「キャシィ、見える? あれが私たちの……日本一のウマ娘だよ」
ジャパンカップ、最後の決戦。スペは、世界最強と名高いウマ娘、ブロワイエに勝利した。キャシィの遺影を抱えたまま、私は泣いている。
サイレンススズカの劇的な復帰から、ほどなくして訪れた瞬間。『日本総大将』なんて大袈裟だと思っていたけれど、本当にあの子はやってくれた。全てを背負って走り抜いてくれた。自分の夢も、私やキャシィの夢も。
大歓声の中、私は最後列の席に居た。戦いの前に、あの子と会わなくて良かった。心からそう思う。こんなグチャグチャの顏、あの子には見せられないよ。キャシィ、貴方はずっと、私の手の中で笑っているけど。
「おめでとうございます。ティナさん」
刹那、誼譟の全てが場から消え去った。
止め処なく流れていた涙は、既に古井戸のように涸れていた。嘘だ。私の夢ではないのか? こんなことがあるはずがない。いや、有り得る。今や、『スペシャルウィーク』は日本一有名なウマ娘だ。考えてみれば、気付かぬはずがない。
「お久しぶりです。隣、失礼しますよ。……私のことを覚えておいでですか?」
忘れるものか、お前の顔を。思わずそう食って掛かりそうになる衝動を、腕に抱えたキャシィで抑えた。
年相応に老いてはいるが、彫りの深い端正な相貌と、ブロンドの髪。男らしくない内股。好色そうな口元。唯一、その瞳からは、嘗てのようなギラギラとした邪心は見受けられなかったけど。関係あるか。この男は、キャシィを捨てた、スペの生物学上の父なのだ。
「そう怖い顔をなさらないで下さい。今日はどうしても話したい事があって、貴方を探していたのですよ。てっきり関係者席においでかと思っていまして、発見が遅れたのですが」
「失礼ですけど、何のご用ですか? 私は貴方を知りませんし、貴方と話すことなどありませんが。しつこいと警察を呼びますよ」
可能な限り、冷たく突き放す言い方をする。くそったれが。キャシィが見てるんだぞ。ただでさえ、スペが物心つき始めた頃からは、努めて『良い母親』を演じていたのに。
目の前のアメリカ人は、菩薩のような笑みを湛えていた。何を笑っている? まさか。
「スペシャルウィーク。素晴らしいウマ娘です。私の夢見た以上の―」
「スペはあんたの娘じゃない!」
身を乗り出して、思わず大声を出してしまう。ただならぬ気配に、ギャラリーの何人かが気付いて、こちらを見やった。
絶対に認めない。法律上も、スペはこいつの娘じゃない。私たちの娘だ。今、あの子をこの男に会わせるわけにはいかない。何としてでも、私がここで阻止しなければ。
周囲の人々へ、『何でもないですよ』と言いつつ、微笑みかける男。何でもあるぞ。お前に言いたいことなら、何でもだ。目線を気にしたか、男は小声になった。
「申し訳ありませんでした。貴方が危惧するのは当然だ」
「解っているならとっとと帰ったら? 私の気が変わらないうちに」
「誓いましょう。私は今から、ここで独り言を述べます。言うだけ言ったら、客席出口から普通に退場致します。彼女には会いません。何なら見張ってくれていてもいい」
「そんなの信用できるか。ウイニングライブの後で、しれっと戻ってくる気だろう。警察に痴漢として突き出してやる。変質者め。たっぷり尋問されてくるがいいわ」
「悲しいですね。貴方にそこまで言われるのは。まあ、私のしたことを考えれば当然ですが。では、こう言いましょう。私が会いに来たのはスペシャルウィークではありません」
「ハッ、何それ? じゃあ、私に会いに来たと? キャシィの名前を出したらブン殴るぞ」
「違います、ティナさん。私は、サイレンススズカの父親なのです」
視界がぶれて、景色が歪む。
男の瞳が、あのエメラルドグリーンとダブって見えた。彼女の顔を見たときの、奇妙な既視感。あの、不快な嫉妬心。バラバラだった糸が、私の中で一つの像を結んでいた。
振り向いて、スペの方を見る。スペは、スタンド前で誰かと話している。チームメイト。緑のメンコ。二人とも、泣いている。かつての私とキャシィのように、強く抱きしめ合いながら。
