お盆休みの間に、停滞していたものになるべく手をつけていきたいです。
窓を叩く雨の音。
朝から降り続いている雨は勢いを緩める気配がなく、今日の屋外練習は全て中止となった。ウマ娘にとって、身体と脚は何よりも大切な資本。無理をして大怪我をしたら目も当てられない。
私もそのことを身をもって知っているし、知らされてしまった側の人間だ。だから中止の連絡が来ても、以前のような焦りは湧いてこなかった。
室内メニューを終え、シャワーを浴びて、いつもより早く空いてしまった夕方。私は職員の方から預かった書類を胸に抱えて、トレーナー棟の廊下を歩いていた。
(……雨も、悪くありません)
こんな理由でもなければ、練習後にこの棟へ足を運ぶ口実はない。廊下の窓を流れる雨粒を眺めながら、そんなことを考えている自分に少しだけ呆れてしまう。
こんな大雨でも真っ先に外に飛び出したであろう、走ることしか頭になかった頃の私が今の私を見たら、きっと信じないだろう。屋外練習が流れたことを喜ぶウマ娘。ましてやその理由が、たった数分間の口実欲しさだなんて。
それでも足取りは軽い。呆れながら、私の耳は勝手にぴこぴこと動いてしまっている。目的の部屋の前で足を止め、ノックを二回。
「……」
返事がない。もう一度、少しだけ強めに叩いてみる。それでも、中からは何の音もしなかった。
お留守だろうか。だとしたら少し残念だ、と思ってしまう自分に気づいて、また呆れる。ならば書類だけ置いて帰ろうと、そっとドアを開けて……私の耳が、ぴくりと動いた。
彼は、机に突っ伏して眠っていた。
開きかけたドアを、音を立てないように押さえる。ゆっくりと室内に滑り込み、ゆっくりと閉めた。心臓が、レースのゲート前のように高鳴っている。
トレーナーさんの寝顔を見るのは、これが初めてだった。
いつもの気だるげな表情は鳴りを潜め、少し眉根を寄せた無防備な顔がそこにある。伸びかけた無精ひげ。書類の山と、閉じられていないノートパソコン。画面には、私達の練習メニュー表が映ったままになっていた。
雨で練習が中止になった今日、私達には空白の時間ができた。けれどこの人には、できなかったのだろう。むしろ空いた時間を全部、机の上のこれに注ぎ込んだのだろう。
(……起こせるわけがありません)
私が休んでいる間も、この人は走り続けている。それも自分のためではなく、私達のために。こうして証拠を見ると、改めて胸の奥が絞られるように痛くなる。
書類を空いているスペースにそっと置く。それから私は、ソファの背もたれに掛けられていた彼のジャケットを手に取り、息を殺して背中に近づいた。
ぱさり、と音を立てないように肩へ掛ける。その一瞬、彼の匂いがふわりと届いて、心臓が大きく跳ねた。慌てて距離を取ったけれど、トレーナーさんは起きない。ほっとしたような、少しだけ残念なような。この期に及んで何を期待しているのか、自分でも分からなくなってくる。
そのとき、机の端に置かれた小さな缶が目に入った。蓋が半分開いたその中には、色とりどりの包み紙に包まれた飴が詰まっている。
(これが……)
いつもトレーナーさんから漂ってくる、あの甘い匂いの正体。彼が飴を咥えているのは煙草をやめた名残なのだと、以前スペちゃんから聞いた。担当ウマ娘の前で吸うわけにはいかない、というのがその理由らしい。
その話を聞いたとき、やっぱりこの人はこういう人なのだと思った。自分の事情はぶっきらぼうな仮面の下に隠して、当たり前みたいな顔をして私達の隣に立っている。飴の一粒にまで、この人の生き方が滲んでいる気がした。
いけないことだと分かっている。分かっているのに、指が勝手に動いていた。
一つだけ、いただいてしまう。包みを開ける音が響かないよう、慎重に、慎重に。口に含むと、はちみつの優しい甘さが広がった。彼がいつも感じている味。同じものを、今、私も感じている。ただそれだけのことなのに、舌の上から胸まで暖かくなっていくのはどうしてだろう。
来客用の椅子に腰を下ろす。雨音と、規則正しい寝息。舐めているだけで時間が過ぎていく。
