天気の良いある日の、穏やかな昼下がりだった。
黒髪にも見える栗毛を短髪に刈り揃えた小柄な少年が、地球の小さな町の片隅にある古い病院にやってきた。結わいた柔道着を肩にかけた少年の闊達な若さは、静かな病院に爽やかな活力を振りまいていく。
「アムロじいちゃん、来たぜ。ハヤトだよ」
少年は、窓際のベッドに横たわる小さな老人に声をかけた。
“ハヤト…? 馬鹿な…お前はダブリンで戦死したはずじゃあ…”
「またかよアムロじいちゃん…それは俺のひい爺ちゃんのハヤト・コバヤシ。おれはハヤト・コバヤシ4世…4代目だよ」
4代目ハヤト・コバヤシは手慣れた動きでカーテンの陰から丸椅子を引っ張り出し、どっかと腰を下ろした。横たわっているアムロはわずかに首を動かして、閉じたまま開くことのない瞳で眩しそうにハヤトの仕草を見つめていた。
“おお、そうだったなハヤト…ところで、フラウ・ボゥは元気か…?”
「だからそれはひい婆ちゃんだろ? ひい婆ちゃんなんてもうとっくにさぁ…まぁいいや、アムロじいちゃん100歳超えてるんだもんな、ボケても来るよな…」
“それにしてもハヤト…お前はいつまでたってもサイド7に居た頃のままだのう…”
ハヤトは人差し指で鼻の横を搔きながら、少し考えるように天井を見つめた。
「今おれ、15歳だからな。おれ、その頃のひい爺ちゃんによく似てるらしいよ。写真見て自分でもびっくりしたしな。…15歳ってさ、アムロじいちゃんやひい爺ちゃんが初めて戦争した時の齢なんだろ?」
“ああ、そうじゃ…だが気をつけろよ、ハヤト。ハヤトの血筋は固太りしてくるからな。フラウと結婚した後のお前はどんどん太ってなぁ…よく食べるのもいいが、よく運動するんじゃぞ…”
「じいちゃん、もう何言ってんのかわかんねえよ。それより、今地球は大変なんだぜ。もうすぐコロニーが落っこちてくるんだぜ」
ハヤトはアムロの枕元にあるフルーツバスケットに手を伸ばし、オレンジを一つ手に取った。
“なんだと! シャアの奴、性懲りもなくまたそんなことを…!”
「違うって。シャアって言うのは…アレだろ、何とかっていう小惑星を地球に落とそうとしたとんでもねえ奴なんだろ。コロニー落としたのはホラ…あれだよ、何だっけな、イオンとかキオンとかそんな名前のヤツ」
“じおん…そう、そうじゃ、ジオン公国じゃ”
「でもよ、今度のはコロニー落としじゃないんだぜ。スペースコロニーでもって大気圏突入して、地球に降りてこようとしてるらしいぜ」
“…何を寝ぼけたことを…”
「本当だよ。なんか、一億人ぐらいの人間がスペースコロニーで地球に落りてきて、そいつら、これからそのまんま地球で生きていくつもりらしいぜ」
“馬鹿な…スペースノイドが宇宙を捨てるというのか?”
「なんか、宇宙じゃもう食っていけないらしいぜ。宇宙世紀っていうのはもうすぐ終わっちまうなんて言ってる奴らもけっこういるしさ」
“なんてことじゃ…人は刻を見て、やがては時間さえも自由にすることができるようになるはずなのじゃ。地球を離れて、やがては星々の彼方まで命を広げて…”
「でもよ、じいちゃん。腹減っちまったら何にも出来ねえじゃん。やっぱりさあ、人間はみんな地球が好きなんだよ。だってさ、スペースノイドだってアースノイドだって、ニュータイプだってオールドタイプだって、おれたちみんな地球人じゃん」
言いながらハヤトは、剥いたオレンジの房を口に放り込んだ。
「…まぁ、でもな、アムロじいちゃんなんかは宇宙にいたおかげでこうやって心で話ができるようになったんだろ。それは悪くないよ。悪くないよな。…でもさ、便利かなとは思うけどさ、そんな力、なきゃあないでも何とかなるって思わねえ?」
“…そうなのか?”
ハヤトの頭の中に、きょとんとしたアムロの声が響いた。
「じいちゃんみたいに口が利けない人にはもちろん便利だろうけどさ、そんな力があったってそれで人間同士がすぐわかりあえるわけじゃないだろ? だったら柔道の方がさ、戦った相手のことよっぽどよくわかるようになるぜ?」
“…そう、なのか?”
