灰色の空にうっすらと太陽が光っている。
辺りは静かで風の音以外は何も──鳥の声も、虫の歌も、木の葉擦れの音も、何も聞こえない。
風は冷たく、吐く息は白い。
ふと、頬に冷たい感触。
いつの間にか風に雪が混じっていた。
寒さに身体がぶるりと震える。
もうずっと、寒い日が続いている。
かつてのような抜けるような青空は見る影もなく、ずっとどんよりと濁った灰色の空。
時々薄い雲がかかって、こうして雪を降らせる。
──こんな世界になってしまったのは俺のせいだ。
俺が自分の周りのほんの一握りの大切な人たちの命と──その人たちと一緒にいたいという自分の願いと引き換えに、世界の命運を放り出したから。
もはや何をしてもこの罪を贖うには到底足りない。そもそも贖罪の機会すらない。
今の俺にできることはその罪と引き換えに得たものを絶対に手放さないよう、失わないよう、繋いでいくことだけだ。
それでも──今のように時々思うのだ。
俺はどこで
もっと、別の──ハッピーとは行かずとも、ベターな結末があったのではないか、と。
そしてその度、浮かんでくる言葉がある。
この世で最も愛しくて、大切で、共に幸福な未来を歩めるだろうと、漠然とそう思っていた人が発した言葉。
「貴方は捻くれているけど優しいのね」
◇◇◇
学園祭最終日。
その時の俺は保身のためにクラリス先輩の元婚約者【ジルク・フィア・マーモリア】──事もあろうにマリエという転生者の女に夢中になって、クラリス先輩との婚約を
そしてレースで──それと喫茶店を馬鹿共に荒らされたのと、【カーラ・フォウ・ウェイン】が
無能な働き者が勝手な判断で余計なことに首を突っ込んでしっぺ返しを受けたと言えばそれまでだが、俺はその当時まだ男爵。しかも王太子ユリウス殿下を決闘でボコボコにした挙句、説教まで垂れるという、下手しなくても極刑モノの暴挙をやらかした後で、アンジェの実家が後ろ盾になってくれなければ命が危うい状況だった。
ジルクの代役が用意できなければ学年の代表たるアンジェの評価が下がる、という話を聞いて、「俺が出なければアンジェパパを怒らせてしまう、そうなったら俺が死ぬ」と考えた当時の俺を誹る気にはなれない。
ルクシオンはそんな俺をモブとは程遠い「立派な取り巻き」と揶揄していたけど。
──まあそんなこんなで学園祭が終わった後の俺はブルーな気分だった。
おまけに俺がエアバイクレースで酷い目に遭っている間にリビアとアンジェの関係に亀裂が入ってしまっていて、そっちの対処もしなければならなかった。
◇◇◇
校舎裏の隅に隠れるようにしてリビアは座り込んでいた。
声をかけると、彼女は顔を上げた。
ずっと泣いていたらしく、目の周りが若干腫れていた。
痛々しい笑顔で「どうしたら良いのか分からなくなりました」と言う彼女の隣に座り、話を聞いた。
俺がエアバイクレースに出ている最中にあの腹立たしいオフリー伯爵令嬢──亜人奴隷を引き連れて俺の喫茶店を荒らしてくれた挙句、王妃であるミレーヌ様を「おばさん」だの「婆」だのと呼びやがった糞ビ●チ──がアンジェに喧嘩を売り、おまけに止めに入ったリビアに「平民風情が会話に割り込むな」などという言葉をぶつけ、「アンジェが取り巻きに裏切られたことで平民であるリビアにすり寄った」などと吹聴しやがったんだとか。
そしてアンジェはそれに反論できなかったらしい。
まあ、無理もない。公爵令嬢ともなれば俺の実家のように普段から平民と接する機会なんてないだろうし。
以前のアンジェが平民のことなど気にも留めていなかったと言われても俺は驚かない。
というか、いつかそれが原因で破局するんじゃないかとも思っていた。
でもリビアは──そうじゃない。
俺はリビアに何と言葉をかけるべきか少し悩んだ。
今の彼女が求めているのは根拠のない慰めではない。自分たちは上手くいっていた、アンジェは自分をちゃんと友達だと思ってくれていた、という確証だ。
でも、俺が言葉を並べたところで納得させられるかは怪しいところだ。
俺は煽ることには長けていても、相手の心に届く言葉など心得がない。
一応、伝えるのではなく気付かせる、というやり方もあるが、失敗すれば余計にリビアを傷つけてしまう。
