雅美が再び目を覚ました時、そこは医務室のベッドの上だった。天井に丸いライトは無い。代わりに、埋め込み式の四角いライトが見える。上体を起こす。私服ではなくIS学園の制服のままだ。窓の外を見る。日は沈みきって、ただ暗闇があった。軽い衝撃と共にどさっ、と何かが胸元に落ちる音が聞こえた。そちらの方へ視線を向ける。橙子がしがみついていた。顔を自分の胸元に埋めて、怯えるように肩をひどく震せて。
「橙子さん。これじゃあアタシ、起き上がれないわ」
「……ヤダ」
そんな彼女の姿を見て、雅美は他にも言うべき言葉があったはずだと思いながらも困惑のみを伝える。だが、彼女は顔も上げず涙声で拒絶し、首を振った。彼女の額の熱が服ごしに伝わり、行き場を失った涙が雅美の上着を濡らしていく。
「もう二度と、絶対に、雅美君があんな怖い事やらないって約束してくれなきゃ、ヤダ」
室内にくぐもった橙子の声が響く。とうとう返答に詰まった雅美は、ふと橙子以外の気配を感じ顔をあげる。そこには簪を始めとし、格納庫に居た面々がそのまま揃っていた。皆、その面持ちは安堵とも困惑とも取れるような表情を浮かべている。
「……雅美君。その、どこか、痛いところは無い?」
「おでこのあたりがじんじんする。ああ、手当してくれたのね」
簪が顔を強張らせたまま身体の具合を尋ねてきた。額に違和感を覚え、指先を当てるとそこには消毒液の香りのするガーゼが貼られていた。軽く押すと、痛みが強くなる。
「出力は押さえたけど、人の意識を失わせる程の威力だったから。手荒な真似してごめんなさい」
奥に控えていた楯無が簪の側まで出てきた。そして、格納庫からここに運ばれるまでの経緯を話し始めた。曰く、橙子をラファールで殴打しかけたところを彼女の専用ISで攻撃、失神させたのだという。その後、川村と千冬の二人によって医務室に運び込まれ、日付を跨ぎ深夜になった今、ようやく目を覚ました。その間、簪と橙子の二人は意識を失い眠る自分の側から決して離れようとせず、また、『念の為に』と彼女自身と教師二人も医務室に待機していたという事だった。
「全部、アタシが招いた事ですから」
雅美は彼女の説明を黙って聞き、一言だけ応えた。そんな彼のあまりにも簡素な反応に楯無は苦笑する。
それから、雅美は未だ顔を上げないままの橙子の頭に手を乗せ、少しだけ撫でてやった。彼女の手が雅美の服をぎゅっと握り込む。雅美は、自分の心ごと握りしめられたような切なさを覚えた。かつては恐れていた、夢の後ろに隠した物を覗かれているような気分だったが、目を細めながらもそれを心の中に受け入れる。体の内側に小さな痛みが生まれるがすぐに消え、代わりに温かくなった。自然と言葉が、感情が溢れてくる。
「皆さん、本当にごめんなさい。アタシは、取り返しのつかない事をしてしまった。
あの時、橙子さんが非常レバーを壊した話をした時も。アタシは怒りで我を忘れていた訳じゃない。ただ、怒りを振り下ろす先を探していただけ。それで、橙子さんを狙ってしまった。生徒会長が止めてくれなければ、きっと今頃」
「もう、良いよ」
小さな拒絶と共に、橙子が顔を上げる。涙で顔はぐしゃぐしゃだったかが、表情は凛としその目は真っ直ぐに雅美を射抜いていた。
「雅美君があんな事をしたきっかけも、きっと、今はもう大した意味はないはず。だって、あの時の雅美君は本当に怖かった。でも、今はそうじゃない。どこか遠くにも行かない。だから、もう良いよ」
途中、何度も何度も涙を腕で拭いながら彼女は言う。雅美は、自分が言いかけた言葉を伝えるタイミングを完全に失い頭を振った。無理やり吐き出しても良かったが、それはかえって彼女を侮辱するように思えてしまった。
「でも、今のアタシには、絶対に守れる約束が出来るかどうか分からない。その代わりに、皆にアタシの話を聞いてほしいの。アタシが、あんな事をやろうと思った理由を。アタシの、夢の始まりの話を」
表情を陰らせながら、雅美は最初の橙子の言葉にようやく応えた。楯無と川村、そして千冬の表情が曇った。自分の事情を知っているなら当然の反応だ、と雅美は思う。しかし、橙子と簪にとっては別だ。贖罪にすらならないかも知れない。弁明と取られるかも知れない。それに対し少なくない恐怖を感じたが、それでも『自分の思い出の終わりと夢の始まり』を知って欲しかった。
「その前に、この手を取って」
そう言いながら、すっと自身の手を橙子と簪の方へ差し出す。橙子の視線が泳いだ。
