ハリー・ポッターと竜魂の学徒   作:ホグワーツの点字聖書

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 医務室の空気が死んだ。

 もちろんこれは比喩表現だが、いつも清潔で石鹸とリネンの香りがする医務室とは思えないくらいには空気がどんよりとしていた。

 原因はハリーの目の前にいる。

 

「ここで何をしてるの、ザビニ」

「医務室に来る用事なんて手当てか見舞いくらいだろ、頭を使えよポッター」

 

 ブレーズ・ザビニ。

 目鼻立ちは整っていると思う。アフリカ系には珍しい澄んだブルーの瞳も相まって、夜空のような印象を与える少年だ。豹を思わせる鋭さとしなやかさは、女子人気の源となっているらしい。

 グリフィンドール生にも彼の隠れファンがいる。彼が騒ぎを起こすようになるまではお近づきになりたいと思っていた子も少なくないのだと、ハリーは同学年女子で美人と評判のパーバティ・パチルから聞かされている。

 ハリーにとって、今学期に入って最大の謎。それは「なぜブレーズ・ザビニはハリーを目の敵にしているか」だ。

 この難題に対し、あのドラコすら明確な答えは持ち合わせていなかった。

 こう言ってはなんだが、ブレーズはハリーにとって他人でしかない。血縁関係もなく、言葉をかわした記憶もなく、それどころか今年に入るまで名前すら知らなかった。

 突然の対面に睨み合う二人を差し置いて、ジニーがさっと前に出た。

 

「ルーナ、怪我? マダム・ポンフリーなら奥だよ」

「怪我はしてないンだ。だって、これからしてなかったことになるから」

「あー……つまり今は怪我してるってことね。おいで、一緒に行こ」

 

 ジニーが差し伸べた手に、一瞬ルーナは躊躇するように視線を彷徨わせた。その視線の先にいたのは彼女と一緒に入ってきたブレーズだった。

 仏頂面のブレーズがぶっきらぼうに「行け」と顎で示すと、ルーナはやや遅れてジニーの手を取った。

 二人が医務室の奥へ向かうのを見送りながら、ハリーはブレーズからの敵対的な視線が突き刺さるのをひしひしと感じた。不思議な話だ、彼とは何の縁もなかったはずなのに。

 

「ルーナとは、どういう関係?」

「……あいつ、ポッターと知り合いだなんて一言も」

 

 目の錯覚だろうか。

 ハリーが振り返った時、わずかにブレーズの表情は歪んでいた。裏切られたような、打ちのめされたような、そんな顔をしていた。

 医務室に入ってくるまで、ルーナとブレーズは親しげとまではいかないまでも打ち解けた振る舞いで互いに接していた。ハリーが一瞬耳を疑うくらいには和やかに。

 ルーナと会話を弾ませている人というのは、残念ながら頻繁に見られるものではない。手当てを受けさせるために奥の事務室へルーナの手を引いていったジニーですら、まだどこかぎこちなさを残していた。

 もしブレーズがルーナの友達だったのなら、彼の名前はもう少し目立っていたはずだ。

 ハリーが彼の名前を耳にする機会は大半が嫌がらせの首謀者としてだった。ダドリーの取り巻きによくいるような、目立ちたがりで嫌ないじめっ子。それがハリーの持つ、ブレーズ・ザビニという少年の印象だ。

 しかし、ルーナがそんな人物と親しくするだろうか?

