗濯物を片付けていただけませんかね!」
ハッフルパフの監督生だったころのジェーンがじわじわと戻りつつある。
このハンサムな野良犬は本当に生活能力が低い。洗濯物は畳めないし、食べ物のゴミを一箇所にまとめることもしないし、先日など豆の缶詰を温めようとして缶ごと魔法の火で炙ろうとしていた。
よくよく考えてみれば彼はブラック家のお坊ちゃんだし、それ以前に12年も囚人生活を過ごしてきたわけで、そんな彼が家事をこなせないことを咎めるのは残酷かもしれない。しかし、それはジェーンが彼の世話係をやる理由にはならないはずなのだ。
脱走を幇助してしまったという罪悪感、そして彼が語る「真実」を確かめたいという妙な好奇心、さらには「この人放っておいたら捕まる前に死ぬんじゃないか」という心配が重なって、ジェーンは彼から離れることができないでいた。
「そもそも正気とは思えないんですよね……後見人で親友の忘れ形見であるハリー・ポッターが乗っているからってだけでホグワーツ特急を見送りに行くなんて」
杖を振って靴下たちにシリウスの整った顔面への攻撃を命じながら、ジェーンはぼやいた。
シリウスはそれなりに正気だ。一度しか名乗っていなかったジェーンの名前を覚えていたし、ジェーンのお下がりの新聞を読む習慣があった。暇つぶしにクロスワードパズルをこなしていたほどだ。
しかし、杖を回収するために実家まで犬の姿のままで行ったり、鍵が開かないからとジェーンに物陰から解錠呪文を使うよう頼んできたり、どうにも考えが勢い任せすぎる。元々の性格がこうなのだとしたら、彼の友人たちは学生時代きっと相当苦労しただろう。
「くっ、この……動きに性格が出ているぞ、ジェーン」
「ジェーンって呼ぶなって言いましたよね、私これでもアズカバン勤務の役人なんですからね」
「私の知っている魔法界では死人に役職を与えることはなかったがね」
「ああ言えばこう言う。吸魂鬼に舌だけ吸い取ってもらったほうがよかったんじゃないですか?」
「それはあまりよくない考えだな。私がいつまでも沈黙していたら、世のご婦人が黙っていないだろう」
「はいはい、そりゃ結構ですね」
なんとか靴下にかけられた呪いを解除して仕方なさそうな顔で畳みはじめたシリウスをよそに、ジェーンは今後のことについて考えはじめた。
ジェーンの戸籍はもうない。死亡届が出され、「アズカバンを守って死んだ勇敢な決闘者」と新聞に載せられている。
どういうわけかわからないが、ジェーンは襲撃者たちと相打ちになったことになっているらしい。ご丁寧に葬儀の写真まで掲載されていた。無人の連絡船で本島に帰還したあとすぐに新聞を読んで知ったおかげで、ジェーンは「故人を名乗る不審者」として扱われずに済んだ。
恩人であるアブラクサスはもういない。この状況ではかつての級友たちに頼るのも難しいだろう。本人を証明する手段があるとすれば守護霊くらいだが、守護霊の呪文を使えるようになったのは卒業後だった。
では、誰を頼るべきか。
「……そうだ、メティちゃん」
「なにか言ったか?」
「なんでもないです。それ終わったらパンツも畳んでおいてくださいね」
ジェーンの脳裏によぎったのが、恩人の弟子としてアズカバンを訪れた盲目の少女だ。
彼女は3年生。奇しくもハリー・ポッターと同じ学年だ。もしシリウスが目論んでいるとおりホグワーツに忍び込むことが可能なら、接触の機会があるかもしれない。
自分が何の陰謀に巻き込まれているのかすらわからないというのはひどく気分が悪い。一人でも多く協力者を得るためにジェーンは尽力する必要があった。
《ディペットの細円匙》
老いた松の木とも揶揄されたディペット校長の小さなショベル
何も魔法のかかっていない、ただの園芸用品
ディペット自らの手で植えられた苺の茂みは生徒にとって憩いとなった
善悪と賢愚は異なり、彼は少なくとも善くはあったのだろう