ハリー・ポッターと竜魂の学徒 作:ホグワーツの点字聖書
目の前で白い肌を伝った鮮血が、今も焼き付いて離れない。
幼く柔らかな頬。いつも落ち着いているように見えて実は微笑みに緩むことの多いその頬を伝う血は、ハリーが招いたものだ。
そして、彼女の小さな身体がゆっくりと崩れ落ちて――
「そこまでだ。
荒い呼吸を繰り返すハリーの前で、まね妖怪が白いピンポン玉に変わった。
「焦る気持ちはわかるが、やはり日を改めたほうがよさそうだね。立てるかい?」
「……はい。ありがとうございます、先生」
差し伸べられた手を掴んで立ち上がったハリーは、なんとか呼吸を落ち着けようとした。ひとつ前はハーマイオニーの死体、その前はロンの死体。まね妖怪が示す「恐怖の形」にハリーはまだ勝てていない。
急遽授業が休みになったホグワーツはいつもとは違う喧騒に包まれているが、ハリーはその流れに身を任せる気にはなれなかった。
自分のせいでプロメテアが死にかけた。
軽率な行いを咎められたばかりなのに、周囲を巻き込んでしまった。
気づけば、ハリーは心臓を押し潰そうとする罪悪感から逃げるようにリーマスを訪ねていた。両親の話を聞くでもなく、シリウスのことを尋ねるでもなく、守護霊の呪文を練習するために。
しかし、ハリーのまね妖怪はもう吸魂鬼になってくれない。
「大切な人の死、それを恐れるのは当たり前のことだ。それだけその人を大切に想っているという証左でもある」
椅子に倒れ込むように座ると、リーマスが杖を一振りしてブランケットをかけてくれた。
ひどく寒い。もうすぐクリスマスだからだろうか。
「ハリー。君が自分を責める必要はどこにもないんだよ。それは私たち大人の役目だ」
「でも……きっかけを作ったのは僕です」
「それでも、だ。血気にはやる若者を止めるのは大人の仕事だからね。あの場では誰もが正しい行動をしたと思っていた。敵のほうが一枚上手だった、それを考慮に入れられなかった私たち大人のミスだ」
慰めるように、しかしきっぱりと言いきったリーマスはハリーの向かいに椅子を引っ張ってきて腰掛けた。
老け込んだ表情とくたびれた空気のせいで年老いて見えていたが、彼は両親の同級生だった。ずっとハリーに親身にしてくれていたのもそれがあるのだろう。彼の目にはいつも懐かしさが宿っている。
リーマスに失望されていないのが不思議でならなかった。ハリーのせいで彼も怪我をしたし、それどころか友人の濡れ衣を晴らす好機を逃す羽目になったのだから。
何も言えずにしばらく黙っていると、リーマスが思い出したように明るい声を上げた。
「まあ、ある意味ではこれで君もジェームズと同じところに立ったわけだ」
「父さんと、ですか?」
「彼も人を巻き込む天才だった。それも、自分のためではなく誰かのために人を巻き込んで、いつも大騒動を巻き起こしていた。時にはそのせいで人が傷ついたこともある」
「……でも、父さんのせいで人が死にかけたことはないですよね?」
「そう思うかい? 君は少しだけ自分の父親を甘く見ているかもしれないよ」
少し陰のある笑みを浮かべて、リーマスは困ったように頭をかいた。
「残念ながら私も悪さをした側の人間だから、昔話として気軽に語れることではない。ただ、そうだね……ジェームズは誰よりも人を巻き込んで危ない目に遭わせたが、同時に誰よりも人を救ったんだ」
「人を、救った……」
「もちろん、君がそれを真似する必要はない。ただ、君がきっかけとなって誰かが傷ついたからといって、君が愛されない理由にはならないということは忘れないでくれ」
不思議な気持ちになりながら、ハリーはぼんやりと頷いた。
初めてハリーが魔法界に足を踏み入れた時、名前も知らない魔法使いや魔女たちがこぞってハリーに感謝の言葉をくれた。君のおかげだ、ありがとうと。
しかし、今こうして座っているハリーに誰かを救う力はあるだろうか。
両親は今のハリーを見たら何と言うだろうか。そんな、考えても答えの出ないことがぐるぐると巡っている。手配書の写真でこちらを睨むシリウスの顔が、そしてみぞの鏡で見た両親の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消え。
ぱん、と手を叩く音にびっくりして、ハリーは小さく肩を跳ねさせた。いつの間にか眠っていたようだ。
「さては、昨晩眠れていないね? 気持ちはわかるが」
「……はい、ちょっと寝付けなくて」
「それなら、今日はもう寝てしまうのもいいんじゃないかな。ちょうどお迎えも来たようだ」
リーマスが指し示すほうに目をやると、扉の隙間から二人の目が覗いていた。ロンとハーマイオニーだ。
「ロン、ハーマイオニー、入っておいで。お茶を淹れなおすよ。一杯飲んだら、ハリーを寝室へ連れて行ってくれるかい」