 

「――ここは医務室だぞ、あまり喧嘩腰になるな」

 

 プロメテアの冷静な言葉でハリーは我に返った。

 危うくブレーズを質問責めにするところだった。そんなことをすれば、きっと喧嘩になってしまう。それがよくないことであるというのはマダム・ポンフリーに言われるまでもない。

 

「ザビニ。お前が何をやろうとしているかは知らんが……あまりノットに心配をかけるなよ」

「関係ないだろ。お前にも、あいつにも」

「そうか。だが、関係がなくとも人は心配する。そういうものらしいからな。私はつい最近、それを学ばされたばかりだ。お前も覚えておくといい」

「……ふん、鳥籠のお姫様が先生気取りかよ」

 

 ハリーの胸の底で何かちり、と焦げるような苛立ちが生じた。

 ふたりのやり取りが理解できないのは当たり前だ。プロメテアもブレーズもスリザリン生で、ハリーの知らない共通の経験、共通の友人がいるのだろう。そこに割って入るほどハリーは馬鹿ではない。

 ただ、ハリーにとって大事な友だちであり、先生であるプロメテアがあのブレーズに心配の言葉を送っているのは、あまり愉快ではなかった。

 

「ねえ、君はどうして――」

「お前ののんきな問答になんて付き合ってられるか。俺は忙しいんでね、失礼する。せいぜい養生しろ、バーク」

 

 制止の声をかける暇もなく、ブレーズは踵を返して去っていってしまった。

 ハリーは別に自分が温厚で友愛精神に満ちた人間だとは思っていない。理由もなく嫌がらせをしてくる相手と友だちになりたいなどとは微塵も思わない。

 ただ、ブレーズはまだ謎なのだ。ハリーにとって彼はまだ何者でもない。ハリーのほうから喧嘩をふっかけたわけではないし、ドラコのようにハリーの知らない過去と気づかない無礼があったわけでもないはずだ。

 

「対話の余地があるはず……そんなことを考えているんだろう、お前は」

「君はなんでもお見通しだね」

「なんでもというわけにはいかない、何分(めくら)だからな。さて……」

 

 久しぶりに聞いた盲目ジョークに思わず頬を引きつらせながら、ハリーはプロメテアが立ち上がるのを手伝った。

 

「すまない。まだ少しふらつくな」

「本当に寝てなくて大丈夫なの?」

「この程度で寝ていられるほど私も暇ではないし、友人たちが私を説教しようと待ち構えているだろう。……寮に直帰せずに少し研究室で時間を潰していくか」

 

 プロメテアの友達ならきっとそこまで読んで研究室で待っているだろうなとハリーは予想したが、口には出さなかった。そうすれば今度は何をするかわかったものではない。

 この一件でハリーは思い知らされた。この小さくも頼りがいのある友達は、ハリーが思っているよりもずっと強く、そしてずっと脆いのだ。無敵の天才などではなく、血の通った女の子なのだと。

 

「私はもう行く。マダム・ポンフリーに見つかると都合が悪いからな、足止めをしておいてくれると助かる」

「都合が悪いって……もしかして、無許可で」

「傷が治っていれば私にはそれで十分だ。頼んだぞ」

 

 少しだけ悪い笑みを浮かべて、プロメテアがぽんとハリーの肩を叩いた。

 

***

 

 ダンブルドアを糾弾するために立ち上がった――彼らの中ではそういうことになっている――一団の最後尾に追いついて、ブレーズは胸をなでおろした。まだ最終局面には至っていない。

 地下牢から出発した一団は大階段を登り、校長室のガーゴイルを目前としていた。

 

「正しき報いを! 校長の沈黙を許すな!」

 

 先頭で雄々しくも腕を振るうルーファス・ファッジは興奮のあまり汗を滴らせている。

 彼の伯父、コーネリウス・ファッジはカリスマのある魔法大臣とは言えない。治世の実力は十分だがそれ以上のことはできない、凡庸で穏健な管理者だ。それでも、統治者の器ではあると誰もが認めている。

 その点、この程度の決起を我が世の春と言わんばかりに堪能して顔を真赤にするルーファスは伯父の才能を十分に受け継いでいるとは言えない。

 だからブレーズは彼を焚き付けたのだ。

 

「――おお、なんとも背筋の正される言葉じゃのう」

 

 誰もが予想した形に反して、その声は校長室からではなく廊下の奥から響いた。

 長い髭を蓄え、悠々と歩く老校長は、いつもどおりの微笑みを浮かべ、瞳を好奇心で輝かせている。この程度は日常のちょっとした発見に過ぎないとでも言わんばかりの余裕だ。

 

