簪はベッドの中でもぞもぞと身体を動かし枕元の時計を見る。午前中最後の授業の終わりに差し掛かる頃になっていた。雅美が医務室に運ばれた日の翌日となり、どうしようもない身体のだるさを感じた彼女は授業を一日休む事にした。立て続けの出来事を受け、すっかり精神的にも身体的にも参ってしまっていたのだ。
雅美はとうとう呪縛から開放された。そして、自分はこんな事をしている場合でないのは分かっていた。だが、脳裏にはずっと格納庫での姉との会話がちらつく。橙子を助ける為に雅美をISで攻撃し、気絶させるという行動は善処だったのは分かっていた。彼女の言うように「怪我人を出さないタイミング」はあの場面しか無かった。それに対して、自分は八つ当たりとも言うべき感情的な行動を取ってしまった。ようやく姉と向き合う事が出来たと思っていたのに、それを台無しにしてしまった。心の中に自ら壊してしまった日々がガラスの破片のように散らばったままになっていた。どうして、もっと上手にやれなかったのだろう。冷静になればなるほど、後悔ばかりが彼女の心に積もっていく。昨日までの、前に進んでいたはずの自分はありもしない思い出のようだった。
いよいよ悲しくなって、涙が目元に溜まった。それとほぼ同時に、ドアをノックする音が聞こえた。涙を指先で拭い、気怠げに身を起こす。ルームメイトが忘れ物でもしたのだろうか。足元をふらつかせながら歩き、簪はドアを開けた。
「お、おはよう簪ちゃん」
「……え?」
その向こうに、少し困ったように苦笑いをする楯無の姿があった。簪は思わず背を向けて扉を締める。心臓が止まりそうになり足から力が抜け、たまらずドアにもたれかかる。ついさっきまで姉とのやり取りを思い起こしていたのに、自分の中で彼女と会う事に対して何も備えていなかった事に今更気がついてしまった。
「あの、その。ごめんなさい。連絡もしないでいきなり来て。ねえ。少し、お話出来ないかしら」
扉の向こうから、楯無の声が聞こえた。囁くように小さく、穏やかな声だった。少なくとも、今しがた自分の取った行動に対して気が立っている様子はない。扉に背をつけたまま、簪はよろよろと立ち上がる。そして、歯を食いしばって踵を返す。もう一度、ドアを開けた。
「入って」
目も合わせられず俯いたまま招き入れる。すぐさま背を向けて、ベッドに腰を下ろした。楯無の方はと言うと、黙ったまま静かにドアを閉めベッドの側にあった椅子に腰を下ろす。よく見れば、彼女の右頬には大きめの白いガーゼが貼られていた。自分が殴りつけたところだった。
「ああ、これね。朝起きたら腫れちゃってて。化粧でごまかせるかなってやってみたんだけど能面みたいに白くなってね。
教室に入ったら大変だったわよ。普段こんな事しないものだからクラスの皆からひっきりなしに質問されて。『姉妹喧嘩でもしたの?』って。そうしたら、『一日ぐらい授業に出なくてもどうにか出来るんだから、さっさと仲直りしてきなさい』なんて散々怒られてとうとう追い出されちゃった」
「あ……お姉ちゃん、私。私は」
照れくさそうに話す楯無を見て、簪はとにかく言葉に詰まった。喉の奥、首の根元のあたりに痺れを覚えた。途端に口内から水分が失われていく。視界が霞む。さっきまではっきりと見えていた白いガーゼすらも、その形が溶け始める。
「ごめんなさい。私、自分の立場に逃げてしまった」
体のバランスを失いそうになった。そんな時、楯無の声が聞こえ、簪は彼女に正面から抱き止められた。彼女の鼓動の音が、簪の中に響く。自分のそれよりもずっと早く、大きく響く。
「あの時、簪ちゃんが雅美君の側を離れようとしなかった理由、何となくだけど分かっていたの。でも、簪ちゃんが傷つくような事は避けたいと思った。その代わり、誰かが傷つくだろうという事も分かっていた。結局、自分の意思で選ぶ事も出来ず、私は生徒会長という立場に逃げてしまった。それじゃあ、簪ちゃんが怒るのも無理ないよね。
