午前中の授業が終わったトレセン学園。黒板と教科書に集中していた生徒たちが気を緩め、次々と食堂に入っていく。食堂内は既にたくさんのウマ娘で溢れかえっているはずだ。
私はその流れに逆らうように、一人逆方向へと離れていく。
何度も、何度も通った道。往復しすぎて、もう目をつぶってでもたどり着けるであろう道を歩く。
真面目に授業を受けなければいけないのに、最後の30分辺りから集中力が途切れてしまった。分かっていても、毎週この日だけはダメになってしまう。・・・・・・無意識の内にニヤけていなかっただろうか。クラスメートから、意味もなく笑っているウマ娘だなんて思われていたらちょっと傷つく。十割自業自得なわけだけど。
バレていないことを願いつつも、目的の場所を視認したことで、また笑みが漏れてしまう。
中央トレセン学園の端にある棟。部屋の大部分がトレーナー室で占められた建物にウマ娘の影は見当たらない。練習後であればミーティングなどで訪れる子もいるのかもしれないけど、今は私だけかもしれない。
時折すれ違う人に会釈しながら、一つの部屋の前で足を止めた。
歩いてきたというのに、心臓が落ち着かない。レース直後のような暴れ方をする胸を抑えつつ、呼吸を整える。
「・・・・・・よし」
コンコン、と小さくノックをする。間を置かずに返ってくる、入っていいぞ、という声。私より低い、大人の男性の声音は、ノックをした人物が誰であるかを知っているかのようなものだった。
「失礼します」
静かにドアを開ける。と同時に、『彼』の匂いが飛び込んできた。人より遥かに強いウマ娘としての嗅覚が、その匂いを余すことなく体感してしまう。
練習中や部室では他のチームメンバーもいるため特段意識するまではいかない。でも、トレーナー室まで来たり、呼び出しを受けるメンバーはそういない。つまり、部屋にいるのは9割方彼なわけで・・・・・・
「どうしたスズカ?」
声を掛けられ、ハッと正気に戻る。机と向かい合っている男性・・・・・・私のトレーナーさんが少し心配そうな顔を私に向けていた。部屋を満たしていたトレーナーさんの匂いに気を取られ、心がそちらに引き寄せられていたみたいだ。
せっかくの時間だというのに、不安な思いをさせるわけには行かない。
「いえ、何でもありません。用意するので座ってくださいね」
取り繕ってトレーナーさんをソファに誘導する。こういう何気ない会話すら、幸福に感じてしまう。
ソファの前に置かれた机の上に、持ってきたカバンを置く。その中から取り出したのは、少しだけ大きさの違う二つのお弁当箱。
「はい、トレーナーさん」
「ああ、ありがとう。スズカ」
ソファは一つのため、必然的に私とトレーナーさんは隣に座ることになる。お弁当箱を渡した際、至近距離で笑顔を向けられ、再び私の鼓動が大きくなった。
半年前、左脚の怪我から復帰した私はトレーナーさんから一つの命令を受けた。
それは、『週1日は朝練習をしないこと』というものだ。完治したとはいえ、一時は復帰絶望的とまで言われたのも事実。この先後遺症が出る可能性も十分にある。誰だって、大なり小なり怪我や故障と向き合いながら走っているのだ。
ともかく、今後の事を考えてトレーナーさんは朝練習の制限を提案してきた。それまで私は毎朝自分で練習メニューを組んで取り組んでおり、ほぼ日常となっていたため話し合いは難航した。
結果、練習メニューを確認したトレーナーさんは週1日は休むことを厳守できるのならという条件付きで妥協をしてくれたのだ。
それからは週の真ん中である水曜日だけ休み、それ以外は今まで通り練習をこなすという流れになったのだが、ここで一つ問題が発生した。
早朝の練習グセが完全に身体に染み付いており、目覚ましを切っていても水曜日も早く起きてしまうのだ。初めの内は朝食の時間まで二度寝を試してみたが寝付けない。読書をしようにも、寝起きの頭では楽しむことができなかった。
・・・・・・フラストレーションが溜まって、一度だけトレーナーさんの言いつけを破って水曜日も朝練をしようとした。でも、彼には私の考えていることなんてお見通しだった。