「信じて頂けるなら、このまま話しましょう。信じないなら、警察に電話して下さい。ご心配なく。叩いても何も出ませんので」
「…………説明しろ」
男は、にこやかな笑顔を見せた。純真な子供を思わせる、不可思議な諧謔と愛嬌。キャシィは、自分で言うほどバカな女じゃない。彼女が何故、この男にああも狂わされたのか、少し理解できた気がした。
私にじっと睨まれるのをどう感じているやら、男はあくまでマイペースに、空を見上げつつ、蕩々と語り始めた。眼は遠くを見ている。私は先ほど初対面したばかりだが、あの栗毛の少女には、確かに父の面影があった。悲しいほど母に似ている、スペとは違って。
「私はアメリカで、とあるウマ娘の子として生まれました。上は姉ばかり、皆ウマ娘で、私は末の息子でした。『サイレンススズカ』は、母の名前の一部を受け継いでいます。貴方ならそうしたケースについてお詳しいでしょう?」
次々と新事実を投げ込まれて、脳が混乱する。確かに、血統的子孫が名前の一部を受け継ぐケースはままある。その事実が意味するところは即ち、『血統』を作るほどの名バの子孫と言うこと。そして、男の年齢からして、思い当たるウマ娘はただ一人しかいない。『唯一抜きん出て並ぶ者無し』。かの地で『エクリプス賞』の栄冠を掴んだ、伝説的な女傑である。
ふっ、と男が息を吐く。その笑いには、少々自虐的なニュアンスが見られた。
「誰もが羨むお坊ちゃんだと思いますかね? でも、私にとって、家庭は地獄でした。母は暴君として全てを支配し、許可無くしてはテレビを見ることさえ許されませんでした。
優秀な姉たちにバカにされながら、私は順調に鬱屈した男へと成長していきました。決定的な事件は20歳の時、母に宛がわれた婚約者に、只のヒトである事をひどく侮辱された時に起きました。私は相手の腕に噛みつき、したたかに蹴りの反撃を喰らうと、気付いたときには病院で、母には勘当されていました。行く当てのない私は、逃げるように日本へと渡り、猛勉強して日本語を覚え、さも『本場で学んだエリート』という顔をして、北海道トレセンに転職しました。
トレセンでは、ただのトレーナーを演じていました。でも、将来有望なウマ娘を育てる身でありながら、私は心の底で彼女たちを憎んでいました。自分を故国から追放した、母と、ウマ娘達のことを」
「……それで? あんたの身の上話に興味は無いんだけど。それとキャシィを捨てたことに何の関係があるんだよ」
「いえ、関係はあるのです。母は、何よりも自分の血を後世に残すことに拘っていました。優秀なウマ娘と私を番わせることは、彼女の後生の目標でした。でも、私は勘当されてしまった。
思ったのです。私が日本で優秀なウマ娘と結婚し、母の力を受け継ぐ名バを育てれば、母への究極の復讐になると」
変わらぬ笑みを浮かべて語る男に、私は背筋の寒くなる思いがした。ウマ娘のタブー、血統主義。この男は、生まれた時からその呪縛に取り憑かれていたのだ。しかし、それにしては解せないことがある。
「なるほどね。十代の子達相手にそんなことを。やっぱり変質者じゃねえか。でも、おかしいじゃない。何故キャシィを? あの子は自他共に認める―」
「彼女は『落ちこぼれ』ではありませんよ。少なくとも、その血はね」
「……何ですって?」
「トレセン学園はね、入学させる前に、ちゃんと調べているんです。その子の『血統的背景』を。今後も公にはされないでしょう、闇の部分ですが。
貴方も、思い当たる節がありませんか? スペシャルウィークは、途中編入だったのでしょう? トレセンの経験も無い、地方出身のウマ娘が、実技試験だけで中央に合格するなんて、普通は有り得ませんよ。
可能性は二つ。今人気のハルウララのように、競走能力以外の魅力を見いだされたケース。批判もありますが、トレセンの主たる収入源はアイドルグッズとライブ楽曲の版権料です。そしてもう一つは、図抜けて優秀な血統的背景があるケース。
ついでに言いますと、私が見る限り、あの子にアイドルの才能があるとは思えませんでしたが」
