ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
泣きっ面に蜂。
ホグワーツでうんざりするほど痛い目に遭うことに、ハリーはそろそろ慣れつつあった。
新学期早々に吸魂鬼のせいで失神し、ホグズミード村への許可証にはどう手を尽くしてもサインしてくれる人はおらず、挙句の果てに相棒だったニンバス2000は粉々だ。
試合中のクィディッチ競技場に吸魂鬼が乱入するという事件にダンブルドアは激怒していた。当然だろう、一歩間違えれば死人が出ていたかもしれないのだから。
ハリーは怒る気にすらなれず、相棒の破片を女々しくもハンカチに包んでポケットに隠し持っていた。
スキャバーズとクルックシャンクス、ネズミと猫が仲良くいかないという当然の帰結をきっかけに絶え間なく喧嘩しているロンとハーマイオニーですら、ここ最近はハリーに気を使って休戦協定を結んでいる。
ただ、悪いことばかりではない。
「――
11月に入り本格化したルーピンの授業は、クラウチのものとはまた違うわかりやすさがあった。
彼は穏やかで、実技を重視していた。最初にまね妖怪で身近な危険とその撃退を学んでから、生徒たちは自分の実力が確かに伸びていることを実感した。
ガラス箱に収められた半透明のおぼろげな生き物が、一本足で跳ねながらかすかに鳴いている。この生き物は見た目とは裏腹に儚くもないし、害がないわけでもない。
「君たちグリフィンドール生の初回はまね妖怪だったね。ハッフルパフではおいでおいで妖精を使ったんだ。親切な魔法使いや魔女がこの鬼火を沼地の遭難者と勘違いして誘い込まれる事故は毎年起きている」
時には優しさが命取りになる、そう結論づけてから、ルーピンはガラス箱に布を被せた。
その直後、ちょうど終業のベルが鳴った。ルーピンはまるでホグワーツを知り尽くしているようだ。彼は一度も道に迷わないし、ピーブズをやり込める術を熟知している。
「次回は実際においでおいで妖精の対処をしてもらうよ。それじゃあ、お疲れ様。……ああ、ハリー、ちょっと残れるかい?」
ハリーは頷いて、彼の片付けを手伝った。
赴任してまだ数ヶ月だが、ハリーはルーピンのことが気に入っていた。人を落ち着かせる空気の持ち主だ。落ち着きは今のハリーに一番必要なものかもしれない。
それに、ルーピンは今学期の始めに吸魂鬼を追い払ってハリーたちを助けてくれている。その魔法にハリーは興味津々だった。
箒を失った試合のことに始まり、他愛ない話をしたあと、ハリーはルーピンに質問をした。
「僕が吸魂鬼に弱いのは、僕自身の弱さのせいなんですか?」
「そんなことはない、ハリー。それはむしろ、強さなんだ」
はっきりと断言しながら、ルーピンは鞄の金具を閉じた。
「吸魂鬼についてはどれくらい知っているかな?」
「アズカバンの看守で、幸せな感情を食べてしまう魔法生物。守護霊の呪文でしか撃退できない」
「端的でいい説明だ、これが授業なら加点してあげられたんだが。では、幸せな感情が失われた時、そこには何が残る?」
まるで哲学の問答のようだったが、不思議と苛立ちはしなかった。
吸魂鬼に襲われた時、ハリーは決まって声を聞く。きっとハリーの中に眠っている一番古い記憶のひとつ、母がヴォルデモートに殺される瞬間の声を。
喪失感と絶望で胸が締め付けられ、息が詰まり、やがて寒さに蝕まれた身体の重さに耐えかねて意識が遠のく。
「……恐怖、絶望、寒さ?」
「どれも正しい。吸魂鬼は幸せな感情を奪い取る。そうなると、最悪の経験だけが心に残る。わかるかい、その人にとっての最悪がはっきりと、輪郭をあらわにするんだ」
「最悪の、経験」
「君は同世代の誰よりも最悪の経験をしている」
ルーピンが鞄のほつれた縫い目を撫でながら、そう呟いた。
なんとなく、言いたいことはわかる。ヴォルデモートに親を殺された生徒は他にもいるだろう。しかし、ヴォルデモートと対峙したのはハリーだけだ。
「まね妖怪に挑戦させてもらえなかったのは、ヴォルデモートに化けると思ったからですか?」
「そのとおりだ。それはちょっと刺激的すぎるからね」
クィレルの後頭部に貼り付いた化け物を思い返して、ハリーはくすりと笑った。
確かにヴォルデモートは恐ろしい。しかし、ハリーは合計で三度ヴォルデモートを打ち倒している。最初は赤ん坊のころ、二度目はプロメテアと一緒に、そして三度目はそこにロンも加わった。
