ハリー・ポッターと竜魂の学徒   作:ホグワーツの点字聖書

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 クラウチ家が代々守り、そして帰るべき場所と定めてきたこの邸宅は、常に完璧な清潔が保たれてきた。それこそがクラウチ家のクラウチ家たる証でもあった。

 優に300年以上の歴史を誇るはちみつ色の石灰岩とそれを支える白い漆喰が血に汚れたのは、おそらくこれが初めてのことだった。

 

「馬鹿、な」

「そう、その顔が見たかったんだよ親父殿」

 

 この家に仕える屋敷しもべ妖精、ウィンキー。つい昨日まで確かに忠実で優秀なしもべであったはずのそれが、指先を軽く動かしただけで主であるクラウチの杖を奪った。

 屋敷しもべ妖精の魔法は魔法族のそれをはるかに凌駕する。あっけなく杖を奪われたクラウチにできることは、己が腕を伸ばすことだけだった。

 そして、取り返そうと伸ばした腕を錆びたナイフが斬りつけた。

 薄汚い、ネズミ顔の小男がナイフを手に下卑た笑みを浮かべている。その後ろで悠々と、満足気に笑うのは自我を失っているはずの息子だ。真新しい杖を手に持ち、まるで新しいおもちゃの具合を確かめる子どものように弄んでいる。

 

「お前は……なぜ」

「なぜ? なぜ服従の呪文から解放されたのか? それともなぜ杖を持っているのか? 答えは全部同じだぜ、親父殿。あんたが変わらないからだ」

「何を言っている……!」

「あんたは変わらないな。仕事が楽しくなるとすぐに家庭を蔑ろにする。俺は寂しかったぜ? 夜泣きしそうになったくらいだ。パパー、帰ってきてほしいでちゅよーってな」

 

 バーテミウス・クラウチ・ジュニアが言葉とは裏腹に無邪気な笑みを浮かべた。

 彼はクラウチ・シニアが犯した最大の失敗だ。かつてヴォルデモートに仕え、悪事の限りを尽くした彼を、クラウチ・シニアは自らの手でアズカバン送りにした。それなのに、妻の願いに応えて脱獄させてしまった。

 愛する妻の、最後の願い。多忙を言い訳にまともな愛を向けてやれなかった妻のために、魔法法執行部の秩序であったクラウチ・シニアは道を外れた。

 それからずっと、クラウチ・シニアは息子を自宅に監禁していた。絶対に安全なよう、定期的に服従の呪文をかけて自我を奪い、しもべに監視させていたのだ。

 今日もその魔法を更新するため、ホグワーツから帰宅したばかりだった。

 だから、これはありえないはずの光景だった。

 

「あんたはまた間違えたんだ。ホグワーツの仕事は楽しかった、そうだろ? 俺に服従の呪文をかける気持ちすら疎かになるくらいに」

「そんな……ありえない! 呪文は完璧にかかっていた!」

「んー……ま、引っ張るほどでもないか。そう、あんたの呪文は完璧だった。服従の呪文が上手いな、流石は親父殿だ」

 

 痛烈に皮肉ったクラウチ・ジュニアは、新品の杖をタクトのように振って火花を散らした。

 

「ヤマナラシにドラゴンの心臓の琴線、34cm、よくしなる。ルシウスさんのおかげで俺も新入生気分が味わえた。誰も疑いすらしなかったぜ」

「ッ、そうか! ルシウス・マルフォイ……!」

 

 その瞬間にクラウチ・シニアは全てを悟った。

 ルシウスはクラウチ・シニアをホグワーツに縛り付けたかったのだ。そうすることで、彼はヴォルデモートに忠実な手駒を回収することができる。しかも、表向きは存在しないことになっている人間を。

 杖さえ手に入れば、束縛から解放される手段はいくらでもある。服従の呪文は永続するものではないからだ。

 

「ウィンキーはいいしもべだ。あんたもそう思うだろう?」

「しもべに何をした」

「あんたと同じさ。おかげさまで、鳥かごの中でも服従の呪文だけは上手くなれた」

 