やはり──時間という薬に頼った方が良いのではないだろうか。
少し、リビアが傷ついた心を休めて、冷静になる時間を作ってあげれば──
「リビア──しばらく休まないか?」
俺はしばし迷った末に、そう言った。
「え?休むって──学園祭が終わったら連休ですよね?」
リビアが至極真っ当な返答をしてくる。
「休むっていうのは──少し、学園を離れるって意味だよ。リビアにはしばらく学園を離れて、心を休める時間が要る。俺にはそう思えるけどな」
さっきリビアはアンジェともう一度話をしてみると言っていたが、そのアンジェはさっき俺が会いに行った時には学園を出る支度をしているところだった。
糞──じゃなかった、オフリー嬢と派手な取っ組み合いを演じたことで実家に呼び出されたらしい。
時間的に考えてもう出発してしまっている。多分連休が終わるまで帰ってこないだろう。
一方でオフリー嬢はルクシオンに調べさせたところ学園にいる。
となると、オフリー嬢がアンジェのいない隙を突いてリビアに嫌がらせを行う可能性がある。
俺への嫌がらせに失敗したらそれを逆恨みしてアンジェにぶつけるような奴だ。次はリビアを狙うことは十分あり得る。
となると──リビアの安全のためには彼女にしばらく学園を離れてもらうしかない。
アンジェがいない以上、俺がついていても限度がある。
俺は男子で女子寮には入れないのだから。
「リビア、今回の件で分かっただろ?今まではアンジェのおかげでそこまで酷くはならなかったけど、この学園にはリビアに対して悪意を持つ奴が大勢いる。リビアの身の安全を守るためにも、アンジェがいない連休中は学園を離れていた方がいい」
俺はリビアを説得する。
リビアは気圧されたのか、反論してこなかったが、終始困ったような、納得がいかないような、複雑な表情を浮かべていた。
そして彼女は口を開くが、すぐに言葉は途切れてしまう。
「でも──私は──」
逃げたくありません、とでも言おうとしたのだろうか?
でも結局リビアはその先を口にしなかった。
代わりにちょっと悲しげな笑顔で同意の言葉を口にした。
「いえ、やっぱり、そうですよね。リオンさんが言うなら、そうした方がいいですよね」
リビアはその日のうちに簡単に荷物をまとめて故郷に帰っていった。
「帰省だと思えばいいよ。夏休みだって帰ってなかっただろ?」
俺はそう言って港までリビアを送って行き、定期船の切符を買ってあげた。
リビアは連休中図書館で勉強するつもりだったらしいが、少々強引に押し切らせてもらった。
帰って来る日には港に迎えに行くと約束して俺はリビアと別れた。
さてと──空賊討伐依頼の方を片付けないとな。
本来ならカーラが空賊退治を依頼してくるのは中盤──学園二年生時──のイベントなのだが、なぜか今起きている。
既にゲームシナリオから大幅に外れている中で、山場のイベントが前倒し──どうなっているのか皆目見当がつかないが、これは却って好機なのかもしれない。
今回空賊退治を依頼してきたカーラと、その空賊の背後にいるのはオフリー伯爵家──オフリー嬢の実家だ。
ゲーム終盤の戦争の布石にもなっている空賊とオフリー家をこの機に潰してしまえば、リビアを苦しめるオフリー嬢やその取り巻き共を学園から追い出せる。
そしてキーアイテム【聖なる首飾り】も手に入れられる。
この機を逃せば、またリビアやアンジェが辛い思いをするかもしれないし、聖なる首飾りを手に入れられる機会は巡って来ないかもしれない。
それに──二年生の半ばまで放置していればその間も空賊共は暴れ回って被害を出すだろう。
ならば、叩ける今のうちに叩いておくのが効率的だし合理的だ。
俺はそう結論付けた。
◇◇◇
【ウィングシャーク】とかいうモンスターみたいな名前の空賊団の討伐はすぐに終わった。
攻略対象のうちの二人、【ブラッド・フォウ・フィールド】と【グレッグ・フォウ・セバーグ】という予想外の助っ人もあったが、全く有り難くはなかった。むしろ邪魔だ。
だから船賃代わりにイカサマトランプで金を巻き上げて役に立ってもらった。
金蔓の役にしか立たないとは、空賊討伐が聞いて呆れるな。
実際、最初に空賊と接敵した時、二人は何をするのかすら分からずにいた。
これだから粋がるだけのボンボンは!