「おれはそうだと思うぜ。…大体みんなさぁ、難しいこと考えすぎなんだよ。人と人がわかりあえないのなんて当たり前なんだからさ、なんていうのかな…みんなもっとさ、身体動かして、汗かいて、それで話し合えばいいんだよ。それで一緒に飯でも食えばさ、大抵のことは解決すると思うぜ、おれ」
窓の外から一筋の風が吹いた。
“…そうか…そうかもしれないな…”
アムロは何故か、笑いが込み上げてきた。
ハヤトの口にしていることは若さゆえの青臭さだとアムロは思う。だがアムロは、半世紀…いや、過去の自分に戻り、人生を繰り返して生きた数百年以上の間、頭の中にずっとあった曇天に思いもよらぬ一条の光が差しこんだような気がした。ハヤトの言葉はこれまでの永かった自分の人生の根本を否定しかねない考えのようにも思えたが、それ故に、アムロは自身の肩の力がふっと抜けていくような解放感を感じたのだ。
“そうか…革命はインテリが始めるものだが、わしもそのインテリにかぶれてしまっていたのかもしれないな…”
病室の中に、爽やかな風がまたふっと流れていった。
ハヤトはバスケットから真っ赤な林檎を一つ、手に取った。シャツの袖でこしこしと拭いてから、がぶりと歯を立てる。瑞々しい甘さがハヤトの口蓋に溢れていった。
「ところでさぁアムロじいちゃん、昔、シャアってやつが地球に隕石落とそうとした時さぁ、誰がそれを防いだの? シャアって、アムロじいちゃんの敵だったんだろ?」
アムロからの返事の思念がないことに、ハヤトはリンゴ半分をかじり終えるまで気がつかなかった。ふとベッドのアムロに目をやると、相変わらずアムロは静かに横になっている。
「なんだよ。アムロじいちゃん、眠っちまったのかよ…しょうがねえなあ」
ハヤトは優しい陽光と静かな風が差し込む窓の外に目を向けた。レースのカーテンがわずかに揺れていて、その向こうには木々と空と緑の風が広がっている。
アムロ・レイは、その後、目を覚ますことはなかった。
――――――◇ー◇ー◇――――――
……
…
固く冷たいその空間は…此処は礼拝堂なのだろうか。
無機質で広い空間の中で静かに、ほのかに指し示す光がとある物体を照らしていた。
小さな手が操作パネルに触れることを繰り返し、光の下にある冷凍睡眠カプセルは今、中に眠る主を解放した。
アムロ・レイは冷たい眠りから少しずつ意識を覚醒させていく。
身体を動かしてみて、その重力のかかり方から此処が月であることをアムロは察知した。ゆっくりと、上半身を起こしてみる。
「おはよう。黒歴史から来た人。名前はなんていうの?」
傍らに目を向けると、端正な顔をした少女…いや、幼女が静かに、しかし好奇心を隠し切れないキラキラした眼差しでアムロを見つめていた。かつて見たその眼差しを思い出し、アムロは自分の置かれている状況を思い出していた。
「…アムロだ。アムロ・レイ…それが俺の名前だ」
「わたしはディアナ・ソレル。月の世界の女王なの。あなたはどんな人なの?」
「…時のさすらい人、とでもいうのかな」
自嘲するアムロに、ディアナ・ソレルはふぅん…とうなずいた。
「ねえアムロ、わたし、あなたにいろいろなお話を聞かなくてはいけないの。でもね、その前に…、わたしと遊ぼう?」
不安を隠しながら真摯な瞳で自分を見つめる少女に、アムロはゆっくりと、かつては作ることのできなかったできる限りの微笑みを作った。
「ああ。今度は君に最後まで付き合うよ。一緒に…これからの時間を過ごしていこう」
ディアナ・ソレルの顔に無邪気な喜びの光が差した。
かつてアムロは、この少女と数百年の時を共に過ごし、やがて袂を分かって星の海へ旅立ち、そこで命を終わらせた。
だが、最後に別れた時の彼女の静かな哀しい瞳を、アムロは忘れることができなかった。
だから、アムロはもう一度、此処へやってきた。
自分と同じく、永い時をさすらう月の女王のために。
だが、アムロ・レイとディアナ・ソレルの物語は、語られることのないまた別の物語である。