ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
これは夢だ。リーマスはそう自覚していた。なぜなら、その空間にはただ一度入ったきりなのだから。
ヌルメンガード、雪に包まれた黒い城塞の最奥。そこでリーマスは奇妙な、ありえないはずの対話に立ち会った。
「代理人、ね。この小僧が?」
「儂のよき友でもある」
「意外だな。お前に人狼の友人がいたというのなら、前の戦争でもう少し人狼を味方に引き込めただろうに」
「その年になっても耳がいいようじゃのう、ゲラート」
「お前の耳が悪いだけだ、アルバス。ここの隣人には満月に遠吠えをする迷惑な奴も少なくないからな。安眠妨害も甚だしい」
落ち窪んだ眼窩の底、色違いの両眼が静かにリーマスを見ていた。ぞっとするほど白く、痩せ細った老人が、鎖に縛られて座っていた。
かつて魔法界に立ち上がった暗雲のような革命、その先頭に立った偉大なる闇。今、リーマスは魔法史で学んだ悪しき伝説、ゲラート・グリンデルバルドの前にいる。
恩師ニュート・スキャマンダーの代理人として、リーマスはダンブルドアとグリンデルバルドの対話に立ち会うことになった。
「それで、茶飲み話に来たわけでもないだろう」
「残念ながらその通りじゃ。これを見てくれるか」
ダンブルドアが差し出した写真――アリアナ・ダンブルドアのオブスキュラスの写真に、グリンデルバルドは小さく鼻を鳴らした。
「なるほど」
「専門家に頼るべきかと思うてのう。それに、縁のない話でもない」
「そうだろうな。ああ、わかっているさ。……誰が、という問題になるか」
「あの日、あの時に放たれた魔法。その全てが結果を招いたと儂は考えておる」
「つまり、3人が?」
「そうじゃ」
「しかし、護りに関しては俺ではありえない。3の殺意に2の護りでは釣り合わん」
「アリアナ自身が護ろうとしたとしたらどうかね」
「お前は自分の妹を聖女か何かだと思っているのか? あれの犠牲が俺をも護ったと?」
「争いを仲裁するとはそういうことじゃ。3の殺意、3の護り、1の犠牲。なんとも見事に計算が合ってしまうのう」
「……もし7だったとして、指向性を与えたのはお前たちだろう。1の犠牲から生じ、3に分散した護りがお前たち兄弟によって返され、2となった。これで6。不完全な護りは不完全な結果をもたらした」
「つまり?」
「その護りはダンブルドアによるもので、そしてダンブルドアには破れない」
「それはなんとも、マクベスめいた話じゃ」
リーマスには全く理解できない天才と天才の対話。しかし、二人が旧知の仲であることはこの数分を見ただけでも理解できる。
奇妙な話だった。ダンブルドアはヨーロッパ全土に名を轟かせた英雄だ。彼の名声はグリンデルバルドの悪夢に苦しんだあらゆる土地へ届いている。その彼がグリンデルバルドと親しげに冗談を交わすなど、ありえてよいのだろうか?