ポットの準備をしにリーマスが奥へと引っ込んだので、ハリーはおずおずと入ってきた二人と顔を合わせることになった。
今の気持ちをうまく言葉にできる気がしなくて、ハリーは二人に声をかけずにここへ来ていた。二人が優しいことを知っているからこそ、慰められるのが怖くて話しかけられなかったのだ。
特にロンは、彼のペット――スキャバーズと呼ばれていたネズミがいなくなった理由を聞かされてしまっている。彼が気に病むことはわかっていた。
「あの、さ……ごめん、ハリー。まさかスキャバーズがネズミじゃなかったなんて、夢にも……」
「ロンは悪くない。あいつが一度も隙を見せなかったんだ。誰がどう見ても完璧にネズミだったのに、それを疑うほうがおかしいと思う」
「そうよ。ロンは悪くないし、当然ハリーも悪くない」
「違う。いや、ロンは悪くないけど、僕は――」
「あなたは悪くないわ、ハリー」
いくら悪くないと言われようと、ハリーの胸の奥をじくじくと責めるこの罪悪感は消えやしない。
だからといって慰めないでくれと突っぱねるのも違う気がして、ハリーはただ口を閉ざすことしかできなかった。
そんなとき、勢いよく扉が開かれた。
「……ジニー?」
鮮烈な赤毛が燃えるように揺れている。
つかつかと歩み寄ってきたジニーは座り込んだハリーの腕を掴んで、強く引っ張った。
「来て、ハリー」
「来てって、どこに」
「バークさんの意識が戻ったの。私、あの人と約束してるでしょ。忘れたの?」
今日はジニーの治療の日だ。
トム・リドルの日記帳に蝕まれたジニーの魂は、プロメテアの手によって少しずつ癒やされている。治療は順調で、最近はハリーたちの付き添いなしで地下牢へ向かうこともあった。
しかし、大怪我をしているプロメテアにそれを頼むのは無理だろう。ハリーが止めようとすると、ジニーは睨むように座ったままのハリーを見下ろした。
「行こう、ハリー。ここで座ってちゃだめだよ。悔しいけど、ハリーを叱る権利があるとしたら、それはあの人だけのものだから」
「……それは、そうだけど」
失望されないだろうか。
そんな不安がよぎった頭を振って、ハリーは今度こそ立ち上がった。どんなことを言われようと関係ない、ハリーはプロメテアに謝りたい。
「そう、そうだね。ありがとう、ジニー。僕はただ、謝りたかったんだと思う」
「これで貸しひとつ帳消しね。ロン、ハーマイオニー、あとはよろしく。ルーピン先生とお茶でもして待ってて」
「ちょ、おい、ジニー!」
手を引くジニーの勢いにつんのめりそうになりながら、ハリーの歩みはゆっくりと速度を上げていった。
***
スリザリン寮の談話室から出発した一団は、校長室に向けて行進を始めていた。
地下牢の湿って圧迫感のある廊下にスリザリン生のローブがひしめき合っている。傍から見れば異様な光景と映るだろう。
先頭に立つのはルーファス・ファッジ、現魔法大臣コーネリウス・ファッジの甥だ。お世辞にも聡明とは言えない目立ちたがり屋の彼はこの騒動の神輿に適していた。
そこにシャフィク、カローといった排外主義で旧家出身の上級生が加わる。その後に続くのが新興の家々や「純血ということになっている家」からきた生徒たちだ。
ブレーズ・ザビニは最後方にいた。
「諸君、我々は正当な要求のために立ち上がった。わかるな? これは暴動ではない。正義を示すための行いだ」
きっと伯父譲りであろう安っぽい演説をぶちかまして、ファッジは自らに続く生徒たちへと腕を広げてみせた。
なんと滑稽なことか。彼らの要求はシンプルそのもの、「今年度のグリフィンドール寮の寮対抗杯辞退」だ。彼らはかつてスリザリンが独占していた寮対抗杯をなんとしてでも取り返したいらしい。
ブレーズはくしゃみをこらえるふりをして口元を抑えた。笑うわけにはいかない。命令に従って騒ぎに火をつけたのはブレーズだ。
母を守るため、今年度に入ってからずっと道化を演じさせられてきた。ここで流れを壊してしてしまっては、これまでの苦労が無駄になる。
「ミス・バークは我々の同胞だ。その彼女があろうことか、グリフィンドールの談話室で傷を負わされた! そのような暴挙を曖昧に許したまま、ホグワーツの四寮間に均衡は成り立つだろうか? 否! 断じて否だ!」
ブレーズは知っている。ファッジは一度もプロメテアと言葉をかわしたことがない。彼は「不気味だから」というだけでプロメテアを避けていた。
よく回る弁舌だ。なぜアンブリッジが彼を駒に選ばなかったのか疑問に思う。
「彼らには反省の時間が必要なのだ。沈思黙考し、己の罪を悔いることで初めて……あれはなんだ?」
列の先頭付近がどよめきとともに立ち止まったのを見て、ブレーズは思わず前に出た。
妙に嫌な予感がする。首筋がちりちりと焦げ付くような、そんな焦燥感。
その焦りに背を押される形で先頭集団の脇に出ると、とても奇妙なものがそこにいた。ファッジが「誰だ」ではなく「なんだ」と口にした気持ちがブレーズにもよくわかった。