「聞かせてくれるかね、ルーファス。君が何を思い、何を儂に訴えたいのかを」

「……で、では、我々の要求を呑む用意があると?」

「もちろんじゃとも。歳を取ると耳が遠くなっていかん。こうしてわざわざ近くまで気持ちを伝えに来てくれた若者を邪険にする者がいれば、それこそこのホグワーツに相応しからざる人物と言えるじゃろう。儂に限らず、のう」

 

 喜色に染まったかと見えたルーファスの表情は、ダンブルドアの言葉を理解するにつれてじわりと色を失っていった。

 穏やかな表情のまま、痛烈な皮肉を交えてダンブルドアはこう言っているのだ。

 お前の主張は総意ではない、と。

 この集団が決起する少し前、ルーファスを諌めようとした下級生がいた。ルーファスは彼女の言葉を無視し、それどころか彼女の姉に「教育がなっていない」と怒鳴りつけすらした。

 その事実をダンブルドアはすでに把握しているのだ。

 

「君たちの主張は最大限酌もうぞ。しかし、その前に君はアストリア・グリーングラス嬢への紳士的とは言えない振る舞いを恥じ入るべきじゃ」

「ッ、この件とは関係のない話だ!」

「儂は校長として、君たちの生活を預かる立場にあるのじゃよ、ルーファス。それは寮間であろうと、寮内であろうと何ら変わらん」

 

 ルーファスは決起にあたって、プロメテアがグリフィンドール寮内で傷を負わされたことを「グリフィンドールからスリザリンへの攻撃だ」と主張した。これは寮間の闘争であると盛大に同胞を鼓舞した。

 しかし、彼自身はどうだろうか。彼はスリザリンの仲間を害した。

 一団の中に困惑のざわめきが広がっていく。決起の熱が冷め、言葉の魔法が解けていく。

 

「しかし、ミス・バークの怪我について誰かが責任を取るべきという主張はもっともじゃ。であれば、儂が責任を負うべきじゃろう」

 

 ルーファスの顔が明確に青ざめた。

 

「そ、それは駄目だ!」

「引き止めてくれるのかね、嬉しいのう。しかし、責任を取るとなればそうせざるをえんのじゃ」

 

 校長の席からダンブルドアが降りれば、誰が一番損をするのか。この一団に限って言えば、それはルーファス・ファッジだ。

 純血至上主義で、頭が悪く、そして年少者にも慕われていない彼がなぜこのような扇動者になれたのか。それは彼の伯父が魔法大臣で、それ以上にダンブルドアと個人的に親しいからにほかならない。

 ルーファスが伯父に言いつければ、伯父のコーネリウスはダンブルドアに頼る。だから誰もルーファスの機嫌を損ねるようなことはしなかった。

 スリザリン寮内に君臨できるような器ではない。小物と裏で蔑まれながらも一定の地位を維持できたのは、ダンブルドアが校長職にあったからだ。

 

「ミス・バークが怪我をしたのは、儂が彼女に頼んだ個人的な仕事の都合なのじゃ。ボージン・アンド・バークスの跡取りとして彼女は儂すら舌を巻くほどの知識を蓄えておる。しかし、今回ばかりは負担をかけすぎてしまった」

「しかし……しかし、グリフィンドール寮にいた連中の監督責任は」

「まさにそこが問題なのじゃよ。事故の現場に立ち会っていたのは生徒ではなく教師じゃった。グリフィンドール寮の壁や床に責任があるとまでは、君も思わんじゃろう?」

 

 見事な論理だ。どうあがいても責任はダンブルドアにしか及ばず、そしてルーファスはダンブルドアの責任を追及できない。

 この決起は失敗した。ブレーズの計画どおりに。

 屋敷に住み着いた性悪蛙から下された命令。それは生徒たちを決起させ、そして失敗させることだ。最大の目的は失敗を見越してブレーズが送った一通の手紙にある。

 