医務室で雅美君の話を聞いている時でさえ、私は黙ってそこに居る事しか出来なかった。その場に居る資格すら無いと思って、逃げ出したかった。こんなに苦しくなるなら、いっそ自分の立場すら捨ててしまいたかった」
背中越しに彼女の手が弱々しく震えているのが伝わる。生徒会室で話をした時、茶葉の量の指摘をした時も自信なさげな表情を浮かべていたが、その比では無かった。姉が、自分よりもずっと小さいものに感じられた。
そして、簪の心の中、破片になった思い出達の隙間に気がつけば黒い水がじわりとが染み込む。その水は、今まさに思い出達を飲み込もうとしていた。
簪は瞼を閉じ、楯無を抱きしめる。自分の中に彼女を見返したいという気持ちが無かったと言えば嘘になる。だが、こんな姉を見たかったのではない。こんな結果の為に日々を過ごしてきた訳じゃない。どうか、この人を受け止めるだけの、ただそれだけの勇気が欲しい。簪は願った。
黒い水の流れが不意に止まった。バラバラになっていたと思いこんでいた思い出の幾つかのが連なったままであり、それらが流れをせき止めていた。簪は、その思い出達を覗き込む。それは、この学園に来てクラス代表になってからの、自身の非力さを嘆いたり、訓練の補佐をしたり、無我夢中でクラスメートの危機を救ったりした日々だった。そして、一人の少女の心を、『夢』と表現した思い出だった。それらは、一切砕かれる事無くずっと自分の心の中に残っていた。その事に気づくや否や、バラバラになっていたはずの思い出が自分のすぐ側に集まってくる。より強い結びつきと共に、大きな勇気になった。自分の背中を強く押した。
簪は、深く息を吸い込む。それから、楯無の背中をさすった。
「ありがとう。お姉ちゃんが居なかったら、橙子ちゃんは大怪我をして、織斑先生が雅美君を斬っていた。そうしたら、きっと誰も彼も傷ついていたと思う。体だけじゃなくて、きっと、心も」
姉は、更識楯無は、間違いなく自分達を助けてくれた。その事を、思い出をなぞるように正しく伝えた。自分でも驚く程に滑らかに言葉が出てきた。肩の力は抜け、リラックスしているのが分かった。
「ふ、ふふ。『ありがとう』か。不思議よね。短い言葉。一瞬の言葉なのに、目が覚めた気分」
楯無の笑いが溢れるのを聞いた。彼女に面と向かい合っている訳では無かったが、彼女の表情が穏やかになっているという確信があった。それは、彼女の言葉を聞いた簪にとっても同じだった。奇妙な事に、たった一夜の出来事でバラバラになっていた思い出は、今やたった一瞬の出来事でより強固に繋がっていた。
簪は、新しく集まったその思い出に、ずっと手にしていた古い思い出を付け足した。それは、思い出を一つ手放すという事でもあり、そして、日の当たる場所に差し出すという事でもあった。
「ねえ、お姉ちゃん。私ね、ヒーローが出てくるお話が好きなの。ヒーローは何の見返りも求めず困っている人達を助ける。凄く、素敵な事だと思う。でも、そういうのは現実ではありえないのかも知れない。そもそも、ヒーローなんていないのかも知れない。それでも、そういうのにずっと憧れていた」
簪は語る。自分の思い出を。こんな話をするのは自分でも珍しいと思った。姉は、この思い出など既に知っている事だろう。それでも伝えたかった。自分の意志で、彼女に話をしたくなった。それは、新しい思い出の始まりになると思ったから。
「私はあまりにも出来ない事が、届かない事が多いと思っていた。私は出しゃばらなくても良い、姉が居るのだから。なんて意気地になっていた時もあった。でも、ここに来てから私は少しだけ前に進んでいた。だから」