まあそれはさておき。
最初に現れた一団をあっさりと蹴散らしてウェイン領に着いてみたら、いきなり銃を向けられて囲まれたので、俺たちは話が違うと抗議した。
カーラが助けを求めてきたから来たのに銃を向けてくるとは何事か!ってね。
そしたらカーラの親父さんが娘を庇って誤魔化そうとしてきたので、
オフリー嬢の仕業だった。俺たちを騙して空賊に襲わせる算段だったらしい。
やってくれるじゃないか。
リビアを帰省させておいて正解だった。計画ではリビアも空賊討伐に巻き込んで、万一の時は責任を押し付けることにしていたらしいし。
というか、今回の俺、超ファインプレーじゃないか?
『単なる偶然をこれ幸いと自分の手腕と捉えるとは、感心ですね。さすがはマスターです』
ルクシオンは相変わらず辛辣だった。
翌日。
俺たちは残る空賊本隊を探していたが、お誂え向きに向こうから攻めて来てくれた。
さすがに本隊とだけあって数が多く、おまけに頭と思しき奴がアロガンツと同じくらい大きなパワータイプの鎧に乗っていたので、少しばかり苦戦したが、勝利できた。
不本意ながらも空賊から奪った鎧に乗せて戦闘に参加させたブラッドとグレッグも思いの外、よくやってくれた。ちょっと見直したよ。
俺たちは分捕り品の飛行船と鎧、そして空賊が貯め込んでいた財宝を手に入れたが、俺の目的は別の物だ。
空賊の頭が持っていた【聖なる首飾り】。これをリビアにどうやって渡そうか。
誕生日プレゼント?そういえばリビアの誕生日っていつだ?もう過ぎてたらこの手は使えない。
クリスマスプレゼント?それもダメだ。この世界にクリスマスはない。
攻略対象の誰か──例えばブラッドかグレッグをリビアとくっつけて渡させるか?
──難しいだろうな。あいつらはマリエに夢中だし。
結局俺があいつらの役割を代行しなきゃいけないってことかよ。
それもこれもあのマリエが逆ハーレムなんか作ってリビアのポジションを奪うからだ!
本当に何なんだあの女は!
悶々としていたら、オフリー伯爵家の艦隊が迫ってきてまた小競り合いになった。
どうやら空賊と繋がっていた証拠を取り返そうと追ってきたらしい。
俺は逃げることにした。
目的のものは手に入れたのだ。これ以上の戦闘は無用と判断した。
どうせ押収した証拠を王宮に突き出せばオフリー伯爵家は潰される。俺が手を汚すまでもない。
パルトナーの機動力は優秀だった。
空賊から分捕った財宝やら鎧やらを貨物室に詰め込み、大小の飛行船を七隻も引っ張りながら、オフリー艦隊を振り切ったのだ。
向こうは鎧を出してきたが、俺とブラッド、グレッグの三人で撃退した。
◇◇◇
報告書を書いて押収した証拠と一緒に王宮に提出し、手に入れた飛行船と鎧はスクラッパーギルドに高値で売り飛ばし、捕らえた空賊はジェナがアプローチしていた男子の実家に鉱夫として売り渡した。
目的のものは手に入れ、おまけにだいぶ儲かった。
学園に戻ってきたリビアは久しぶりに家族と過ごせて嬉しかったのか、だいぶ元気になっていた。
アンジェとも無事に仲直りできたらしい。
よかったよかった。
──ここまではいい。
「どうしてこうなったぁぁあああ!!」
俺はまたも意に反した出世をしてしまった。
なんと、「空賊退治に加え、ブラッド、グレッグ両名の実家との復縁に貢献──」なる理由で六位上の宮廷階位が五位下に上がってしまったのだ。
「くそっ!やっぱりあいつら俺のこと嫌いだろ!」
存外まともに戦ってくれた上に、実のところ努力家で色々考えているのだと分かったブラッドとグレッグを元の地位に戻そうと考えたのが間違いだった。
攻略対象の代役からいつか降りられると期待して、わざわざあいつらの廃嫡を取り消させる工作をやったというのに!出世するだなんて望んだ結果と真逆じゃないか!