思わず、男から視線を逸らす。ちっ。何を言ってきても言い返すつもりだったのに、二の句が継げなかった。
確かに、疑問ではあったのだ。私が願書を書いたのは、スペの体がいよいよ出来上がってきたことと、たまたまその時期に退学者が多く、寮にも空きが出来るというニュースを見たからだが。それにしても、相手は超名門校。ああもすんなり途中編入が許されるとは思えず、念のため北海道トレセンにも願書を出していたのだ。スペが知ったらがっかりするから、黙っていたけれど。
「トレセンにいた私は、生徒達の個人情報にアクセスできる立場にありました。調べる中で、ついに見つけたのです。神バと謳われたウマ娘、シラオキの血を継ぐ少女を」
男の眼が一瞬、往時の歪んだ輝きを取り戻した気がした。
「……バカな。あり得ない。キャシィは天涯孤独。祖父母は亡くなっていて、父親は幼い頃に離婚した。だから、お母さん一人に育てられた。間違っても、良家のお嬢様なんかじゃない」
「そして、その母もトレセン在学中に病死。彼女は残された遺産を頼りに生活していましたね。しかし、最も巨大な『遺産』は、金などではありません。母の血です。無理もないことでしょう。彼女の血統は、数十年前に消滅したはずの傍流で、彼女の母も知らなかった事実のようですから」
多くの傑出したウマ娘の母であり、莫大な富を築いたことから、『シラオキ様』と呼ばれ、一部ウマ娘の間では信仰対象にすらなっている、神の仔。その血が、キャシィと、その娘の中に―
「違う」
「?」
「スペの才能はスペのものだ。あんたや、あんたの母親……まして、シラオキのものじゃない」
「ええ、そうでしょうね。実際―貴方が怖いので名前は言いませんが、彼女もアスリートとして優秀とは言い難かった。怪我がなくても、大成はしなかったでしょう。残念ですが」
「あんたに出会ってさえいなきゃ、それでも幸せだったろうさ。普通の女として」
「ええ、そうでしょうね。あの時の私は狂っていた。貴方から見れば、今もそうかもしれません。私は在学中から彼女に目を付けていました。そして、退学を狙ってアプローチを仕掛けたのです」
「本当にイカレてるよ。このドブ野郎が」
「今更言い訳のしようもないですが、あえて言い訳を述べましょう。もしも、子を成すことが彼女の意に反するなら、私は結婚を諦めるつもりでした。野心のためとはいえ、性犯罪者に成り下がる気はありませんでしたから。でも、彼女は私にこう言いました。『結婚を前提に付き合ってくれ』と―」
「やめろ!」
思わず叫び、キャシィの写真を地面に落とす。反転して、彼女の笑顔が見えなくなった。畜生。畜生。なんでこうなっちまうんだよ。キャシィに会わせる顔がない。
なんとなく、分かってはいたんだ。全てをこの男のせいにして、見ないフリをしていた。彼女がああも頑なに、スペを産むことに拘った理由を。
眼から大粒の水滴が落ちて、木製の額裏に焦茶の染みを作った。必死に止めようとするが、制御できない。嗚咽が漏れてしまう。こんな奴の前で。
「すみません。責めるつもりは無かったのです」
どれくらいの時間が経っただろう。男は、私の方を見ずに、ずっと再開のタイミングを待っていたようだ。
ギャラリーは、ウイニングライブ会場に移動したためか、大分周囲から引き始めている。遠目にひそひそと囁く声。大方、男女の痴話喧嘩とでも見られているのだろう。クッ、と自嘲の笑いが漏れる。その見方はある意味正しいよ。
「責めるつもりじゃない? じゃあ何だ? 私を笑いに来たのか」
「いえ。知る権利があると思ったのです。貴方はスペシャルウィークの母なのですから」
濡れた頬を拭い、ターフを見る。キャシィが愛した、緑の芝。スペは既に、仲間達と一緒にライブの準備に向かったようだ。戦いの後で、係員やマスコミがせわしなく移動している。
私は、落としたキャシィを拾い上げ、もう一度腕の中に抱えた。
「間違ってる」
「?」
「スペの母親は……キャシィと、私だ。彼女の存在を都合良く消すな」
今頃スペは、愛する級友達や、スズカと勝利の歓びを分かち合っているのだろう。スペが生まれなければ、私もキャシィも、ただの運の悪い女だった。スペの命を守ったのは、キャシィであって、私ではない。