簪は一度話を止め、楯無から離れる。正面から抱き合っていた二人は離れ、お互いの顔を見る。気がつけば彼女達の両の掌は、互いに繋がっていた。ほんの少し、彼女達の頬が涙で濡れていた。
「私はヒーローではないけれど。それでも、夢見ているだけは嫌だ。私は、私の意地にかけて前に進んでいきたい」
簪は力強く宣言する。その言葉に『真意』を見出した楯無は満足そうに頷く。そして、簪に問いかけた。
「今度は、簪ちゃんが何をしようとしているの?」
簪の顔が、ぐいと近づいてきた。この場には自分達以外に誰も居ないにも関わらず、彼女は楯無の耳元で他の誰にも聞こえない程の小さな声で囁いた。
「……我が妹ながらとんでもない事を考えるわね。うん、喜んで協力するわ」
楯無の脳内に簪の言葉が響く。彼女の為なら何でもするという覚悟はあったが、想像していた以上の提案に楯無は驚愕した。しかし、同時に腹の底から笑いたくなった。この子は、なんて素晴らしい事を考えるのだろう、と。
※ ※ ※
簪の部屋から廊下に出てきた楯無は、少し離れたところの壁際でうずくまるように腰を降ろしている女生徒を見つけた。こじんまりと背中を丸めた姿に橙子のものだと気づくには然程時間もかからず、彼女の側まで歩み寄る。すると、楯無の気配を察したのか、橙子は顔を上げた。今にも泣き出しそうな、不安げな表情を浮かべていた。
「あ、生徒会長。その、ごめんなさい。簪ちゃんの部屋に入るのが見えて」
「橙子ちゃんも、彼女の事が心配で来てくれたのよね?」
「……はい。簪ちゃん、一日休みなのは連絡来てたんですけど、どうしても様子を見たくて。四組の皆も、心配してます。雅美君も居ないし、ウチもこんなだから、尚更」
「うん。とりあえず簪ちゃんの事なら、もう大丈夫よ。安心して」
楯無は屈んで彼女に手を差し伸べた。橙子の視線が、自分の表情と手を往来する。すると、先程まであった暗い表情は無くなって、橙子は手を取り立ち上がった。
それから、どちらが合図をする訳でもなく歩き出した。二人の手は繋がったままだった。何と無しに、その手を離したくないと楯無は考えていた。二人以外に廊下を歩く者は居ない。彼女達の足音だけが、静かに響く。
「ありがとう。橙子ちゃん。私の大切な妹の親友で居てくれて」
その音に、楯無の言葉が混ざった。橙子は、随分身長差のある彼女を見上げる事なく真っ直ぐ前を向き続けている。楯無が横目で彼女を見ると、耳が仄かに赤く染まっていた。それを見て、頭を振る。もう少し具体的な言葉を彼女に伝えたくなった。つい今しがた、簪がそうしたように。
「ううん、親友なのは、大切な人なのは、簪ちゃんだけじゃないわね。橙子ちゃんも雅美君も、同じ。私の妹だけが特別なんかじゃない。誰か一人欠けても、きっと『今日』には辿り着かなかった。
……ねえ。よかったら今日のお昼、一緒に食べない?」
「あ、そのぉ。ウチなんかで良いんですか」
思いがけぬ楯無のお誘いに、橙子は目を丸くして顔を上げる。
「ええ。私も、あなたと親友になりたい。勿論、雅美君とも、ね。でも、まずはあなたから、どう?」
「えへへ。嬉しいです。よろしくお願いします。でも、皆驚くかも知れませんね」
「『驚くような事』なんて、これからも嫌というほど起こるわ。それが良いんじゃない」
橙子が笑顔を見せた。四組でいつも彼女が見せているそれを、楯無は初めて見る事が出来た。可愛らしいその笑顔に、心がくすぐられた。そして、楯無はすっかり自分の顔がしまりのないものになっている事を悟った。明確な理由もなく後輩と手を繋いだまま歩く。楯無の脳裏には不思議がる簪の姿としかめっ面をする生徒会の役員達の姿がちらつくが、今のところは新しい親友との昼食について思いを馳せる事にした。