「本当に、ろくでもない話なの。どうしようもないクズしか登場しない話。だからね、これ以上聞きたくないと思ったら、この手を離して。そうしたら、アタシはそれ以上話はしない」
彼の表情は悲しげに、しかし、それでも毅然としていた。彼がこれから話そうとする内容は、決して面白く楽しいものではない。素敵な未来に続く物語でもない。一人の少年の心が壊れていくだけのものだ。彼女達に聞いてもらいたいという感情は確かにあったが、一方で無理やり受け入れて欲しいとは思わなかった。雅美は、彼女達の意思を聞きたかった。
橙子の手と雅美の手が繋がる。そこに、何の躊躇いも感じられなかった。雅美が一度頷くと、空いていたもう片方の手にも人肌の暖かさを感じた。いつの間にかベッド脇の椅子に腰掛けていた簪の両の掌が、その手を取っていた。無言のままではあったが、橙子とは異なりその眼差しは鋭くも真摯だった。彼女達の意思の強さが、見て取れた。
自分の手を取った彼女達の掌の重さは僅かなものだ。しかし、ずしりと骨の髄まで響くような重さを感じた。ああ、良かった、と雅美は安堵する。きっと、この重みが自分を繋ぎ止めてくれるのだろうという確信があった。勇気が、生まれた。
「アタシの名前。雅美って、本当はね、『まさよし』って読むのよ。初めて自己紹介した時は、間違いだって言ったけれどもそれは嘘。
だから、アタシの本当の名前は『ごどう まさよし』。格好いいでしょう? ああ、でも今はもう『まさみ』で良いわ。この学園に来てから、ずっとそうだったから」
彼が最初に話したのは、彼の名前の本当の読み方。
これは恐らく教師陣さえも知らなかった事だろう。雅美がそう考える程に長い間その価値を失っていた名前だった。事実、簪が消え入りそうな声で「ごどう、まさよし」と繰り返すその肩越しに、川村と千冬の二人が驚いた表情でお互いの顔を見合わせ、楯無はというと広げた扇子で顔の下半分を多い視線を落としている。
「『ごどう まさよし』。この名前は、ISが世の中に出てから消えたわ。誰からも忘れ去られた。名前だけじゃなくて、アタシ自身も。それまでの思い出も、皆。
アタシの両親は取り立てて特別な事なんてない人達だった。毎日が平凡で、時々悪い事をしたら叱ってくれるような。だから、かしらね。ISなんていう『特別』が世に出た時、彼らはそれを信仰し始めた。あらゆる価値観が一変した。してしまった、と言った方が良いかしら。
それからはISを動かせる人間、女性を神聖視し始めた。父は母を盲信して、母は女性そのものを崇めた。でも、自分達の自慢の子供は男という性別である事と、それでも特別な存在であって欲しいという事が混ざった。大切な息子が本当に特別に成る為には、女性らしく生きるようにすれば良い、なんて考え始めた。
不思議なもので、親から突然女言葉を使うように言われても、女の子らしい仕草をするように教えられても、その時はすんなり受け入れられるものなのよ。でも、そこから先は別。会う人会う人、アタシに怖い視線を向けるようになった。その時は良く分からなかったけど、当然よね。突然、目の前に居る男の子が女の子の振る舞いを嬉々として始めたんだから。
学校でも、友達は皆離れていったわ。先生も心配そうに声をかけてくれたけど、家庭の事情だからってそこまで。アタシが『自分の奇妙さ』に気づく頃には、もう、一人ぼっちになっていた。その時の気持ちを相談する相手は親だけ。でも、彼らはそれが当たり前なのだとアタシにきつくあたった。その頃にはもう、彼らの中にはISしか無かったのね」
言い淀む事もなく雅美は自身の過去を語る。皆、唖然としていた。川村達のように彼の両親の手記を見た者にとっても、本人の生々しい体験、つまり、ただ親のいいつけを素直に守り続けていただけの彼の孤独は想像を絶するものがあった。
「でも、どうしてその頃に雅美君にIS適性検査をさせてもらえなかったの? その、それだけISに期待をしていたのに」
そんな中、恐る恐る橙子が尋ねる。雅美は、少し考えるとこう返した。
「その頃はまだ女性しか動かせなくて当たり前の風潮だったから、狂人の戯言だと思って誰からも相手にされなかったんじゃないかしら」
彼の返答に、川村は頷く。ISが女性にしか適合しない事は運用が始まってからすぐに知れ渡った。それが常識となっていた頃は、男性への適性検査など取り付く島も無く、誰も彼もそんな事を試そうとすらしていなかった。例えそれが、ISに対して心酔していた雅美の両親であっても。