今ハリーの前にまね妖怪が現れたら、きっとヴォルデモートではなく吸魂鬼に化けるだろう。勝てる敵よりも勝てない敵のほうがよほど恐ろしい。
「吸魂鬼に襲われた時、確かにヴォルデモートのことも思い出します。でも、もっと辛いのが、母さんの声が聞こえること」
一瞬、ルーピンの瞳に不思議な光が宿った。
ぬくもりのような、喪失感のような、懐かしさの両側面をぐつぐつに煮立てたような感情。それをかき消すように、ルーピンは瞼を下ろし、小さく息を吐いた。
もしかすると、ルーピンはハリーの母親のことを知っているのかもしれない。
その考えを、ハリーはすぐに振り払った。もしルーピンがハリーの母親と親しかったとしても、病み上がりの彼にそれを尋ねるのは酷というものだろう。
両親を知る人物は皆、二人の名前を口にするだけで涙を滲ませる。ハグリッドなど号泣して話にならないほどだ。それだけ両親が愛されていたのだと思うと、嬉しくもあり、寂しくもある。
代わりに思い浮かんだ考えを、ハリーはそのまま口にした。
「先生。僕に守護霊の呪文を教えてくれませんか」
「……私は専門家ではないし、それにとても難しい呪文だ」
「それでも、挑戦したいです。次の試合でもまたあいつらがやってきたら……勝てないままは嫌です」
冬の日差しが雲の切れ間を抜け、格子窓から教室へ差し込んだ。
長く降り続いた雨に生じた束の間の切れ目を堪能するように、外は生徒たちの楽しそうな声で賑わっている。その愉快な輪に加わりたくないわけではない。
「先生は僕が強いと言ってくれました。でも、どんな強さも気を失っている間には何の意味もない。使うことがなくてもいい、勝つための手段がほしいんです」
「……君は勇敢だが、同時に冷静でもある。失礼かもしれないが、少し意表を突かれたよ」
ルーピンは白髪交じりの髪を困ったように撫でつけてから、小さく息を吐いた。その瞳は遠くを見ていて、昔を思い出しているかのようだった。
結局、ルーピンは頷いた。
「わかった、なんとかやってみよう。ただ、クリスマス休暇明けまで待ってくれるかい? クラウチ先生はよく助けてくれるが、それでも私がやらなくちゃいけない仕事が山積みでね」
「ありがとうございます、先生」
***
11月の日陰で、ぬかるんだ地面の上を這いずり回るのは苦行に等しい。
長い雨に打たれたスコットランドの大地は底から冷え切っていて、城壁の影に包まれた暗がりは凍っていないのが不思議なほどだ。
それでもルーナは両手を地について、必死で泥の中を探った。冷たさで指がちぎれるように痛むのを、できるだけ意識しないようにして。
「ない」
探しているのは小さなブローチだ。
ルーナの所有物の中ではいっとうシンプルで目立たない、月に吠える犬を模したブローチ。高価な品ではないと聞いている。
普通なら、そんなものを探すために泥まみれになるようなことはしないのだろう。魔法を使って見つけるか、さっさと切り替えて新しいものを買うのが一般的なのだ。
しかし、ルーナはどうしても諦められなかった。
「……ない」
這うルーナの脇腹に鈍い衝撃が走った。
クスクスと嫌な笑い声が聞こえる。ルーナのブローチを奪って投げ捨てた生徒だ。わざとらしく杖を振って、自分が衝撃呪文を放ったことを示してくる。
動物の躾と同じだ。
痛みを覚えさせ、次に痛みを生じさせたものを覚えさせる。そうすると、その道具を見るだけで動物は予期される痛みに怯え、従順になる。
「よーく探しなよ、日が沈むまではまだ時間があるからさ」
そう口にして笑ってみせる彼女は、ルーナより学年がみっつも上だ。呼び寄せ呪文も使えるのだろう。しかし、ルーナのために杖を振るつもりは微塵もない。
これまで受けてきたいじめとは、程度が違った。
きっかけはレイブンクローの談話室で定期的に開かれる討論会に居合わせてしまったことだ。
議題は吸魂鬼とレシフォールドの違いについて。レシフォールドは熱帯に生息する魔法生物で、その姿から「生ける
この上級生はレシフォールドが魔法生物ではなく、強力な呪いをかけられた衣類であると主張していた。
魔法の道具の中には、そういった害のある呪いをかけられたものも珍しくはない。また、強力な呪いの中には守護霊の呪文が対抗手段となりうるものも存在する。何より、レシフォールドは吸魂鬼のような繁殖行為を行わない。
彼女の論には筋が通っていた。誰もが納得したような顔をしている中、彼女は談話室の隅で繕い物をしていたルーナに同意を求めたのだ。
