ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
迫るクリスマスに忙しなさの増した談話室の隅で、ハリーは一冊の本を手にしていた。
魔法事故惨事部の特殊部隊に所属していたという魔法戦士の自伝で、シリウス・ブラックの捕縛にも参加したと語られている。ハーマイオニーから借りたこの本は、ハリーに奇妙な違和感を植え付けた。
「どうしたんだいハリー、さっきからすごい顔してるぜ」
「そうかな」
「そりゃもう、奥歯にハグリッドのロックケーキが詰まったままみたいな顔」
どうやら悩んでいるのが顔に出ていたようだ。
ハリーが本を閉じると、ロンの手の上で撫でられていたスキャバーズが跳び上がって逃げていってしまった。表紙の動く脱獄囚に怯えてしまったのかもしれない。
今はハーマイオニーがクルックシャンクスを連れて薬草学の温室に行っているからいいものの、最近の談話室はスキャバーズにとって安全な場所ではない。それでもシリウス・ブラックのほうが怖かったのだろうか。
「あ、ごめん」
「まあ大丈夫さ、じいさんネズミはあれでも賢いんだ。あのクソ猫に食われない限りはね。それで、どうしたんだ?」
「例の……なんだっけ、スリザリンのあいつ」
「ザビニ?」
「そう。あいつがどうしてシリウス・ブラックと僕のことをあれこれ言ってくるのか気になって」
ザビニに限った話ではない。
魔法薬学の授業でドラコが警告してきたり、アーサーおじさんからも諭すようなことを言われたり、ここのところハリー以外の誰もがハリーを心配している。
それ自体はありがたいことだ。ただ、理由がわからないのだけがどうにも気味が悪かった。
ところが、いざ「どうして?」と尋ねると誰もが口を閉ざす。そもそもその脱獄囚が何の罪を犯したのかすら教えてくれない始末だ。
だから、ハリーは自分で調べることにした。
「前の戦争のときに闇の陣営にいて、12人ものマグルとまとめてピーター・ペティグリューっていう魔法使いを爆発させたらしいんだ。しかも、そのピーターって魔法使いとは元々友達で、唯一ブラックを追い詰めたんだって」
「うげえ……友達だろうとお構いなしかよ」
「そのあとすぐに逮捕されて、そのままアズカバンに入れられた。……なんか、うまく言えないんだけど、変な気がするんだ」
うまく言語化できていない、不快なもやもやがハリーの頭を重くさせていた。
20人の特殊部隊に連行された闇の魔法使い。
爆発の起きた現場はまるで隕石が落ちたようなクレーターになっていて、シリウス・ブラックはその中央に仁王立ちで狂ったように笑っていたらしい。
そして12年間投獄され、今年になって脱獄した。
「変……そういえば、変かもな」
「どこが変だと思った?」
「シリウス・ブラックはクレーターの中心にいたんだろ? 爆発でマグルもろともぶっ飛ばしちゃったにしては、怪我ひとつなかったんだなって」
「……そうか、確かに」
ハリーは改めて本を開き、逮捕劇のシーンに描かれたクレーターのイラストを確認した。
中央で天を仰いで笑うシリウス・ブラックと、恐る恐るそれを取り囲む特殊部隊。彼が怪我していたという記述は一切ない。
これはとても奇妙だ。
ピーターは木っ端微塵に消し飛ばされ、小指が一本とわずかな布切れしか遺体が残らなかったと書かれている。筆者の見立てではピーターに爆破呪文を使ったのだろうとされているが、それなら
目の前で爆発が起きて、無傷でいられるだろうか?
もちろん、いくつも仮説は立てられる。ブラックが爆破呪文に熟達していて、その爆風を完璧にコントロールできた可能性。自分を安全にするための魔法を事前にかけていた可能性。
しかし、こうも考えられる――爆破呪文を使ったのはピーター自身で、シリウス・ブラックが使ったのは盾の呪文なのではないか、とも。
荒唐無稽な妄想だ。それでも、ありえると思わせるだけの事実がこの本には記されていた。
「ロン。シリウス・ブラックの罪状が変な気がするって言ったら……信じてくれる?」
「よせよ。僕が君を疑う理由があるか? まあでも、納得できる理屈があればだけど」
「もしこの爆破事件が彼のやったことじゃないとしたら、他の罪状は存在しない。ブラックは裁判を受けていないんだ」
ようやくハリーの疑念がはっきりした。
彼は裁判を受けていない。爆破事件以前に何か罪を犯して指名手配されていたわけでもない。現行犯で逮捕され、そのまま投獄されている。
そして、ハリーがそこまで気にする理由はこの本に記されている判決にあった。
「ブラックは3つの罪に問われてるんだ。爆破呪文で13人を殺害した罪。ヴォルデモートに仕えた罪。ポッター夫妻――つまり、僕のパパとママの居場所を明かして罪に追いやった罪」
「……おいおい、マジかよハリー」
「みんなが僕の復讐を気にする理由がわかった。でも……もしブラックが犯人じゃないのなら、僕が復讐する相手は別にいる」
ロンのこわばった表情を見て、慌ててハリーは「復讐なんて考えてないけどね」と訂正を入れた。
両親のことは今でも恋しく思っているし、その死を招いた人物がいるのなら殺したいくらい憎いのも事実だ。しかし、私情で人殺しをしてヴォルデモートと同じ次元に落ちるつもりはない。
安心した様子で息を吐いたロンが、ふと気づいたように手で膝を打った。
「ハリー、それならいっそ直接聞いちゃうってのはどう?」
「直接……?」
「判決を言い渡した本人に、さ」