ジャージに着替え、こっそりといつも走るコースに赴いた私の目に飛び込んできたのは、無表情のトレーナーさんの姿だった。
「スズカ、今何をしようとしていた?」
初めて聞いた、抑揚のない声。合宿中などでは大声で叱られたこともある。でも、そんなものとは比較にならないほど、今のトレーナーさんは怖かった。
「・・・・・・スズカ。走りたいという気持ちは分かる。それでも、これ以上負担をかけると万が一のことがあるかもしれない。・・・・・・頼む、スズカ。分かってくれ」
淡々と話すトレーナーさん。抑揚のない静かな声は、徐々に震えていった。トレーナーさんの目には、微かに『恐怖』の色が浮かんでいた。
そこで気づいた。トレーナーさんは、私が命令を無視したから怒っているんじゃない。私が再び怪我をしてしまい、今度こそ走れなくなってしまうのを恐れているんだと。
走りたいというストレスが溜まったから、という理由でこっそり抜け出した早朝の自分を思い切り殴りたくなった。私以上に私の脚のことを考えてくれていたトレーナーさんに、怖い思いを抱かせてしまったのだ。
気づいたら私は彼に頭を下げていた。ごめんなさい、ごめんなさいと必死に謝った。二度とトレーナーさんに怖い思いをさせないと、その時に誓った。
・・・・・・その後は決まり事を守って生活をした。週一日の朝休みは、予習復習の時間に充てるようになった。朝はそこまで強いわけではないため効率は悪かったけれど、他にやりたいことがなかったので消去法で選んだ結果である。
時間をやや持て余していた私。そこに転機が訪れたのは、2週間後のことだった。
練習が終わってもう少しで夕食という時間帯、職員の方に呼び止められ、「沖野トレーナーに渡してほしいんだ」と複数枚の書類を渡されたのだ。
仕事で使用する大切な書類を、いくら担当とはいえ一介のウマ娘に渡してもいいのかなと思ったが、急いでいる素振りを見せたため快く引き受けた。
この時間帯ならトレーナー室に入るはずだと考え、トレーナー棟に足を向ける。チームを持つトレーナーには部室が与えられるため、ミーティングなども全てそちらで行ってきた。
(トレーナー室に入るのは何ヶ月ぶりかしら・・・・・・)
そんな事を考えつつも、トレーナーさんの部屋までたどり着く。
「トレーナーさん。サイレンススズカです。少しお時間よろしいでしょうか?」
「スズカ?ああ、入ってくれ」
意外な来客に驚いたような声を出したトレーナーさん。とは言え、許可を頂いたのでお邪魔する。
部屋に入り、持ってきた書類を渡す。それだけで事情を察したのか、トレーナーさんは少しだけ顔をしかめた。
「・・・・・・悪いな、スズカ。わざわざ持ってきてもらって」
「いえ、そんなに手間でもなかったので。それより・・・・・・」
一旦言葉を切り、トレーナーさんの仕事机に目を移した。数ヶ月前には無かった光景がそこに広がっていたのだ。
私の視線に気づいたのか、彼はしかめっ面から一転、バツの悪そうな表情になる。
書類やパソコンの間を埋めるように、大量の栄養ドリンクが鎮座していた。その殆どが既に空となっている。
ちらっと机横に置かれたゴミ箱を見る。そこにはこれまた既に空となったカップ麺の容器が山盛りを形成していた。
「ああいや、スズカ。違うんだ。スペのレースも近いしここ数日追い込んでいるだけであって普段は」
「トレーナーさん」
彼の言い訳を遮るように発言をする。この量はどこからどう見ても数日やそこらで築き上げられる範囲を超えている。
・・・・・・少しだけ、ムッとした。
「・・・・・・トレーナーさん。私達のことを第一に考えてくれることには感謝しております。その事で先日は私が迷惑をかけてしまいました。・・・・・・でも、私も、私達もトレーナーさんのことを大切に思っているんです。もう少し、体調に気を遣ってほしいです」
「・・・ああ、分かっている。俺が倒れたら、トレーニングやレースとかにも支障が」
「トレーナーさん、それ以上言ったら怒ります」