『まさか昇進するとは思いもしませんでした。マスターは私の予想の斜め上を行くのが得意ですね』
ルクシオンが昇進を告げる書状を読んで言う。
「得意ってなんだよ!あの流れでなんで昇進になるんだよ!」
憤慨する俺にさらなる追撃がかかった。
「バルトファルト男爵、お手紙と贈り物が届いております」
男子寮の女性職員が緊張した様子で俺に頭を下げる。
職員の案内で外に出てみたらそこにあったのは──豪華な大型エアバイクだった。
エアバイクと手紙の差出人はアトリー家。クラリス先輩の実家だった。
手紙には学園祭での一件の謝罪とクラリス先輩が元気になったこと、そして──
「う、嘘だろおい──」
俺は力が抜けて膝をつく。
『五位下から五位上への昇進は卒業までお待ち下さい』
手紙の最後にはそう書いてあった。
嗚呼、夢にまで見た領地でののんびり引きこもり生活が手の平から零れ落ちていく。
「そうだ。旅に出よう。知らない国へ冒険の旅に出る」
現実逃避する俺にルクシオンは容赦なく現実を突きつける。
『明日から授業なので無理です』
「あーそうでしたそうでしたねえ!ちっくしょおおおおおお!!」
思わず窓を開けて抱えてる想いをひたすらに叫んだ俺はそれをリビアとアンジェに見られてしまったのだった。
◇◇◇
「全く──気が狂ったのかと思ったぞ」
アンジェがドン引きした目で俺に言う。
うう、穴があったら入りたい。
ってか、いっそ誰か俺を殺してくれ!
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!もうこんな世界嫌だあああ!こんな人生嫌だあああ!来世は日本で平穏無事なモブライフを送らせてくれええええええ!!」
俺のこの叫びは通りがかりのリビアとアンジェにバッチリ聞かれていた。
くそ。よりにもよってこの二人に聞かれるとは!不覚だ。一生の不覚だ!
『後先考えずに衝動的に行動し、激情をほとばしらせた結果、しっぺ返しを食らう。いつものマスターですね。抱腹絶倒もののギャグ体質です』
人の不幸を嘲笑うとか、底意地悪すぎだろこの人工知能!
「えっと、リオンさん、偉くなって嬉しくないんですか?」
リビア、やめてくれ。俺に何を期待しているんだ。
俺はただの引きこもりたいモブだぞ。
「偉くなればその分負担も増えるんだよ。俺にはそんな負担背負えないよ!」
この二人の前ではこんな愚痴言いたくはなかったのだが、バレてしまったのは仕方ない。
この際、少し俺から距離を取ってもらおう。
今までこの二人と親しくし過ぎた。
どう足掻いたってリビアは平民で将来は聖女様、アンジェは公爵令嬢で俺と結ばれることは決してない。
俺は俺の身の丈にあった相手を早く見つけなければならない。
──憂鬱な婚活がまた始まるな。
次のお茶会には誰を招待しようか──
俺は洗いざらい白状した。
本気で出世したくないこと、高度な政治判断など抜きにして俺が出世しないために功績を押し付けたこと、学園を卒業したら貯めた銭コアで領地に引きこもってのんびり暮らしたいと思ってること──そして出世すると余計に婚活やら貢献やら何やらがキツくなることへの愚痴。
出来るだけ情けないヤツに見えるよう演技したつもりだった。
今まで俺に抱いてきたであろう幻想を全部ぶち壊す気で。
「リオン──」
アンジェが何か言おうとする。
あまりダメージのない言葉だといいけど。
「ありがとう」
ん?聞き間違いか?
「え?あり──がとう?えっ?」
予想外の答えに狼狽する俺に苦笑しつつもアンジェは優しい表情で言った。
「決闘の時、代理人に名乗り出てくれてありがとう。──私と一緒にいてくれてありがとう。あの時間は楽しかったぞ」
──やめてくれよ。未練が残っちまうだろうが。
「だから──お前はもう一人で我慢するな。自分の望みに正直に生きろ。望まない出世をすることも、余裕がないまま私たちと時間を過ごすことも──負担になるというならやめていいんだ」
──なんでだよ。
なんで前世も含めれば四十年近くも生きてる俺が十六歳の女の子に諭されてるんだよ。
「わ、私も、リオンさんといられてよかったです!あの時──最初にお茶会に誘ってくれた時、すごく嬉しくて、ほっとしたんです」
リビアの純粋な声が刺さる。
「私には何もないのに、純粋な厚意で助けてくれて、お金もかかるのにお茶会に招いてくれて、私には何もお返しができなくて、それでもリオンさんは笑顔でした。だから私、リオンさんにはずっと笑っていて欲しいんです」
──なんだよ。なんで二人とも、そんなに俺に優しいんだよ。
俺は泣いた。
モブに厳しいこの世界でこんなに優しくされたのは初めてで、あんな情けない振る舞いを見せても軽蔑の目を向けてこなかった二人が尊すぎて──
そしてそんな二人と結ばれないのが悲しくて、悔しくて、泣いた。
リオンがリビアへの処方として「冷却期間」を選択したこと、及び──────が───────────ことで分岐した世界線