雅美は背中一面に柔らかい感触を、肌に日光を感じながら目を覚ました。視線の先の白い天井には、丸いライトが一つ吊りさがってぶらぶらと揺れている。ベッドから身体を起こして、脇のキャビネット上に置かれた時計を見る。時刻は午前七時を少し過ぎていた。すぐ側には、昨日のうちに用意しておいた私服がある。身につけていた淡い緑色の寝間着から、その私服に着替える。といっても下はグレーのジャージ、上は何の変哲もない薄青のシャツだが。
身だしなみが整えば次は朝食だ。普段より家の中が静かだと思いながら、一階のリビングに繋がる階段を降りていく。少し古くなった木造のそれがぎしぎしと音を立てる。そうして降りた先にはいつものリビングがある。角の丸まった四角いダイニングテーブルとそれを囲む四つのチェアが、その中央に据えられていた。そして、テーブルの上には茶の入った水差し一つと、二つ分のガラス製のコップが見える。水差しに入っているのは麦茶だとすぐに分かった。特にこだわりがある訳でないのだが、この家では朝はよく冷えた麦茶を出す事が習慣になっていた。
そのうちの一つに先客が座っている。自分からは背を向けて、自室にあるものよりも遥かに大きいテレビの方を向いている。そこでは、大きなロケットが燃料を爆発させるように燃やし遥か空の向こう、宇宙まで飛んでいくニュースが流れていた。その様子を伝えるキャスターの声が、妙に力強い。やがて、ロケットは点になって消えた。そして、先客が自分の方へ体を向ける。
「よう、起きたか。まあ座れよ」
そこに座っていたのは、今の自分と全く同じ格好をした自分自身だった。ただ、彼の目つきは凛々しく口調は男らしい。そして、背もたれに身体を預け、不遜な態度を取っている。驚きは体の中を駆け巡るが、不思議な事にそれは表まで出てこない。促されるまま、雅美は椅子に座る。
「ここにはアイツらはいないの?」
「親父もお袋も、朝から仕事だよ。それぐらい知ってるだろ?」
呆れたような口調で彼は雅美の質問に答えた。いかにもわざとらしく。
そうだった。『世界が壊れる前』は、父は普通のサラリーマンだったし母は近所の保育園で保育士をやっていた。共働きで、朝食を一緒に取った事はあまりなかった。それ故に、たまに食事の時間が揃うと柄にもなく喜んでいた事を思い出す。
「……アナタはISが存在しない世界の、もう一人の後堂雅美」
自然と、自分の口から言葉が溢れた。ここは夢の中なのか、それともあの世なのか。何故こうして同じ姿の人間が相対しているのか、定かでない事は山程あったが、目の前の人間の正体については何故か確信があった。そして、もう一人の自分がにっこりと笑う。
「そうだ。十年と、ちょっとか。こうして顔を合わせるのは初めてだけど。実際に会うとまあ、お互い大きくなったもんだ」
「アナタは、ずっとアタシの事を見てきたの?」
「ストーカーじゃあるまいし朝から晩まで、て訳じゃないさ。ただ、お前と同じ時間を、少しずれた世界で過ごしてきたのは間違いないけどな」
そう言うと、彼は手元にあったコップを手に取り、水差しから茶を注ぎ一気に飲み干す。雅美は、『アイツら』がその様子を見たならきっと烈火の如くしかりつけていただろうと思った。そんな男らしい乱雑な所作はやめろ、と。そんな事など知る由も無く、彼は悠然とした態度で別のコップに同じように茶を注ぎ自分の方へと差し出す。それに触れると、氷のように冷えたグラスの表面に水滴が浮かび指先を濡らした。やがて、雫は重力に逆らうこと無く下に落ちていく。
「ごめんなさい。アナタの代わりに生きてきた時間は、何の意味も無かった。夢は終わってしまった。いくらでも、上手にやる方法はあったのに」
雅美は独り言のように言う。頭を何者かに押さえつけられた感触を覚え、目線はグラスの中の波を追い続けた。ここに来る直前の記憶を思い出す。やっと、自分の人生が始まるものだと夢見ていた。だが、些細な偶然の積み重ねと共にその夢はあっけなく終わってしまった。あの場に居た皆の行く末は気になったが、今になってはもう何の意味も持たないだろうと雅美は考える。
唐突に、朗らかな笑い声が耳に入ってきた。先程まで頭上にあったはずの感触は消え、顔を上げる。もう一人の自分が、歯を見せて笑っていた。
「さっき、テレビでロケットが宇宙へ飛んだ。何度目かはわからないけど、とにかく有人のロケットだ。火星へのテラフォーミング計画、平たくいえば火星で人が暮らせるようにしよう、っていうやつなんだけどな。それが今、進められているんだ。ニュースキャスターさんは『これが人類の大きな夢と希望の、その第一歩なのです!』なんて力強く実況していたよ」
彼は、先程までテレビで流れていた映像について話し始めた。
それは、自分の居た世界では起こり得ない出来事で、目を背けてしまう程に眩しいものに見えてしまった。
「素敵な夢ね。結局アタシが手に出来なかった、素敵な未来に進む夢」
それ故、逃げるように真っ黒なままのテレビ画面に視線を向ける。自分の姿が醜く湾曲して写り込み、目を細めてこちらを見ている。にわかに不快感が腹の底に生まれた。
「そんな事は無いさ。お前の中に『夢』はまだ続いている。『宇宙へ飛んだロケットは、まだ何処にも到着していない』」