「申し訳ありません。しかし、ならば尚更知る権利はあるでしょう。
あの日、検査を受けた後―私は身勝手にも、一人で悲嘆に暮れていました。これは罰だと思ったのです。偉大な母に逆らおうとした、私への罰だと。だから、彼女には迷わず『産まないように』と言いました。そこからの展開は、貴方の知っているとおりです」
「ああ、あんたへの神罰だよ。それだけは同感だ。でも、代わりに罰を受けたのはキャシィだった」
「これだけは信じて欲しいのですが……まさか、産むとは思わなかったのです。医師から知らされた内容は、恐らく、貴方が聞いているよりも残酷なものでした。あれを聞いて、こんな男の子供を、未だに……少し、理解できないところもあります」
そう言って、下を向いてしまう。何とも卑小で、哀れな男。結局、この男は『ウマ娘』という生物を、キャシィを何一つ理解できなかったのだ。確かに男の母も罪深いが、それにしても愚かと言う他ない。怒りを通り越して、呆れの気持ちが湧いてくる。
「彼女を捨てた私は、もうトレセンには居られませんでした。貴方は知らなくて当然ですが、北海道トレセンの内部で、私と彼女の仲は周知の事実となっていたのです。ウマ娘達からは口を窮めて罵られ、センター長からは自主退職を勧められました」
「当然の報いだな」
「ええ。職を失った私は、また逃げ出しました。東京に引っ越し、小さなウマ娘向けトレーニングジムのコーチとして転がり込みました。そこで、今の妻と出会ったのです」
私の中に、ふとした疑念。時系列がおかしい。スズカは確か、スペより一年早く、トゥインクル・シリーズを走っていたはずだ。
「あんた、まさか」
「途方に暮れていた私を、妻は何も言わずに愛してくれました。本当に頭が上がりませんでしたよ。もう、血のことなんかどうでもよかった。妻が、望みさえすれば。妊娠したと分かったときは、お義父さんに危うく殺されそうになりましたが」
「……一周回って尊敬するわ。学年が上なのはそういうことか」
「トレセンの学年は実年齢ではなく、キャリアに準拠しますからね。皮肉なことに、あの子は母の若い頃によく似ていた。名前を受け継いだくらいですから、当然なのでしょうが。
私はスズカを野山に連れ出し、ウマ娘として生きること、走ることの楽しさを教え込みました。トップ選手になれなくてもいい。第二の母にならなくてもいい。ただ、全力で自分の好きな走りを出来るようになって欲しかったのです。
トレセンに合格する頃、妻は病で早世してしまいましたが、あの子は悲しみをバネに、有望な選手として入学後即チーム・リギルに入りました。スペシャルウィークよりも、キャリアが一年上なのはそのためです。結局、トレーナーの指導方針と合わず、成績が下降したので、私はチーム替えを勧めましたが」
「正直に言いなさい。いつから気付いてた? スペのこと」
「最初からです。打ち解けてすぐに、スズカは写真を送ってくれました。ルームメイトで、北海道出身の子だと。娘と並ぶ、彼女と瓜二つの顔。私にとっては、まるで恐怖映画のワンシーンのようでしたよ。
私は、妻の助力で、自ら生み出した呪いを振り解いたつもりでいました。母の名を継ぐウマ娘を育て上げ、走ることを何よりも愛する少女として、トレセン学園に合格させたからです。しかし今、その娘の眼前に、彼女の遺したウマ娘が立ちはだかっている。母の血とシラオキの血、その二つを継ぐ、究極の
私はスズカに言いました。『友情を育むのは大いに結構。ただし、絶対にスペシャルウィークに負けるな』と。娘は懸命に私の呪いを解こうとしましたが、結局その頑張りが、最悪の結果を齎しました」
「……何でも血のせいにするのはあんたの悪癖でしょう。あれは不幸な事故だった」
「そうとも言えないんです。左足の骨折は、母の選手生命を絶った怪我でもありました。母と私は生まれつき、若干左足の方が長かった。ですから、重心を体の中央とした場合、左側の負担が僅かに大きくなるのです。スズカはそのストレスを、左向きにくるくると回ることで解消していましたが」
