大学を早引けした。幸い、バイトの予定は入っていない。全く、我ながらそわそわしすぎだ。まるで報告を心待ちにする夫の気持ち。
出産予定日を三日ほど過ぎたわけだが、昨日の電話によると、特段心配すべき事は起きていないとのことだった。この私が、親の農地を継ぐ約束までして両親から金を無心したのだから、トラブルがあっては困るのだが。まったく、土地だけ買って他人任せにするから、年を取ってから後継者に悩む羽目になるのだ。
しかし、医大の研究チームが彼女に興味を持ってくれたのは幸いだった。全部保険適用外だったら、天文学的な金額がかかる筈だったのだが、最先端医療に掛る国の助成金がどうたらこうたらで、自己負担額はギリギリ工面できる範囲に収まったのだ。彼女自身は両親も既に亡く、天涯孤独の身だから、それでも到底支払える金額では無かったが。
机の上にある、薄っぺらい紙切れを眺める。借用書。そんなものはいらないと言ったのだが、彼女がどうしてもと言うから作成せざるを得なかった。まあ、キャシィが乱心して、子供をほっぽって逃げでもしない限りは、これを使う機会はないだろう。
婚姻届の件でも思ったが、当人らの気持ちよりこんなコピー用紙一枚の方が重要なのだから、本当に人間というのは面倒くさい生き物だと思う。純真なウマ娘達がこの世界のマジョリティであったなら、きっと全然違う社会を築き上げていたのだろう。歴史研究を通じて確信したが、ウマ娘が人間の上位種として君臨していないのは、単に彼女らが善良で、たまたま人類を愛していたからに過ぎないのだ。
ざらざらとした紙面を指でなぞり、嘆息する。私の名前の上に、子供っぽい文字の署名。『キャンペンガール』。アイドルみたいで嫌いと言っていた、愛しいキャシィの本名だ。
「こんなもので名前を並べたって、全然ロマンチックじゃないな」
独り言ちて、クリアファイルに紙切れを入れる。そのまま乱暴に机の奥に突っ込んだ。たぶん、二度と見返すことはないだろう。彼女が何かを言ってくるまでは。
地下鉄を乗り継いで、彼女の待つ病院へと向かう。連絡するまでは来なくて良いと言われているのだが、家に居ても何も手につかないので、これが今の自分の仕事だと言い聞かせるようにしていた。
暗い地下通路を車窓越しに見ながら、彼女の未来について考える。碌な職歴もない、アスリートの夢を諦めたばかりのシングルマザーが、一人で気楽に生きていけるほど、残念ながらこの社会は優しくないだろう。言いたいことは、もう決まっている。
家族として、一緒に暮らそう。
私たちで、生まれてきた子を育てよう。
田舎暮らしは、きっと子供のためにもなるだろう。エコー検査の結果は、ウマ娘の可能性が高いと示していたから。
駅を降りて、階段を上る。黴臭い地下道から、光の差す方へと向かう。そこは天国ではないが、きっと希望のある場所だ。そう思っていた。
「おい、何だあれ? 消防車?」
「火事だよ、火事! あれ医大の方じゃないのか?」
黒煙が、ビルの隙間からもうもうと立ち上っていた。
けたけましいサイレンの音。わいわいと騒ぐギャラリー達。いち早く事件を嗅ぎつけたであろう、テレビ局らしいヘリコプターの音もする。流れる雲。煙でくすんだ太陽の光。天国への階段。地獄とは神の不在―
「キャシィ!」
考える前に、体が前に飛び出していた。
通行人をかき分け、車道をまっすぐに突っ切る。車のクラクション。どうせ碌な速度で動いてないんだから気にするな。対向車線側の歩道に飛び乗る。つま先が小石に当たり、思わず転げそうになった。巫山戯やがって。ヒールなんか履いてくるんじゃなかった。
人間どもを躱して、さらにさらに進む。赤い光。地獄の業火。病院の、彼女のいるはずの入院棟は、炎に包まれていた。
「ちょっと、こら、あんた! 下がって、プリーズ、プリーズカムバック!」
ド下手な英語で、警察官の兄ちゃんが後ろから叫んでいる。『下がれ』くらい分かるよバカ野郎。無視して疾走する。
小学校の時、クラスメイトに凄くイヤな女子がいて、私はそいつの筆箱をぶっ壊してやった。キャシィは、私と一緒に逃げてくれた。堅いアスファルトの上を、こんな風に、必死に、私の手を掴んで。
「行かないで……」
私の叫びは、消防車のサイレンに掻き消された。
後ろから、腕尽くで押さえ込まれる。警察官の男。年配で、私よりも体格が良かった。
「家族か!? 落ち着け! 今救助に当たっているから!」
そんなことは知っている。知っているから、走ってきたんだ。
地面の熱い感触が、手から伝わってくる。眼から落ちた涙は、消防車からの放水に混じって、黒一色の景色の中へ消えていった。