いまいちピンと来ていないハリーに示すように、ロンが杖を闇の魔術に対する防衛術の教科書に向けた。
***
ボージンは葉巻を咥えたまま、大きく息を吐いた。娘に押し付けられた無理難題をどう片付けようかと思案しながら、片手ではステッキのグリップを撫でていた。
もうすぐクリスマスだというのに、サンタクロースは厄介事ばかりを寄越す。
ようやっと目が見えるようになった娘のためにどんなお祝いを用意してやろうかと浮足立っていたボージンにとって、この対面は少なからず気分を落ち込ませるものだった。
目の前に座る二人の魔術師。片方は死んだはずの「アズカバンの英雄」、もう片方は近頃界隈を賑わせる「アズカバンの脱獄囚」。どちらであっても通りに顔を晒せない客というわけだ。
「ま、いいだろ。娘の紹介だ、無碍にはしねえさ」
「ありがとうございます」
「しっかり返事ができるようでなによりだ、ミス・コート。俺ぁ嬢ちゃんの正気に賭けてるんだからな」
ジェーン・コート。アズカバンを襲撃した悪党と相討ったアズカバンの英雄だ。今いるのが本人だとしたら、墓を掘り起こして死体からマーリン勲章を回収する必要があるだろう。
恐縮した様子で縮こまる彼女が言うには、シリウス・ブラックは無実なのだとか。
そして、アズカバンには吸魂鬼を作った狂人の秘宝が隠されていて、それを破壊するためにプロメテアの力が必要なのだとか。
ジェーンはアズカバンの秘宝を巡る陰謀に巻き込まれていて、表に出ると命が危ういのだとか。
最初のひとつに関しては戯言と流すつもりだったが、2つ目以降は納得してしまうだけの情報をボージン自身が集めてしまっている。となれば、ひとまずは匿うより他ない。
「しかし、ブラック家の跳ねっ返りは変わらねえな。北海を泳いで渡る気だったとは豪気なもんだ」
「その節は、色々と……」
「お前さんがケツ……失礼、尻の青いガキだったころは俺も経験の浅い見習いだったからな。お互い様ってやつだ」
実は、ボージンがシリウスと顔を合わせるのはこれが初めてではない。
シリウスがホグワーツの生徒だったころのことだ。彼が友人とともにこのボージン・アンド・バークスに忍び込んだことがあった。
掴まれると離れなくなる鎖を転びかけた勢いで掴んでしまったシリウスを万引き犯と勘違いして、若かりし頃のボージンは彼をノクターン横丁中追い回したのだ。
元々ブラック家とはそれなりに商売の縁があるというのもあって丸く収まったが、お互いにとって苦い記憶だった。
「……私の無実を信じていただけるのですか」
「さあな。俺ぁ知らん。この横丁には無実を訴えるやつなんざごまんといる。やってねえことを自分の罪だと訴え出る馬鹿も少なくねえ」
「私は狂っているわけではない!」
「そうだといいがな。ダンブルドアに頼ろうって考えはなかったのか? こんな怪しい骨董屋よりは頼りになるジジイだろ、あれは」
シリウスは苦虫を噛み潰したような表情でマグカップを抱えた。
彼の無実を証明するのなら、一番手っ取り早いのはダンブルドアを巻き込むことだ。現政権だけではなくウィゼンガモットにも影響力のある彼なら、過去の判決を覆すことくらい造作でもないだろう。
「……ホグワーツに忍び込んだとき、考えなかったわけではない。頼れそうな相手も、いないわけではないのです」
「じゃあそうすりゃいい」
「だが……あそこには奴がいる。私をアズカバンに追いやった、クラウチが」
バーテミウス・クラウチ・シニア。
魔法法執行部の剃刀、冷たい鋼の秩序、人の姿をした檻。様々なあだ名で呼ばれた彼は、かつてシリウスを裁判にかけることなくアズカバンへ投獄した。
当時の状況を考えれば、それが誤りだったとは言えない。現行犯逮捕で、しかも自己弁護を一切しなかった。裁判を受ける権利を放棄したと解釈されたわけだ。
しかし、その当事者であるシリウスにとっては恨まずにはいられないようだ。
「奴がいるホグワーツで私がどれだけ無実を訴えたところで、意味があるとは思えない。そういう男なんです、クラウチは」
「……ま、お前さんが変な気を起こさないでいてくれるならそれで構わねえさ」
今一番ボージンにとって困るのは、シリウスが大っぴらに無実を訴えはじめることだ。
ここしばらくノクターン横丁はよそ者が増えて神経質になっている。アズカバンに投獄されている身内の脱獄を幇助しようという輩もちらほら現れてきた。
そんなノクターン横丁をなんとか御しているボージンにとって、脱獄の生き証人であるシリウスは爆弾だった。
「顔を変える道具は用意する。人の出入りがないねぐらと、まともな商人の伝手も。当座の資金は用立てるが、無駄遣いはするなよ?」
「ありがとうございます!」
「その代わり、嬢ちゃん。お前さんにはメティの仕事を手伝ってもらう」
ジェーンはアブラクサスの伝手を辿ってプロメテアを頼った。どの道アブラクサスの手のひらの上ということだ。
それなら、プロメテアの残業をジェーンに押し付けたっていいはずだろう。
ボージンがステッキで床を軽く叩くと、倉庫から小さな真鍮のロケットが運ばれてきた。
「アブアクサスの御老体が遺していったメティの仕事でなあ。俺の本業に近いからちまちま手伝ってたんだが、仕上げがちょいと面倒だ」
「これは、一体……?」
ロケットを開いて、中に詰まった白い粉をふわりと舞わせる。
「アブラクサスの遺灰さ」
《霊喚びの鈴》
遠い地で見出された神秘の鈴
霊魂の宿った遺灰を喚び起こす
遺灰の霊魂とは死後の思念であり
運命の向こう側の存在である
あるいは、不可能の向こう側の可能性とも