ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
研究室の空気は沈みきっていた。
部屋の主であるプロメテアの不在だけがその理由ではない。常日頃から表情を崩さないことを心がけているダフネですら、溜息がこぼれそうになるのをこらえる必要があった。
「……厄介なことになったわね」
「言われなくてもわかってるさ。……本当に、厄介だ」
パンジーがこぼした言葉に返す悪態も力がない。
今日、プロメテアの研究室にはいつもの顔ぶれに加えて、ドラコが混じっている。クラッブとゴイルは門衛だ。この牢を隠していた魔法がプロメテアの不在で解けてしまった。
昨日の午後、プロメテアが手傷を負った。場所はグリフィンドール寮だ。
先生たちは詳細を隠すつもりだったようだが、その姿勢にスリザリン寮つきのゴーストである血みどろ男爵が激怒したことで明るみに出てしまった。
「男爵が癇癪を起こさなければ、メティのドジで済んだのかもしれませんが……」
「仕方あるまい。あの御仁は継承者事件の件でメティに怪我をさせたことを未だに悔いていた」
血みどろ男爵はプロメテアに小さくない借りがあった。
古い魔法によって操られた彼は、プロメテアに不意打ちを食らわせて浅くない傷を負わせたのだという。長い時を経たゴーストだったために彼にはその時の記憶が残っているらしく、「守るべき生徒を手にかけるところだった」と己の無様を嘆いていた。
そこに今回の事件だ。血みどろ男爵は気炎を上げてグリフィンドールの寮付きゴーストであるほとんど首なしニックを詰った。
しかし、隠すのにも理由がある。
ダフネたちは本人の口からなぜ傷を負ったのかを聞いて知っている。そして、それは公にできない部類のものだった。
「犯罪者が忍び込んでいて、屋敷しもべ妖精がそれを拾い上げに来たなんて……公表したら阿鼻叫喚じゃ済まないわよ。ヒト至上主義者たちの ”準ヒト” 排斥運動に油を注ぐことになる」
「だが、それを明かせんせいでメティはただグリフィンドールの寮で負傷したということになってしまった。拙にもそれがまずいことくらいはわかるぞ」
本当に厄介なことになった。
ドラコを筆頭に、ここ最近のスリザリン寮では親グリフィンドールとでも言うべき融和派が力を持っていた。マルフォイ家のネームバリュー、そしてハリー・ポッターの実績がそこに重なり、排外主義者を黙らせることに成功していた。
実際、最近のグリフィンドールとスリザリンはそこそこ上手くやっていたのだ。
しかし、今回の件で溜まっていた鬱憤が爆発してしまった。因縁が精算されないまま突入した小康状態は、かえって悪意を蒸留してしまったようだった。
ダフネの腕の中で、居心地悪そうにアストリアが身じろぎした。
「あの……バーク先輩は大丈夫なんでしょうか」
「当事者の怪我人をどうこうしようって馬鹿はいないと思いたいわね。……もしいれば、そこを叩いて騒ぎを潰せるんだけど」
「パンジー」
「わかってるわよ、ダフネ。でも、あたしだってあいつが怪我させられてなんとも思ってないわけじゃないの。私たちが黙ってこらえてるのに、関わりの薄い連中が勝手に盛り上がってるのが気に食わないだけ」
プロメテアが大怪我したと聞かされて一番取り乱したのはパンジーだ。
星辰の都合でどうしても調合しなくてはいけない薬品があるからと一人ホグワーツに残ったプロメテアに「研究馬鹿」と文句を言いながらも土産を見繕っていたパンジーは、騒ぎすぎて医務室を追い出されるほどに激怒していた。
彼女が反グリフィンドールに傾かなかったのは、ただ単にプロメテアがそれを好まないとわかっているからというだけだ。
頂点に君臨するわけではないのに、自然と人を束ねている。プロメテアはまるで
パンジーだけではない。ダフネも、ミリセントも怒っている。口には出さないが、ドラコも気持ちは同じだろう。
では、なぜ動かないのか。
今回の件で大人の政治が動いてしまっているからだ。