そんな雅美の思考を、優しげな口調と共にもう一人の自分が否定する。同時に、テーブルの隅にあったリモコンを手に取りテレビの電源を入れる。いくつか操作を行い、薄暗い自分達を消し去る。ここに来る直前に流れていた映像が再び映し出された。空へと向かっていくロケットが見えた。
「アタシの夢は、アイツらに復讐する事。それだけよ。それだけが、アタシの中に残っていたもの」
雅美は、彼の言葉を受け怪訝そうな表情を浮かべる。彼の話し方に、悪意も善意も感じられなかった。ただ淡々と事実だけを述べているだけのようだった。だからこそ、戸惑いを覚えた。自分を見てきたと言うのに、自分がどんな思いでこの時間を過ごしてきたのか。それを理解していないのだろうか、と。
その一方で、もう一人の自分は穏やかに微笑みを浮かべていた。まるで、はじめからその反応を見せる事など分かりきっていたように。そして、彼は話を続ける。
「それは、『きっかけ』さ。お前の夢は、そこから始まって既に別のモノになっている。現実破れて、IS学園に行きそこから始まった夢。お前の心は確実に、そこへ向かっているんだ。『正しい夢』に進む方へ、な。
『自由に空を飛んでみたい』。そう言っていたじゃないか」
雅美は、たまらず口を噤んだ。彼の言った言葉。それは、橙子達との何気ない会話の中で発した言葉の一つで大した意味はなかった。ただ、その場のつなぎとして言ったに過ぎなかったはずだ。それが、いつの間にか自分の心が望んだ夢になっていたのだと彼は言う。到底信じられなかった。
しかし、同時にこうも思った。その時、自分はどんな表情で話をしていたのだろうか、と。その時から、自分は日々をどう過ごしていたのだろうか、と。そして、何故、復讐という『夢』を急いだのだろうか、と。
『夢』が終わった今、抜け殻になった頭の中には、その空間を埋めるように泡沫の思考が勝手に生まれては弾けて消える。何一つ留まり続けるものは無かった。ただ、その隙間から見えたものにくすぐられるような心地だけはあった。それらは、かつて自分の意思で、夢の為に忘れ去った日々に似ていた。いよいよ全てが破壊しつくされたと思っていた心の中に、思い出が残っていた事にこの時初めて気がついた。そして、二度と『それ』に会えなくなる事を思うと、突然今まで感じた事のない寂しさに襲われた。今までのように、夢の為に手放したいとは微塵も思わなかった。川村から手紙を預かった時、脅かされると考えた夢の本当の姿は、これだったのだろうか。確信は持てない。しかし、無意識に溢れていた言葉には、行動には、確かな真実があった。
「アタシは、裏切ってしまった」
いつの間にか、そんな事を呟いていた。もう一人の自分の耳には届いていないのか、反応は無い。
雅美の表情は浮かない。心が求めていたものは、自分がずっと夢見てきたものと明らかにズレていた。そのズレはいつの間にか自分でも抑え込めない程に大きくなっていた。その結果は果たしてどうなったか。夢に急かされた事で取った行動の末、行き先を失った暴力は容赦なく爆発した。テーブルの上で拳を、爪が食い込む程に強く握り締める。何が夢だ、と悔しくなった。それは、自分が初めて抱く反骨心だった。そして、ため息を一つ、怨嗟の代わりにこぼす。
「戻らなければいけないわね。このままいっそ、ありもしない思い出を抱きながら夢の中に溺れた方が楽なのかもしれない。他の何も見なくても良いから。でも、それだとアタシは『何処にも辿り着かない』。自分のやった事に、ちゃんと向き合わなくちゃ」
そう言いながら、雅美は壁掛けの古時計を見る。昔ながらの、大きめの振り子を下にぶら下げた時計は間もなく午前十時を指していた。グラスに入れられていた茶は、すっかり温くなっていた。それを片手で持ち、堂々と一気に飲み干しもう一人の自分にお代わりを促す。彼は、待ってましたと言わんばかりの笑顔でグラスを受け取ると茶を注いだ。良く冷えた茶だ。初めと同じように、グラスの外側に水滴がつく。それすらも気にせず雅美は飲む。冷感が、喉元を過ぎる。
「少し遅い時間だけど、目を覚ました時はいつだって同じ言葉だな。『おはよう』」
「そう、ね。『おはよう』」
そして、二人はお互いに顔を合わせ冗談交じりに笑いながら随分と遅い朝の挨拶を交わす。
暗い影は身を潜め、毅然と雅美は立ち上がる。この家は、忘れ去ったはずの思い出の形をしている。迷う事は無かった。踵を返して、真っ直ぐ玄関へと向かう。何の変哲もない、丸いドアノブのついた、少しだけ塗料の剥げたドア。そして、人一人が通れる程度の上がり框。そこにはつま先の部分が少し傷んだ黒いスニーカーが一組。何一つ思い出と違わぬその形に、目を細めた。
そして、雅美はそのスニーカーを履く。ドアノブに手をかけながら振り返った。もう一人の自分は、笑っていた。自分の門出を祝福していた。そこに、幸せな日々だった頃の両親の姿を思い起こした。外へ出て、無事に帰ってくるだけで大喜びした、かつての『家族』を。
「さようなら、後堂さん」
雅美は、寂しそうに別れを告げる。ここへ戻って来る事は二度とない。幸福だけが存在する時間がやってくる事も、もう無い。しかし、これが正しい選択なのだと固く決意し、雅美は掌の中の『運命』を強く握りしめた。