なんて穏やかな時間だろう。
私がずっと欲しかったのは、誰もいない先頭の景色だった。あの場所に立つために全部を捧げてきたし、その気持ちは今も一ミリも変わっていない。
それでも今、この静かな部屋で、私の心は同じくらい満たされている。誰も走っていない。誰も声援を送っていない。ただ雨が降っていて、人が一人眠っているだけの部屋。それだけで、心の底が凪いでいく。
(……ずるい人です)
走ることしか能のなかった私に、こんな時間まで教えてしまうのだから。
そして、教えた本人は、たぶん一生気づかない。
「……ん、あ?……すず、か?」
三十分ほど経った頃だろうか。もぞりと動いたトレーナーさんが、寝ぼけた声を上げた。
「おはようございます、トレーナーさん」
「うおっ、寝てた……! 悪い、いつからいた」
「三十分ほど前から。書類をお届けに来ました」
勢いよく体を起こしたトレーナーさんの肩から、ジャケットがずり落ちる。彼はそれを見て、それから私を見て、ばつが悪そうに頭をかいた。
「……ありがとうな」
「いえ。それより、少しでも眠れましたか?」
「ああ。おかげでな」
小さく笑って、彼は缶に手を伸ばした。蓋を開け、一つ取り出そうとして……その手が止まる。
「スズカ」
「はい」
「一個、食ったろ」
「……え、えっと、証拠はありますか」
「口が甘い匂いしてんぞ」
顔に一気に熱が集まるのが分かった。バレないだろうと舐めていた自分を殴りたい。いや、この場合はトレーナーさんの鼻が良すぎるのだけれど。
「……申し訳ありません」
「バ鹿、怒ってねえよ。むしろ驚いた。お前がそういう悪さするなんてな」
声を立てて笑うトレーナーさん。滅多に見られない表情だった。
私が寝顔を知ってしまったように、この人も、私の知らなかった一面を一つ見つけてしまったのだろう。お互いに一つずつ。そう考えると、恥ずかしさよりも先に、小さな嬉しさが胸に灯った。
外に出ると、雨は少しだけ弱まっていた。それでも傘は必要な降り方だ。
「傘、持ってきてないだろ。寮まで送る」
「え、でも」
「濡れて風邪ひかれちゃ困る。明日走れなくなるだろうが」
いつも通りの、素っ気ない理由付け。
この人はいつもそうだ。優しさを差し出すとき、必ず理屈を一枚被せてくる。走れなくなるから、練習に響くから、レースがあるから。そうやって言い訳を用意しなければ、他人を気遣うことすらできない不器用な人。
その一枚を剥がしてしまえるのは、たぶん私だけだ。そう思うことを、どうか許してほしい。
開かれた黒い傘の下に、二人並んで入る。
肩が触れそうな距離。彼の腕が、すぐ隣にある。歩幅を合わせてくれているのか、トレーナーさんの歩みはいつもよりゆっくりだった。傘を叩く雨音が、世界から私達を切り離してくれているような気がした。
(……寮まで、あと五分)
こんな時だけ、ウマ娘の足の速さが恨めしい。私の脚は、先頭の景色に連れて行ってくれる代わりに、この五分をあっという間に削り取ってしまう。
気持ちゆっくりと。ゆっくりと。一秒でも長くなるように歩幅を狭めても、あっという間に到着してしまった。
寮の前でお礼を言って、頭を下げる。じゃあな、と手を上げて去っていく背中を見送って……そこで、気づいた。
彼の左肩が、ぐっしょりと濡れていることに。
ずっと、私の側に傘を傾けてくれていたのだ。
「……トレーナーさん」
呼び止めようとした声は、雨音に溶けて届かなかった。胸の奥が、じんわりと温かくなる。同時に、ちくりと切なくなる。
嬉しいのに苦しい。満たされているのに、足りない。この矛盾した感情の名前を、私はもう知ってしまっている。知ってしまった以上、なかったことにはできない。
いつかきちんと伝えたい。あの人が理屈の一枚を用意する前に、正面から。
……でも、今日はまだ、この距離のままでいい。
明日も雨だといい。ウマ娘としては失格の願いを、私はこっそりと胸に仕舞った。
FGOでは本日いよいよ水着リリスの全貌が明らかになります。
何なのでしょうかあの水着どう考えてもエロ以外の用途が見つからな(ry