「まさか、魔法大臣直々の見聞とはね」
「あれでも元は魔法警察の次長ですし、実況見分くらいはこなせるのでしょう。それはそれとして神経が参っている感じはしますけれど」
ホグズミードに来ていたファッジが「グリフィンドールの寝室でハリーが襲われ、生徒が怪我をした」と聞いて文字通り飛んできてしまった。
ファッジにとってシリウス・ブラックの脱獄は負い目そのものだ。自ら逮捕した凶悪犯罪者がハリーの命を狙うために脱獄し、ホグワーツへの侵入に成功したなどとわかれば、公人としての彼は終わりを迎える。
その不安定なファッジから最後の甘い蜜を啜ろうとすり寄る者たちが、「ホグワーツ内に吸魂鬼を入れるべきだ」と甘言を囁いた。
一日にしてウィゼンガモットは戦場と化した。これ以上刺激するようなことがあってはならないと、ダフネたちはそれぞれの家長から動かないよう厳命を受けている。
しかし、それは旧家の事情だ。
これ幸いとスリザリン生たちを扇動し、ダンブルドア排斥の流れを作ろうとしている者がいる。ブレーズ・ザビニ。彼の後ろにいる誰かはよほどホグワーツ内の実権がほしいらしい。
「面倒だ、拙がザビニを一発ぶちのめしてこようか」
「それは解決にならないわよ。一発ぶちのめすのは賛成だけどね」
「わたくしもぶちのめすのには賛成ですわ」
「お姉様、そんな汚い言葉を!」
「たまには汚い言葉もいいものよ、アスティ。ただ……ザビニの動きがどうも気がかりですわね。まるで
ただの寒門、単なる無知ではすまない違和感。
ザビニは露骨に目立とうとしている。それも悪い形で。彼個人にグリフィンドールの因縁などほとんどありはしない。
まるで目立つことそのものが目的のようだ。
「ザビニ先輩って、ご家族は……?」
「父親は全員死んでる。母親は純血の魔女ね。名前は確か……」
ずっと黙っていたドラコが、ぽつりとその名を呟いた。
「ロザリア。ロザリア・ザビニだ」
「そう、ロザリア。よく知ってたわね、会ったことあるの」
「……一度だけ。だが、僕にはあの人が悪事を考えるとは到底思えない。ましてや息子を利用するなんてね」
「どのような方なんですの?」
全員の注目がドラコに向く中、彼は言いづらそうに眉をしかめた。
今日の彼は一際静かだ。若くして寮内の一大派閥であるマルフォイ派を担う彼は、この騒動の中で派閥の長としての姿勢が求められる。誰も子ども扱いはしてくれない。彼の失言が誰かの苦痛につながる。
早くも顔に疲弊の色を滲ませながら、この研究室で一時の安寧を得た彼にはダフネも同情している。跡継ぎとしての教育を受けはじめたばかりの彼には荷が重いだろう。
できるだけ休ませてやりたい。しかし、それはそれとして敵であるザビニの情報は多ければ多いほどいい。
しばらくの沈黙を経て、観念したようにドラコは語りはじめた。
「美しさを鼻にかけない人だ。見ているこちらが心配になるほど優しく、そして……」
「そして?」
「……口がきけない。舌が、ないんだ。僕は……あの人が誰かに利用されているんじゃないかと思っている」
***
ザビニ家の屋敷はイングランド北部の郊外にある。
ウェールズにほど近いこの土地はかつて鉱山で一財を成したマグルのものだったが、その地主がレッドキャップの動乱に巻き込まれ手放した後は何人かの魔法族の手を転々とし、最後にロザリア・ザビニへと与えられた。
かつての家主たちが遺していった様々な調度品がグラデーションを描くような調和を取っている。時代、文化、そして思想のなだらかな連なり。
マグルの趣味と魔法族の趣味が半々に入り混じったこの屋敷を主のように闊歩するのが、ここ最近のアンブリッジの日課だった。
「ごきげんよう、ロザリア。今日はいい天気で、気分も上がりますわ」
舌を持たない女主人は何も語らず、ただ微笑んで侍らせた虫を撫でている。
ロザリアは7人の夫を失い、彼らが遺した保険金で富を得た。彼女の美貌を知る者は誰もがこう口にする。魔性の美女だと。