悪夢的なあの場面。神速と謳われたスズカの左足が、よろよろと速度を落としていった。私は男の足を見た。思い出した。嫌いだったんだよ、この内股が。
「私はあの瞬間、全ては終わったと思いました。スズカの夢が、私の呪いに絶たれてしまった。せめて、命だけは助かって欲しい、と。
客席から身を乗り出した時に、ターフを駆け抜ける貴方の娘を見るまでは」
鮮烈に覚えている。レースの終了直後、マスコミのカメラが慌ててスペをクローズアップした。あの子は、ターフの上を飛んでいた。まるで、神に遣わされた天使のように。
男の頬には、一筋の涙が流れていた。
「……すみません。後で医師に言われました。放置すれば、復帰はおろか、まず命は助からなかっただろうと。スズカは、私は、救われたのです。貴方と……キャシィの娘に」
≪来場のお客様へご案内致します。ウイニングライブは30分後に開始予定です。チケットをお持ちのお客様は、お手数ですが、係員の指示に従って―≫
ライブ予告のアナウンスが入り、多くのファン達が座席から去って行く。スペは、多くの人々から愛されるウマ娘に成長した。きっと、これからもそうだろう。
「当たり前だ。スペは、スズカちゃんを。キャシィは……あんたを愛してた。誰よりも、何よりも深く。あんたや私の気持ちと関係無しに」
手元の写真がまた濡れたことで、私も泣いている事に気付いた。勘弁してよ、キャシィ。あいつと一緒に私を泣かせるのは。
男も、なかなか涙が止まらないらしい。掠れた声で、再び話し始める。
「ようやく、理解できた気がするんです。私は結局、ただのエゴイストだった。貴方やキャシィとは違う」
「バカ野郎。アスリートの親なんて、筋金入りのエゴイストと相場が決まってるんだよ。私もそうさ。スペに勝手な夢を託し、そして、あの子はそれを乗り越えた。あんたの娘と一緒にね」
「ええ。私が始めた物語は、今日でようやく幕引きになりました。ここからは、誰も知らないあの子達の明日が始まる。沈黙の日曜日は終わったのです」
言い終えると、男はすっと立ち上がった。深緑の目線は、再び遠い空を見上げている。憑き物が落ちたような表情だった。まったく、腹が立つ。私は牧師じゃねえんだぞ。
「勝手に終わらせんな。スズカちゃんを支える責任はあんたにあるわよ。死ぬまでね」
「勿論。娘は私の生きがいですから。今度、トレセンの資格試験を受験してみようかと思うんです。果たしてロートルが通用するものか、まるで自信はありませんが」
「そう。頑張りな。でも、スペは絶対あんたのチームに入れないからね」
「私の目標は、スペシャルウィークをも越えるウマ娘の育成です。今のトレセンには、昔と違って多種多様な生徒がいる。サラブレッドだけが頂点に立つとは限りません」
そう言って、深々と頭を下げられる。私は思わず苦笑してしまった。
「あのねえ、あんたに謝られる覚えはないよ。あの世でキャシィに謝れるように、せいぜい善行を積みな」
「謝罪ではありません。感謝です。キャシィと貴方の娘を、素晴らしいウマ娘に育ててくれて、ありがとうございました」
男は顔を上げると、もう一度、ターフに向かって頭を下げた。電光掲示板には、まだスペの名前が表示されている。振り向いて、穏やかな笑み。私は何も言わず、去って行く男の背中を見ていた。
「好きになった理由は、何となく分かったよ、キャシィ。でも、私はやっぱりあいつが嫌いだ」
写真の中のキャシィは、女神のように微笑んだまま。もう、と嘆息する。あいつも私も、彼女の偉大さには一生手が届かないだろう。
人に愛されたいなら、まず人を愛すべきだ、と宗教家は言う。簡単に出来れば苦労はしないが、キャシィもスペも、人から愛される天性の何かを持っている。それはきっと、この二人が、人間達のことを愛しているから。
「さて、行こっか。娘の晴れ舞台を最後まで見とどけなきゃ、母親失格だ」
私はキャシィを連れて、ウイニングライブの会場に向かう。雨も風も雲も闇もない空はどこまでも限りなく青く、鳥たちが光に乗って自由に泳ぎ回っていた。