まっすぐにトレーナーさんを見つめる。私だけじゃない。彼自身は気づいていないのかもしれないけど、他のチームメンバーだってトレーナーさんをかなり慕っている。
・・・・・・彼が倒れて、私達が真っ先に心配するのがトレーニングやレース関連のことだと、本気で思っているのか。
「・・・・・・すまない、スズカ。失言だった」
頭を下げるトレーナーさん。それを見て、私も冷静さを取り戻す。
・・・・・・トレーナーさんは毎日遅くまで仕事をしてくれている。彼も長年トレーナー業に携わってきた人だ、ある程度の体調管理はしているのだろう。
それでも、心配なものは心配だ。仕事に関しては手伝うことができない。食事関連も似たような状況だ。トレーナーさんが料理が上手なことは分かっているけれど、作る時間がないのだろう。結果、手軽な即席食品に手が伸びてしまう。
せめて、食事だけでも・・・・・・
そこまで考えた所で、一つのアイデアが頭に浮かんだ。
「あの、トレーナーさん」
善は急げ、ではないけれど考えがまとまる前にそのアイデアを彼に投げかけた。
「私でよろしければ、お弁当を作ってきます」
朝練習が休みの水曜日。いつも通り早起きした私の新しいルーティンとして、寮のキッチンでお弁当を作成する項目が加わった。
元々手持ち無沙汰であり、週に一度だけでもバランスの取れた昼食を摂ってほしい。とトレーナーさんを説得して始めたお弁当調理。最初は登校ギリギリまでかかってしまったものも、今ではそこまで時間を掛けずに作れるようになった。レシピ本とにらめっこした成果により、レパートリーも結構増えた。
今日のメニューは生姜焼き。勿論、野菜もたっぷりと入れている。トマトが苦手だと知った時は、不覚にも可愛いと思ってしまった。
隣り合って、私が作ってきたものを食べる時間。・・・・・・少しだけ、『そういう』関係になったみたいで顔に熱が上がってしまう。
隣を見ると、彼がお弁当をほとんど食べ終わっているのが見えた。いつもより食べるペースが早い。3週間前、ロールキャベツのお弁当と同じくらいのスピードで食べてくれた。
(この二つが好きなのかな・・・?)
後で聞いてみようと心に留める。
「・・・・・・ありがとうな、スズカ」
不意に声がかけられた。いつの間にか私の方に視線を向けていたトレーナーさん。至近距離で目が合い、再び顔が赤く染まりかける。
誤魔化すように麦茶を口にし、一旦身体を落ち着けた。
「ありがとう、ですか?」
「ああ。正直な所、直してと言われるだけだったら後回しにしていたと思うからな・・・・・・。教え子に頼るなんざ情けない限りだが、その、スズカが作ってくれる弁当がうまいおかげで毎回頼んじまうんだ・・・・・・」
ぽりぽりと頭をかきながら、照れくさそうに述べるトレーナーさん。頼るのが情けないだなんてとんでもない。今までずっと私が彼に頼りっきりだったのだ。少しくらいは恩返ししたい。
そして、それ以上に嬉しかった言葉を言ってもらえた。
「おいしい・・・ですか?その、まだまだトレーナーさんと比べたら未熟ですし、口に合うかと思ってたのですが・・・・・・」
「ああ、めちゃくちゃうまいぞ!もう毎日食べたいくらいだ」
ゴホッ!!と盛大にむせた。
「ちょ、大丈夫かスズカ!?」
慌てたトレーナーさんが背中をさすってくる。呼吸が落ち着くまでに若干の時間を要した。
何とか元に戻り、再び麦茶を流し込む。
「ふぅ・・・・・・その台詞は反則です」
「良かった、落ち着いたみたいだな・・・・・・えっと、何の台詞がだ?」
安堵したような表情を見せるトレーナーさん。原因が自分にあるとは微塵も思っていない、そんな顔をしていた。
実際、何の含みも持っていない、本心から言ったのだろう。だからこそ、間近でそれを聞いた私が大変な目に遭ったわけなのだが。
何でもありませんよ、と笑顔で対応してお弁当の残りに手を付ける。
(『毎日食べたいくらいだ』、か・・・・・・。)
面と向かって、混じりっ気のない笑顔で言ってきて、大丈夫なわけがない。
(本気に、しちゃいますから。私が卒業したら覚悟して下さいね、トレーナーさん)
そう心の中で宣言し、最後の一口を口に入れた。