ルーナは答えた。
呪いで生みだされたからといって、それが生き物ではないということにはならない。魔法族は魔法生物のなんたるかを定義していないのだから、呪いをかけられて自分で動く衣類は十分に魔法生物として扱いうる。
「そうやって這いつくばりながら、よーく反省するんだね。お前は屁理屈と賢さの違いってものがまるでわかってない」
恥をかかされたと思ったのだろう。
事実、誰もルーナの反論に論理的な誤謬を指摘することはできなかった。
ルーナは常々、どうして皆は全てに白黒つけたがるのだろうと不思議に思っていた。レシフォールドは魔法生物か、自律式の魔法の道具か。それはどちらでもあり、どちらでもない。
生命とは何か? 生物と無生物の境界を魔法は超越しているのか? 人間はまだ全てを理解できるほど聡明ではないのだ。
そう教えてくれたのはルーナの亡き母、パンドラ。聡明で、穏やかで、あらゆる挑戦に意欲的な魔女だった。
そして、今探しているのは母が買い与えてくれた特別な宝物だった。
「誰かがお前を躾けるべきだった。それを私がわざわざやってあげてるんだ。感謝してほしいくらいさ」
石に当たって、爪が割れたような気がする。
とうとうルーナの奥から、何かがこみ上げてきた。
ずっとこらえていた渦のような苦しみが決壊しそうだ。わかっている。自分が普通ではないことも、周囲に溶け込めていないことも。それを無視してきた結果、ルーナの内側には苦しみを煮詰めた大釜が生まれてしまった。
そして、大釜で煮えたぎった苦しみは泡を吹いて溢れ出そうとしている。
その時だった。
「――悪趣味がすぎる」
うめき声と、小さな悪態。
思わず顔を上げると、彼女は失神して倒れていた。
疲れた顔のスリザリン生が杖を構えている。杖先にはまだ、赤い燐光が残っていた。彼が失神呪文を使ったのだ。
アフリカ系の血が入った浅黒い肌に、整った顔立ち。彼のことはどこかで見かけた気がするが、名前は思い出せなかった。
「おい、立てるか」
「……ン、でもまだ立てない」
「どこか痛むのか」
「違う。違うの。……ママのブローチをなくしちゃったんだ」
ルーナの返事を聞いた瞬間、彼はひどくうちのめされたような顔をした。
彼は一体ここに何をしに来たのだろう。どうしてルーナを助けてくれたのだろう。どうして、こんなにも苦しそうな顔をしているのだろう。
疑問の中で、ルーナの感情はゆっくりと落ち着いていった。
立ち上がると、やはり爪が割れて血が滲んでいた。気づかなかったが、膝も切っているようだ。ふくらはぎを血が伝うのを感じる。
そのスリザリン生は大きく息を吐いてから、「
泥にまみれた小さな銀のブローチが、彼の黒い手の中に収まった。彼は上等な絹のハンカチを取り出し、ブローチに傷が残らないようそっと泥を拭い取った。
「これで立てるだろ」
「どうして名前を知ってるの?」
「俺と違ってお前はそれなりに有名なんだよ。ポッターほどじゃないがな。それより、さっさと医務室に行け」
「……ありがとう」
ハンカチごと差し出されたブローチを傷ついた手で受け取ってから、ルーナは立ち去ってよいものか躊躇した。彼の足元には失神した上級生が横たわったままだ。
その躊躇いが伝わったのか、彼は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「とんでもない博愛精神だな、こいつのことを気にしてるのか? 別にどうもしないさ」
「疑ったわけじゃないよ。ただ、ここの泥はとっても冷たかったから」
「その冷たい泥の中で一晩過ごして、門限を破ったうえにひどい風邪を引く。こいつがそんな目に遭うのは、お前にとっても損じゃないだろ」
「……ン、そうかも」
嫌な上級生がひどい風邪で苦しんでいる様を想像して少しだけ胸がすくような心地になりながら、ルーナはもう一度感謝の言葉を口にした。
それからルーナは医務室に行って、マダム・ポンフリーの手当てを受けた。肋骨に罅が入っていたようで、その晩は医務室で過ごすことになってしまった。
ベッドサイドに畳んで置かれた、清潔なハンカチ。
どうやったら名前を聞きそこねてしまった彼にハンカチを返せるか、ルーナはベッドの上で一晩中思案していた。
《月のブローチ》
月に吠える犬のブローチ
エジプトの職工が手掛けた土産物
古きエジプトの民は月を御する子午線を犬に見立てたという
知性とは御された狂気に他ならない