 恍惚とした笑みを浮かべるウィンキーは、明らかに正気ではない。

 本来、屋敷しもべ妖精は絶対に悪事をなさない。たとえ主の命令であろうと身を伏して取り消すよう嘆願し、自らの命を絶つことすら厭わないと言われている。

 そんな忠実で無垢な善にすら躊躇いなく悪の道を歩ませるのが、服従の呪文だ。

 服従の呪文の特徴はその支配にある。苦痛ではなく快楽で思考を導き、まるで自らの意思でそうしているかのように思わせる。自我を砕き、意思を蕩かす禁忌の魔法、許されざる呪文。

 

「よくもそんな真似を!」

「親を見て子は育つんだよ。あんたは中々いい教育者だ、親父殿」

 

 ネズミ顔の小男が蔑むように甲高い笑い声を上げた。

 

「うるさいぞ、ペティグリュー。まったく、ルシウスさんはどうしてこんな小物を……」

「は、はいぃ、すみません、すみません」

「ヘコヘコしろとは言ってない。悪いね、親父殿。ちょっと騒々しい居候が増えることになった。紹介するよ、ピーター・ペティグリューだ」

「……そんなはずは」

「いい加減問答も飽きた。認めてくれよ、バーテミウス・クラウチ・シニア。あんたは全部間違えたんだ。本当の裏切り者はブラックではなくペティグリューで、ルシウスさんはあんたの目をかいくぐって俺を解放して、そして俺たちは自由を手に入れた」

 

 全部、間違えた。

 膝から崩れ落ちそうになるのを支えているのは、最後の矜持だった。魔法界の秩序を預かる身として、後進を導く者として、最後にできることを果たさなくてはならない。

 今すぐここを脱出して、ダンブルドアに警告を伝えるのだ。

 

「――そういえば、面白い生徒を持ったな。ロングボトムの倅を世話してるんだろ?」

 

 傷を負ってでも杖を奪おうと進みかけた身体が固まった。

 

「よくないなあ、親父殿。あの坊やにとってあんたは仇の父親だ。胸中を察してやるのが教育者ってもんだろう? どうして俺のことを黙ってたんだ?」

「何を、言って」

「仇討ちのチャンスをやるべきだ。そうは思わないか? 誰にだって世界は平等に機会を与えてくれる。俺もやりなおせたんだから、あいつだってそうでなきゃあ」

「子どもたちに、手を出すな!」

 

 無我夢中で伸ばした腕が杖を奪おうと力を発する。

 しかし、無情にもその脆い魔法はウィンキーに音もなくあしらわれた。反動で壁に叩きつけられたクラウチ・シニアの背骨からみしりと軋む音がする。

 

「やっぱり屋敷しもべ妖精は便利だなあ。服従の呪文くらいしか手綱の付けようがないことだけが弱点か」

「ぐ……子どもたち、には」

「わかった、わかったよ。愛しの親父殿がそこまで大事にしてるんだ、俺だって無碍にする気はないさ。なんなら、俺自ら教授になってやったっていいくらいだ。お、中々名案じゃないか?」

 

 視界が霞む。口の中に広がる生臭い鉄の味は、敗北の味だ。

 ゆっくりと歩み寄る息子が杖を構えるのが見えても、傷ついて崩れ落ちたクラウチ・シニアには何もできなかった。

 

「安心してくれ、殺しはしない。まだしばらく、あんたには働いてもらわなきゃならないんでね。――服従せよ(インペリオ)

 

***

 

 医務室はまるで葬式のように静まり返っていた。

 プロメテアは一命をとりとめた。しもべ妖精の魔法によって自らの攻撃が跳ね返ったと気づいた瞬間に身を捩り、致命傷を避けたのだ。

 幸い、魔法族にとって致命傷以外の傷は問題にはならない。

 それでも彼女の幼い肉体には深い傷が刻まれ、流しすぎた血のせいで肌は青ざめている。まだ意識も戻っていない。今夜は医務室で過ごすことになるだろう。

 

「どうやら、儂は大きな過ちを犯したようじゃのう」

 

 いつもの諧謔すら挟まずに嘆息したダンブルドアは、見舞客用の椅子に腰掛けることすらせず涙を流すマクゴナガルに目を向けた。

 彼女は正しい判断をした。あの時ホグワーツに残っている人員の中で、戦闘に長けているのはマクゴナガルとリーマスだけだ。他は皆、ダンブルドアも含め出払っていた。

 しかし、屋敷しもべ妖精が悪事を働くなどという驚天動地を誰が想定できるだろうか。

 