川村はそう考えたが、雅美の次の言葉でその思考は斬られる事となる。
「でも、本当はね。彼らは『ISを信仰していながらも、ISに裏切られる事を心の底では恐れていたから、どうしても一線を超えられなかった』んだと思う。アタシにISの適性が無い事が裏付けられたら、それこそ今まで費やしてきた自分達の時間が無駄になってしまうから」
そう言いながら、雅美は天井を仰ぐ。彼は、両親の不甲斐なさに心底呆れているようだった。誰一人として、そんな彼の言葉を追求するものは居ない。
そして、彼は聴衆を一瞥すると意を決したように頷いた。
「中学に上がる頃になって、アタシの外見が男らしくなる頃には彼らはますます狂っていったわ。外見が間に合わないなら、せめて内面を、ってね。
『女として、男を悦ばせるやり方』って言ったら良いかしら? その時のアタシには、もう選択肢は無かった。学校で、家で。勉強をしている時間だけがアタシにとって中学生を出来た時間だったと言っても良いかも知れない」
橙子が小さな悲鳴を上げた。雅美の言わんとする事が何を意味するのか、それは彼女でも容易に想像がついた。口の中に強い酸味を感じ、おぞましい吐き気が腹の底から湧き上がる。手の力が抜けていくのを感じる。必死に歯を食いしばって手に力を込めた。簪と目が合う。彼女も自分と同じだった。この程度、平気だ。橙子は自分に、そう言い聞かせる。
雅美はそんな彼女達の様子を目を細めて見ていた。だが、痛い程に握りしめられた手を見やると再び話に戻った。
「それで、中学を卒業する間際になってようやく緊急適性検査が行われて、ようやくアタシにもISの適正がある事が分かった。そして、今はIS学園にいる」
彼の脳裏には、IS学園への転入が決まった日の夜の団らんが浮かんだ。テーブルを挟んで向かい合った彼らは涙を流して喜んでいた。それが、雅美が思い出す事のできる、最後の両親の記憶だった。団らんとは言ったが、その日の夕食はどうだったかとか、どんな会話があったかとかはもう思い出す事が出来ない。どこかに忘れてきてしまったらしい。ただ、暗闇の中に浮かぶ笑顔だけが残っている。そして、一度瞼を閉じその思い出を塵にした。彼らの笑顔は、砂のように崩れて、そして消える。別れを告げる気も起こらなかった。
「これで、アタシのこれまでの話は終わり」
心の中から何かがせり上がってくるものを感じ、雅美は結びの言葉を言う。拍手喝采がおこる筈もない。そして、最後まで聞き終えた簪と橙子の手が雅美の手から離れるような様子も微塵も無かった。
「川村先生、織斑先生。アタシにはこれから、どんな罰がありますか。無断で格納庫に入った事、ISを動かした事。そして、IS学園を脱走しようと試みた事。……この手で両親を殺害しようとした事。
正直、今にも逃げ出したいぐらいです。でも、それじゃあ駄目だって事、分かっていますから」
雅美の表情は、すっかりいつものような穏やかなものになっていた。ただ、その目は開かれ並々ならぬ覚悟を携えていた。簪のと橙子の視線が、川村達へと向けられる。二人共、瞳が震えている。彼女達の言わんとする事は、視線を向けられていた二人の教師にも痛い程に届いた。
そんな中にあって、千冬の口は真一文字を結び険しい顔つきをしていた。その表情は、雅美が己の過去を吐き出した時点からずっと変っていなかった。視線は真っ直ぐ雅美の方を向いているようだったが、その視線の行き着く先は、彼のもう少し後ろを見ているように見えた。やがて、一度視線を落とした後にその口を開いた。
「現時点で、後堂を罰する為の根拠は無申請のまま放課後のアリーナに入った事ぐらいだ。
ISを起動させた事はセキリュティメンテナンスの関係で履歴に残らず、橙子を攻撃した事も未然に防がれて証拠は残っていない。お前の考えていた事など、尚更だ。お前以外に証明できる人間など、居ないのだからな。
ああ、ISで後堂を気絶させる程攻撃した者については、別途罰を出さなければならない。それと、非常用レバーを壊して放置した挙げ句、偽装した者にも、だ」
それは立証不可を理由にした、事実上の不問。少なくとも今の雅美が望んでいたものでは無かった。それどころか、自身の過ちが、無関係の人間を今まさに巻き込もうとしているとさえ思えた。
「……それじゃあ、アタシの罪を誰が罰してくれるんですか。アタシは、取り返しのつかない事を。誰かが、何かがアタシを罰してくれないと!」