友人たちに語り聞かせたところで、きっと信じないだろう。ジェームズもシリウスもダンブルドアの熱烈なファンだった。どことなく世論に懐疑的だったピーターですらダンブルドアに関しては二人に追従していた。
「かつて、君の師が語っておったのを覚えているかね。オブスキュラスとは澱み、熱を失った闇の底なのだと」
「……カルラはもう去った。お前も知っているだろう」
「彼女に死があるのかね?」
「そこまで気づいているのなら、自分で探せ。あれは見出されて初めて牢から出られる運命にある」
「君もかつては囚われのお姫様を助けたということか、それはなんともロマンチックじゃのう」
「生憎と今は俺が囚われの身だがな。攫っていくか?」
「それはまたの機会にしよう、ゲラート。……ニュートになにか伝えておくことはあるかね」
ふいにグリンデルバルドの細く節くれだった指がリーマスを指し示した。
「薄暗がりに気を配れ。闇夜に目を凝らすよりも先に、やるべきことがある」
「金言じゃのう」
「これが俺の魔法だ。小僧、お前もせいぜい気をつけろ。本当に守るべきものを見誤るな」
本当に守るべきもの。
グリンデルバルドが投げかけた言葉がこだまする。リーマスは何を守ったのか。何を守るべきなのか。
意識の奥で繰り返されるのは廃墟と化したポッター邸の焼跡、写真の中で狂ったように高笑いするシリウス、そしてピーターの指に添えられたマーリン勲章。
息の詰まるような、思考のループ。
歪な白と黒の中で、浅い呼吸が次第に早まっていき――
「……朝か」
枕元に置いた小さな時計が、午前5時半を指し示していた。
ベッドから身を起こす。ホグワーツの清潔なシーツと柔らかなマットレスはこれまで不安定な生活を送ってきたリーマスにとってむしろ寝心地が悪い。質の悪い寝具は経費で落とせるのか、近々ダンブルドアに相談するつもりだ。
ダンブルドアには感謝しているが、それでもグリンデルバルドとの対面は悪夢に見るほど強烈だった。
まだ眠気が残っているが、微睡んでいる場合ではない。今日から初回の授業がある。
「
呼び寄せた新聞を宙に浮かばせ、一面記事をざっと流し読みしながら歯を磨く。ドイツ魔法界から密入国していた吸血鬼が逮捕されたようだ。
ここしばらく、他国籍の魔法族が紙面を飾ることが増えた。評論家は「マグルの経済協定が原因で入国審査が難しくなっている」と批判している。純血至上主義者のマグル嫌いに配慮しつつ、マグル経済に言及して自分を賢く見せようという魂胆だろう。
ヨーロッパ全土を動かすなにかが起きているようだ。人狼のコミュニティにも他国の者が増えたと耳にした。
もっとも、リーマスには人狼の友人はそれほどいない。人狼は前回の戦争で闇の勢力に与した者が多く、今でもあまり表社会に堂々とは出られない。世間の風当たりが強いせいでますます人狼は犯罪者予備軍に落ちぶれていく。
狼化した際に自我を失わないようにする脱狼薬も高価で、安定して入手できるわけではない。幸いにしてリーマスはまだ誰も感染させていないし、誰も傷つけていないが、全ての人狼がそうではないだろう。
ページを捲っていく。天気予報、国際、政治、スポーツ……。
リーマスの手が止まったのは、偶然社説の欄に目を向けたときだった。
内容は至ってシンプルだ。シリウス・ブラックの脱獄、それについて未だに責任を取る者がいないことについての追及。治安の悪化と合わせて魔法大臣の退任を仄めかしている。
「……責任ね」
なんとなく読む気が失せて、リーマスは杖を一振りして新聞をデスクの隅に追いやった。
今さら責任について語る資格のある者がこの魔法界にどれだけいるだろうか。ヴォルデモートを打ち倒したハリーはマグルの親戚に預けられ、ポッター家の焼け跡は今も遺跡かなにかのように残されたまま。一体誰が何の責任を支払ったというのだろう。
そしてそれはリーマスも同じだ。こうしてホグワーツに赴任するまで親友たちの忘れ形見と会うことすらできなかった。
デスクの上には写真立てが置かれている。戦争中、最後に撮った集合写真だ。
ゴドリックの谷にダンブルドアが用意した小さな新居の前で微笑むジェームズと赤子を抱いたリリー。
おどけたように後ろから全員の肩を抱くシリウス。
少し引きつった笑みで、それでも赤子のハリーに小指を握られて嬉しそうにするピーター。
そして、カメラのセッティングを終えてギリギリで駆け込むリーマス。
「いつも私は、タイミングが悪いな」
写真立てを倒して、リーマスは使い終わった歯ブラシをコップに収めた。
***
ドラコは苛立っていた。
クラッブとゴイルが何かをしでかしたわけではないし、今回に限ってはプロメテアも関係がない。ブレーズ・ザビニだ。