炎のような何かを模した眼鏡をかけ、首にはコルクと蕪を連ねたネックレスらしきもの。ポケットからは萎びた葉が垂れ出ている。
他人のふりをしたくてしょうがない。しかし、胸元を飾るブローチと手に握りしめたハンカチには間違いなく見覚えがあった。
「おい、お前」
「ン……あんた誰?」
「失礼なやつだな。人に名前を尋ねるときはまず自分から名乗れと親に教わらなかったのか?」
「教わったよ。でも、いきなりお前って呼んでくる人は攻撃的で失礼なやつだから名前を明かすのは慎重にした方がいいってパパは言ってたかな」
レイブンクローのローブを着た彼女――ルーナにあっさりやり返されて顔を赤くするファッジに、列の後ろから小さな笑い声が上がった。
これはよくない空気だ。
このまま放置すれば、ファッジはルーナを攻撃するだろう。彼はあまり賢いタイプではない。つまり、スリザリンらしい狡猾で遠回りなやり口よりも、まっすぐに呪いを放つほうを好む。
きっと後で山ほど後悔するだろうと思いながら、ブレーズは前に出て彼女の手を引いた。
「すみません先輩、こいつは俺が個人的に面倒を見ている後輩でして……おい、どうしてこんなところにいる」
「ハンカチを返しに来たんだよ。名前を教えてくれなかったから、地下牢に行くしかないでしょ?」
「そういう話をしてるんじゃない、今は……ああ、先輩、俺はちょっとこいつに話があるのでどうぞお先に」
ぐいと引っ張って無理やり道を開けさせると、ファッジはルーナとブレーズを睨んでから鼻を鳴らした。ブレーズが世話をしている後輩である以上、彼はルーナに攻撃できない。
そのまま一団の目につかないよう地下牢の隅にルーナを引っ張り込んで、ブレーズはため息をついた。
「それで、なんで来た」
「ハンカチ。あと、お礼を言いに来たんだ。授業がお休みになったから」
「そうかい、そりゃどうも。このタイミングじゃなきゃ多少は喜んでたよ、俺も」
「名前を教えてくれなかったのがよくないと思うな。教えてくれてれば先に連絡できたもン」
「案外嫌味なやつだなお前」
ブレーズが手を離すと、ルーナは手首をさすりながらぷいと顔を背けた。
「お礼を言いに来ただけなのに、こんな風に人目につかないところに引っ張り込まれるなんて思ってなかった。破廉恥だね」
「違っ、お前なあ!」
「冗談。でもちょっと怖かったのは本当」
「……悪かったよ。ブレーズ・ザビニだ。この間のことは黙ってるから安心していいし、ハンカチはくれてやる。今日は色々と危ないから寮に帰れ」
そうまくし立てるブレーズを意にも介さず、ルーナは宙を眺めていた。
複眼風にこしらえられた眼鏡のレンズ越しに彷徨う視線が妙に気味が悪く、居心地の悪さを感じる。まるで実験動物になってケースの中で観察されているような気分だ。
しばらくして、ルーナが突然声を上げた。
「あっ」
「な、なんだよ」
「名乗られたら名乗り返すんだった。ルーナ・ラブグッド」
「知ってる。というかお前は俺がお前の名前を知ってることを知ってて……お前と話していると頭がこんがらがる」
「それ、よく言われるんだ。生きたパズルはピースの形を変えるんだから、生きている限り解けないのは当たり前だもン」
歌うような語り口でそう言ってから、ルーナはわずかに顔をしかめた。
ブレーズの脳裏によぎったのは彼女が上級生にいじめを受けていた場面だ。あまりの悪趣味に見ていられず手を出してしまい、密告文まで書くはめになった。
ああいったことが今も続いているのだろうか。今日もそのローブの下に怪我をしたままここに来たのだとしたら、このまま一人で返すのは忍びない。
「お前、怪我してるだろ」
「してない」
「いいや、してるね」
「してないよ。元気な状態でクラウチ先生のことを待ってるって約束したから、怪我はしない」
「クラウチってあのクラウチか。まあなんでもいい。帰ってくるまでに完治してれば元気だったことになるだろ」
ブレーズはファッジたちが辿るであろうルートとここから医務室までの距離を頭の中で計算した。ルーナを地下牢に放置するのが非常にまずいということはここ数分のやり取りで十分に理解できている。
今すぐルーナを医務室まで送ってすぐに合流すれば、なんとか重要な局面には間に合いそうだ。
「医務室まで送ってやるから、さっさと治せ。それで、今日はもう寮から出ないほうがいい」
「ン……そうする、ありがとう」
「悪いがお喋りしてる暇はないからな、少しだけ急ぐぞ」
怪我人を急かすことを少しだけ申し訳なく思いながらも、ブレーズはルーナの手を引いた。
《メラメラメガネの試作品》
炎を模した珍妙な眼鏡
ラックスパートを可視化する効果があるとされる
ラックスパートは目に見えず、耳から忍び込んで思考を鈍らせる
常に鈍った者はきっと存在を考えすらしないだろう