沸々と怒りがこみ上げてくる。叫びを上げると共にベッドから跳ね起きようとしたが、しっかりと握りしめられた両の手の重みが、本来大した重みでないはずのそれが、彼の反抗を許さなかった。
「雅美君。その罰は、きっとあなただけのものじゃない」
息を荒げる雅美に、川村は語りかける。
「あなたが目を覚ますまでの間、ずっと考えていたわ。あなたがこのまま目覚めなければ、私は無能な働き者である事を引きずる事になっていただろう、って。あなたを信じようとするあまり、あなたの心を理解してやれなかった。自分の想像していた、雅美君の姿を勝手に重ねていた。ごめんなさい」
そう言いながら、川村が雅美に向かって頭を下げた。腰から曲がり、深々と。彼女の髪の先が、だらりと床に向けられる。雅美は自分の怒りがごく自然なものだったと思う一方で、彼女にこんな事をさせているという事実に息苦しさを覚えてしまった。観念し、ベッドに体重を預ける。
「でも。それでも罰は必要よね。だから」
川村が顔を上げる。そして、前に垂れた髪に手櫛を入れた。彼女の目元は、赤くなっていた。
「雅美君は、これからは『ISを正しく使うという事』を学ぶ事。それが、罰よ」
しかしながらその声色は、普段の授業でよく聞くものに戻っていた。その言葉の後に、いつものように『安全第一』と聞こえてきそうな程に。
雅美の口から、ため息が漏れる。そして、胸の内に歓喜と悲哀がちょうど半分ずつ混ざった事でかえって不規則に体を震わせた。
「なんて、なんて酷い罰を。そんなの、『一生かかっても分からないまま』かも知れないじゃあないですか」
「ええ。だからこそ、これで良いの」
雅美は小さく笑う川村の顔を見て、彼女の言う罰の本当の姿をすぐに理解した。それでも、その表情は変わらず重い。何故、罰を与えられるべき自分をこうまでも庇おうとするのか。自分の思い描いていた未来を尽く越えてくるその献身が、彼を戸惑わせる。
「どうして、どうして皆。アタシに優しくするの? アタシなんかの為に。こんな、『気持ち悪くて、おかしな人』なんかの為に」
雅美の瞳に、暗い絶望が佇む。恐らく誰もが初めて彼の嘆きを、心の言葉を耳にした。
橙子が微笑んだ。そして、自分の両手で彼の頬を撫でた。彼と目が合う。指先に温かさはまだあった。しかし、それ以上に芯から冷えるような寒さを感じた。
橙子は、思い出す。学園の中庭で、自分が抱いていた形なき感情を『夢』と言ってくれた簪の優しさを。そして、それが自分の中に伝わるのを。橙子は、考える。今、自分の掌を通じて彼から伝わるものは、その時の自分の心と良く似ている。ならば、迷う事など何も無い。目には見えない、形の無いものを繋げていくだけ。簪から自分に伝わったように。今度は、自分から雅美へ。橙子は、確信する。それに名をつけるのならばやはり、『夢』が最も相応しい、と。
「……だって、雅美君はISに乗っている間だけじゃない。授業を受けている時も、ウチらと話をしている時も楽しそうにしていた。時々ぼんやりしているのも分かったけど、『その時だけは本当だ』と思った。『この人はきっと、正しい夢を持っているんだ』と思った。
大丈夫。この学園からの雅美君は、気持ち悪くも、おかしくなんかもないよ」
静寂が過ぎった。間もなく、雅美は張り詰めた糸が切れたように肩を下げてわんわんと泣き始めた。そこには、体だけが大きくなり、心が置いてけぼりになってしまった幼子が居た。
彼の中に、思い出と共に忘れていた感情が吹き上がる。頭を垂らして両手で顔を覆う。生温い雫が、指の隙間から小さい滝を作って落ちる。ひたすらに声を上げて泣いた。これまでに費やされてきた暗闇の時間を、完全に外へ洗い流そうと心が後押ししているようだった。肩を抱かれる感触を覚えた。顔をあげると、簪と橙子の顔があった。二人共、涙で顔が濡れている。それを見て益々悲しくなった。益々嬉しくなった。
簪はそんな彼の姿に、彼が長い間抱えていたモノがようやく消えていくのを感じとった。消えゆくそれは、自身や両親を歪ませてしまったモノに対する『意地』でもなく、彼が人生をやり直す為に作り上げた『希望』でもなく、二度と覆らぬ時間に対する『諦め』でもない。仄暗い運命の底に彼自身を抑え続けていた『呪縛』だと考えた。ようやく運命の底から這い上がった彼の前には今、どんな景色が広がっているのだろうか。それは、これまでと変わらず呪縛と地続きの景色なのかも知れないが、きっとその中に未来が映っていると思った。