しかし、その本質――特別な魔法の才能を知る者は限られていた。彼女は夫たちを殺したわけでも、魅了したわけでもない。生まれ変わりの機会を与えたのだ。
絶望し、新たな人生を望む人々にロザリアは手を差し伸べてきた。そして彼女の魔法は、そういった人々に新たな肉体と、新たな可能性を示した。
今彼女の傍に侍る大きな蛆もその一人だ。
生きることそのものに倦み、かといって死ぬ勇気もなかった男は柔らかな虫となって彼女の傍にいることを望んだ。死ぬまで育つことのない、ただの蛆として。
「息子さんからお手紙が来ていましたわね。順調だとよいのですけれど。見えないところで進む計画というものはなんともどかしいこと!」
滑稽に振る舞うアンブリッジを見てクスクスと笑うロザリアは純真無垢で、まるで穢れを知らない乙女のようだ。
彼女と出会うのが10年早ければ、アンブリッジも生まれ変わりを望んでいただろう。スクイブの弟も出来損ないの父も捨てて、新たな人生を歩みたい。そんな願望を何度抱えたことか。
しかし、アンブリッジはこの世界の甘さを知ってしまった。樹を死なせずに傷をつけ、あふれる蜜を滴らせることなく啜る術を身につけてしまった。
そうして磨いた冴え渡る嗅覚は今もアンブリッジを富ませている。
「教育文化局としては、ホグワーツがこれ以上悲惨な状態で放置されているのを見過ごすわけにはいきませんもの。ブレイズくんは告発者としてよく頑張ってくれていますわ」
息子が褒められて嬉しいのか、ロザリアはふるふると照れるように首を振った。
彼女は人を疑うことを知らない。アンブリッジが彼女の息子を足がかりに利用してホグワーツ内への影響力を持とうとしていることなど、考えもしないだろう。
元々は大臣室勤務の上級補佐官だったアンブリッジは、教育文化局の発足を聞きつけるやいなや自ら出向を志願した。
アンブリッジが目指したのはかつて憧れたスラグ・クラブだ。
魔法薬学の教授ホラス・スラグホーンは人脈形成のプロだった。見込みのある生徒を贔屓し、恩を売り、穏やかな笑顔で貢ぎ物を受け取る。彼は人間を扱う投資家として天才だった。
しかし、アンブリッジは彼のように甘くない。恩を売るのではなく、弱みを握る。自らの支配下に置いた人間を魔法界の各地に散らせば、そこから吸い上げられる富は莫大なものになるだろう。
そのための隠れ蓑としてザビニ財団と教育文化局はとても便利だった。
ザビニの名でウィゼンガモットの高官に鼻薬を嗅がせ、教育文化局がホグワーツの自治権に積極介入する機会を作る。吸魂鬼もブラックも、アンブリッジにとっては過程でしかない。
「ルシウス・マルフォイもアルバス・ダンブルドアも恐るるに足らず、ね。皆様がどうしてあんなに怖がってらっしゃるのか、わたくしちっともわからないわ」
アンブリッジは旧家も英雄も恐れない。
そうするだけの自信、その裏付けとなる実力がアンブリッジにはあった。
ロザリアの元にアンブリッジを導いたもの――世界蛇を名乗る大蛇は、こう語った。お前には世界を変える力がある、と。
それはつまり、ずっと世界を動かしてきた旧家や英雄ですら及ばない力をアンブリッジが有しているということにほかならない。
アンブリッジにとって弱者とは搾取すべき餌であり、新たな餌を招き入れるための駒だった。可哀想なブレーズ・ザビニも、愚かなロザリア・ザビニもまた同じだ。
「収穫の時が楽しみだわ」
家主のいずれかが遺していったのであろう上物のワインを自分だけのグラスに注ぐ。
ワイングラスを持つ指に、蛇の指輪が妖しく光った。
《貪欲な世界蛇の指輪》
深みを這いずる竜のなりそこない、世界蛇を象った金の指輪
発見力を大きく高めるが、装着者を深みに引き寄せる
蛇は、己よりも大きな獲物を丸のみにする
きわめて貪欲な生物としても知られている
世界蛇の巨躯ともなれば、竜すら食らいうるだろう
世界蛇は腐臭とともに底から現れる
そして摂理を説き、甘言を囁くのだ