「……ここ、は」

「目が覚めたかね、ミス・バーク。水をお飲み」

 

 ダンブルドアが差し出した水差しからゆっくりと水を飲んで小さく噎せたあと、プロメテアは状況を確認するようにベッドの上で首を動かした。

 

「まずは詫びねばならん。すまなんだ、ミス・バーク。儂が迂闊じゃった」

「いえ……約束、ですから」

 

 約束。

 ダンブルドアとプロメテアは約束をしていた。生徒たちの安全のため、不断の警戒をするという約束を。あの日から、プロメテアは密かなホグワーツの守り手だった。

 きっと約束がなければ自ら突入することもなかっただろうし、屋敷しもべ妖精にナイフを突き立てることもなかっただろう。これはダンブルドアの罪だ。

 ベッドの上で小さく身じろぎしたプロメテアが、ゆっくりと震える手を差し出した。

 

「これ、を」

「……おお、なんと」

 

 プロメテアから差し出されたそれを受け取ったダンブルドアは、大きく息を吐いた。彼女は役目を完璧に全うしたのだ。

 二本の細いネズミの髭。未登録の動物もどきであるペティグリューの身体の一部を、プロメテアは戦闘の最中に引き抜いていた。

 これがあれば、ペティグリューが生存していることを公にできる。

 行方がわからない以上、警戒はいくら密にしても足りない。ネズミの身体はあまりにも潜入工作向きだ。闇祓い総出でネズミ狩りに勤しむわけにはいかないが、逃亡犯がネズミの姿を取れるという情報の有無は事態の行く先を左右する。

 

「よくやってくれた、ミス・バーク。必ず君の行いに応えると杖に誓おうぞ」

「後は……頼みます」

 

 それだけ言い残して、プロメテアの身体から力が抜けた。どうやら眠ったようだ。

 プロメテアは本当によくやってくれた。

 彼女が屋敷しもべ妖精と命の取り合いをしていたのは、ダンブルドアはフランスの魔法大臣との会食のためにホグワーツを出た直後だった。来年に予定されている三大魔法学校対抗試合のため、調整に駆け回る多忙の隙を突かれた。

 マクゴナガルの守護霊から伝言を受け取って急ぎ戻ったが、そのころにはもうペティグリューは影も形もなかった。

 

「ミネルバ」

 

 立ち尽くすマクゴナガルの肩にそっと手を置く。

 彼女は優秀な変身術の教授で、ホグワーツの副校長で、そしてダンブルドアの信頼できる盟友だ。だからこそ、「自分が守れたかもしれない誰かが傷を負った」という悲劇が彼女のトラウマをどれだけ刺激するかダンブルドアにはよくわかる。

 戦争では弟のロバートを亡くした。そして、若かりし頃に法の壁で結婚を諦めざるをえなかったマグルの男性は妻子とともに惨殺されている。

 大切な存在をこれ以上失いたくないという覚悟。それがマクゴナガルの強さであり、弱さでもある。プロメテアは彼女にとって大切な存在になりつつあったのだ。

 

「……どうして、子どもたちが傷つかねばならないのでしょう。そんな、そんな世界は間違っています」

「そのとおりじゃ、ミネルバ。世界が再び闇に覆われようとしておる。だからこそ、ここで立ち止まってはならんのじゃ」

「でも、アルバス……私にはわかりません。あの臆病で小さなペティグリューが裏切り者? もしそうなら、ブラックはなぜ……」

「これからじゃ、ミネルバ。決して無視できない犠牲を払う羽目にはなったが、ミス・バークのおかげで儂らは次に進むことができる」

 

 次。そう、次だ。

 ペティグリューには協力者がいた。屋敷しもべ妖精は主の命令がなければ動かない。背後には必ず誰かがいる。

 その誰かはホグワーツを、学び舎という聖域を踏みにじった。

 全てをヴォルデモート討伐のための布石として扱ってきたダンブルドアに憤る権利はないのかもしれない。しかし、同時にダンブルドアには生徒たちを預かる校長としての義務がある。




《服従の呪文》
古い闇の魔術、許されざる呪文のひとつ
絶大な快楽によって思考を縛り、一時的に支配下に置く

快楽による支配は苦痛による支配よりも爛れておぞましい
それは最も身近な堕落であり、ゆえに禁忌である
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