「――アルバス!」

 

 肩で息をしながら転がり込んできたコーネリウス・ファッジに、ダンブルドアは一瞬怪訝そうな視線を向けた。

 コートの裾についた暖炉の灰を落とすこともせずにコーネリウスはつかつかと自分の甥へと歩み寄った。そして――

 

「この大馬鹿者が!」

 

 盛大にげんこつを落とした。

 愛想のいい小男という印象のコーネリウスが、その小さな体躯の全身に怒気をみなぎらせている。おそらく、魔法大臣としての彼しか知らないほとんどの生徒にとって初めて見る姿だろう。

 頭を抱えて呆然とするルーファスに、コーネリウスはなおも詰め寄った。

 

「ただでさえシリウス・ブラックの捜索網でアルバスには散々負担をかけているというのに、よりによってお前がこんな馬鹿げた真似を……!」

「お、伯父上、違うんだ」

「何も違うものか! 不平を撒き散らして人様に迷惑をかける暇があったらもう少し真面目に勉強をしろ! 恥ずかしいとは思わんのか、この重要な時期に迷惑ばかりかけて……!」

 

 泣きべそをかいて謝るルーファスを前にして、完全に空気が弛緩してしまった。

 魔法大臣がごく普通の保護者のように現れて叱り飛ばしてしまったせいで、決起がどうこう、突き上げがどうこうという雰囲気ではなくなってしまった。そのことをダンブルドアも理解しているのだろう、呆れたような笑いを浮かべている。

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 決起そのものは重要ではなかった。必要だったのは、校内で騒動を起こすこと。そして、「保護者の介入によって解決された」という実績を作ることだ。

 ブレーズは数ヶ月かけてルーファスが扇動者になるよう種を蒔いた。母を人質に取ったアンブリッジの命令を達成するために。

 

「コーネリウス、感心せんのう。君は今儂よりも忙しい身じゃ。理事用の煙突飛行ネットを使ってまで来るほどのこととは、儂には思えんのう」

「しかし、アルバス……ただでさえ迷惑をかけているんだ、身内の不始末くらいは片付けさせてくれ。この馬鹿者には私がよく、よーく言い聞かせておく!」

「ふむ……であれば、君の親心に任せるとしようぞ。帰りはホグワーツのしもべ妖精に送らせよう」

「心得た。さあ来いルーファス、お前にはほとほと愛想を尽かしたよまったく……弟もカンカンになって怒っている、覚悟するんだな」

 

 ルーファスの耳を引っ張ったまま、コーネリウスは屋敷しもべ妖精に連れられて消えていった。

 こうなると困ったのがスリザリンからやってきた一団だ。扇動されてここまでやってきたはいいが、自分たちで立ち上がる予定のなかった連中がダンブルドアを相手取れるはずもない。

 廊下の冷たい空気の中で居心地悪く突っ立っていると、ダンブルドアが手を叩いた。

 

「まだ何か聞いておくべきことはあるかね? ない? それは上々じゃ。さ、それぞれがそれぞれの好きなことをしなさい。せっかくの休日をこんなところで無駄にしたくはないじゃろう?」

 

 促されるまま、三々五々に散っていく一団。一様に気まずい表情を浮かべたまま、それぞれがそれぞれの生活に戻っていく。

 

 その流れに交じって場を去ろうとしたとき、ブレーズは一瞬ダンブルドアと目が合ったような気がした。

 思わず手元の指輪に触れる。

 気づかれてはいないはずだ。ブレーズの姿は遠目にはずっと隠されていたのだから。それなのに、心臓は嫌な予感に脈打っていた。




《幻肢の指輪》
生まれ変わりの母、ロザリア
その長子に与えられた指輪

遠い距離で、装備者の姿を隠す

生まれ変わりの母、ロザリアは
我が子と引き換えに舌を奪われたという
以来その長子は、母がための指となった
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