美しく静謐なスリザリンの談話室に王はいない。仮にいたとしても、ザビニ風情がそれを僭称できるとはドラコには思えない。
「誰がどこの席を使おうと、僕の自由だ。そうだろう、ドラコ」
スリザリンの談話室には不文律というものがある。
嫌味な笑みを浮かべるザビニが座っているのは、上級生のデリックルがいつも座っているカウチソファだ。
席の自由度は学年と家格で決まる。デリックルは今年最上級生で、家格としては並だが純血。優先されて然るべき人物だった。
しかし、その席を当たり前のように専有して、ザビニは焼き菓子を頬張っている。
「君がデリックル先輩に媚びるのは君の自由だ。だがまあ、僕を巻き込まないでもらいたいね」
「自分が何を言っているのかわかっているんだろうな、ブレーズ」
「わかっているさ。君もじきにわかる」
嫌な空気が談話室に立ち込めていた。
ドラコはマルフォイ家の次期当主だ。多少のわがままは許される程度の地位を有する。それでも、家に恥をかかせないよう、意味のない横暴はしない。そのように躾けられて育った。
しかし、ザビニにはその慎みというものがない。
「なあ、ドラコ。僕は何も君と喧嘩したいわけじゃない。わかるだろ? これまでどおりうまくやっていけるじゃないか」
「それはお前次第だ。お前が座るべき場所に座れば、僕も収まるべきところへ収まるさ」
「へえ?」
焼き菓子で汚れた指を、ザビニがドラコのローブで拭った。
ざわり、と談話室にどよめきが起こる。相手の着るものをわざわざ汚す。伝統的な作法を知る魔法族の旧家にとって、これは宣戦布告に他ならない。手袋を投げる、決闘の申込み状を送りつける、そういったことと同じか、それよりいくらか下品な意味合いがある。
しかし、ザビニがそれを理解しているかは怪しいところだ。もちろん悪意ある挑発であることは間違いないが、その深い意味まではきっと知らないだろう。
元々はアフリカ系の魔法族であるザビニ家は、英国よりもむしろ大陸に影響力を残している。彼の母親の再婚相手にはフランス魔法族の名士も含まれているほどだ。
多くの男性を魅了し、その財産を次々と奪っていく美貌の魔女。その手並みの鮮やかさは一時期英国魔法界の話題をかっ攫った。しかし、話題になるということはそれだけ埃を立てたということになる。
そうしなければ家格の上がらない、埃臭い成り上がり。ザビニ家は旧家にとっては下に見るのが当たり前の相手だ。
「君の収まるべきところってのはどこさ。王座かい?」
「口を慎め。そういう子どもっぽい真似はやめろ」
「そういう真似? 君がポッターに散々やっていたようなあれか?」
思わず羞恥で顔が赤らむのを感じた。
振り返って見てみれば、ドラコのハリーに対する態度のなんと幼稚だったことか。昨年度の対話を経てドラコは少しずつハリーと新しい関係を構築しつつあるが、そのたびに過去の自分を殺してやりたくなる。
そこを突かれるのはドラコにとって想定外だった。
後ろで腕まくりをするクラッブとゴイルを視線で抑えて、ドラコは改めてザビニを見た。
何かが彼を調子づかせている。もしくは、そうしろと誰かが命じている。
デリックル家はマルフォイ家の傘下にある。だから彼は困ってドラコを頼った。しかし、全てのスリザリン生がマルフォイ家と徒党を組んでいるわけではない。今も談話室内で二人を遠巻きに見る者がちらほらといるのがその証だ。
「僕に命令するな、ドラコ。いずれ口のきき方を後悔することになる」
「ご忠告どうも。あいにく、その段階はもう通り過ぎてるんでね」
しばらく睨みあっていたが、ザビニは興ざめだと言わんばかりに肩をすくめて立ち上がった。
「わかったよ、今日のところは君に譲ろう。デリックル先輩によろしく」
鼻歌まじりに談話室を後にするザビニに、後悔や羞恥の色は見て取れない。一体何を考えての暴挙なのだろうか。
この夏休みでドラコは少しだけ賢くなったつもりだった。マルフォイ家の跡継ぎとして学ぶべきことを学び、祖父の葬儀に参列したお歴々からも薫陶を受けたからだ。
しかし、それでもまだ同級生の考えひとつ読めやしない。
「……その、ドラコ。手間を掛けてすまない」
「お気になさらないでください、先輩。それより、夏休みにノグテイル狩りにご一緒したときの――」
恐縮した様子の先輩と話しながら、頭の中では祖父のことを思い浮かべていた。誰よりも優れた政治家だったと語られている祖父なら、この程度のことはすぐに読み解けたのだろうか。
《リーマスの写真》
魔法のカメラで撮影された集合写真
戦火を生き抜いたためか、古びて煤けている
それは孤独に戦う人狼にとって唯一のよすがだった
だからこそ、後悔は今も彼をひどく苛んでいる
あるいは人狼でなければ、友を救えたのだろうかと